「辞世の句」と「散り際」

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春の嵐から一転。
 
昨日は、澄み渡る青空と海に囲まれての辻立ちからスタート。
 
一昨日の雨風にも耐え、懸命に咲く桜から元気をもらうところ、次は自分が元気を与える番と、いつも以上に笑顔を心掛け活動にあたりました。
 
思いが通じてか、お手振りやお声掛けなど、通行する多くの皆様よりリアクションいただき感謝。
 
思えば、この「朝活」も5年目に入りました。
 
単なる辻立ちに過ぎませんが、「継続は力なり」で今後も続けてまいります。
 

【いつも活動をともにする原電労組の仲間にも感謝!】
 
さて、唐突ですが、「辞世」とはこの世に別れを告げることを意味し、「辞世の句」とは、死を見据えてこの世に書き残す生涯最後の句のことを言います。
 
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
 
これは、戦国時代の武将、明智光秀の娘で細川忠興の妻として知られる細川ガラシャの「辞世の句」。
 
細川ガラシャは明智光秀の三女として出生し、細川忠興の正室となった後、関ヶ原の戦いを巡り、西軍の石田光成がガラシャを人質にとろうとしたものの拒絶。
 
ガラシャは家臣に刀を突かせ、壮絶な最後を迎えたとされ、先の「辞世の句」は「花は、散る時期を知っているからこそ美しい。人もそうありたいものである」という意味が込められているのだそう。
 
前置きが長くなりましたが、10日に辞職願を静岡県議会議長に提出した川勝平太知事は辞職願を提出する前、現在の心境を報道陣に問われた際、この句を引用。
 
前述のとおり、散り際の大事さを説いた有名且つ命を賭す場面で残した一句に対し、川勝氏の場合は自身の失言によって辞任に追い込まれた形とあって、SNS上では批判の意見が相次ぎましたが、私としても軽々にこの崇高な句を引用して欲しくなかったというのが正直なところです。
 
また、辞職願提出後の会見では、西道仙の「城山」と呼ばれる漢詩の一節を口にしていますが、こちらも西郷隆盛の敗死を深く嘆いて作った詩と川勝氏自らが西郷のようであるかに心中を例えるのもいかがなものかと。
 
自身の「散り際」や「生き様」はガラシャや西郷と同じと言わんばかりの発言は、もはや自分に酔っているとしか思えない訳でありますが、川勝氏の一連の言動からは、政治家の発する言葉たるや、あらゆる方面への影響なりを深く思慮し、一言一言に重みがあることを厳に認識すべきと(反面教師として)教えていただいたことに感謝する次第です。
 
なお、私にとって、最も心に残る「辞世の句」といえば、吉田松蔭先生の
 
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留どめ置かまし大和魂」
 
「私の身がたとえ武蔵の地で朽ちてしまったとしても、大和魂だけはこの世に留めおきたいものだ。」との思いを表した句で、安政の大獄で処刑される直前に門人や同志に当てた遺書「留魂録」の冒頭に記したもの。
 
その後、この大和魂を継いだ同志、志士らによって明治維新を果たしたことは言うまでもありませんが、「辞世の句」とはそれほど重いもの。
 
私としては、歴史上の人物の「辞世の句」を引用することはないとお約束するところですが、これからは桜が散る季節。
 
散りゆく花びらに、「散り際」こそサムライの「美学」であったことを思い返すとともに、それは冒頭の桜のように、悔いなきよう精一杯生きることがあって成り立つ精神であることを、自身の人生観として深く胸に留め置くことにいたします。

「啓蟄」は「前進」の合図

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雨を覚悟していた、昨朝の週頭街宣。
 
予報を覆し、家を出る前には青空も覗くなど、結果して降られることなく終了。
 
「ついてる」スタートとなりました。
 
気付けば、先週、今週とジャンパー着ずの活動となっており(決してやせ我慢ではなく)、厳しき寒さもやや和らいできたと感じる次第です。
 
さて、そうして季節の変わり目を肌感覚で感じる今日この頃ですが、二十四節気では、今日から「啓蟄(けいちつ)」。
 
「啓蟄」とは、「冬ごもりをしていた虫たちが土の中から出てくる頃」という意味で、春の気配を感じて、虫たちが活動を開始する頃を表しています。
 
なお、ここから次の「春分」に掛けては、一雨降るごとに気温が上がってゆき、日差しも徐々に暖かくなるなど、春に近づく時期とされています。
 
また「啓」の字は、「ひらく、開放する、(夜が)明ける」などの意味があり、あと11日に迫った「北陸新幹線敦賀開業」とも重なる、物事がいよいよ前進する季節とも感じる次第です。
 
