レールと原子力でつながる嶺南地域

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敦賀から東舞鶴までを結ぶJR小浜線。
 
その歴史を振り返ると、大正6年12月15日に敦賀〜十村間が開業して以降、小浜、若狭高浜と順次西へとレールをつなぎ、新舞鶴(現東舞鶴)まで全線開業したのは大正11年12月20日。
 
全線開業からちょうど100周年にあたる今年は、様々なイベントが開催されてきているところですが、12月20日に向け、いよいよカウントダウンの時期に入ったところ。
 
一昨日からご一緒した若狭原電紀行の皆さんと別れ、昨朝は高浜和田駅から敦賀まで小浜線を利用することとなり、100年の歴史を思いながら、ゆったり1時間半、若狭の海や田園風景、うっすら雪化粧の山々と車窓からの眺めを楽しんだ次第。
 

【乗車したJR小浜線の若狭和田駅。青葉山も美しく見えました。】
 
青空広がる土曜日とあってか、車内は高校生からお年寄りの方まで、車内は各年代層で賑わいがあった訳ですが、終着駅の敦賀で一気に降りる姿を見るに、改めてここ敦賀は交通の結節点であることを認識するとともに、1年4ヶ月後には、乗り換える電車も特急から新幹線へと、同じ時間でも移動範囲が広がることはやはり、期待や可能性が広がるものと感じたところです。
 

【敦賀駅前立体駐車場からの眺め。北陸新幹線敦賀駅の外壁工事の足場はほぼ取り外されていました。】
 
そんな昨日は夕刻、サンピア敦賀にて開催された「関電労組若狭地区本部支部役員セミナー」に、北川博規・福井県議会議員、小幡憲仁・高浜町議会議員(現議長)とともに活動報告の機会をいただきました。
 
私からは、日頃のご支援に加え、電力安定供給を担う若狭の各原子力職場の皆さんに対し感謝の気持ちをお伝えしたうえで、引き続き、現場の思いを胸に取り組むことをお約束しました。
 
その後の質疑の場においては、3名の議員に対し、積極的にご質問もいただき、それぞれより考えをお返しした次第です。
 


【支部役員セミナーでの活動報告の様子】
 
ちょうど朝は鉄道で、夕方は原子力の両インフラ産業でつながる嶺南地域を感じ、どこか感慨深い気持ちとなりましたが、一世紀のJR、約半世紀の原子力発電、それぞれの歴史は極めて重いもの。
 
私たち世代は、レールと電力供給を守ってこられた先人の気概と努力のうえに立って今があるとの認識を強く持って、感謝と敬意を忘るることなく、これから先も、この歴史をつないでいかねばなりません。

再現したい将軍への献上品「疋田鮎鮨」

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「食文化ストーリー」として、先月はフランスのパリに使節団を派遣し、「昆布」の文化・技術を世界に発信してきた敦賀市。
 
「昆布」は、まさに敦賀の歴史において欠くことのできない食であり、北前船ともつながる文化であることは言うまでもありませんが、昨日はまさに食に関わる「地域史を知る面白さ」ここにありと感じたところ。
 
その機会とは、気比史学会と敦賀市立博物館共催の「市民歴史講座(第6講)」であり、中でも、徳川家の将軍にも献上されていた「疋田鮎鮨(あゆずし)」の存在を知ることができたこと。
 
きらめきみなと館小ホールにて開催された講座では、京都大学名誉教授の藤井讓治先生をお招きし、「献上品から見た近世敦賀の名産 ー疋田鮎鮨を中心にー」をテーマに、約1時間半、大変興味深く拝聴させていただきました。
 

【丁寧に敦賀の「食の歴史」を紐解いていただいた藤井讓治先生】
 
講座では、17世紀前半の北陸道の名産を記した「毛吹草」(江戸前半の俳書)で、越前や若狭には、加賀や越中など他の北陸の地よりも多くの特産品があったことや、将軍への毎年の献上品を指示した「酒井忠勝書下」の「御自分日記」には、目指や刺鯖、初鮭や初鱈などに加え「疋田鮎鮨」と記録されているとありました。
 
恥ずかしながら、私は「疋田鮎鮨」を初めてここで知った訳ですが、御自分日記には、万治2年7月6日「今日御国之匹(疋)田鮎鮨 御城上ル」とあり、江戸時代後期には献上されなくなった(注)ものの、それまでの間、愛発の疋田から歴代将軍に献上されていたことを学ぶことができました。
※注:秀吉の頃から続いてきた献上が、5代将軍徳川綱吉の代で、生類憐れみの令によって取り止めになったとの説がある(敦賀女子短期大学(現在は市立看護大学)多仁研究室 1996年度調査記録より)
 
敦賀では今も「鰊(にしん)ずし」が有名で、私も大好物ですが、この「鮎鮨(ずし)」もいわゆる「シャリ」のある「寿司」ではなく、「なれずし」のことで、敦賀が誇る特産品だったことが、講座で紹介された史料からも分かりました。
 
(投稿後修正)
史料より、疋田鮎鮨は、魚のみを食す「なれずし」ではなく、魚のほかご飯も一緒に食す「なまなれ」であることから修正いたします。

さすが将軍への献上品だけに、今で言う「品質」にバラツキ無きよう、江戸まで運ぶ日数から逆算して漬ける日数や数量までルールとして決めていた記録もあり、藩主が相当に気を使っていたことにも驚きましたが、さらに驚いたのは、疋田では鮎を「鵜飼」で獲っていたということ。
 
