「歴史の転換点」金ケ崎-長浜間全線開業から140年

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3月16日の北陸新幹線敦賀開業から今日で1ヶ月。
 
この開業は、敦賀にとって「歴史の転換点」であることは何度もお話ししているところですが、本日は、鉄道の歴史から言えば「最初の転換点」、明治17(1884)年4月16日の「金ケ崎-長浜間全線開業」からちょうど140年となります。
 
時代を遡り、敦賀と鉄道の歴史を振り返れば、明治新政府が早急に国内統一と近代国家建設の実を挙げるため、交通通信網の整備と産業振興を重要施策とする政治を進め、英国駐日公使のパークスは、鉄道建設に並々ならぬ意欲を燃やしていた大隈重信や伊藤博文に、日本人による鉄道建設を提言。
 
政府内では鉄道を建設するにあたって、国策上どの区間に敷設するのが最も適切であるかを巡り、大きな論争となりました。
 
そこで何度も議論を重ねたうえ集約し、明治2(1869)年10月10日、東西両京を結ぶ鉄道を幹線と定め、同時に①東京〜横浜間、②敦賀〜琵琶湖畔、そして③神戸〜京都間の各線を支線として建設することが決定。
 
つまりは、敦賀港と神戸港とを琵琶湖の水運を挟んで鉄道を結ぶことが決定した訳ですが、このように当時の敦賀港が日本にとっていかに重要であったかが良く分かるとともに、誇りに思うところです。
 
その後、財源やルートの問題などで政府内でも反対があったりと紆余曲折を経て、ようやく明治11(1878)年9月に建設のゴーサインが出され、明治13(1880)年に敦賀側と長浜側とが同時に着工。
 
工事は急ピッチで進み、明治15年3月10日、敦賀線は柳ヶ瀬隧道(トンネル)の区間を残して、金ケ崎〜長浜間が部分開業。
 
明治16年には柳ヶ瀬トンネルが完成(全長1352メートルは当時国内最長)し、翌17(1884)年4月16日に待望の金ケ崎〜長浜間が全線開業となりました。
 
※開業までの過程について、さらに詳細は以下よりご覧ください。
 
 →初の試み「ミニ歴史講座」(2024年4月1日ブログ)
 


【日本人だけで作られた、建設時からの姿をそのまま残す現存最古の鉄道トンネル「小刀根トンネル」。機関車の煙で煤けたトンネル内を歩くと、明治にタイムスリップした感覚に襲われます。】
 
前述のとおり、本日はこの開業からちょうど140年を迎えることを感慨深く感じるところであり、敦賀線の全通によって、敦賀港は開運と陸運を結んで輸送する手段が開け、敦賀へ出入りする客貨が急増したことから、金ケ崎駅を中心に旅館や運送店がひしめき合ったことが記録に残っています。
 
また、「敦賀市史」によれば、長浜との鉄道全通前の明治14年から16年の敦賀港の荷物取扱量は、金額にして坂井港の約半分ほどでしたが、長浜まで全通した17年には倍増して坂井港を超え、明治19、20年にはさらに増加し、坂井港の2.5倍にも達したこと。
 
さらに東海道線開通の明治21年には、敦賀港の取扱高は一挙に前年の4、5倍に激増し、坂井港の7.5倍の荷物を取り扱ったとあり、鉄道開通が敦賀に与えた影響の大きさが伺えるとありました。
 
その後、北陸線が延伸され、明治29年の敦賀-福井間を皮切りに、32年3月には敦賀-富山間197キロメートルが開通。
 
この北陸線開通は敦賀の商業に大打撃を与え、福井・石川等の米穀を始め、北陸各港より敦賀港に回漕されていた諸荷物が汽車に奪われたほか、直江津以北の貨物も富山県の伏木港に集まるようになり、敦賀港は衰退し、明治33年の移出入4,013万円を最高に、翌年は1,800万円、翌々年には1,600万円に激減したこと。
 
敦賀を素通りする人や荷物も多くなり、貨物運送業・倉庫業、さらに旅館業などには衰退するものもおり、敦賀の重要課題は、敦賀港を国際港にしてこれを挽回することにあり、敦賀-富山間が全通した明治32年、敦賀港は開港の指定を受けるとともに、45年6月には金ケ崎に寝台列車の運転が開始され、こうして敦賀は新たに国際都市として活躍することになった。
 
以上は、同市史(通史編 下巻)の「鉄道と汽船」に記録されているものであり、まさに「鉄道と港のまち敦賀」の盛衰の歴史を示すもの。
 
「独占的地位」にあるか否かが盛衰のポイントであることは言うに及びませんが、この間に何をすべきか、また明治には「次は国際港」と挽回したよう、次代を見据えて何を為すべきかが、政治の役割であると深く認識する次第です。
 
全通から140年を祝う日に、少し湿った話しとなってしまいましたが、周年日は「歴史を振り返る日」でもあることからご容赦いただきたく存じます。
 
結びに、当初の鉄道敷設時は氣比神宮前(今の神楽交差点辺り)にあった敦賀駅は、明治43(1910)年に現在の位置に新築移転開業されました。
 
新築落成した駅舎は当時の人口3万人足らずの敦賀のまちにとって不相応な立派なもので、昭和20年7月12日の空襲で消失するまで、北陸線最大の規模と威容を誇っていたとあり、現在国内の整備新幹線駅最大級で「敦賀要塞」と呼ばれる北陸新幹線敦賀駅の姿と重なる次第です。
 