季節を感じると言えば、昨日のブログでご紹介した、雪のなかに凛と立つ「つくしんぼ」をSNSにも掲載したところ、このようなコメントがありました。
 
いつもご苦労様です。
春の訪れに心躍る季節がやってきました。冬の鉛色の空が徐々に薄れ、明るく爽やかな風が吹くようになりました。そんな春の訪れによって我々は新たな希望を持つことができます。
 
力強い、共感のコメントをいただくのは大変嬉しいことで、その旨返信したところ。
 
古より変わらないのは郷土の四季。
 
厳しき冬をじっと耐え、乗り越えるからこそ、春の青空のありがたさや太陽のあたたかさに感謝し、「さぁがんばろう!」と次の一歩に進む原動力になる。
 
それが北陸人の強さと自負するところですが、同じ北陸で、被災した能登も春間近。
 
思いを寄せ、「啓蟄」を合図に、ともに前進あるのみです。
 

【一昨日の写真。地表に出るのを今か今かと待つ、虫たちの姿が浮かぶようです。】

「いつの日かきっと帰っておいで」

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3月は希望への旅立ちと別れの月。
 
意味するところはやはり卒業式で、とりわけ進学や就職へと、それぞれの道に進む高校のそれには胸を打たれるもの。
 
福井県内の県立高校では1日から卒業式が行われ、卒業生たちが慣れ親しんだ学び舎を後にするニュースがありましたが、このうち、わが母校でもある敦賀高校では、211人の卒業生が卒業証書を受け取り、山本泰弘校長からは「3月16日には北陸新幹線が敦賀まで開業しますが、古くから交通の要衝だった敦賀から志を持って旅立った人たちのように、自分自身を輝かせる冒険に出発して欲しい」とはなむけのことばが贈られました。
 
また、お隣の石川県に目を移すと、能登半島地震で被害を受けた県立輪島高校では、地震で体育館の一部が壊れ、3年生のおよそ3分の2が市外に避難していることなどから、会場を金沢市の県立音楽堂に変更し、同じく1日に卒業式が行われたとのこと。
 
全日制と定時制合わせて107人の生徒達は、避難先などから集まって久しぶりの再会。
 
式の前には全員で黙とうをした後、卒業証書を受け取り、祝辞では平野敏校長より「コロナ禍ではみんなで工夫して乗り越えることを学び、地震も起きて、みんなにこれ以上『頑張れ』とは言えませんが、前を向いていくしかありません。輪島に残るみんな、新しい街をつくろう。いったん輪島を離れるみんな、いつの日かきっと帰っておいで。みんながびっくりするような街をつくって待っています」とメッセージが送られました。
 

【NHK NEWS WEB版より】
 
生徒に語りかけるように、優しくも力強い、こんなメッセージを送る校長先生に只々感激。
 
記事を見ただけで涙が浮かんできた次第ですが、これに卒業生代表の女子生徒からは「友人や先生たちと歩いた当たり前にあった景色を今となってはしっかりと目に焼き付けておけばよかったと心残りに思います。先の見えない大変な状況で不安も多いかもしれませんが、それを乗り越えるのが負けん気のある私たちです。高校で得た多くの思い出や学びを糧に、ともに力強く歩んでいきましょう」と答辞を読み上げたとあり、これにも感激。
 
学校によれば、卒業生のうち就職などで地元に残るのは1割ほどで、およそ9割が進学や就職などで輪島市を離れる見込みだそう。
 
未曾有の災害のなか卒業するシーンは、コロナ禍で卒業した長男の時を思い出しますが、困難をともに経験したからこそ、友や先生方との結びつきや絆はより深いものがあると思います。
 
敦賀と輪島で環境は違えど、見送る立場から言えば、平野校長の「いつか帰っておいで」の言葉に込められた思いは同じ。
 

 
写真は昨朝、近くを散歩している時に出会った「つくしんぼ」。
 
夜に薄っすら積もった雪のなか、野坂山をバックにまっすぐ上に伸びる姿は凛々しく、生きる力を感じたところであり、まさにこれから人生という大海原に旅立つ卒業生の姿と重なった次第です。
 
この春卒業される皆さんにおかれましては、自身の夢や希望に向かって、このつくしんぼのように、とにかく上を向いて頑張ってください。
 
皆さんの健やかな成長と飛躍を心から応援するとともに、一旦敦賀を離れる皆さんにおかれては、生まれ育った敦賀をより一層素晴らしいまちにして、また帰ってくることを待っています。

