古より「氣比神宮」と「敦賀津」は敦賀のシンボル

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「勤労感謝の日」の昨日は、日本全国の神社で「新嘗祭」(にいなめさい)が執り行われました。
 
私は議会の立場で、氣比神宮の「新嘗祭」に参列いたしましたが、新嘗祭は「しんじょうさい」ともいい、「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくことを意味し、収穫された新穀を神に奉り、その恵みに感謝し、国家安泰、国民の繁栄をお祈りする祭典。
 
特に宮中では天皇陛下が自らお育てになった新穀を奉るとともに、御親らもその新穀をお召し上がりになりますが、収穫感謝のお祭りが11月下旬に行われるのは全国各地での収穫が終了する時期に、御親祭を行われたためと考えられています。
 
なお、伊勢神宮のホームページを見ると、
 
『春には祈年祭で豊作を祈り、秋には新嘗祭で収穫に感謝』
 
『日本書紀』に天照大御神が斎庭(ゆにわ)の稲穂を天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられたことが記され、そこに日本の始まりが位置づけられることは大きな意味を持ちます。春に豊作を祈り、秋の収穫に感謝する稲作を中心とした営みを、日本人は2000年以上繰り返して来ました。天皇陛下から国民に至るまで神を祀ることは日本の大切な文化です。
 
との由来と意味合いが記載されていました。
 
なお、春の耕作始めにあたり、五穀豊穣を祈るお祭り「祈年祭」は国家規模で執り行われ、平安時代の『延喜神名式』によると、神宮を始め全国2,861社の神々に幣帛(はいはく)が奉られていたとあり、この「新嘗祭」に至るまでを考えるとまさに、稲の育成周期が日本人の一年と感じたところです。
 
氣比神宮では、福井県内農協を通じ多くの農家より本年の新穀のご奉納を戴いたとあり、そのことと合わせ、感謝を込めて玉串拝礼いたしました。
 

【収穫への感謝と国家の繁栄を祈りました。】
 
また、夜はニューサンピア敦賀で開催された「「第35回北前船寄港地フォーラムin加賀・福井」のレセプションに出席。
 
「北前船寄港地フォーラム」とは、江戸時代に物流のネットワークと地域交流の役割を担っていた北前船の伝統を現代に生かし、関係自治体が連携してその魅力を発信し地方創成に寄与することを目的に平成19年(2007)から日本海側の北前船寄港地などで開催されているもので、今回で35回目。
 
11月21日・22日は加賀市にて、23日は福井県で、特に今年は能登半島地震からの北陸の復興支援および北陸新幹線の開業を契機として開催されました。
 
福井県産業会館で行われたお昼のフォーラムでは、「北前船がもたらした食文化」をテーマとしたスペシャルトークセッションに奥井隆 敦賀商工会議所会頭(株式会社奥井海生堂 代表取締役社長)が話し手として登壇されたそうで、まさに北前船と直結する昆布にまつわるお話しをされたとありました。
 
出席した夜のレセプションは敦賀市のほか、小浜市、美浜町の会場でも開催され、敦賀会場においては、県から中村保博副知事、岩倉南越前町長、米澤敦賀市長や行政関係者、一般社団法人 北前船交流拡大機構関係者、敦賀商工会議所の方々など多くが募り、大変盛り上がったレセプションとなりました。
 
ご来賓の挨拶では、「(北前船の)本丸ともいえる敦賀に来て、奥深い歴史や文化を感じた。」、「古くから国際港を有する敦賀のことをどんどん発信していきたい。」との言葉があり、嬉しく感じた次第ですが、先の氣比神宮と敦賀の津(のちに湊→港)は、古代から敦賀のシンボルであり、北陸はもとより日本の要衝であることを示すもの。
 
古より連綿と続くこの歴史と文化を誇りに、まさに気比史学会の会是『過去に学び 未来に期待し 今日に生きる』の理念のもと、引き続き、郷土発展のため汗をかいていく思いです。
 