鵜匠は三方(五湖)から伝わったと考えられているそうですが、興味深いのは、疋田の鵜飼は自分で鵜を持たず、近江から借りていたとのこと。
 
そうした不思議、疑問が歴史の面白さかもしれませんが、後で参加者の方から伺うに、疋田の鵜飼の手法は、今でも有名な「長良川の鵜飼い」の元になったとのことであり、ルーツになったと聞けばまた敦賀のことを誇りにも感じた次第です。
 
そして気になる鮎鮨の製法については、敦賀の長谷雅晴氏が「疋田鮎ずし研究会」の活動の中で、25年ほど前にルーツを辿り、写真を添えてレシピを残されたとのこと。
 
早速私もそのファイルを見せていただこうと思っていますが、「記録を残してくれたのはありがたいこと」と糀谷会長も仰っていたとおり、製法が受け継がれているということは、再現できる可能性があるということ。
 
講座の後には、皆さん口々に「食べてみたい」と仰っておられましたが、私もその一人。
 
再発見された「疋田鮎鮨」を再現することはまさに、「食文化」を掘り起こすことであり、「食べてみたい」と口にされた皆さんとともに、ぜひ一度再現にトライできればと思います(気比史学会のイベントとして取り組んでも面白いかも)。
 
こうして、敦賀にあった食文化を聞けたことは自身の「知」となったことはもちろん、会場の皆さんと地域史を「楽しく学べた」ことは、気比史学会の活動理念とも合致するものであり、大変有意義な講座となりました。
 
冒頭の「昆布」も将軍家に献上されたもののひとつ。
 
小浜の斉藤商人が、敦賀で見立てて購入していたようですが、江戸時代より敦賀の昆布加工は一目置かれていたとあります。
 
敦賀真鯛やふぐ、東浦みかんの認知度向上に取り組む敦賀市ですが、それぞれにある「食文化」をどう活かし、残していくのか。
 
そのヒントは、単なる美味しさのPRではなく、今回学んだよう「歴史やエピソード」とつなぐことにあると、私は思います。
 
このことは思うだけでなく、機を捉え、また議会の場でも提案していく所存です。
 
(参考)
「疋田鮎鮨」に関しては、敦賀女子短期大学(当時)の多仁研究室が1996年度に調査した記録がありましたので、以下リンクしておきます。こちらも興味深いことが満載でしたので、関心のある方はぜひお読み取りください。 
→調査報告 福井県敦賀市疋田地区の疋田ずしについて

今なお生き続ける「萬世永頼」に込めた思い

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新型コロナウイルスを巡る政府の水際対策の大幅緩和と全国旅行支援が始まってから初の週末。
 
ニュースを見ていると、各地の観光地には多くの人が訪れ、かつてのにぎわいが戻ったかの様子が映し出されるなど、感染者数の減少傾向を見て、早速旅行を決めた人がいる一方で、再流行を懸念する声もあり、まだまだ手放しで喜べる状況ではないと認識するところ。
 
かくいう私は近場でお出掛けということで、昨日はお隣の滋賀県長浜市へ。
 
14日に鉄道開業から150年を迎えたことは、先日ブログでご紹介した通りですが、長浜市の鉄道資料館に展示されている蒸気機関車の汽笛が修理され、12日にはおよそ50年ぶりに鳴らされたとのニュースを見て、ホットな話題に惹かれて目的地に据えたもの。
 
当時国内最長の柳ヶ瀬トンネルを経て敦賀とレールでつながった長浜ですが、南越前町と合わせ、3市町で日本遺産を形成する関係の深いまちであり、改めてそうした歴史に思いを馳せつつ車を走らせたところ。
 
お目当てのD51形蒸気機関車は、昭和45年までおよそ27年間、東海道や東北などを走ったもので、国内に現存する最古の駅舎を活用した鉄道の資料館「長浜鉄道スクエア」に格納、展示されており、見事なまでに磨き上げられていることに思わず感嘆の声を挙げてしまいましたが、座った運転席では、当時の機関士気分になることができました。
 
あいにく、汽笛の鳴る時刻は2時間に一回ということでタイミングが合いませんでしたが、およそ100万円をかけて修理されたという音色は、また次の楽しみに取っておきたいと思います。
 

【美しい姿で保存、活用されるD51蒸気機関車(デゴイチ)】

【運転室に座ると、当時の情景が浮かぶよう】
 
また、長浜鉄道文化館では、柳ヶ瀬から敦賀、山中へと難所を攻略して進む蒸気機関車の姿、各駅の様子を記録映像や鉄道資料にて拝見しましたが、特に、蒸気機関士にとって、長大な柳ヶ瀬トンネルの中を走ることは窒息などの危険があり、まさに命懸けであったこと、排煙装置など様々な対策が施されたことを知りました。
 
文化館を出、外に並ぶ石領や石碑をじっくり見るに、敦賀側にある山中や柳ヶ瀬トンネルに掲げられていたものが、何故ここにあるのか若干悔しい気持ちにもなりましたが、それにしても伊藤博文や黒田清隆ら、歴史に名を残した人物の題字からは、この長浜ー敦賀間開通に懸けた明治政府の並々ならぬ思いを感じた次第。
 