歴史上の偉大な人物二人から学ぶこと

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以前にお知らせしました、2月17日(土)に開催する気比史学会主催(敦賀市・敦賀市教育委員会共催)の敦賀市民歴史講座(第5講)。
 
「歴史の転換点となる北陸新幹線敦賀開業」をテーマに東洋大学の井上武史教授にお話しいただくこととしており、昨日は教授から届いた資料の焼き増しなど、講座に向けた準備作業。
 
また、夕方は久々に運動をと、野坂の麓から敦賀市内を眺めながらランニング。
 
たまの運動で偉そうに言えませんが、身体を動かすとやはり、気持ちもスッキリ、リフレッシュできました。
 
今後はもう少し頻度を上げて、気持ちも身体も引き締めていきたいと思います。
 

【夢街道から見た市内。何気ない風景に心癒されます。】
 
さて、毎日ブログを書いてきて身についたことのひとつは、「今日は何の日」かを調べること。
 
正直、ネタ探しとしてということもありますが、実はそこから学びや気づきを得ることも大いにあったり、楽しみながら続けているもの。
 
今朝もいつものように見てみると、今日は歴史上の偉大な人物二人の誕生日とありました。
 
ひとりは、第16代アメリカ合衆国大統領のエイブラハム・リンカーン、もうひとりは「種の起源」の著者チャールズ・ダーウィン。
 
さらに、なんとお二人は1809年2月12日生まれの同年同誕生日とのこと。
 
これだけでも「ネタ」になりますが、リンカーンの奴隷解放運動、かの有名な「人民の人民による人民のための政治」とのスピーチの意味は今まさに思うところであり、政治に携わる者として「誰のための政治か」を常に自分に問い掛けねばならないと再認識するところです。
 
また、「進化論」を提唱したダーウィンは、地質学者でもあり生物学者でもあったことから、それら研究に裏付けされた数々の名言を残しています。
 
「生き残るのは最も変化に適応したもの」
 
ダーウィンが書いた「種の起源」の中にある、「生き残る種とは、最も強いものでも最も賢いものでもなく、最も変化に適応したものだ」という言葉は有名ですが、これは、変化に適応する者が優れているという意味ではなく、変化に適応した者が生き残れるという意味であり、移り変わりの早い現代社会の中においても通ずるもの。
 
「無知というのは時折、知識よりも確信に満ちている」
 
この言葉には「様々な問題を科学では解決できないと主張するのは、決まって知識のない者である」という続きがありますが、これはシェイクスピアの「愚者は自身を賢いと思い、賢者は自身が愚かだと知っている」と通ずる言葉で、知識を持てば持つほど「まだ知らないことがたくさんある」と謙虚になるという意味合いを持っています。
 
このように、今日も学びと気づきがありました。
 
「知って行わざれば知らぬことと同じなり」
 
知行合一の言葉で表されるよう、あとは実践するかしないか。
 
人生をゆたかなものにするかしないか、結局は自分次第ですね。

闘う君の唄を 闘わない奴らが笑うだろう

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昨日6時33分、敦賀市防災メール(トンボメール)にて、明神町付近において建物火災事案が発生し、消防車が出場との報。
 
8時07分には続報で、火災事案は終息とありましたが、この火災は敦賀発電所1号機のタービン建屋ファンルーム内で起きたもの。
 
日本原電のプレスによれば、6時12分に同ファンルーム内に設置されている原子炉建屋主排気ファンBの軸受部より発煙および火花を確認したため、6時38分に同社社員が当該ファンを停止し、発煙および火花が停止したことを確認。
 
公設消防にも通報し、消防による現場確認の結果、7時34分に火災および鎮火を確認したとのこと(放水はしていません)。
 
 →日本原電のプレス記事はこちらを参照ください
 
何らかの要因で軸受が加熱し、塗料などから発煙したのではと推察するところですが、同社においては今後、火災が発生した原因について調査するとしており、結果を踏まえた対策をお願いする次第です。
 
なお、この火災事案に関しては、NHKがお昼の全国ニュースで取り上げたことや、ややセンセーショナルな報道もあり、大変ご心配をお掛けしましたこと、私の立場からもお詫び申し上げます。
 