【『引札 田中組(千石船)』敦賀市立博物館 所蔵品データより】
陸海物貨運輸所 金ケ崎停車場前にて。俵を満載した千石船と沖には蒸気船を描く。

『日本横断!運河計画 敦賀~琵琶湖運河計画と琵琶湖の新田開発』〜市民歴史講座(第5講)を開催〜

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注目の兵庫県知事選挙は、斉藤元彦氏(前知事)が勝利。
 
パワーハラスメントなどに関し、SNSやYouTubeでFACT(真実)を探った有権者の皆さんの判断と報じられていますが、斉藤氏が戦っていたと言われる「既得権益」とは何だったのかまでは報じられないまま。
 
まさに民意を問う「選挙」でしたが、一連の流れと合わせ、大変考えさせられる「選挙」となりました。
 
さて、「FACT」に関連して歴史の世界。
 
『それは夢か欲望か…みんなの本気が海と湖を結び、日本を構断していった。』
 
これは、令和6年度敦賀市立博物館特別展「日本横断 運河計画」にあるサブタイトルですが、11月2日の市立博物館特別講座に続き、11月16日(土)には、博物館との協力関係のもと、気比史学会主催の市民歴史講座(第5講)『日本横断!運河計画 敦賀~琵琶湖運河計画と琵琶湖の新田開発』を開催しました。
 
講師には、大津市歴史博物館の杉江進館長をお招きし、各文献を基にした、史実に基づく貴重なお話しを拝聴しました。
 

【100名近くの方に参加いただいた市民歴史講座の様子】
 
はじめに、敦賀-琵琶湖運河計画ついて、
・誰が何を目的にしたか?
・資金はどこから調達しようとしたか?
・計画ルートはどこか?
の視点で考えていきたいとした上で、以下のお話しがありました。
 
<伝承の世界>
◉同運河計画は、平安時代の平清盛(が重盛に託した)、天正13年(1565)の敦賀城主の蜂屋頼隆、天正末期から慶長初期に大谷吉継らが計画したとあるが、近世の地誌等で確認されるものの、具体的計画を示す史料は残されず、伝承の世界から運河計画は始まっていると言える。
 
<京都商人の出願>
◉寛文9年(1669)頃からは、西廻航路の整備による京都への物資減少への対策。荷物輸送の便を図るとともに、琵琶湖の水位減少に伴う洪水対策・新田開発にも言及する。
◉元禄8年(1695)には、京都の商人連名による計画では、願書が幕府に取り上げられ、幕府役人の現地への派遣となるが、周辺の反対により頓挫。
◉元禄年間には、敦賀に残る伝聞情報もあり。
 
<運河構想から新田開発へ>
運河の開通による物資輸送で直接利益を得る者以外(江戸の商人、幕府の御用職人、幕府)が出願し、琵琶湖の水位を低下させることによる湖辺の新田開発計画が取り上げられる。
◉新田開発が第一の目的とされ、運河は二の次となる。新田の支配を目的とするか。
◉享保5年(1785)には、幕府の御用職人による出願。琵琶湖の水位を下げることによる新田開発計画があり、その範囲は、瀬田川下流、大坂までの範囲に及ぶ。徳川吉宗の享保改革による新田開発奨励策と関わるか。
◉天明5年(1785)には幕府自らの計画があるも、田沼意次政権による新田開発策の一環は、田沼の失期により頓挫。
 
<実現性のある運河計画>
琵琶湖と日本海を運河で結ぶことは技術的に不可能に近いが、一部に水路の開響や既存の河川を利用することで実現する。輸送の便を図ることを目的とするか。
◉文化12年(1815)幕府と小浜藩によって計画され、疋田一敦賀に舟川を開き、舟を通わす。但し、工期が4ヶ月と短いところから、既存の川を利用したのではないかと考えられる。疋田の町中に舟川の一部が残る。小浜藩主が老中であったという背景がある。20年利用され、その後廃止。
◉安政4年(1857)外国船の来航による日本海航路の不安から計画される。琵琶湖側で、塩津と大浦を起点とする2ルート。疋田舟川の一部を再利用して実現。彦根藩の反対。幕府内部における利害対立がからむ。
◉文久3年(1867)幕府の許可を得た金沢藩による計画と小沢一仙による計画。金沢藩は6ルート(敦賀一塩津、敦賀一大浦、敦賀一海津で各2ルート)の測量を行う。
 