その伊藤博文が柳ヶ瀬トンネル東口(滋賀県側)に残した石領には「萬世永頼」との言葉が記されていました。
 
「万世永く頼む」と詠み、「この鉄道が世のために働いてくれることを、いつまでも頼りにする」という意味とのこと。
 
柳ヶ瀬トンネルは、鉄道トンネルとしての存在ではなくなったものの、今もなお自動車用トンネルとして活用されているばかりか、今庄までのトンネル群は県道として「現役」であり、まさに役割を変えて、伊藤博文の期待を果たしていると感じたところです。
 
こうして体系的且つ思いを込めて鉄道遺産を残し、活用する長浜市には敬意を表するところであり、わが敦賀市もより一層、「鉄道と港のまち」の名にふさわしい保存活用をせねばと感じる、鉄道巡りの一日となりました。
 
もう暫しは、人混みを避け、近場での学びや気づきスポットを楽しむ秋にしたいと思います。
 

【伊藤博文が残した「萬世永頼」の文字。約150年前の言葉にずっしりと重みを感じた次第】

鉄道開業150年と敦賀。レールは未来へ。

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先週土曜日、「ドローンを活用した新スマート物流SkyHub®︎」のフライト確認で杉箸区まで行った帰り、久しぶりに「小刀根トンネル」に寄りました。
 
この「小刀根トンネル」(56m)は旧北陸本線トンネル群のひとつで、1881(明治14)年に竣工。
 
日本人技術者によるもとのとしては、明治13年竣工の逢坂山トンネル(京都〜大津)に次いで二番目に古く、現存するものとしては「日本最古」の鉄道トンネルですが、トンネル内を歩けば、蒸気機関車の煙で煤けたレンガ、露出している岩盤などを見るに、どこか140年前にタイムスリップしたような感覚になる、まさに「敦賀の鉄道遺産」を誇りに感じてきたところです。
 


【現存する日本最古の鉄道トンネル「小刀根トンネル」。煙で煤けたレンガに140年の歴史を感じました。】
 
突然、鉄道トンネルの話しから入りましたが、1872(明治5)年10月14日、新橋ー横浜(現桜木町)間29kmの両停車場で開業式が行われた「鉄道開業の日」から今日で150年を迎えます。
 
翌10月15日からは旅客列車の運転が開始され、これを境に日本の交通事情、時間の使い方の概念がガラリと変わった訳ですが、蒸気機関車が走る姿は当時の人々にとって驚異的な出来事であり、まさに文明開化の象徴であったことが容易に想像できるところです。
 
さて、日本における鉄道の歴史は、明治維新から間もない1869(明治2)年12月12日に政府の鉄道敷設計画(助言者は「鉄道の父」井上勝)が決定したところから始まりますが、この計画にはこうあります。
 
「幹線ハ東西両京ヲ連結シ、枝線ハ東京ヨリ横浜ニ至リ、又、琵琶湖辺ヨリ“敦賀”ニ達シ、別ニ一線ハ京都ヨリ神戸ニ至ルベシ」
 
ご存じの方も多いかと思いますが、東京ー横浜、京都ー神戸と同格で「敦賀」までの敷設が記載されており、越前国海陸図の存在をはじめ、当時の敦賀が日本の物資輸送における重要な結節点としての役割を担っていたことを、この計画が証明していると言えます。
 
鉄道敷設計画については、その後、東京や京都が開業する中、難所続きの敦賀までは予算の関係で工事着工に至っていませんでしたが、1878年(明治11)年に「海運網と連絡する鉄道敷設重視」に政策転換したことにより、敦賀ー米原間(北陸線)の鉄道敷設工事費が計上され、1881年(明治14)年には小刀根トンネル、1884(明治17)年には柳ヶ瀬トンネル(当時、国内最長のトンネル)が完成し、悲願の敦賀(金ヶ崎)ー長浜間が開業。
 
さらに鉄道延伸により、敦賀以北へと続いたのが、「鉄道と港のまち敦賀」と言われる所以と認識する次第です。
 
なお、日本遺産にも認定されているトンネル群に話しを戻すと、「鉄道の父」井上勝氏は「汽車、レール、橋梁の資材は全て外国製品。外国に支払うばかりでは国内の技術は向上しない。西洋の技術を越えるものを、日本人の手で作らねばならない」との言葉に従い、先の「小刀根トンネル」の存在につながる訳ですが、敦賀人の気質として、攘夷の意識を強化される経験から、何事も「日本人だけの手で」との考えが強く、その実践として現に、明治期における近代遺産第1号「黒崎(阿曽)トンネル」が、日本人の手だけで1876年(明治9年)に手掛けられていることもまた、誇れる郷土のスピリットと財産であると思うところです。
 
ここまでは過去の歴史を振り返ってきましたが、レールは未来へとつながります。
 
JR東日本が作成した記念動画を観ると、このようなキャプションが流れていました。
 
150年前から始まった鉄道の歴史
線路が延びるたび
列車が速度を上げるたびに
日本はひとつになり
鉄道の進化は
この国を動かす原動力となりました
これまでもこれからも
行き先は新しい未来
 
1964(昭和39)年10月1日に東海道新幹線東京〜大阪間開業から58年を経て、1年半後に北陸新幹線の開業を迎える敦賀は、古から交通の要衝として栄えたまち。
 
しかしそれは単に地理的な優位性に依存するのみでなく、歴史遺産に刻まれる、その時々にあった、先人たちのチャレンジ精神や開拓精神があったからと強く認識するところ。
 
つまり、今を生きる私たちがこうした歴史、先人の思いをつなぎ、新たな時代を築いていく気概と気骨を持つことこそ、未来にレールを延ばす、この敦賀がさらに発展するための「原動力」であると、鉄道開業から150年の日に思う次第。
 