【非常にレアな当初の敦賀駅付近の写真。右下に蒸気機関車、バックに手筒山が見えます。なお、こちらは明治42年9月の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)行啓時のもので、「グラフィック 東宮殿下北陸行啓書報」に掲載されていました。(国立国会図書館デジタルコレクションより)】

【明治43年に現在の位置に移転した敦賀駅。当時、北陸線最大の規模を誇る。】
 
「歴史の転換点」であった140年前の今日。
 
このことをぜひ皆様と共有し、先人の挑戦と努力に敬意を表するとともに、迎えた新幹線時代をともに考える日にできれば幸いです。
 

【写真は、先週末の旧敦賀港線と桜。散り行く桜と廃線跡が何とも言えぬ情景を醸し出していました。】

北陸新幹線敦賀駅開業記念企画展「敦賀と北陸線」

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予定がぽっかりと空いた昨日は、県境を越え、お隣の長浜市へ。
 
目的は、「長浜鉄道スクエア」にて昨日から開催された記念企画展「敦賀と北陸線」。
 
何の記念かといえば、「北陸新幹線敦賀駅開業」を記念してということで、これは早速見ておかねばと足を運んだ次第です。
 
この「長浜スクエア」とは、現存する最古の鉄道駅舎「旧長浜駅舎」(鉄道記念物)に隣接して平成12(2000)年10月14日(鉄道の日)に「長浜鉄道文化館」、さらに平成15(2003)年7月17日には「北陸線電化記念館」が開館し、このとき、この3施設を総称して命名された施設。
 
過去に幾度も訪れていますが、何度来ても近代化に向けて歩み始めた当時の日本を思い返す場所であるとともに、「鉄道の歴史」を大切にする長浜の思いが伝わってくるもの。
 

【明治15(1880)年3月10日に開業した「旧長浜駅舎」。モダンな建物から当時の情景が浮かんできます。】
 
さて、その記念企画展。
 
展示室に入ると「敦賀と北陸線」のプレートとともに、ガラスケース一面に関連資料が展示され、中には明治42年に大日本帝国陸地測量部が測量した地形図「敦賀」(1/50000)など、貴重なものもあり。
 
この地形図には、北陸線で昭和39(1964)年に廃線となった柳ヶ瀬経由が記されているほか、令和元(2019)年に廃線となった敦賀港線、敦賀以北は、日本遺産に選定された11のトンネルが連続する旧線が示されるなど、「100年余り前の敦賀を彷彿とさせる」との説明があり、こうして敦賀から延びる線路を見るに、改めて重要拠点であったことに思いを馳せた次第です。
 
今からちょうど140年前に鉄道でつながった敦賀と長浜。
 
帰りには、受付にいた方に敦賀から来たことを告げ、こうして北陸新幹線敦賀開業を機に企画・開催いただいたことに感謝を申し上げたところです。
 
なお、企画展の会期は6月30日(日)まで。
 
ぜひ皆様にも足を運んでいただければ幸いです。
 

【「長浜スクエア」の駐車場は、長浜駅と直結していますので、車でも電車利用でも便利かと。】
 
なお、建物を出て、毎回じっくり眺めるのが石額。
 
その中でも一番は「萬世永頼」。
 
旧北陸本線の敦賀と滋賀県境にある、当時日本最長であった「柳ヶ瀬トンネル」東口(滋賀県余呉町側)にあった石額は、かの伊藤博文の題字で「万世永く頼む」と読み、この鉄道が世のために働いてくれることをいつまでも頼りにするという意味。
 
昭和33(1958)年に道路トンネルとして引継がれてから66年。
 
鉄道トンネルとしてではないものの、今でも現役で世のために働いていることは、まさに「萬世永頼」に込められた思いを体現するものであり、昨日もまたそのことを誇りに思いつつ、長浜をあとにした次第です。
 

【「萬世永頼」の石額。トンネル工事も煙が蔓延する中での運転も難所であった「柳ヶ瀬」だけに、その意味合いの重さを感じる次第。】

初の試み「ミニ歴史講座」を開催

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北陸新幹線敦賀開業から2週間が経過しましたが、昨日、車で白銀交差点から駅に向かって走るとアーケード街には人の波。
 
新たに設置された駅周辺駐車場(3箇所)の「満空」表示板もすべて赤字の「満」、あるいはオレンジの「混」に切り替わったりと持続的な賑わいを肌で感じたところです。
 
なお、新聞情報によれば、駅西地区の複合施設「otta(オッタ)」の中核を担う知育・啓発施設「ちえなみき」は週末を中心に客足を伸ばし、先週24日(日)の来館者は普段の週末の2倍に当たる約3千人に上ったそう。
 
昨日、駅方面に向かった目的は「ちえなみき」でしたので、実際館内に入るとその人の多さに驚き。
 
記事どおりの賑わいを感じた次第です。
 
さて、私の昨日のメインイベントは、気比史学会の新たな取組み「ミニ歴史講座」。
 

【会場のモニターに映したパワポの画面】
 
前期までは、特定のメンバーにて部屋の中(クローズ)で行ってきた「史楽庭」をリニューアルし、参加者を特定せず、より多くの方と楽しく歴史を学ぼうと、オープンスペースにて開催することに。
 
「知の拠点」である「ちえなみき」は、この場所にもってこいということで、迷うことなく選択しところ。
 
会の事務局であり、この日の説明者でもある私は、2階の「セミナー&スタディ」エリアでモニターなどの準備を済ませ来場者を待つと、役員4名に加え、SNSを見て知ったという4名の方にお越しいただき嬉しい限り。
 