話しを変え、ニュースの取り上げに関して言えば、これは、TBS NEWS DIGがネットニュースで流したタイトル。
 
「ガソリン税『トリガー条項』 国民民主党が与党との協議から離脱を正式決定 玉木氏は代表続投の考え示すも党内からは『普通は議員辞職だ』の声も」。
 
これを読まれた方は、玉木代表の責任論を巡り、さぞかし党内で紛糾しているのだろうと思われると存じますが、このニュースに対しては次々と、同党の議員からXポストがあり、まず浜野よしふみ参議院からは「…誰も言ってない」。
 
続いて、竹詰ひとし、川合たかのり両参議院議員からはそれぞれ、「党内の声?誰の声でしょうか?私は会議に終始出てましたが全くそんな声は出てません。」、「党内からは??、、、これはひどい報道、、、我々は議員総会で決めたことであり連帯責任だと考えています」。
 
信頼の置けるお三方のこのポストを拝見するに、一体、どこからの発言をとって報道しているのか。
 
「切り取り」どころか、これではもう「フェイクニュース」と言っても過言ではないのかと。
 
先般は、天下の日経新聞までもが、志賀原子力発電所の耐震分類を完全に誤った記事を掲載(耐震区分Cを最も高いクラス)し波紋を呼んでいましたが、もはや大手新聞でさえも、書かれていることが真実か否か、自分で裏取りしないといけないのかとも思う次第です。
 
また、本論のトリガー条項凍結解除3党協議からの「離脱」に関しては複数の与野党議員から、「自民党に利用されただけ」、「はなから少数政党が相手にされる訳がない」など、嘲笑うかのXポストが散見される状況にあります。
 
私自身は、これらの言葉を拝見し、腹が立つとか悔しいなどといった気持ちはまったくなく、むしろ、物価上昇や燃油価格高騰で苦しむ国民生活の負担軽減のため(実際、ガソリンの補助金が終了する5月以降をどうするのか決まっていない)、さらには持続的な賃上げを実現するための最重点政策として「トリガー条項の凍結解除」(ガソリン減税)を求め続けてきたことからすれば、他党はどこまで国民に寄り添う政治、体を張った政策提言をされたのかと、逆に国民民主党に所属していることを意気に感じる次第です。
 
この心境を例えるにピッタリなのは、中島みゆきさんの「ファイト!」の歌詞。
 
ファイト!闘う君の唄を
闘わない奴らが笑うだろう
ファイト!冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
 
ファイト!
 
自身を鼓舞する唄とも言われますが、3党協議から離脱したとて、国民民主党においては「トリガー条項」も「暫定税率」のことも決して諦めた訳ではありません。
 
引き続き、国民に寄り添った正直な政治、「対決より解決」の姿勢で政策提言する同党の一員として、自分自身も声を挙げていきたいと思います。
 

【魂に響く中島みゆきさんの「ファイト!」。奮い立たせて頑張ろう!(画像はGoogleのあるサイトより)】
 
 →「ファイト!」をお聴きになる方はこちらから(中島みゆき公式YouTube)

女子マラソンで19年ぶりの日本記録更新

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私が走った唯一のフルマラソンは「勝田全国マラソン」(茨城県)。
 
ちょうど昨日は、その「勝田マラソン」が開催され、複数の知人が出走したほか、東海村など、コース途中の給水やエイド(補食など)では多くのボランティアの方が活動され、地域ぐるみで盛り上がった大会になったようでした。
 
勝田での私の「初体験」はといえば、今から9年前の2015年。
 
当時、東京で単身赴任をしており、どうせ走るなら関東圏、日本原電の事業所がある茨城県でと「勝田」を選択しレースに挑んだものの、28キロ過ぎからは自分の足が自分の足でなくなり、「止まったら負け」と言い聞かせながら、エイドの「干し芋」や沿道からの応援の声もあって、何とかゴールしたことを思い出します。
 
結果、タイムは3時間57分46秒。
 
元陸上部としてギリギリ「サブ4」(4時間を切ること)は達成したものの、その後3日間は激しい筋肉痛に襲われるなど、爽快感より、苦しさの記憶が残る「初体験」のまま、今に至っています。
 
さて、素人の思い出話しは置き、同じマラソンでも、異次元のレースとなったのが、同じく昨日開催された「第43回大阪国際女子マラソン」。
 
ヤンマースタジアム長居を発着に行われ、前田穂南選手(天満屋)が日本記録を19年ぶりに更新する2時間18分59秒の2位でゴールするという、まさに「歴史的な」レースとなりました。
 
パリ五輪代表は昨年10月の「マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)」で2人が決まり、この大会は最後の1枠を懸けた「MGCファイナルチャレンジ」として開催。
 