【完成すれば全国の整備新幹線駅の中で最も高く、最も容積の大きいものとなる「敦賀駅」。金沢ー敦賀間工事最大の難所をこうして進める関係者、現場の皆さんもまた、歴史に名を刻む開拓者であります。】

敦賀の山車を探る 〜つるがの山車総合調査から〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

昨日は中秋の名月。
 
敦賀の夜空は厚い雲が流れる中ではありましたが、その隙間から何度か満月を観ることが出来ました。
 
暫しベランダに出て、月見酒も楽しませていただいた次第ですが、名月を観て思うはやはり「松尾芭蕉」先生。
 
かの有名な「おくのほそ道」では、ここ敦賀で中秋の名月を観るとのターゲットのもと工程を進め、実際、1689年(元禄2年)旧暦の8月14日に敦賀を訪れています。
 
名月の句を詠むに、数ある名所の中からここ敦賀が選択されたことだけでも誇らしく思えるところですが、敦賀での道中では大変趣のあるエピソードが残されています。
 
芭蕉さんは夕方、快晴の敦賀に入り、宿の旅籠「出雲屋」の主人に明日も晴れるかどうかを問います。
 
出雲屋の主人は、北陸の天気は変わりやすく明日(中秋の名月の日)は晴れるか分からないので、月見なら今晩のうちにと伝えます。
 
芭蕉さんはその夜「氣比神宮」に参拝し、月明かりに照らされた神前の白砂とその由来に感動し、次のように詠みました。
 
「月清し遊行のもてる砂の上」
 
また、道中楽しみにしていた肝心の「中秋の名月」の日は、主人の言う通り天候が悪く、名月を望むことが出来なかった訳ですが、その時の心境を
 
「名月や北国日和定めなき」
 
と詠み、残念がるどころか、逆に観れなかったことを楽しむかのような句を残しています。
 
普通なら「嘆き」の思いを馳せるところ、現代風で言えば「超ポジティブシンキング」であったことを想像するに、私は芭蕉さんが大好きになり、また「名月や北国…」の句からは、「思い通りにならないことは悔やまない」ことを教わった次第です。
 
このように、名月ひとつとってもエピソード満載の敦賀であり、言い換えれば、地域史を再発見していくに事欠かない、豊富な歴史・文化を持つのが敦賀ということになる訳ですが、昨日も気比史学会と敦賀市立博物館共催の「市民歴史講座」にて、新たな学びがありました。
 
令和4年度第4講となる、今回のテーマは「敦賀の山車を探る 〜つるがの山車総合調査から〜」。
 
敦賀市立博物館館長補佐の高早恵美氏を講師にお招きし、約2時間の講座を拝聴させていただきました。
 

【きらめきみなと館小ホールで行われた講座の様子】
 
敦賀の祭りといえば「山車(やま)」と言っても過言でないくらいですが、平成30年から始めた山車の総合調査から分かったこと、そこから推敲される山車の歴史を知ることが出来ました。
 
すべてをご紹介することは控えますが、いくつかポイントだけお伝えいたします(マニアックな内容を含みますが、その点ご容赦を)。
 
<敦賀の山車の現在>
・敦賀の山車は等身大の武者人形に拘っている。顔は能面、鎧兜は人間用の本物を使用している。馬具も実は本物。
・欄干の周囲に飾っている水引幕は復元新調のもの。
・御所、金ヶ辻、唐仁橋(それぞれ山を持つ町の名前)は、比較的古いパーツが使われている。
・東町、観世屋町、鵜飼ヶ辻子は、平成6年に再興している。
・足回りには、芯棒、台輪、車軸、車軸つなぎのパーツがある。
 
<敦賀の山車の発生と近世の祭り>
・江戸時代の山車の文献から紐解く。
・「寛文雑記」(寛文5年6月27日:1665→一次資料ではない)が一番古い記録。御所辻子山車には、これより以前より恵比寿神を乗せていたとある。そのためか、山車の順番はくじで決めるが、御所辻子山車は「くじ取らず」(くじ無しで一番)であったとも。
・「気比宮社記」を読むと山番町は東西6町ずつ。組合町は東2、西1の3町。合計15町であったと読める。時代によっては、そうでなかったこともあるよう。
・「祭礼覚」(寛文雑記:天和3年(1683)年頃)によると、8月3日の練物は例年通りとしつつ、作り花や飾りに金箔等は一切用いない、地車、かきたな(担ぐ棚)は二、三を残して止める、三つ物(田楽の鳴り物か?)一つは減らすなど、小浜藩から祭りの豪華さを制限された。
・とにかく豪華になっていた。個人持ちの小山や宵山はまだなかった。
・宵山が登場していた(山町以外の参加)。練物の他に多彩な棚など、趣向も色々。3日の練物には小山があったはず。北前船の影響などから、経済的な賑わいも伺える。
・江戸時代の中でも様々な変遷があったものと認識。
・「敦賀志」(嘉永3年(1850)年までに成立した気比社の神職、石塚資元が編纂した地誌)によると、(祭りの)2日目には、個人持ちの山車を含め、多い年で40〜50、少ない年でも20〜30出ていた。
・明治に大山は廃止になった。
 