計8名にて、講座をスタートしました。
 

【思いを込めて作成した70枚余りのスライドとともに、初回のメインスピーカーを務めました。】
 
記念すべき初回のテーマは、新幹線開業に因んで「敦賀と鉄道」。
 
まずは、向出山古墳(5世紀の後半頃)の存在が証明するよう、敦賀港の「日本海側の玄関口」としての歴史は「古墳時代から」であることを共有。
 
続いて本題に入り、明治維新の後、近代国家建設をめざす明治政府の中でも、陸蒸気(蒸気機関車)による鉄道建設に並々ならぬ意欲を燃やす、大隈重信、伊藤博文らが明治2(1869)年11月10日に「鉄道敷設計画」を決定。
 
決定した計画には、「幹線ハ東西両京ヲ連結シ、枝線ハ東京ヨリ横浜ニ至リ、又、琵琶湖辺ヨリ敦賀ニ達シ、別ニ一線ハ京都ヨリ神戸ニ至ルベシ」とあり、日本最初の3路線のひとつに「敦賀」の名があることまさに、当時の日本にとって、大陸との玄関口である重要港湾「敦賀港」と一早く結節することが国益に資すると考えられていたこと、そして、そのことが「鉄道と港のまち」の所以であり、敦賀市民として誇りに思う旨、考えを述べた次第です。
 
その後は、明治7(1874)年12月に敦賀〜京都間の測量完了したものの、西南戦争などで国内が混乱。
 
この時、敦賀線の鉄道建設を強く主張したのが、後に日本の「鉄道の父」と呼ばれる鉄道局長 井上 勝氏(1843-1910)であり、明治11(1878)年4月には起業公債による着工命令が出されるも、今度は、政府内部や建設が見送られた地方で敦賀線に反対する声が大きく、政治的・軍事的・経済性面での重要性は認めるものの、採算が採れず、政府の財政負担になることも指摘され計画は停滞。
 
ここで英断を下したのが、太政大臣 三条実美であり、「米原ヨリ敦賀二達スル線路建築ト可相心得事」と指令。
 
これを受け、明治12(1879)年10月9日には、再度の御前会議により敦賀線を早急に着工するよう決定し、ようやく明治13(1880)年4月に敦賀側と長浜側とが同時着工。
 
その後、急ピッチで工事が進められ、明治14(1881)年2月13日には、敦賀線金ケ崎〜洞道口(柳ヶ瀬隧道の手前)間14.4キロの鉄道が完成。
 
翌明治15(1882)年3月10日には、柳ヶ瀬隧道区間を残して「金ケ崎〜長浜間」が部分営業開始。
 
開業の約半年前、明治16(1883)年9月20日の福井新聞には、「以前山岳の如く積揚し荷物も、今は汽笛の一声と共に数十里の運送をなし、其便なる云はん方なし。今や皇国第一等の険坂刀根坂(柳ヶ瀬トンネルのこと)も其土功を落成するに及べは、其運輸の便一層を加へて、人民の利潤も亦た推して知るべし。」と、敦賀への並々ならぬ期待感が報じられていたことも紹介。
 
そして、いよいよ明治16(1883)年11月16日には「柳ヶ瀬隧道」が貫通。
 
明治17(1884)年3月30日に「柳ヶ瀬トンネル」が竣工し、同年4月16日に敦賀線「金ケ崎〜長浜間」が「全線開業」に至ったと。
 
なお、この後、敦賀港の荷物取扱高は倍増し、坂井港を超えた(その後7.5倍にまで)ほか、乗客24万人、貨物輸送3万894トン。
 
新橋ー横浜間の貨物割合15%に対し、敦賀ー長浜間は約43%で、終着駅の金ケ崎駅が港と強い結びつきがあったことが、敦賀の特徴であることを振り返りました。
 
まさに、今からちょうど「140年前」にあった史実は、敦賀にとって「歴史の転換点」であり、時を経て、同じく転換点を迎えた北陸新幹線開業と情景を重ねたところです。
 
話した内容をつらつら綴りましたが(実際はこれにクイズなどを取り込んで、やわらかく話しています)、途中、関心をもってくれたお役さんが2〜3名、立ったまま、あるいは着席して話を聞いてくれましたが、これこそがオープンスペースで開催したことの意義と嬉しく感じた次第です。
 

【右に着席の黒いジャンバーの方は途中参加のお客さん】
 
このミニ歴史講座。
 
今後は定期的に開催する予定としており、次回はこの続き、金ケ崎〜長浜間全線開業以降のお話をしたいと思います。
 
地域史を知ることは郷土への愛着や誇りにつながるとともに、自身が生きる上での考えの軸を形成することにつながるもの。
 
気比史学会の会是「過去に学び 未来に期待し 今日に生きる」を胸に、今後も「楽しく歴史を学ぶ」ことに取り組んでまいりますので、ぜひ皆様にも参加いただければ幸いに存じます。
 
※なお、オファーがあればどこでもお話ししますので、関心のある方はぜひお声掛けください。

「花換まつり」が始まる 〜明治に芽吹き、大正に花開く 今、あなたの恋物語が花開く〜

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いきなり写真からで恐縮ですが、これは昨朝の散歩で出会った風景。
 