2時間21分41秒が設定記録とされていましたが、これを大きく上回り、3月の名古屋ウィメンズマラソンで今回の日本記録更新者がいなければ、前田選手がパリ五輪代表に決まることが濃厚となります。
 
この前田選手、期待されながら出場した東京五輪では2時間35分28秒で33位に終わり、昨秋のMGCでは7位。
 
これがラストチャンスの大一番に、20キロ過ぎからペースペーカーの前に出て積極的にレースを引っ張るなど、五輪出場に懸ける並々ならぬ闘志あふれる走りに、私もテレビを見ていて何度も目頭を拭った次第です。
 

【2時間18分59秒。更新した日本記録の掲示と前田穂南選手。】
 
また、今大会前には目標を「アレ」とけむに巻いていた前田選手ですが、レースを終え「アレの意味は?」と問われると「日本記録更新です」と明かしました。
 
実は、33位に沈んだ東京五輪後のインタビューで語っていたのは「(マラソンの)日本記録更新を目指して頑張りたい」との思い。
 
見事にその思いを実現した訳ですが、さらに昨日のレース後インタビューで聞き逃さなかったのは、「走るのが楽しい」と言ったこと。
 
あんなに辛くて苦しい練習に耐え、緊張ほとばしるレースを走れる根幹にあるのは「楽しい」からなんだと、どこか嬉しい気持ちになった次第です。
 
思えば、五輪を制した髙橋尚子選手も野口みずき選手もそう言っていたような。。。
 
東京五輪後、併せて前田選手が語ったのは、「パリ五輪では、東京五輪みたいに悔いの残らない走りを最後までしたいと思う」。
 
有言実行で日本記録を更新したよう、五輪に選ばれた際には、「悔いのない走り」を「楽しみながら」達成して欲しいと心から願った次第です。
 
こうしてスポーツの力から勇気と元気をもらい、今日からまた1週間のスタート。
 
この後は週初めの街頭活動から、しっかり頑張ります。
 

【「グッバイ、私の日本記録」と語った野口みずきさんも素敵でした。】

心からご冥福をお祈りいたします

ブログ 人生観

「まさか」は続き、今度は訃報。
 
敦賀市病院事業管理者の太田 肇様が逝去されました。
 
享年60歳。
 
ここに謹んでお悔やみ申し上げますとともに心からご冥福をお祈りいたします。
 
訃報に記されていた略歴によれば、太田様は昭和62年4月に金沢大学医学部第一内科入局。
 
その後は、金沢赤十字病院をはじめ、石川や富山の病院で勤務された後、平成6年10月には市立敦賀病院へ。
 
平成17年4月からの金沢医療センター勤務を経て、平成31年4月からは市立敦賀病院院長、そして令和4年4月には敦賀市病院事業管理者に就任され、敦賀市の医療福祉の発展にご尽力いただきました。
 
院長となられてからは、未曾有の新型コロナウイルス感染に対し、米島前病院事業管理者とともに全力を挙げて対応いただきました。
 

【新型コロナ初期の市立敦賀病院(2020年5月28日撮影)】
 
また、病院事業管理者に就任されてからは、ここ2回の定例会を病気療養のため欠席されており、年明けにはと、早期の回復を願っていただけに、早過ぎるこの結果を大変残念に思う次第です。
 
改めまして、太田様の生前のご功績に心から敬意と感謝を申し上げるとともに、安らかにご永眠されますようお祈りいたします。
 
訃報に関しては、同じく昨日、「演歌の女王」と呼ばれた八代亜紀さんが昨年12月30日、急速進行性間質性肺炎のため死去したと所属事務所が発表。
 
熊本県八代市出身で16歳のときに「歌手になりたい」と父親の反対を押し切り家を出た後、ナイトクラブの専属歌手を経て、昭和46年、「愛は死んでも」でデビュー。
 
同48年に「なみだ恋」が大ヒットし、54年の「舟唄」で人気を不動のものとした後、55年には「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞し、艶っぽくハスキーな声から「演歌の女王」と呼ばれたことは、私世代以上では誰もが知るところ。
 
私が生まれたのが昭和47年ですので、ちょうどその頃にデビューされ、特に「雨々ふれふれ もっとふれ 私のいい人 つれて来い」の「雨の慕情」の歌詞は、小学校の時に意味も分からず友達と唄っていた記憶が蘇ってきます。
 
