2025年4月17日
長岡藩と山本五十六の教えを胸に
北信越市議会議長会のため訪れた新潟県長岡市。
「米百俵の精神」で知られる長岡ですが、幕末維新の戊辰戦争の際、長岡藩は、軍事総督・河井継之助の指揮のもと、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と徹底的な戦闘を行い、その結果、250年あまりをかけて築き上げた城下町長岡は焼け野原となり、石高は7万4千石から2万4千石に減らされました。
その際、長岡藩の窮状を知った支藩の三根山藩(現新潟市西蒲区)から米百俵が見舞いとして贈られ、藩士たちは、これで一息つけると喜んだところ、藩の大参事小林虎三郎が、この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして売却し、その代金を国漢学校の資金に注ぎ込み、明治3年6月15日、国漢学校の新校舎が坂之上町(現大手通2丁目)に開校したことを由来とします。
「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国が興るのも滅びるのも、まちが栄えるのも衰えるのも、ことごとく人にある。」「米俵などでは見つもれない尊いものになる。その日暮らしでは、長岡は立ちあがれない。あたらしい日本は生まれない。」と、まさに「国づくりは人づくり」を実践された長岡藩の考えは、今の日本にも当てはまります。
また、今でも衆議院議員の方が使う「常在戦場」という言葉。
解散はいつあるか分からないため、常に戦いに備えよとの意味ですが、実はこの言葉の由来も長岡藩。
「常に戦場にある」の心を持って生き、ことに処すという長岡藩の藩風・藩訓であることを知ったところです。
こうして、現世においても、考えの拠りどころとなる理念や精神を有してきた長岡藩(市)ですが、この地に生まれ、有名な次の名言を残した方はどなたかご存知でしょうか。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、誉めてやらねば、人は動かじ」
これは、部下を指導する際の基本的な方法を示す名言として、今でも多くの経営者や指導者にも引用されている、大日本帝国海軍 第26、27代連合艦隊司令長官「山本五十六」氏の言葉。
なお、この言葉には続きがあり、さらに詳細な指導方法として、
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」
とあります。
また、五十六氏は、「実年者は、今どきの若い者などということを絶対に言うな。なぜなら、われわれ実年者が若かった時に同じことを言われたはずだ。何ができるか、とその可能性を発見してやってくれ。」とも。
「米百俵の精神」にも通ずる、こうした多くの言葉は時代を超え、五十六氏の情に熱い人柄を今に残しています。
この五十六氏、連合艦隊司令長官に就任後、昭和16(1941)年のハワイ真珠湾攻撃を敢行し、未曾有の大戦の指揮を採ったことから「好戦派」と認識されている方が多いかと思いますが、日米開戦にはあくまでも反対であり、「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」と、わが身の危険を省みず、日独伊三国同盟に断固反対し続けた姿勢は、まさに、人々を愛し、郷土を愛し、慈愛の心を強く保っていたからこそと言われています。
明治17(1884)年、儒学者の家系に生まれた五十六氏は、聡明で、中学の頃からベンジャミン・フランクリンを尊敬、猛勉強するなど広い視野をもっていました。
戦死時の階級は海軍大将で、昭和18(1943)年にブーゲンビル島(パプアニューギニア)で戦死した後、元師に特進。
明朗な性格で、部下や同僚から非常に高い信頼を寄せられた人物で、航空機戦力に早く着目、海軍航空隊設立に尽力し、日米開戦時には「短期決戦・早期和平」という日米間に於ける国力の差を冷静に分析し、現実的な作戦計画を実施しようとしたこと等、旧日本海軍軍人の中でも傑出した名将としての評価は今日でも高く、海外においても広く賞賛されています。
昨日は、激動の世紀に、しなやかかつ強い心で生きた山本五十六氏の人間性を、21世紀に語り伝えたいと願い建設された「山本五十六記念館」を訪れました。
【長岡駅から約10分ほどにある「山本五十六記念館」】
数々の写真や手紙(超達筆)、戦死したブーゲンビル島から返還された航空機の左翼(一部)などの展示物を興味深く拝見した次第です。
そして最後に、心に刻んだ五十六氏の言葉はこちら。
「国大なりといえども戦好まば必ず滅ぶ 国安らかなりといえども戦忘れなば必ず危うし。」
前段はまさに今の世界、後段は戦後80年を迎える日本を見通したかのような言葉。
「国づくりは人づくり」の考えと合わせ、山本五十六氏からの教えを深く胸に留め、長岡を後にした次第です。