<琵琶湖を巡る運河計画>
◉小浜ー今津運河、瀬田川通船(宇治川、淀川を経て大阪へ)、大津ー京都運河(明治に実現する琵琶湖疏水の先駆け)などあり、
◉天野川通船による「伊勢湾へのルート」について、慶長10年(1605)、京都嵯峨の角倉が、天野川の世継(琵琶湖岸の港)から能登瀬を経て醒ケ井に川船を就航させ、美濃・尾張からの荷物を運ばせるが、彦根藩の訴えにより停止。
文久3年(1863)には、彦根藩が天野川を利用して中山道の柏原宿まで通船し、そこから牧田川の湊である船まで水路を開し、揖斐川を経て伊勢湾に通じる。京都町奉行所の役人が検分に訪れ、江戸からも測量方が派遣される手はずであったが、実現せず。
 
<運河計画が実現しなかった理由>
①当時の技術では大規模な水路や隧道を掘削することは不可能に近く、また膨大な資金を誰が負担するかが課題であった。
②運河が通ることに対する、既存の交通ルートの従事者、琵琶湖の水位低下の影響をうける水運関係者、農業従事者、漁業従事者、大名等の反対があった。
③運河ルートの入り組んだ支配による、利書関係調整の困難さ。
④運河には船を通すための水量の確保が必要な一方、洪水によって運河が被害を蒙(こうむ)るという運河維持の困難さ。
⑤一部河川を利用した運河であっても敦賀から琵琶湖へ向かうルートは引船になり、一方通行の稼ぎにしかならず、引船で荷物を運ぶのであれば、従来の陸路を利用した方が効率が良い。
 
以上が、講座の概要となります。
 
こうして史料と付き合わせて確認すると、運河計画は途中、新田開発のため琵琶湖の水位を下げる(敦賀への水抜き水路)目的に変わり、その後、江戸末期になると外国船による西廻り航路の不安により再び、敦賀からの物資輸送ルートを確保しようという歴史背景まで浮かび上がるとともに、どの時代においても重要視されてきたで敦賀津(湊)を誇りに思ったところです。
 
いずれにしても、伝承の世界とはいえ、敦賀と琵琶湖をつなぐ計画が平安時代からあったこと、その後も敦賀城主や京都商人、さらには幕府までが入り込んで実現させようとしたことに加え、琵琶湖から小浜、京都、大阪、さらには伊勢湾へともつなぐという、まさに「日本横断」の壮大な計画がされていたことに、大いなるロマンを感じた次第です。
 
講座の最後に、「歴史とは史料に基づき紐解くもの」との言葉にありましたよう、正確な史実に基づき信念をもって語っていただいた杉江先生に心より感謝申し上げます。
 

【杉江先生ありがとうございました。】
 
「日本横断運河計画」に関する講座はこれで終わりとなりますが、ぜひご覧いただきたいのが、敦賀市立博物館で開催されている特別展。
 
開催期間はあと少し、11月24日(日)までとなっておりますので、悠久の歴史と壮大なロマンを感じに足を運んでみてはいかがでしょうか。
 

【市立博物館入口に掲げられた特別展のボード】

心をつなぐ 世代をつなぐ 文化のちから 〜第64回敦賀市文化祭〜

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秋晴れに恵まれた「文化の日」。
 
国民の祝日に関する法律では、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」とあります。
 
ここまで大それた考えにまで及びませんでしたが、昨日は10月27日から開催されている「市民文化祭」(敦賀市文化協会・敦賀市教育委員会主催)に行ってまいりました。
 

【メイン会場のプラザ萬象】
 
足を運んだプラザ萬象 大ホールでは、ちょうど花展・呈茶が催されており、生花を鑑賞しつつ、お茶を一杯頂戴した次第です。
 

【お饅頭とお茶に「ほっと」癒されました】
 
また、多目的室(市民ギャラリー)で併設開催の、敦賀気比高校OBOGアート展「けひのわ」も鑑賞。
 
同校美術専攻科卒業生は、学んだ技術をベースにプロとして活躍されている方、趣味として続けられている方様々なれど、それぞれの道で磨き続けているアートはどれも力作揃いで、素人の私から見ても訴えるものがありました。
 