享年73歳。
 
こちらも逝くには早い歳であり、大変残念ではありますが、これまで約半世紀に亘り、歌で日本人の心を慰め、元気づけてこられたご功績に心より感謝申し上げる次第です。
 
先ほどの「雨の慕情」2番の歌い出しにはこうあります。
 
一人で覚えた手料理を
なぜか味見がさせたくて
すきまだらけのテーブルを
皿でうずめてる私
 
男女の関係ということを超えて、この歌詞からは、自分を想ってくれている人の大切さや、またその大切な人を失うはかなさに気づかされます。
 
奇しくも年初の地震とも重なり思うことは、今を精一杯生きること、そして身近にいる大切な人を大切にすること。
 
改めて、お二方のご冥福をお祈りいたします。
 

ありがたき「X」からの出会い

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北陸新幹線金沢-敦賀間開業まで、今日であと77日。
 
26日までの国土交通省による完成検査を終え、JR西日本では昨日から、金沢―白山総合車両所敦賀支所間約125キロでの、新幹線車両「W7系」の試験運転を始めました。
 
県内区間を営業運転と同じ最高時速260km/hで走行し、開業前日まで1日当たり最大21往復するとのこと。
 
一方、開業を機に無くなるのは、敦賀以北の北陸線特急。
 
嶺北出身の皆さんにとって、「しらさぎ」や「サンダーバード」で帰省するのは今年で最後となる訳ですが、これも時代の転換期。
 
これまでの思い出とともに、特急車両の乗り心地を味わっていただければと思う次第です。
 
さて、かくいう我が家も、本日は長女の帰省を楽しみにするところですが、昨日はその前に嬉しいことが。
 
X(旧Twitte)でつながっている、アカウント名「超こくみんうなぎ」(@Sappololugger)さんより、年末敦賀に行くので会えないかとの連絡をいただき、ちょうど時間が空いていた昨日お昼に合わせてお越しいただき、敦賀市内をご案内した次第。
 
名前から想像するとおり、所属政党「国民民主党」の支持者で、京都にお住まいの「うなぎさん」(以降、こう呼ばせていただきます)。
 
敦賀に向かう途中、JR湖西線での車両トラブルにより「近江今津駅」で足止めを喰らっているとの報を受け、同駅までお迎えに上がるというハプニングスタートでしたが、お会いするなりすぐに打ち解け、敦賀に着くまでの車中では、互いの自己紹介や現況について会話が弾みました。
 
聞けば、何度か敦賀に遊びに来たことがあるということでしたので、まずは敦賀のソウルフード「ヨーロッパ軒」をと切り出したところ、これまた何と、初めて食べた時に「こんな美味いものがあるのか」と衝撃を受け、「カツ丼」を食べる目的だけで敦賀に来たことがあるとの驚きの言葉。
 
これはもう「ヨーロッパ軒」に行くしかないと、本店に滑り込みで入店し、帰省客らで混み合う盛況ぶりのなか、しばし順番待ちした後、「愛する」ヨーロッパ軒の味を堪能いただきました。
 

【私はカツ丼(手前)、うなぎさんはパリ丼(奥)のそれぞれセットを注文。ペロリと平らげました。】
 
こうして、ソウルフードを高く評価いただくことだけで地元民にとっては嬉しいことですが、その後は、気比の松原や氣比神宮、金ケ崎界隈には既に行ったことがあるという「うなぎさん」を、少しレアな私のコースへご案内。
 
「鉄道と港、エネルギーのまち敦賀」をコンセプトに、日本人が作った現存する国内最古の「小刀根トンネル」に始まり、疋田舟川、北陸新幹線敦賀駅(やまなみ口より)、向井山古墳、途中美浜町の水晶浜に関電美浜発電所を経由し、白木の浜から高速増殖炉「もんじゅ」を望み、敦賀半島トンネルを抜けて北陸のハワイ「水島」、気比の松原に最後は鉄道遺産「眼鏡橋」へとご一緒しました。
 

【新幹線駅をバックに俳優さん?と間違うほどキマった「うなぎさん」の後ろ姿。】
 
私の都合で16時過ぎまでの限られた時間でしたので、その後は駅前でお別れしましたが、次はゆっくりと福井の酒を酌み交わしながら、じっくり語りましょうと再開を誓った次第です。
 
なお、「うなぎさん」はご自身のXにて、次々と敦賀と私のことをポスト(投稿)。
 
以下、ポストをいくつかご紹介。
 
◉途中ランチもご一緒させていただきました。敦賀といえばなんといってもヨーロッパ軒のカツ丼!ボリュームたっぷりのカツに味わい深いソースが染み渡る!
目的の半分はパ軒のカツ丼を食べるために来たと言っても過言ではないうなぎ、本日はパリ丼(ミンチカツ)を注文(奥の山本市議はカツ丼)。うまい!😋
 
◉工事はほぼ完成し開通間近の北陸新幹線敦賀駅を東側から望むこくみんうなぎ氏。
今後、利便性を増した陸運と海運の相乗効果で敦賀は旅客輸送・物流拠点としての役割をさらに発揮していくことでしょう。市内各地での再開発の様子についても山本市議よりご説明いただきました!
 