以前に、雪の中から顔を出す「つくしんぼ」をご紹介したかと思いますが、しばし日にちが経過して見ると、これほどの群生に。
 
「春を感じる」を通り越し、生命力の迫力を感じたところです。
 
また、昨日は黄砂で景色が霞む一日でしたが、最高気温は19.0℃と春の陽気。
 
このあたたかさで、北陸地方の桜の開花も一気に進むものと予想されますが、敦賀では春の風物詩「花換まつり」が始まりました。
 
敦賀観光協会HPによれば、金崎宮を舞台とする「花換まつり」は、「良縁祈願の祭として明治40年代から始まったと伝わっており、その始まりから数年後の大正初めには今の祭の形が出来上がったと言われています。百有余年の歴史の中で様々な縁を結んできた花換祭は、今年も皆様それぞれの恋物語が花開くことを応援いたします。また現在では「花換まつり」として良縁祈願だけでなく、心眼成就のお祭りとして毎年、金崎宮は桜で染まる4月に開催されるようになりました。」とあります。
 


【「花換まつり」のチラシ(敦賀観光協会HPより)】
 
チラシをご覧いただく通り、4月7日(日)までの期間中は様々な催し物が開催されますが、何といってもメインは「縁結び」。
 
フィナーレに行われる「花換縁結び」と題した婚活イベントは毎年人気で、しかも何と、カップル成就率は6割を超えるとのことであり、今年は花換まつりを楽しみながら金ケ崎エリアを散策し、ワークショップなどで交流を深めていただく内容となっているとのこと。
 
桜の下、敦賀の「恋の宮」で、ロマンチックな出会い、ご縁が多く生まれることを祈念する次第です。
 
「花換まつり」の詳細は、敦賀観光協会HPをリンクしますので、以下よりご覧ください。
 
 →「花換まつり」の詳細はこちら
 
さて、私はといえば、今日は14時から気比史学会主催の「ミニ歴史講座」でメインスピーカーを務めることとしています。
 
この講座は、従前行っていた「史楽庭」をリニューアルし、より広く市民の皆さんに敦賀の「地域史」を知っていただこうと、「ちえなみき」2階のオープンスペースをお借りして開催する運びとしています(今後、定期開催を予定)。
 
「史楽」とは、文字通り、「楽しみながら歴史を学ぶ」ということであり、気比史学会の原点にあるもの。
 
こちらは歴史を通じて、出会いやご縁が生まれれば良いなと思いますので、春の陽気に誘われて「ちえなみき」にも足を運んでいただければ幸いです。
 
明治期の鉄道の歴史について、沢山の「ヘ〜」を準備してお待ちしています。
 

【再掲恐縮ですが、今一度お知らせを】

31日(日)は初の試み「ミニ歴史講座」

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気象庁の観測データによれば、3月29日(金)0時55分に最大瞬間風速24.1mを記録した敦賀。
 
なお、気温は5時現在で16.4℃と高く、この強風を「春の嵐」と思いたいところ。
 
一方、強い風は大陸でも吹いており、ゴビ砂漠周辺で巻き上げられた黄砂が今日から明日にかけて日本列島に飛来する予想となっていることに加え、花粉の最新見解によると、西日本や東日本ではスギからヒノキ花粉へ移行中で、本格的な花粉飛散は広範囲で4月中旬までの予想とのこと。
 
幸い私は花粉症ではありませんが、春とともにやってくるこうした飛来・飛散物に対してはマスク着用等にて対策が必要かと。
 
さて、早いもので3月の平日も今日で最後。
 
進学や就職で次のステージへ進む学生さん、あるいは人事異動で職場が変わる方々、第二の人生を歩まれる方など、それぞれこの週末を挟んで大きな環境変化になろうかと思います。
 
いずれの立場におかれても、希望と期待をもってお進みいただき、新たなステージ、新天地でのご活躍を祈念する次第です。
 
私自身は新年度を前に、気持ち新たにするところですが、プライベートで所属する敦賀の市民歴史団体「気比史学会」では、新たな取組みをスタート。
 
敦賀の悠久の歴史をより広く、市民の皆さんと一緒に楽しく学ぶことを目的に、オープンスペースでの「ミニ歴史講座」を開催いたします。
 

【各種SNSで発信した開催案内チラシ】
 
チラシにあるとおり、31日(日)14時より、「ちえなみき」2階のセミナー&スタディーにて、初回は新幹線開業からにちなみ「敦賀と鉄道」をテーマに、鉄道開業から主に明治期まで(歴史があり過ぎて1回で収まらないので)をご紹介していきたいと思います。
 

【会場の「ちえなみき」2階はこんな感じです】
 
市民歴史講座のように外部講師を招く訳でもなく、当会の役員が知っていること、調べたことを発表する形としており、トップバッターは言い出しっぺの私が担当することとなっています。
 
鋭意、資料を作成中ですが、少しでも「へー」、「そうやったんやー」とお感じいただけるよう頑張りたいと思います。
 
新たな取組み、オープンスペースで行う意味は、とにかく楽しく、色んな方に敦賀の地域史に触れていただくこと。
 
席は先着順12名しかございませんが、ふらっと立ち寄り、パートだけの参加も大歓迎ですので、関心のある方もない方も覗いていただければ幸いに存じます。

「郷土を思う」みなとつるが山車会館リニューアル式典                

ブログ 北陸新幹線 敦賀の歴史・文化

北陸新幹線敦賀開業で大いに盛り上がる福井県ですが、併せて報じられる敦賀以西の延伸に関し、ネット上では「ルート論議」が再燃。
 
一時は、Xで「#米原ルート」がトレンド入りしたほどですが、私のXポストに対しても「正直新大阪までの延伸は課題では済まされない状況にしか見えません。少なくとも京都を縦断するトンネル工事自体、これは大袈裟でなく国土を破壊するに等しく、調整は不可能に見えます。」とのコメントあり。
 