なお、「けひのわ」は残念ながら昨日で終わってしまいましたが、市民文化祭については、絵画・書道・写真・俳句短歌・手芸そして文化祭ポスター原画展が11月7日から展示となります。
 
敦賀市文化協会におかれましては、「心をつなぐ 世代をつなぐ 文化のちから」の基に伝統文化の継承と発展に取り組むことはもとより、新しい流れにも目を向けながら、文化でつながる親しみのある町へ会員一同取り組んでおられます。
 
文化祭は、11月10日(日)が最終日となりますので、ぜひ足を運んでいただければと存じます。
 
その後は、敦賀市立博物館へ。
 
本来、こちらの企画展で予習をした上で、昨日ご紹介した2日の記念講演会を聞くべきでしたが、「日本横断!運河計画」の展示をじっくり鑑賞してきました。
 

【敦賀市立博物館にて開催の企画展「日本横断!運河計画」】
 
講演会にあった「加賀藩」に関しては、徳川幕府から明治新政府に転換するちょっと前の、大きな社会の変革期に政治的駆け引きによって、またもや本気で運河計画が検討されはじめ、西廻り航路(大阪廻り)が危うくなり、再び荷物を上方へ運ぶ中継点として注目されるようになった敦賀は、京都への糧道として、そして北前船の寄港地としても重要な役割を果たし、その商圏は日本全国に及んだこと。
 
それは「交通の要衝・敦賀」である以上、仕方のないことであり、江戸初期以来の、港の賑わいが戻りはじめた敦賀に、高度な技術を持った測量集団が、加賀藩の命を受けて敦賀にやってきたとのエピローグのもと、数々の展示がされていました。
 
また、愛発の「疋田舟川」については、部分的ではあるものの、平安時代からいえば数百年を経て初めて実現した運河計画として文化13年(1816)に完成。
 
その後、天保5年(1834)に廃止され、再び安政4年(1857)に使われるようになりますが、彦根藩主・井伊直弼が領内の宿駅が衰退することや大津にある米の価格が下がるなどを理由に執拗に反対していたことも紹介されており、当時の政情を思い浮かべた次第です。
 
これ以上の紹介は「ネタバレ」となるため控えますが、驚きと学び満載の企画展となっていますので、こちらもぜひご覧いただきたく存じます。
 
改めて、こうして継承される「歴史と文化」は、先人たちが生きた生業そのもの。
 
今もこれからも大切にしていきたいと思います。

ー敦賀から琵琶湖を結ぶー 加賀藩の大運河計画

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夕方まで強い雨が降り続いた昨日。
 
私の方は、元々予定をしていました敦賀市立博物館主催の記念講演会「ー敦賀から琵琶湖を結ぶー 加賀藩の大運河計画」を拝聴してまいりました。
 
この講演会は、現在、市立博物館で開催している特別展「日本横断!運河計画」の関連イベントのひとつ。
 
自身が所属する気比史学会も協力開催ということで、会場設営や受付などのお手伝いも兼ねて参加した次第です。
 

【特別展「日本横断!運河計画」のチラシ(裏面)】
 
足元の悪い中にも関わらず、会場の市立図書館3階 研修室には熱心な参加者にお集まりいただき、一般財団法人高樹会 代表理事の島崎毅氏よりご講義いただきました。
 

【会場の様子】
 
まず、敦賀ー琵琶湖運河計画を語る上で欠かせないのが「高樹文庫」。
 
江戸時代後期、射水郡高木村(現在の富山県射水市)に生まれた和算家・測量家の石黒信由(1760~1836)以下4代の和算・西洋数学・測量術・絵図作製・航海術等の学問・技術等に関する史料群12,000点余は、大正9年地元有志により設立された高樹会(こうじゅかい)に移され、平成10年新湊市博物館(現射水市新湊博物館)の建設に伴い同館に寄託されたもの。
 
