日本の自然観と太陽光発電は共存できるのか

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記憶に新しい、静岡県熱海市で発生した大規模土石流災害に関しては、現在も県の「発生原因究明作業チーム」による調査が進められているところですが、起点付近にあった盛り土や太陽光パネルとの関係を含め、果たしてこの災害が「自然災害」であったのか「人為的災害」であったのか、私も関心をもって調査状況を注視しているところ。
 
そうした中、8月1日の福井新聞「現論」に興味深い記事が掲載されていました。
 
その記事とは、京大名誉教授の佐伯啓思氏が寄稿した「西洋と日本の自然観」。 
 
自分の知識にもとポイントをメモしておいたので、以下にご紹介させていただきますと、
 
自然災害にせよ、感染症にせよ、自然の脅威から身を守るための様々な試みが文明を作り上げてきた。その典型は、西洋の近代科学や現代医学で、自然現象の中にある隠された作用を人間の理性の力で取り出し、自然と対峙して、これを合理的に管理する、というものであった。その延長線上に、人間のゲノムや脳神経などの「自然」にまで手を入れようという今日の生命科学が登場する。要するに、西洋の科学や技術は、「人為」によって「自然」を利用しようとしたのである。
(中略)
ところが、自然の脅威に対抗するもうひとつ別の方向がある。それは人為を超えた自然の脅威をそのものとして受け止め、人の預かり知らぬ不可思議な作用に畏怖を覚え、一種の宗教的感情を持ち出す方向である。どうやら、昔の日本人はこの方向を向いていた
 
元々「自然」は、日本語では「自然(じねん)」であり、これは「おのずから」という意味であったことからも分かるように、人為を超えた自然の作用は、「おのずから働く」ものであって、人の意志に従って人の都合の良いものに改変できるものではない。これは、西洋のとりわけ近代以降の自然理解とは大きく違っている。
(中略)
その結果、日本では、自然災害にせよ、感染症のパンデミックにせよ、どこかやむを得ない自然現象であって、それと対峙して、人為の力で自然を克服するといった発想は弱い。「おのずから」の作用を及ぼす「自然」を人為によって人間の都合で変更することを良しとしない。こういう感覚が今日でも底流を流れている
 
どちらが良いというのではない。ただ私には、人間の作り出した合理的な科学や技術で自然を人為的に管理できるとする近代社会の発想は、それだけでは限界にきているように思われる。
 
今日、声高に叫ばれる、環境テクノロジーのイノベーションなどによる経済成長などとというやり方が「自然」の人為的な管理の延長線上にあることは明らかであろう。この二つの思考(人為orおのずから)をどのように調和させるかという難題の前に我々は置かれている。
 
なるほどと、確かに日本人が古より、自然にはすべて神が宿っているという「八百万の神」の考えを持ってきたことからすれば、熱海の一件とも照らし、思わず納得した次第。
 
そうして思うに、やはり頭に浮かんでくるのは、自然環境と太陽光発電との関係。
 
先般、素案の文字が取れた次期「エネルギー基本計画」における「再生可能エネルギーの主力電源への取組」では、以下のようにあります。
 
再生可能エネルギーは、世界的には、発電コストが急速に低減し、他の電源と比べてもコスト競争力のある電源となってきており、導入量が急増している。我が国においても、2012年7月のFIT制度の導入以降、10%であった再生可能エネルギー比率は18%にまで拡大した。導入容量は再生可能エネルギー全体で世界第6位となり、再生可能エネルギーの発電電力量の伸びは、2012年以降、約3倍に増加するというペースで、欧州や世界平均を大きく上回る等、再生可能エネルギーの導入は着実に進展している。特に、平地面積当たりの太陽光の導入容量は世界一であり、我が国は、限られた国土を賢く活用して再生可能エネルギーの導入を進めてきた
(中略)
具体的には、地域と共生する形での適地確保や事業実施、コスト低減、系統制約の克服、規制の合理化、研究開発などを着実に進め、電力システム全体での安定供給を確保しつつ、導入拡大を図っていく。
 
また、関連する団体の考えも調べてみると、2050年カーボンニュートラルの目標達成のために、太陽光発電協会(JEPA)は2050年の日本の太陽光発電を300GW超とするビジョンを掲げていることや、自然エネルギー財団は、同じく太陽光発電の設備容量を2050年には524GWとすることを提案しています。
 
※参考まで、上記2団体の考えを以下にリンクします。
 →→→2050年カーボンニュートラル実現に向けて(一般社団法人 太陽光発電協会)
 →→→脱炭素の日本への自然エネルギー100%戦略(自然エネルギー財団)
 
ちなみに、1GWは100万KWであり、大型の原子力発電所1基の設備容量(110万kw)に相当することから、そのために必要な太陽光パネルの面積は約60平方キロメートルで山手線の内側の面積に等しいと良く例えられます。
 
2019年時点での日本の太陽光発電の設備容量は56GWであり、既に狭い国土に平地面積当たり世界一の導入をしてきていることを思えば、これからどこに設置していくのかという疑問に陥る訳ですが、太陽光発電協会によれば、2050年に向けて(300GW超導入に向け)、増設する太陽光発電のうちその半分が需要地設置(住宅、駐車場・工業団地、自動車・電車・船舶など)、そして残りの半分が非需要地設置ということで、非需要地設置には、非農地(2019迄のFIT認定非住宅や水上空間等)と農業関連でほぼ半分を占めるとの考え。
 
さらに農業関連とは、耕作地、耕作放棄地、その他畦畔などを示すものですが、ポイントは、増設分の5分の1程度を耕作地が受け持つことになっている点で、つまり60GW分、3600平方キロメートルは山手線内の60倍、言い換えると36万ヘクタールは日本の全耕作面積(田畑合計で438万ha)の約12分の1相当の面積に太陽光パネルを設置するということになります。
 
余談ですが、これに関連しては、菅直人元首相が、これから日本の選ぶべき電源構成は、原子力ゼロ、太陽光や風力の再生可能エネルギーが主役、しかも太陽光は営農型に大きな可能性がある旨の発言をしていますが、この営農型太陽光発電はソーラーシェアリングといい、田の上に太陽光パネルを張り、共存するのだそう(成立しないことは火を見るより明らかで、思わず笑ってしまいますが)。
 
山間地や傾斜地に無理くり設置されるメガソーラーが全国各地で問題化していることに加え、休耕地であったとしても限られた農地を太陽光発電に差し出すことは果たして現実的と言えるのでしょうか。
 
話しを冒頭に戻すと、こうして自然や豊かな日本の田園風景を壊してまで太陽光発電の導入拡大に躍起になることは、日本の自然観や古からの文化とは相反するものと考えるところであり、「自然」を人為によって人間の都合で変更することを良しとせず、山々や田畑を脈々と守ってこられた先人たちのご努力を無にするようなことは、絶対にしてはならないと強く思う次第であります。
 
何千年も培ってきた日本固有の文化や価値観まで投げ打って、太陽光パネル(ほぼ中国製になるのではと)を敷き詰めることは、聞こえの良い「脱炭素」と引き換えに日本の「魂」まで売ってしまうような気がしてならず、国情に見合う範囲を超えた太陽光発電の導入には、決して賛同することは出来ません。
 

【野坂の麓に広がる田園風景。心のオアシスでもあるこうした場所は日本人の原点でもあり、これからも大切に守らねばと心に誓う次第】