私からは「敦賀以西に関しては、日本海側と太平洋側の2面活用と、特に災害時に東京・大阪間の大動脈を多重化する観点から小浜ルートが必要かと考えます。」と国土軸形成からの視点で回答。
 
その後も何度かやり取りしたものの、当然答えは出ず。
 
また意外なことに、巨大で高スペックの敦賀駅を見るに、北陸新幹線は敦賀が最終地点のイメージがあり、実は以西への延伸は考えてないのではとのコメントも。
 
もちろんそのようなことは無い訳ですが、こうしたイメージや論調を払拭するためにも、「以西」の調整を早期に行なっていただかなくてはなりません。
 
さて、開業に話しを戻しますと、訪れる観光客はもとより、こうした機会に市民の皆さんに一層知っていただきたいのが、敦賀の歴史や文化。
 
この2日間は、まさに歴史と文化が詰まった「敦賀市立博物館」と「みなとつるが山車会館」でも多くのイベントが開催され、とりわけ「つるがの山車まつり」のメイン、山車巡航では引き手が満員となるなど、大変盛況だったとのことで嬉しい限り。
 
なお、「みなとつるが山車会館」に関しては、先日終えた改修工事を踏まえ、16日にはリニューアル式典が行われ、私も出席。
 
リニューアルの詳細は、内覧会の模様を記した2月27日のブログをご覧ください↓
 
 →「つぬが千年の祭り」〜みなとつるが山車会館がリニューアル〜
 
また何と、一日館長を務めたのは、敦賀市出身の俳優 大和田伸也さん。
 
改修した大型シアターのナレーションも務めていただきましたが、漂うオーラ、ご挨拶で聴いた生の声はよりズシリと響く、重厚感がありました。
 

【テープカットをする左から馬渕清和 敦賀市議会議長、米澤光治 敦賀市長、大和田伸也さん、上野弘 教育長】
 
ご挨拶であった、大和田さんの「郷土敦賀のためにお役に立ちたい」との言葉も響きましたが、リニューアルに花を添えていただき、誠にありがとうございました。
 
この後、自身二度目となるシアターを観せていただきましたが、大和田さんのナレーションとともに敦賀の祭りの歴史を感じ、最後に実物の山車が登場するシーンでは、観客から拍手が起こるほどの迫力。
 
何度観ても素晴らしいと感じた次第。
 
観光とは、地元の人が自慢にしている宝(光)を観ていただくもの。
 
敦賀には、その宝が沢山あり過ぎて磨き切れていないと言われますが、新幹線開業を機に、こうして地元の皆さんが、地元の歴史・文化を再発見することこそ大事なこと。
 
敦賀にお住まいの方はもとより、大和田さんのように、敦賀を離れて暮らしていても「郷土を思う」。
 
郷土への誇りや愛着であふれる、そんなまちづくりに努めていきたいと思います。

「つぬが 千年の祭り」 〜みなとつるが山車会館がリニューアル〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

つるがの山車(やま)
ー湊町敦賀の繁栄を象徴する日本遺産ー
 
敦賀の山車は、毎年9月に行われる氣比神宮例大祭(敦賀まつり)に曳き出される、祭り一番の見どころです。
 
室町時代末期(約450年前)に成立したとされ、天正3(1575)年には織田信長も見物したと伝わります。
 
江戸時代には、町毎の大山車と商人等が出す小山車で、多い年には40〜50基にもなり賑わいました。明治になると大山車が廃止され、昭和の戦災では多くの山車が焼失しましたが、町の人達の長年の努力で復旧・復元され、現在は6基の山車が巡行しています。
 
みなとつるが山車会館は、山車を保存管理するとともに実物を展示公開しています。
 
〜山車の装い〜
 
江戸時代の鎧兜や能面を身に着けた武者人形が、合戦場面をいきいきと表現し、京都画壇を代表する画家達が下絵を描いたと伝わる贅沢な水引幕や優れた金工品などが山車を彩ります。
 
この勇壮華麗な山車は、古くから湊町として栄え、「北前船」の寄港地でもあった敦賀の経済力と、町衆の情熱で育まれ受け継がれてきた、敦賀が誇る文化財です。
 
(引用終わり)
 
これは、みなとつるが山車会館のパンフレットにある説明文。
 
平成9年に開館した同会館は、設備の老朽化などに伴うリニューアル工事を終え、昨日は内覧会が開催されました。
 
何回か訪れている山車会館ですが、ロビー正面の大型モニター設置から始まり、主に以下の改修がされました。
 
◉玄関自動ドアに水引幕の装飾
◉1階のシアター室改修(スクリーン大型化、山車巡行映像製作、氣比神宮の背景幕、人形用衣装修繕など)
◉2階展示室改修(展示ケース新設、解説パネル設置、照明のLED化など)
◉映像アーカイブ「つぬが千年の祭り」映像製作、放映モニター設置
◉館内解説の多言語化
◉広報(山車のペーパークラフト、WiFi整備、山車・甲冑ブックレット作成)
◉撮影スポットの設置
 