<敦賀湊の山車の祭り>
・気比神宮の祭礼の神幸祭(8月3日)に伴う練物の祭りとして始まる。
・天文10年の気比神宮造影に伴い、変化が生じたと考えられる。
・元亀4年の戦災で神幸祭が失われる(江戸初期には再興を目指すか)。
・江戸時代初期、次第に豪華に、練物に新たな趣向が登場(江戸時代半ば頃)。
・江戸時代中期、練物が賑わい。山町以外も宵宮などに出し物を出す。
・3日には小型の山車が登場(18世紀後半以降)。
・幕末頃、3日の山車が増え、祭りの中心に。大山は大きさを競い、飾りは雑に。
・明治初期、大山は廃止。小山を町の山車に。開催日が、9月2〜4日に変更。3日の練物は廃止、御鳳輦が始まる。
 
以上、私が記録に留める意味も含め、ご紹介させていただきました。
 
盛り上がりすぎて、小浜藩から叱られた?との話には、思わず笑ってしまいましたが、聞けば聞くほど、奥が深く、歴史ある「敦賀の山車」。
 
「水引幕」は、北陸新幹線敦賀駅コンコースの柱部分に掲載されることとなっており、全国の皆さんにお披露目出来ることを嬉しく思うところですが、何と言っても山車の迫力や美しさは「リアル」で。
 
講師の高早さんも最後に仰っていた通り、願いは「来年こそ」6基の山車が氣比神宮大鳥居の前に勢揃いすること。
 
敦賀市民はもとより、多くの観光客の皆さんに、その荘厳な姿を見せてくれることを切に期待いたします。

敦賀の歴史を振り返る「大河ドラマと市民歴史講座」

ブログ 敦賀の歴史・文化

「過去に学び 未来に期待し 今を生きる」
 
昨日午後は、気比史学会の市民歴史講座を開催。
 
私は、今期より史学会の理事を拝命していることから、準備や運営を含めた形で参加してまいりました。
 
今年度で38期を迎えるこの市民歴史講座ですが、第3講となる今回は、奈良大学の外岡慎一郎教授をお招きし、「鎌倉殿と13人の御家人 〜NHK大河ドラマと市民歴史講座〜」をテーマに、約2時間お話しいただきました。
 
実はこの市民歴史講座、第1講、第2講までは市立図書館3階の研修室にて開催してきましたが、コロナ対策で入場者制限(会場収容人数の半分:50人)することもあって、超過した方を受け入れるため、急遽隣室とつなぎ会場設営するなど難しい対応となっていたところ。
 
そのうえ、第3講の外岡先生は人気の講師ということから、混乱を未然に回避するため、会場をきらめきみなと館小ホール(収容半分:115名)に変更し、開催したもの。
 
想定していた通り、この日も90名を超える参加があり、会場変更したことは功を奏した訳ですが、併せて市民の皆さんの歴史に対する関心の高さを感じた次第です。
 
講座のほうは、外岡先生の深い見識から、現在放映中の大河ドラマ「鎌倉殿と13人」の登場人物や歴史の経過にスポットを当て、歴史家から見た視点を学ぶことができました。
 
また、「鎌倉殿の13人」に登場している御家人は、関東・東北を中心とする「東国御家人」と呼ばれ、「西国御家人」と分類されることや、ここ敦賀においては、稀有な存在として櫛川郷地頭山内氏の名前があるものの、承久の乱後の進出であり、当時国御家人は不在?であったこと、さらには鎌倉時代の敦賀は「欠史時代」と呼ばれ、あまり良く分かっていないことなどを知ることができました。
 

【多くの歴史ファンが訪れた会場の様子】
 
外岡先生に関しては、敦賀短期大学に日本史学科を設置した際に赴任されてこられたことを契機とし、史学会とはそれ以降のお付き合いということでしたが、聞けば、これまで250回を超える市民歴史講座の中で、27回も講義いただいているとのこと。
 
ちなみに外岡先生は、敦賀城主「大谷吉継」研究の第一人者でありますが、奈良に拠点を移されてからも、敦賀への愛着をもって、こうして幾度も足を運んでいただいており、今講義の最後にも「大河ドラマを契機に敦賀がどう描かれたかを顧みることができるよう、歴史を振り返る形で市民歴史講座が開かれてきた。今後もいつでも講師陣として来たい。」との言葉があり、改めて感謝申し上げる次第です。
 

【ご講演の後には何と、この日もサインを求める方がいらっしゃるほどの人気を有する外岡慎一郎先生】
 
さて、設立から45年を数える気比史学会においては、役員の高齢化などによる運営体制の面から、昨年の総会にて、令和4年度末をもって会を閉じる方向としていたところですが、比較的若い世代(私を含む)の会員を中心に、何とか歴史ある市民歴史団体「気比史学会」を継承すべく、具現化に向け検討を重ねているところ。
 
昨日、最後に謝辞を述べられた糀谷好晃会長からも、このことに若干触れていただきましたが、同様の理由で解散していく市民歴史団体が殆どの中、私はこの会を今後も継承していくことこそ、豊富な歴史、文化を有し、大切にする敦賀の証であると考えます。
 
ついては、私自身、歴史の継承に向け尽力する所存ですが、皆さまの中でこの考えに共感いただける方は是非、何らかの形でご協力いただきたく、連絡頂戴できれば幸いです。
 
最後はお願いになってしまい恐縮ですが、冒頭の言葉は、私も胸に置いている気比史学会の会是。
 
そうした思いを込めて、「地域史の大衆化」(端的に言えば、敦賀の歴史ファンを増やす)を目的に続けてこられた市民歴史講座。
 
以下に今期の予定を掲載いたしますので、少しでも関心のある方は是非お気軽に、参加くださいますよう宜しくお願いいたします。
 

※第4講の会場も、きらめきみなと館小ホールとなります。

敦賀領主「大谷吉継公」になり切る

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本格的な夏を感じる空が広がった昨日は、朝から町内の資源回収作業。
 
