2025年3月24日
いまに残る北陸最古の史と詩の径『深坂古道』
晴天に恵まれ、最高気温も19℃までとなった昨日。
気比史学会「ミニ歴史講座」のため、10時前に「ちえなみき」に向かうと既に、正面玄関前には4、5人のお客さんが開店待ち。
オープンと同時に入店される(私もその一人ですが)ほどの人気ぶりを嬉しく感じた次第です。
早速、受付でお断りし、2階のセミナー&スタディに向かうと、「ちえなみき」さん側にて当日のイベント情報を掲示してくれてあり、きめ細かな対応をありがたく思ったところ。。
【セミナー&スタディにセットされたイベント掲示】
パソコン接続など準備を済ませ、10時30分からの講座にお集まりいただいたのは、私を含め5名。
先月は愛知県の女性に参加いただきましたが、今回は京都から男性にお越しいただき、SNS(X)を通じてのご縁に話が盛り上がったところです。
講座のテーマは、先月に続き『平安時代の敦賀』の後編として、今回は、いまに残る北陸最古の史と詩の径(みち)「深坂古道」を中心にお話ししました。
メインスピーカーは今回も私ということで、気比史学会の過去資料等をもとに作成したパワーポイントにて順次説明いたしました。
概要をスライドと合わせご紹介いたしますと、長徳2(996)年 紫式部が越前国府に任じられた父・藤原為時と現越前市へ向かう際に越えたとされる「深坂古道」の初見は『万葉集』。
中臣宅守(なかとみのやかもり)が「み越路の手向けにたちて」、笠金村(かさのかなむら)が「塩津山打ち越え行けば 我が乗れる馬ぞつまづく 家恋ふらしも」と詠んだこと。
敦賀と琵琶湖北岸を結ぶ最短経路であった深坂越え(深坂古道)は、北陸五カ国の穀物輸送の重要な官道として『延喜式』にも定められ、この間の公定駄賃を一駄につき米一斗六升(約24Kg)と規定していたこと。
【琵琶湖北岸の塩津と敦賀の追分を結ぶ「深坂越え」は最短ルート。西側には海津から愛発山を越えるルートもあり。】
また、紫式部が深坂古道を越える際に詠んだ歌と解説は以下のスライドのとおり。
さすが式部さん。
ひとつの歌に3つも掛けたことや、それぞれの意味合いについて、参加者の皆さんが思いを述べ合い、盛り上がったところです。
「深坂古道」は近世初期には、新道野越の開発により衰微。
ここで気比史学会では、いにしえのみちを「史と詩の径」として後世に伝えていこうと衆議一決し、会員はもとより、市民にも広く呼びかけて「深坂古道ある講」が昭和57(1982)年5月9日を皮切りに始められたこと。
その後、平成4(1992)年には、敦賀みなとライオンズクラブによる整備が行われ、「史と詩の径」として再生。
同年10月23日の当時の高木孝一・敦賀市長も出席され、盛大に整備完成式が開催されるとともに、気比史学会ではパンプレットを作成し、広く市民に配布したこと、「深坂古道ある講」には毎回、多くの方が参加されたことなどを、当時の新聞記事なども参考にご紹介。
【気比史学会作成のパンフレット。京都の方からは、「ぜひ京都駅に置いて欲しい」との要望あり。】
最後は、私の思いものせて以下のスライドのようにまとめた次第です。
その後は、同じ平安時代のトピックとして、古代の北陸道や芋粥、安倍晴明と晴明神社をご紹介し講座を閉じましたが、皆さんと和気あいあいお話しするなかで、新たな知見もあり、地域史を楽しく学ぶとはこういうことと、改めて認識した次第です。
なお、「深坂古道ある講」は気比史学会として早々に復活させたいと思いますので、その際はぜひ皆様もご参加いただければ幸いです。
後片付けを終え、階段を降りると「ちえなみき」の配色は白からピンクに。
いよいよ季節は春ですね。