併せて、写真でもご覧ください。
 

【①大型化された1階のシアター室のスクリーン】

【②シアター室の氣比神宮背景幕】


【③甲冑の特別展示ケース新設】

【④映像アーカイブ「つぬが千年の祭り」の放映モニター】
 
1階大型シアター(写真①)では、大和田伸也さんナレーションの後、扉が開き、迫力ある音と光のなか、勇壮な山車が登場する姿は圧巻(写真②)。
 
2階展示室では、山車の歴史や近世敦賀湊の様子が分かりやすくまとめられた説明板や甲冑展示(写真③)、さらには敦賀市内各地の祭りを季節ごとにまとめた映像アーカイブ(写真④)もあり、まさに文化歴史がギュッと詰まった会館にリニューアルされたものと感じた次第です。
 
なお、映像アーカイブのタイトルは「つぬが 千年の祭り」。
 
お伺いするに、古より伝統的に行われてきた各地の祭りを大切にするとともに、今後も末長く続くことを願い、会館の皆さんでネーミングしたとのこと。
 
込める思いを見事に表現したタイトルに思わず「素晴らしい」と唸ったところです。
 
内覧会の最後は、参加者思い思いの仮装をし、撮影スポットにて記念撮影しましたが、子どもはもちろん、大人の方も楽しめるコーナーと感じました。
 

【このような感じで記念撮影できます(この日参加した議員にて)】
 
北陸新幹線敦賀開業を前に完成したリニューアル工事ですが、新幹線駅2階コンコースの柱には、まさに敦賀の山車の水引幕で彩られています。
 
そうしたことも踏まえ、まずは「敦賀市民の方に」もっと山車のことを知っていただきたいと思う次第。
 
その土地の文化歴史を知ることは、まちの生業を知るということ。
 
室町から江戸、そして近代へと「つぬが 千年の祭り」をつないできた先人の姿に思いを馳せることで、より一層敦賀への愛着や誇りが醸成されるのではと思います。
 
百聞は一見に如かず。
 
皆様ぜひ、リニューアルされた「みなとつるが山車会館」に足を運んでみてください。

令和5年度 敦賀市文化芸術及び科学技術活動優秀賞受賞式

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二十四節気では、昨日「雨水」を迎えました。
 
降る雪が雨へと変わり、雪解けが始まる頃とされ、草木がほんのり色づく様子や春霞を楽しめる季節を意味するとのこと。
 
昨日は梅雨を思わせるかの雨模様でしたが、夢街道を歩くと、花壇の芝桜に小さなピンクの花がチラホラ。
 
暦の通り、着々と季節は春に近づいていると感じたところです。
 
こうして、小さくとも感動のある日々を送らせていただいていることに感謝する次第ですが、昨日はもうひとつ感動がありました。
 
市議会では文教厚生常任委員長を仰せつかっている関係で、関係する様々な市内団体の行事や式典などにお招きいただくところ、昨晩は「令和5年度 敦賀市文化芸術及び科学技術活動優秀賞受賞式」に出席させていただきました。
 
この賞は、学校推薦等に基づき、文化や芸術、科学技術の分野において優秀な成績を収めた個人・ 団体を表彰するもので、2016年度に新設(市独自にて)されたもの。
 
市役所2階の講堂で行われた表彰式では、作文コンクールやチアダンス、吹奏楽にものづくりコンテストなど、各分野で好成績を残した個人8人と2団体が表彰されました。
 
〈主な表彰者・団体〉
◉第48回「小さな親切」作文コンクール 文部科学大臣賞 → 粟野中学校生徒
◉第23回 高校生ものづくりコンテスト全国大会化学分析部門 敢闘賞(第4位) → 敦賀工業高校生徒
◉第23回 全国中学生アートの甲子園大会福井大会 準グランプリ(全国2位) → 松陵中学校生徒
◉日本鋳造工学会主催 第16回アジア鋳物会議「Young Poster Presentation Award」→ 敦賀工業高クリアランス金属研究班
◉第23回東日本学校吹奏楽大会 金賞 → 松陵中吹奏楽部
など
 
上野弘 市教育長のご挨拶では、先のH3ロケット発射の成功なども例に、文化や科学技術は人類をゆたかで幸せにするものであり、優秀な成績を収められたこと、それに向けた努力を讃える言葉があった後、受賞者に一人づつ、表彰状が手渡されました。
 
各分野で素晴らしい成績を収めた皆さんに拍手を送るとともに、自身の来賓紹介の際には、祝意と今後ますますのご活躍を応援する旨、お伝えした次第です。
 
会場には、子ども達を見守り、支え続けている親御さんも同席されていましたが、最後に謝辞を述べた女子高生からは、指導者や家族などの支えがあったからこそ活動に打ち込める旨の感謝の言葉があり、親を思う子、子を思う親、双方の気持ちに感動した次第です。
 
子は地域の宝と言いますが、未知の可能性を秘めた子達は、日本の宝。
 
表彰された皆さんを始め、自分の夢や目標に向かって努力するすべての子ども達を応援するとともに、各人の文化芸術、科学技術が今後さらに大きく、花開くことを祈念いたします。
 
また、ここ敦賀の地で学び、技術を磨いたことを誇りに、人生を謳歌していただければ幸いです。
 

【日本国中に勇気と感動を与えたH3ロケット発射成功。表彰された皆様を含め、成功の陰にある弛まぬ努力に心から敬意を表します(写真はYahooニュースより)】

歴史の転換点としての北陸新幹線敦賀開業 〜第39期 敦賀市民歴史講座(最終講)を開催〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