◉山本市議には敦賀市内各地の見どころ、近代の遺産など普段なかなか赴くことのないスポットを案内していただきました。さすが地元敦賀を愛しその歴史にも詳しい山本さん!
港と鉄道のまち敦賀には鉄道関連の遺産・遺構の数々が残っています。日本海と琵琶湖をつなぐ水運の試みもあったそうです。
 
◉古くから交通の要衝として栄え、尚飛躍的に発展する可能性を秘めた敦賀。
山本市議には今後さらなるご活躍をご期待申し上げます。本日はご多忙の中ご対応いただき誠にありがとうございました!
ご覧の皆さんもぜひ敦賀にお越し下さい!越の国だけに!(越の国だけに!)
 
(ポスト紹介は以上)最後にダジャレで決めるところはいつもの「うなぎさん」でしたが、客観的視点から敦賀の可能性にも言及いただけたのは、ガイド冥利に尽きるというもの。
 
年末の貴重なひと時に、敦賀を選択いただいた「うなぎさん」。
 
お越しいただき、本当にありがとうございました。
 
なお、振り返りますと、Xでのつながりをキッカケに敦賀にお越しいただいた方は、うなぎさんで5人目。
 
こうして私なんぞに会いに来てくれるだけでも感無量であり、加えて郷土の良さを知っていただけることは何より嬉しいこと。
 
たかがSNS、されどSNS。
 
自身が敦賀の宣伝マンであるとの気概をもって、今後も発信を続けていきます。

生きがいに命燃やして

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プロ野球オリックスからドジャースと2035年まで12年契約した山本由伸投手が昨日、本拠地のドジャースタジアムで入団記者会見。
 
報酬の総額は、投手で過去最高の3億2500万ドル(約465億円)と、破格の評価をされた山本投手ですが、背番号「18」のユニホームに袖を通し自己紹介した後、「「今日からはワールドチャンピオンになるために、もっと野球が上手くなれるよう新しい毎日を過ごすことをファンの皆さまに約束します。本当の意味で憧れるのをやめなければいけません。自分自身が憧れてもらえるような選手になれるよう、頑張ります」と、今年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で大谷翔平選手が檄を飛ばしたフレーズを使って活躍を誓いました。
 
タイトルを総なめし、文句なしの日本No.1の投手でありながら、「もっと野球が上手くなれるよう」と努力する姿勢に、No.1たる由縁を感じた次第ですが、来シーズンの活躍を心から応援する次第です。
 
さて、メジャーに挑戦する選手だけでなく、スポーツの世界に共感し、感動するのは、「人生を懸けて」目標に向かって挑戦する姿、それを成し遂げるストーリーにあるのだと思います。
 
私自身、そうして一心に、「生きがい」をもって打ち込む人生模様に励まされ、勇気をもらうことはこれまで何度もあった訳ですが、ちょうど昨日の福井新聞に「生きがいに命燃やして」とのタイトルでコラムが掲載されていました。
 
記事には、医者嫌いで有名な養老孟司さんが、緊急手術で一命を取り止めた後、好きな昆虫採取に出かけられるほど回復したものの、入院時の検査で発見されたがん化の恐れがあるポリープなどを放置することにしたことを例に、担当医師が「養老さんは医者嫌いというより、生きがいを奪われることが何より嫌なんですよね。現代の医療システムに組み込まれることへの強い警戒があるんだと思います。」と述べたこと。
 
つなりは、養老さんの生きがいは、森や林に分け入り、汗をかきながら虫を追うこと。持ち帰った虫たちを顕微鏡で観察しながら思索に耽ること。それが出来ないなら、生きていても仕方ない…と。
 
また、かの漫画家 手塚治虫さんも大病を患った際に、プロダクションの社長に言った言葉は「頼むから仕事をさせてくれ」だったとあり、理屈ではなく、漫画を取り上げられたら死んでしまう、そんな感覚であったとも。
 