この史料群は、江戸時代後期の学問・技術の水準の高さを示す資料として学術的価値が高く、昭和59年6月6日には2,051点の資料が国の重要文化財に指定された後、追加指定により、現在は6,390点が国指定重要文化財となっており、先の運河計画を紐解く資料もここにあります。
 
その上で、敦賀と琵琶湖をつなぐ運河計画の歴史は古く、平安時代には平重盛(平清盛の息子)、戦国時代には蜂屋頼隆や大谷吉継、江戸に入ると京都商人や田沼意次(幕府)などが事業者となって計画するも「幻」に終わっている訳ですが、講座のテーマである「加賀藩」が敦賀ー琵琶湖間のみならず、日本海ー京都までの「大運河計画」を策定しようとした時代背景には、以下のようなポイントがあったとのこと。
 
<幕末の加賀藩と国際情勢>
① 下関砲撃事件(1864年)により、機能停止となった西廻り航路
② 押し寄せる「黒船」と急がれる海防
③ 経済的に困窮していた幕府と加賀藩
 
こうした背景から、加賀藩の運河開削計画の第一期工事(敦賀~琵琶湖)として、慶応2年(1866)に幕府へ申請、同年12月に認可。
 
運河開削に向けての現地測量と絵図作製は、入手し得る過去の記録、古地図など様々なデータの収集、慶応3年2月2日からは測量を開始(6つのルート)し、実質1ヶ月足らずで測量(高木村への帰村は4月14日)を終えたとありました。
 
さらに驚くのは測量の精度。
 
上記「越前近江糧道測量絵図」の6つのルートと現在の国土地理院地形図とがほぼ一致しているほか、各集落(旧・村落)高札場における標高データの精度や敦賀〜塩津の直線距離(直径)データは、9,996間(約18.2km)における誤差は極めて小さく、石黒家をはじめとする当時の測量技術の高さを伺い知った次第です。
 
また、平面図のみならず、明治以前には前例のない、高低をわかりやすく表現した断面図「直高図」などをもとに、琵琶湖湖面と同じ高さで塩津から敦賀に向かい、沓掛の北側まで露天掘り、唯一の難所、深坂峠にトンネル(JR深坂トンネルと平行の位置)を掘削し、疋田からは 0.67%の勾配(文化年間の舟川の勾配は0.9%)の運河で、敦賀市街地の笙の川に合流させるなど、具体的な計画までがされました。
 

【敦賀・琵琶湖間運河計画図(射水市新湊博物館『石黒信由関係資料 絵図』より引用)】
 
 →拡大してご覧になりたい方は、こちらのリンクへ
 
一方、琵琶湖から京都をつなぐ、加賀藩の運河開削計画の第二期工事に関しても同様、「京都新規通船見取絵図」をもとに説明があり、ここで示されたルートと明治23年に「琵琶湖第一疏水」として実現した運河のルートがほぼ合致しているともありました。
 
こうして、敦賀ー琵琶湖、琵琶湖ー京都をつなぐ「壮大な計画」の歴史を伺い、結びに先生からは、加賀藩の大運河計画が語るものとして、
 
◉明治以前の加賀藩(石黒一門)の科学技術のレベルとその広がり
 ① 十分な実現の可能性を示唆する精度の高い測量技術
 ② 石黒一門の若き門人たちの実力
◉高樹文庫資料の現代社会における存在意義
 ① 明治以前の科学技術と学問の広がり
 
とありました。
 
加賀藩の測量技術と精度はまさに驚異的であり、幕末の加賀藩の高い水準の学問、科学技術の広がりに敬意を表すること、「幻」に終わったものの、琵琶湖から京都までの距離は、敦賀から琵琶湖までの半分であり、経済効果や物流を考えても京都までつなげなければ意味がないこと。
 