過去に学び 未来に期待し 今日に生きる
 
これは、敦賀の市民歴史団体 気比史学会の結成以来の会是ですが、昨日はこの言葉を表すかの機会となりました。
 
これまで幾度かご案内してまいりました「第39期 敦賀市民歴史講座」の今年度最終講。
 
昨日は14時より、きらめきみなと館にて、「歴史の転換点としての北陸新幹線敦賀開業」(主催:気比史学会、共催:敦賀市、敦賀市教育委員会)をテーマに開催しました。
 
「新幹線開業30日前イベント」(昨日で開業まで28日)として、敦賀市長、市議会議長、市教育委員会事務局長、敦賀商工会議所会頭、敦賀観光協会会長を始め、約170名もの方にお越しいただき感謝。
 
本日のブログでは、新たな新幹線時代に向かうに際し、本講座の内容を一人でも多くの方と共有いたしたく、議事メモを掲載しますのでご覧いただければ幸いです。
 
【第39期 敦賀市民歴史講座ネクストステージ(最終講)】
 
<日 時> 令和6年2月17日(土)14時〜16時
<場 所> きらめきみなと館 小ホール
<テーマ> 歴史の転換点としての北陸新幹線
<講 師> 東洋大学教授 井上 武史氏
<講演の趣旨>
「みなとまち」として千年以上の繁栄を築き、また、鉄道とともに「近代港湾都市」として飛躍してきた敦賀。
改めて、敦賀の歴史を振り返るとともに、新幹線開業のチャンスの転換点とするためにどう活かしていけばよいのか、その方策を考えます。
 

【多くの方にお集まりいただき心より感謝】
 
1.歴史の転換点① 「近代港湾都市」敦賀の盛衰
・明治14(1881)年に北陸本線が仮開業し、「鉄道」と「港」という「まち」の原型が形成された。
・鉄道の開通は、日本海側で最も早かった(2024年は、長浜ー敦賀間全線開業から140年)。
・明治17(1884)年の敦賀ー長浜間全線開業によって、県内では坂井港の取扱高を逆転。拡大が期待される分野において独占的地位を獲得した。
・しかしながら、その後の北陸本線の延伸によって、独占的地位を喪失
・敦賀港における輸出入額が、明治33(1900)年の4,013万円をピークに、明治35(1902)年には1,600万円まで減少した。
 
(小括)
北陸本線延伸後は「独占から競争への環境変化」で衰退
◉「通過」と「乗り換え」は大きな違い
◉貨物輸送と旅客輸送は未分離のまま。
 
2.歴史の転換点② 「国際港湾都市」敦賀の盛衰
・政府への猛運動を経て明治32(1899)年に敦賀港が開港。
・明治35(1902)年には「ウラジオ定期航路」が開設。日本海側では七尾航路の廃止により、独占的地位を獲得
・明治34(1901)年のシベリア鉄道開通により、ウラジオ航路が注目→日本海側唯一の第一種重要港に指定され、敦賀港が繁栄。
・国際会議で世界一周ルートが決定され、敦賀港が組み込まれる。欧亜国際列車の運行が始まり、国際港湾都市「敦賀」へ。
・敦賀〜ウラジオストク間の旅客往来。日本人が2,000〜3,000人/年間に対し、ロシア人1,000〜1,500人/年間。
・ヨーロッパへの最短ルートは敦賀港からウラジオ、シベリア鉄道。
 
(小括)
「鉄道とみなとの国際都市 敦賀」へ
◉市民の力。拡大と独占への洞察力と実現への粘り強さ。
◉貨物輸送と旅客輸送は未分離のまま。
 
3.戦後の経済成長と敦賀の新たなステージ
・敦賀の新たな発展への道① 敦賀市誕生(昭和12(1937)年)。港だけでは不安定→工業に必要な土地確保
・敦賀の新たな発展への道② 工業化→戦前の東洋紡(昭和8年)、敦賀セメント(昭和10年)から昭和、平成へと開発が進む。
・敦賀の新たな発展への道③ 原子力発電。工業だけは基盤が十分とは言えなかった背景。福井県が「後進県からの脱却」を掲げる。
・鉄道交通の新たな展開① 北陸本線の電化や北陸自動車道開通など。ルート決定に際して敦賀からの熱烈な運動あり(=市民の力)。
鉄道・交通の新たな展開は、工業・原子力発電など新たな産業とともに、戦後の敦賀市発展を支えた。
・鉄道交通の新たな展開② 敦賀港の動向。昭和45(1970)年のフェリー航路(敦賀ー小樽)、平成2(1990)年のコンテナ定期航路就航(敦賀ー釜山)平成3(1991)年の北陸電力敦賀火力発電所運転(石炭輸送)により、海上輸送の分野にも安定化の要素が加わる。
 
4.歴史の転換点③ 「交流港湾都市」敦賀の展開
・1999年の節目① 開港100周年「つるが きらめきみなと博21」→ 期間中、68万6千人が来場
・1999年の節目② 「人道の港 敦賀」の発信。杉原千畝氏の「命のビザ」でナチスの迫害から逃れたユダヤ人を敦賀港で受け入れ。
・1999年は、敦賀港の賑わいの機能を加え、再び「みなと」として再生する契機となった。
・敦賀のさらなる発展へ。交通体系の複合拠点として。
 
