2026年7月27日
嶺南忠霊場清掃奉仕にて先人たちを思う
昨日発行しました「やまたけNEWS(第29号)」の冒頭には、先の大戦末期の空襲によって、ここ敦賀も未曾有の戦禍に遭ったこと、そして先人たちの犠牲の上に今の私たちがあることを深く胸に留める旨、書き置いたところ。
これは、7月12日の敦賀空襲をはじめとする戦争の悲惨さ、また平和の意義や人間の尊厳を考える大切さを、今一度皆で考えることを呼びかける意味でも書いたわけですが、ちょうど発行した日に、自身がそのことを今一度強くする行事に参加してまいりました。
それは、中郷地区嶺南忠霊場清掃奉仕作業。
敦賀市岡山町の市立中郷小学校グランドに面した小高い山の頂上にある嶺南忠霊場(嶺南忠霊塔)は、昭和17(1942)9月27日に建立された高さ19メートルの忠霊塔で、第二次世界大戦などの戦没者6,765柱が安置されており、敗戦後の昭和21年12月23日に敦賀市長から福井県遺族互助会へ管理が移行され、「嶺南忠霊場」と改称されたもの。
奉仕作業は午前8時より、地元の社会福祉協議会や関係団体が参加して行われ、私は先般入会しました「戦没者追悼 敦賀市民の会(以下、敦賀市民の会)」の一員(気比史学会も賛助団体として協力)として、初参加してまいった次第です。
作業前のご挨拶では、中郷地区社会福祉協議会の会長さん(会社の大先輩でした)に続き、敦賀市民の会の野添会長からは、奉仕作業への感謝と、準備された1枚のパネル(戦後まもない頃の嶺南忠霊場)を掲げつつ、当時は、近くに走る北陸線列車の乗客は、忠霊塔下を通過する際、車掌の合図(車内でアナウンスが流れた)で英霊に黙祷を捧げたとのエピソードを紹介。
その情景を思い浮かべつつ、あらためてこの場所の大切さを認識したところです。
せっかくの機会と、本忠霊場のことをもう少し詳しく調べてみると、昭和12年、支那事変の勃発と共に戦没者は激増し、昭和14年に「敦賀忠霊塔顕彰奉賛会」が設立され、合葬墓としての忠霊塔の建設が進められ、昭和17年9月に(前述の)「支那事変戦没者忠霊塔」が竣工。
忠霊塔の右方、低い広場には沓見の墓地から移された3基(満州事変陣歿者合葬碑、上海事件陣歿者合葬碑、明治卅七八年役戦病歿 将校下士兵卒墓)の合葬碑が並ぶ。
山頂正面の台上に立つ忠霊塔は。建屋(台座)部分の間口約8.9m、奥行約9m、全高約19m(建屋部分は約4m)の大きな塔であり、終戦までに合祀された英霊は、1万5千余柱に達しましたが、戦後、滋賀・岐阜の両県の護国神社に引き渡され、現在は嶺南地区の英霊6765柱が祀られている。
終戦後、敦賀に進駐した米軍が敦賀忠霊塔を爆破すると伝えられ、遺族代表の橋本五郎氏が県軍政部代表のハイランド中佐に中止を懇請し、橋本氏個人の所有名義とすることで現状維持が認められた。
昭和21年12月23日、敦賀忠霊塔の管理は敦賀市長から福井県遺族互助会に引き継がれて嶺南忠霊場と改名され、昭和50年には、敦賀市公園緑地法の適用を受け国庫補助も含め参道遊歩道の整備のほか美化工事も行われた(今では桜の名所にもなっている)。
ハイランド中佐は、昭和23年に更迭されたが、昭和46年秋に敦賀を訪れた際に忠霊塔に参拝し、整備された霊場の姿に感慨無量と懐古されたとありました。
こうした変遷を経て、現在に至る嶺南中霊場。
奉仕作業では、急階段を登り、それぞれの団体さんが持ち場持ち場を清掃。
敦賀市民の会では、参加された6名にて、山頂から合葬碑までの通路部分に覆い茂った草木の剪定や土砂の除去を行い、電動工具の恩恵もあってか、約1時間ほどで見違えるほど綺麗に。
最後は参加者一同で忠霊塔に合掌をし、作業を終えた次第です。

【合掌を終え、忠霊塔を望む】
この機会に、忠霊塔の内部を初めて拝見しましたところ、人口正面には小さいながら荘重な祭壇があり(霊記簿が納められているという)、高く周囲をぐるりと囲むように戦地でお亡くなりになった方々のお名前が刻まれた筒状のものが祀られていました。
こうした雰囲気を肌で感じ、犠牲となった先人への敬意と感謝の念が湧き起こるとともに、大切なこの場所を今後も守っていくことの重要性を認識した次第です。
ここは春になると桜の名所。
舞い散ってゆく桜は「日本人の心」であり、そうした場所に祀られていることに、今を生きる者へのメッセージが込められている。
初めての奉仕作業に参加し、その思いを今一度強くした次第です。
