現に手塚さんは、入院中も連載を続け、最後の日記には、がん患者が死を前に病室のトイレに天井絵を描くという漫画のあらすじが記されていたとのこと。
 
コラムは、「手塚さんにとって、漫画を描くことと生きることは同義だったんでしょうね。」との言葉で結ばれていましたが、タイトルにあったよう、「生きがいに命燃やして」送った人生は、まさに生きた証であり、充実した幸せなものであると、改めて感じた次第です。
 
いま51歳の私ですが、孔子の『論語』では、「五十にして天命を知る」とあります。
 
直訳すると、50歳になって天から与えられた自分の使命を悟ることができたという意味ですが、悟りにまで辿りついていないのが現状。
 
このコラムに出会ったことも何かの思し召しと受け止め、この年末年始によく考えたいと思います。
 

【昨晩の特別警戒パトロールで見た夜空。星一徹の「あの星のように」ではありませんが、雲間に輝く月にコラムの言葉を重ねた次第。】

「日本の水産品を食べよう」 台北でのイベントに感謝

ブログ 人生観

今日は「プロ野球誕生の日」。
 
1934(昭和9)年11月に、元祖二刀流のベーブ・ルースやルー・ゲーリックなどが参加した全米選抜野球チームが来日。
 
全日本チームと全国各地で対戦した興行が成功したことを受け、この年の12月26日にプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(後の読売巨人軍)が創立されたことにちなむのだそう。
 
それから89年が経過し、日本からアメリカに渡ったサムライ(イチロー)がメジャー最多安打を記録し、さらには二刀流でホームラン王を獲得し、メジャー最高と称される選手(誰もが知るオオタニサン)が生まれるなど、WBCでも証明したよう、日本の野球が世界一のレベルに到達していることを感慨深く思うところです。
 
これも、「憧れ」から「追い付け追い越せ」となった米との良き関係があったからこそと思いますが、良き関係といえば、こちらのニュース。
 
東京電力福島第一原子力発電所のALPS処理水海洋放出を受け、中国は日本の水産品をすべて輸入禁止にして以降、ホタテなど中国市場への依存度が高い水産事業者に大きな影響が出たことはご承知置きのところ。
 
このことを報道で知った複数の台日友好団体と台湾の水産商社の関係者らが、北海道からホタテなどの水産品を輸入し、台北市内の大きな結婚式場を借りて日本の海鮮料理を楽しむ大宴会を企画し、約3ヶ月かけて準備のうえ、昨25日夜に開催されたとのこと。
 
「日本の水産品を食べて、台日友好を推進しよう」と銘を打ったこのイベントは、前立法院長(前国会議長に相当)で、台湾日本関係協会の会長、蘇嘉全氏、安倍晋三友の会の会長、陳唐山氏、日本台湾交流協会台北事務所代表(駐台湾大使に相当)の片山和之氏ら約1200人が出席。
 

【イベントで和太鼓を披露する日本と台湾の子どもたち(THE SANKEI SHIMBUNより引用)】
 
「日本海鮮祭、千人の宴」と名付けられた今回のイベントは、日本の水産業者を支援することを目的としており、イベントに参加した安倍晋三友の会の陳唐山会長はこう言ったそう。
 
「2年前、台湾がコロナウイルスのワクチンが足りなかったとき、日本が真っ先に提供しくれたことは多くの台湾人を感動させた。今回は台湾が日本を支援する番だ」
 
こうした行為、お気持ちに、日本人の一人として心から感謝いたします。
 
なお、コロナ禍において、このような見返りを求めて提供した訳では決してないものと思いますが、22日の自身のブログに書いた「情けは人の為ならず」(「人に情けを掛けておくと、巡り巡って結局は自分のためになる」との意)の言葉を思い返した次第です。
 
台湾は、私も過去に二度訪れたことがありますが、大東亜戦争時代に日本が行った行為への感謝を始め、電車の中でも本を読むことを例に「勤勉な日本人」を尊敬している、台湾にとって「お手本は日本だ」と言われたことが強く印象に残っています。
 
そうした日本への思いが、今回の企画にもつながったものと理解するところですが、改めて台湾とのこうした関係を嬉しく感じた次第。
 
一方、対中との関係の中では、今後の「台湾有事」も想定されているところ。
 
この時、日本は覚悟をもって対応できるのか。
 
次に支援するのは日本の番であり、そのための備えが急務であると、同時に頭をよぎった次第です。

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