わが町内では、育成会(いわゆる子供会)が中心となって、新聞や雑誌、ダンボールを年3回に分けて回収しており、コロナ感染が拡大する中ではありますが、屋外であることやこれを先送りすると保管などで困るお宅も出てくることなどを踏まえ、予定通り実施したもの。
 
コロナ対策のため、皆さん口数は控え目であったものの、育成会の親子を始め、区の役員とが協力をし共同作業を行うのはやはり一体感を感じ、終わった時には清々しさを感じた次第です。
 
また、夜は役員会を開催し、先般の班別常会で挙げられた、区に対するご意見や各班の問題点をひとつづつ確認のうえ、対応方針を協議。
 
さらにこの先の行事の開催可否についても検討を行いましたが、コロナ禍で機会を喪失している代表格が、こうした地域コミュニティーにつながるイベントであり、対策を講じながら、できることから再開していければと確認した次第。
 
朝夜と、町内の皆さんとお話しする機会があった昨日でしたが、今後も自分が住む町内が安全で活力あふれるまちとなるよう汗をかいていきたいと思います。
 
さて、珍しくすっぽり空いた午後の時間を有意義に使うべく、まずは自身が6月定例会で意見提起した「名勝気比の松原」の利用状況を確認のため、自主パトロールに。
 
定期的に行っているパトロールは、単に浜辺や松林、駐車場近辺を歩くに過ぎませんが、海開き後は駐車場が有料となったことや「バーベキュー・キャンプ全面禁止」の看板効果か、以前に比べ穏やかな雰囲気になったと感じました。
 
但し、ゴミの分別などの問題はありますので、引き続き自分の目で確認のうえ、関係機関にも伝えていきたいと思います。
 
そして、この日一番楽しみにしていた、念願の「大谷吉継」体験型フォト撮影のため、みなとつるが山車会館へ。
 
本年4月29日から始まった「体験フォトスポット」コーナーは、みなとつるが山車会館の1階ロビーに設置され、鎧兜や大谷吉継をイメージした陣羽織などを身に着けて記念写真が撮れるというもの。
 
撮影位置のバックは、満月が浮かぶ氣比神宮大鳥居前に山車が並ぶ幻想的な風景パネルがあり、さらに刀や弓、采配など撮影用の小道具まで自由に使えます。
 
昨日、山車会館に行くと話した方が、たまたま甲冑クラブのリーダーの方で、何とご自身も足軽甲冑姿で駆けつけてくれたほか、写真が映えるよう、吉継公の代名詞である白頭巾や足袋までお持ちいただき感激した次第ですが、実際、山車会館の館長さん始め、お二方にサポートをいただきながら鎧を着装、兜を被り、采配を持てば、もうそこは戦国時代にタイムスリップしての「吉継気分」。
 
小さなことかもしれませんが、念願叶うとはこのことで、様々なポーズで写真撮影したほか、来館された親子連れの方と一緒に記念撮影するなど、暫し鎧姿を堪能させていただきました。
 

【思わず「いざ出陣!」の台詞】

【白頭巾姿はこんな感じです】

【足軽隊が加わるとさらに、戦国時代の雰囲気に】
 
大谷吉継公は言わずと知れた敦賀領主、関ヶ原の合戦では石田三成率いる西軍に属し、中心的な役割を担いましたが、徳川家康率いる東軍にあえなく敗れ、関ヶ原で自刃し生涯を閉じた武将。
 
義の戦国武将として、名だたる武将の中でも人気を誇る(特に女性)、敦賀城主でもあります。
 
吉継公をもっと取り上げていければとアイデア浮かぶところですが、それはまた別の機会にお話しすることに。
 
戦国の世と吉継公の義を感じることができる体験スポットですが、聞くところによるとまだ体験に来られた方は数名だそう。
 
ちょうど今は夏休み。
 
お子さん、お孫さんとの思い出づくりに、ぜひ皆さんも足を運んでみてはいかがでしょうか。
 
※但し、お一人で着装するのは無理ですので、必ず2名以上でお願いします。

350年の時を経て「北前船」の航路は世界へ

ブログ 敦賀の歴史・文化

「豪商、河村瑞賢が東北から日本海、瀬戸内海を経由、大阪に至る西廻り航路を確立して今年で350年。後に蝦夷地(北海道)まで延び、大阪との間を往来する北前船が隆盛を誇る。」との書き出しで綴られた昨日の福井新聞「越山若水」。
 
350年の節目に北前船の歌を作ろうとの機運が生まれ、北前船の寄港地の一つ敦賀市の隣町出身の五木ひろしさんが快諾し、上総(かずさ)優のペンネームで自ら作曲までを手掛け「北前船」を発表したことや、10月には北前船床地の地が交流を続けている「北前船寄港地フォーラム」がフランス・パリのルーブル美術館などで行われ、これに敦賀市で昆布の加工販売を行う奥井海生堂の奥井隆社長が日本の食をテーマに講演を行うことも記されていました。
 
北前船で運ばれ、支えられた日本の食と文化をパリから世界に発信する意欲的な試みであるともありましたが、パリで開催されるフォーラムには、敦賀市長や敦賀市議会議長を始めとする団を現地に派遣することで、今年度当初予算及び先の6月定例会での補正予算を議決しているところ。
 