5.北陸新幹線敦賀開業を機に敦賀の方向性を考える。「高度交流都市」へ
・敦賀の人口減少が加速しており、減少はこれからも続く(令和32年の人口は、令和2年よりも26.0%減少)。
・一方、令和32年には嶺南地域の半分以上が敦賀市民になる(令和32年で50.4%を占める)。
・嶺南地域の「地方中核都市」としての拠点機能強化が期待される。
・北陸新幹線開業により、人で賑わう「みなとまち」は「駅」を加えて新たなステージ「高度交流都市」を形成する。
・敦賀「高度交流都市」のための3段階。終着駅としての敦賀は、絶対に降りる「独占的地位」であり、第1段階の「無意識の交流」から第2段階の駅周辺立ち寄り「気軽な交流」、さらに第3段階は、敦賀市内・嶺南地域・県全体へ来訪する「身近な交流」を創出する。
 
(目指すところ)
◉敦賀は日本「海」の玄関口から日本「回」の玄関口へ
◉高度交流都市のための「立体的黄金ルート」
◉敦賀は福井「回」の玄関口にもなる
◉「人道の港」から「人道のまち」へ → 重要なのは「市民の力」
 
次の転換点は、リニア新幹線の名古屋開業(2027年?)と北陸新幹線の全線開業(2030年度末頃目標)か?
 
講座のまとめ①
・「鉄道とみなとのまち 敦賀」の盛衰のポイントは、「拡大が期待される分野か」「独占的地位か」であった。
・転換点となったのは、鉄道の開業と延伸、国際港湾としての開港であった。その後、工業化や原子力を加えて安定性も確保した。
・ヒトとモノの輸送が一体から分離へと変わるなかで、みなとや駅周辺の姿も変化してきた。
 
講座のまとめ②
・北陸新幹線敦賀開業は、交流人口の拡大が期待されるなかで、多様な鉄道の乗り換え地点としての独占的地位が強化されることを意味する。
・近代港湾都市→国際港湾都市→交流港湾都市→高度交流都市への転換が見込まれる。キーワードは、「3段階の関係づくり」と「立体的黄金ルート」と考える。
・次の転換までの間に、人々と敦賀の関係づくりをどれだけ深められるかがポイントではないか
 
「100年に1度」から「次のステップ」を見据えて
 
これからの敦賀に期待しています!
 
<議事メモは以上>
 
大変お忙しいなか、本講座の講師を快くお引き受けいただいたうえ、多くのご示唆をいただいた井上先生に心から感謝申し上げます。
 
そして、参加いただいた皆様におかれましては、足を運んでいただき誠にありがとうございました。
 
皆様にとりまして、古より交通の要衝として栄えてきた敦賀の歴史に思いを馳せつつ、「鉄道と港のまち」としての誇りをもって新幹線開業を迎え、新たな時代に挑戦する。
 
そのような機会になったのであれば幸いです。
 
なお、気比史学会におきましては、冒頭の会是のもと、地域史を楽しみながら学び、次代へつなぐ思いで活動してまいりますので、今後ともご理解とご協力のほどお願いいたします。

「敦賀市民歴史講座『歴史の転換点となる北陸新幹線開業』」にぜひお越しください

ブログ 北陸新幹線 敦賀の歴史・文化

節分が終わり、今日は「立春」。
 
「立春」は文字通り、春の始まりを表すとともに、二十四節気の順番の中でも1番目。
 
今一度、新年の抱負を思い返しつつ、新たに最初の季節を迎えたいと思います。
 
なお、今年は春の訪れと合わせてやってくるのが北陸新幹線。
 
先日の記者向けに続き、昨日は北陸新幹線金沢・敦賀間の一般向けの試乗会が開かれ、乗客が一足早く車窓からの景色を楽しまれたとのこと。
 
この一般向けの試乗会には、2000人の定員に対し全国からなんと15万325人の応募があり、当選倍率75倍の大人気。
 
私を始め、知人の方々は残念にも皆外れましたが、ニュースでは、試乗した小学生が「速くて乗り心地が良かった」と笑顔を見せる様子や男性の「車窓から見えた白山が綺麗だった」など、興奮して話す姿を嬉しく感じたところです。
 
試乗会は、本日4日も金沢発と敦賀発のそれぞれ1便ずつが往復するとのことであり、見事当選された皆様におかれましては、車窓からの景色を楽しみながら、開業への期待を膨らませていただければと思う次第です。
 
さて、開業に向けてはカウントダウンに合わせ、敦賀市内でも様々なイベントが行われてきましたが、来る2月17日には、私も事務局として参画している敦賀の市民歴史団体「気比史学会」においても講座を行うこととしています。
 
当会では、敦賀の豊富で悠久な歴史を次代に継承するとの思いのもと、歴史を学ぶ楽しさを市民と共有しながら連年「敦賀市民歴史講座」を開催してきており、39期を迎えた今年度はこれまで4講の講座を開催してきたところ。
 
今年度最終講となる第5講は、「歴史の転換点となる北陸新幹線開業」をテーマに、開業に向けての機運をより一層高めるとともに、新幹線のあるまち敦賀のこれからを皆で考える機会にしたいと考えています。
 

【第39期 敦賀市民歴史講座(最終講)の開催チラシ】
 
なお、本講座は「北陸新幹線開業30日前イベント」と位置付け開催する運びとしており、歴史を振り返る中で、「鉄道と港のまち敦賀」を誇りに思いながら開業を迎えたく、多くの方に参加いただけるよう鋭意お声掛けしているところです。
 
ついては、皆様方におかれましてはご多忙のところとは存じますが、この機会に是非ご来場いただけますようお願いいたします。

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