そして最後に、明治維新は西洋化であり、これらに頼らずとも日本の技術は高いものがあったと語る先生からは、日本人としてのプライドなるものを感じた次第です。
 
平安時代から「敦賀と琵琶湖をつなぐ」ことにチャレンジし続けてきたことは、いかに敦賀港が国家にとって重要であることを意味するもの。
 
学問としての歴史のみならず、こうしたマインドの部分も含めご教授いただいた島崎先生に感謝申し上げます。
 

 
なお、市立博物館で開催されている特別展「日本横断!運河計画」では、高樹文庫資料の一部が展示されている(必見です)ほか、次の関連イベントは、当気比史学会主催の市民歴史講座。
 
11月16日(土)14時より、「日本横断!運河計画 一敦賀~琵琶湖運河計画と琵琶湖の新田開発一」と題し、今度は滋賀県側から見た運河計画についてお話しいただきますので、こちらもぜひ足を運んでいただければ幸いです。

「西福寺御影堂現場見学会」に「『光る君へ』スペシャルトークショー」

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行楽日和が続く三連休ですが、特に自然の中へお出掛けの際にご注意いただきたいのは「クマ」の存在。
 
敦賀市防災メール(トンボメール)によれば、10月12日(土)午前10時45分ごろには池河内区(池河内湿原から約100m北側道路脇付近)にて成獣1頭、13日(日)午後9時40分ごろには、樫曲区(宗願寺付近)でも同じく、成獣1頭が目撃されています。
 
幸い目撃情報で済んでおりますが、紅葉シーズンで自然に触れる機会の際には特にご注意いただきたく存じます。
 
なお、福井県では、市町や警察署に寄せられたツキノワグマ出没位置情報を「福井クマ情報」で、敦賀市では「つるガイド 」にて鳥獣の出没情報を公開していますのでご活用くださいませ。
 
 →「福井クマ情報」はこちら
 →「つるガイド」はこちら
 
さて、秋の楽しみ方は様々ありますが、昨日の「水戸天狗党」に続き、今日は敦賀の「歴史文化」に関するイベント情報をご紹介いたします。
 
ひとつ目は、「令和の大修理」と称される重要文化財「西福寺御影堂」の現場見学会
 
西福寺は、南北朝時代創建の浄土宗の古刹で、重要文化財 御影堂は、西福寺の中心的な建物。
 
文化8(1811)年に落成し、西福寺の格式の高さを物語る建物とされており、本年7月には日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 北前船寄港地・船主集落」の構成文化財にも認定されたところですが、令和4年度から修理事業が始まり、今夏仮設覆屋が完成したことから、いよいよ本格的な解体を始めるところ。
 
またと無いこの機会に、より多くの皆様に西福寺の歴史的魅力や文化財の保存修理の現場を体感いただけるよう修理現場公開を実施するとのことですので、以下リンクよりお申し込みいただき、是非ご覧いただければと存じます。
 
なお、私は9月29日にひと足先に現場を拝見し、大変感銘を受けました。
 
 →見学会の詳細、お申し込みフォームはこちら(敦賀市HP)
 

 
ふたつ目は、「大河ドラマ『光る君へ』スペシャルトークショーin敦賀」の開催について。
 
敦賀市HP情報でしかありませんが、『光る君へ』で藤原為時役(まひろのお父さん)で出演の「岸谷 五朗さん」をゲストにトークショーが開催されます。
 
<開催概要>
◉日 時:令和6年11月17日(日)午後2時から午後4時(開場 午後1時15分予定)
◉場 所:プラザ萬象 大ホール(敦賀市東洋町1番1号)
◉内 容:第1部(仮称)「道としての敦賀紀考 紫式部ゆかりの地を巡る」
     第2部 大河ドラマ「光る君へ」スペシャルトークショー
◉ゲスト:岸谷 五朗(藤原為時役)、内田 ゆき(大河ドラマ「光る君へ」制作統括)
 