※ちなみに私は、6月定例会の本補正予算に係る賛成討論で、「市長と議長には胸を張って、敦賀が誇る歴史と文化を世界に発信してききていただきたい」と意見を述べました。
 
コラムは、「歴史学者、磯田道史さんの『北前船の歴史、文化の物語は大切で、見える化すべきだ』との提言も生かし、北前船の世界遺産への航路を拓いてほしい」との言葉で結ばれていましたが、改めてこうして350年の時を経てなお注目と期待をされる北前船、そしてここ敦賀が寄港地の一つであり、特産品である「敦賀の昆布」が評価されていることを誇らしく感じた次第です。
 
奇しくも昨晩は、今年度末をもって45年の活動に一旦区切りをつける方向としている敦賀の市民歴史団体「気比史学会」について、私を始め、比較的若い理事らで「何としてでも継承したい」との思いのもと、組織運営や財政面、活動内容など、具体性をもって受け継ぐための検討会を行ったところ。
 
この件は、また改めてご紹介したいと思いますが、「地域史の再発掘」と「郷土の歴史・文化の大衆化」(市民歴史ファンの裾野を広げる)を目指す気比史学会の代表的な活動は、37年間続けてきている「市民歴史講座」であり、先の「北前船」はこの講座のテーマとして何度も登場しているもの。
 
現代を生きる者の使命と責任は、こうして次代に「伝える」ことでもあり、「越前若水」に書かれていたことと「気比史学会」が果たしてきた役割、そして45年の活動の歴史こそ継承せねばならぬとの思いがさらに込み上げてきたところ。
 
「北前船」に関しては、10月に予定されているパリのフォーラムでの発信を始め、2024年春開業の北陸新幹線敦賀駅2階コンコース天井には、北前船の帆をイメージした装飾がされることとなっています。
 
こうした機会も捉え、世界に発信する郷土の歴史・文化を敦賀市民の皆さんがより深く知れば、必ずやこのまちを誇りに思い、愛着が生まれ、住み続けたいという気持ちが芽生えるのではないかというのが私の考えです。
 
気比史学会の結成以来変わらぬ会是は、「過去に学び 未来に期待し 今を生きる」。
 
私の大好きなこの言葉を今一度胸に、自分が出来る精一杯の役割を果たしていきたいと思います。
 

【冒頭に記載した五木ひろし氏の「北前船」。ある方にCDをいただいたまま聴くのを忘れていましたので、早速本日は、350年の歴史に思いを馳せつつ流してみようと思います。】

コロナ禍を乗り越え、つなぐ「地域の宝」

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ここ最近は、300人前後で推移している福井県内の新型コロナウイルス新規感染者ですが、一昨日にはマスクの着用について政府の考え方が公表されました。
 
それによると、基本的な感染対策としての着用の位置づけは変更しないとしたうえで、2メートル以上を目安に、周りの人との距離が確保できる場面では、屋内で会話をする場合を除いて「着用の必要はない」とするほか、屋内で会話をする場合でも、十分な換気などの対策をとっていれば「外すこともできる」としています。
 
政府の公式見解が示されたことは歓迎するものの、現在の感染状況を見るに、正直「そうはいっても」という気持ちがある訳ですが、ここは基本的考え方を認識しつつ、熱中症などのリスクに応じ、自己判断していきたいと思います。
 
公表の際、後藤厚生労働大臣は記者団に「日常の経済活動や社会活動を正常化していくことと、基本的な感染対策としてのマスクの着用は両立し得る。今後とも感染状況などの変更によってマスクの着用やその他の対策についても、エビデンスベースで対応していく」と述べましたが、今回のように「エビデンスベース」で国民に説明していくことが非常に重要と考えることから、今後もその考えに沿った対応をお願いする次第です。
 
さて、そうした中、昨朝福井新聞を開くと、コロナ禍前に完全に戻ったかのような記事が飛び込んできました。
 
以前に開催決定と報じられていた北陸三大祭りの一つ「三国祭」が20日に中日を迎え、記事によれば、呼び物の人形山車(にんぎょうやま)7基が福井県坂井市三国町旧市街地を練り歩いたとあり、3年ぶりに当番区の山車が勢ぞろいし、港町は活気に満ちあふれたとのこと。
 
「山車を動かす男衆たちは熱気を帯び、ひき手の力強いかじ取りで路地を縫うように練り歩いた。曲がり角では大きな音を立て旋回。威勢良いかけ声や囃子方の子どもたちの太鼓の音は夜まで響き渡った。」との記事、そして掲載された写真からは、祭りのにぎわいや活気が伝わってきた訳ですが、新型コロナウイルスの影響で、2020年は人形山車展示のみ、21年は規模を大幅に縮小して静かに巡行するなど制限されたこの祭りをこうして復活させたことを契機に、県内の催事も徐々に再開されていくのではと感じた次第です。
 
ここ敦賀において注目されるのは、お盆時期の「とうろう流しと大花火大会」、9月初めの「敦賀まつり」になろうかと思いますが、一部、花火大会に関しては規模を縮小して開催する方向とも聞こえてくるところ。
 
「敦賀はどうするんや?」と聞かれることも次第に増えてきているところでありますが、私としましては、地元地域の皆さんを始め、各関係団体のご判断を尊重すべきと考えるところであり、「今暫しお待ちください」とお答えしているところです。
 
こうした「開催への期待」は、裏を返せば「地域行事の大切さ」を思う気持ちの表れと受け止める次第であり、コロナ禍の制限で一層、その気持ちを高めることになっているのかとも考える次第(ポジティブに考えればですが…)。
 
そのうえで、同じ港町敦賀には三国に負けない山車(やま)があります。
 
先日、「みなとつるが山車会館」にてその姿を拝見してきましたが、建物の中に保存されている山車は、どこか寂しげに映りました。
 
館内に掲示された写真や映像を見るに、やはり似合うのは、氣比神宮の大鳥居前に勇壮と並ぶ姿、子どもから大人まで元気の良い掛け声に合わせてひかれる姿。
 
元々、霊や疫神を町の外へ送り出そうとしたのが山車の祭りのはじまりだと考えられていますが、こうした意味を持ち、大切に保存されてきた山車は「地域の宝」。
 
このコロナ禍を乗り越え、「この宝」を継承していくことこそまさに、歴史をつなぎ、地域のコミュニティをつなぐことであり、私たち市民の役割だと改めて認識する次第です。
 

【山車会館で鑑賞した迫力ある山車。皆さんもぜひ足を運んでみてください。】
 
 →→→遠方の方はこちらから、「山車会館」のホームページ」をご覧ください

企画展「空のない星~ホロコーストの子供たち~」

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ゴールデンウィーク本番。
 
全国的に続く五月晴れの中、コロナ禍前に戻ったかのように賑わう観光地や高速道路渋滞のニュースを見る訳ですが、ここ敦賀も駅前や氣比神宮前、金ヶ崎緑地エリアには多くの人通りがあり、こうして目的地として訪れていただいたことを嬉しく感じるところ。
 
また、氣比神宮前交差点では整備した歩行空間にキッチンカー数台が並び、人の列があったほか、街を走っていて目に付くのは赤いシェアサイクル。
 
この季節は特にでしょうか、駅を降りた後の二次交通手段として手軽に利用されている方が多いようで、私自身の実感として、こうして官民連携での取り組みが功を奏していることを評価するところです。
 
さて、そのような気持ちの中、私が向かったのは「人道の港敦賀ムゼウム」。
 
こちらの施設の意味合いに関しては、これまで幾度となくブログにも取り上げているため、説明は割愛いたしますが、昨日の目的はムゼウムで開催されている企画展「空のない星~ホロコーストの子供たち~」を見に行くこと。
 
3月15日から開催されているこの企画展は、行こう行こうと思っていたものの一つで、ようやく実現したもの(やや大袈裟ですが)。
 
イスラエル大使館、人道の港敦賀ムゼウム主催、ヤド・ヴァシェム(世界ホロコースト記念センター)が企画・制作した企画展ですが、会場の2階企画展示室に行くと、10名程度であったでしょうか、熱心にパネルをご覧になっている姿が目に入りました。
 
「ホロコースト」とは、ナチス政権とその協力者による約600万人のユダヤ人の組織的、官僚的、国家的な迫害および殺戮を意味し、「焼かれたいけにえ」という意味のギリシャ語を語源とする言葉からも分かるよう、ユダヤ人を「劣った人種」であると見なしたゲルマン人の一方的な人権侵害であることはご承知置きのことかと思います。
 
この企画展は、そのホロコーストの中を過ごしたユダヤ人の子供たちにスポットを当てたもので、パンフレットには、「この展示は、当時の子供たちの絵や詩、手紙、おもちゃなどから、彼らの生活を垣間見る扉となるでしょう。そしてこの展示は、ホロコーストのような困難な状況においても、生命力や活力、創造性、想像力、そして楽観性を保った子供の能力を証明しています。」とありました。
 
ひとつ一つのパネルを順に読ませていただきましたが、家族や兄弟、勉強やおもちゃなど、様々な視点から、当時どのような心境で過ごしたのか、生き延びた子供たちの実際の証言と併せ表した内容は大変に重く、目を背けたくなるような史実が現実にあったことを胸に刻んだ次第です。
 
また、あるパネルにはこのような記載がありました。
 
「家族から無理やり引き離され、隠れ家や強制収容所に送られた子どもたちが両親なしで生き残るためには想像できないような困難が待ち受けていました。しかし、不可能と思える環境でもなお、子どもたちは遊び、物語を創作し、恐怖や希望を表す絵などを描きつつ生活していました。」
 
平和で平穏な世の中が当たり前にある世代からは想像出来ない「強さ」と「希望」を子供たちは持っていたことを改めて痛感し、企画展を後にした訳ですが、帰り掛けにムゼウムの職員さんと立ち話しをするに、コロナ禍ではありながらもここ最近は多い時で1日150人ほどの来館者があるそう。
 
皮肉にも、世界が「人道」とは何かを考える大きなきっかけとなったのが、ロシアのウクライナ侵略行為であることは言うに及びませんが、企画展で流れていたビデオ(ヤド・ヴァシェム制作)にもあったよう、こうした史実を一人でも多くの方に伝え、知って考えていただくことが大変重要なことであり、ここ敦賀ムゼウムにはその役割と使命があると改めて思った次第です。
 
結びになりますが、この企画展の開催は5月31日(火)までとなっています。
 
敦賀市民の皆さんはもとより、多くの方々にご覧になっていただければと思いますので、是非足を運んでいただければ幸いに存じます。
 

【ユダヤ難民を受け入れたこの場所だからこそ伝えられることがある】
 →→→「人道の港敦賀ムゼウム」のホームページも是非ご覧ください

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