なお、入場料は無料ですが、事前申込みが必要なため、以下リンク(敦賀市HP)をご覧いただき、こちらも奮ってご参加いただければ幸いです。
 
 →「大河ドラマ『光る君へ』スペシャルトークショーin敦賀」の観覧申込はこちらから
 

【「光る君へ」オープニングの一コマ。制作の裏話も聞けるかも。】
 
「光る君へ」(越前編)では「松原客館」も登場するなど、敦賀との関係性もあって企画されたもの。
 
西福寺に大河ドラマトークショー。
 
秋の楽しみのひとつとしてチョイスいただき、敦賀の悠久の歴史を感じていただければ幸いです。

『水戸天狗党 ーゆかりの地における慰霊・顕彰と評価一』〜敦賀市民歴史講座(第4講)を開催〜

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気持ち良い秋晴れのなか、昨日は「水戸天狗党」に思いを馳せる一日。
 
午前中は、整備を終えた「武田耕雲斎等墓」現地見学会(敦賀市教育委員会文化振興課主催)に参加、午後は気比史学会の事務局として、敦賀市民歴史講座(第4講)『水戸天狗党ーゆかりの地における慰霊・顕彰と評価一』の準備運営にあたりました。
 
午前中の見学会は①10時、②11時の2回行われましたが、私は10時からの回に参加。
 
30名程度を予定していたようですが、それを上回る約40名が参加され、関心の高さを感じたところです。
 
説明会ではまず、新設したガイダンス施設の展示パネルをもとに、水戸天狗党の挙兵から降伏、敦賀での処刑、墓地造営と慰霊に至るまで、文化振興課の中野学芸員に分かりやすく説明いただきました。
 

【展示パネルの説明を聞く参加者】
 
その後は武田耕雲斎等墓の墳墓周り、移築された水戸烈士記念館(鰊蔵)内を見学。
 
なお、寛文10(1670)年に建てられた鰊蔵(にしんぐら)は、江戸時代に船町(現在の蓬莱町)にあった港湾倉庫で、敦賀港が発展してきた中、幕末に水戸天狗党を幽閉した歴史的事件の舞台となったことで取り壊しを逸れ、今も保存される建造物(令和2年に敦賀市文化財指定)。
 
修復を終えた蔵の中に入ると、天井に張られた竹は一部を除き、江戸時代からのものを再使用したことや、実用性のある倉庫であったことから柱も継ぎ当てて使われていたことなど、建造物としての特徴をご説明いただきましたが、武田耕雲斎先生以下、水戸烈士たちがここで過酷な環境で幽閉された史実を思い返した次第です。
 
なお、鰊蔵は常時開放ではないものの、ガイダンス施設の説明パネルはいつでもご覧になれますので、とりわけ市民の皆様方には是非ご覧いただきたく。
 
今後またお時間のある時に「史跡武田耕雲斎等墓」に足を運んでいただければ幸いです。
 

【鰊蔵の内部。志半ばで捉えられた烈士の思いを偲びました。】
 
続いて、午後2時からは敦賀市民歴史講座。
 
12時半頃から会場設営など準備をし参加者を待つと、次々と訪れ、こちらは定員100名のところ何と「95名」の参加。
 
午前中の現地説明会に参加されていた方もチラホラ見えましたが、やはり水戸天狗党の歴史に対する探究心の高さを感じたところです。
 

【満員の講座会場(市立図書館3階 研修室)】
 
水戸天狗党が筑波山で挙兵してから今年で160年を機に設定したこの回ですが、中央大学資料館事務室(法と正義の資料館・大学史資料館) 学芸員の岩立将史氏を講師にお迎えし、『水戸天狗党ーゆかりの地における慰霊・顕彰と評価一』をテーマに、水戸天狗党ゆかりの地における慰霊・頭彰を概観したうえで、各地域で出版された書籍などの叙述から天狗党の評価をご教授いただきました。
 
講演された内容は、以下4つの視点から。
 
1 水戸天狗党の軌跡を概観する
2 天狗党ゆかりの地における慰霊・顕彰を概観する
3 ゆかりの地における戦前の天狗党の評価を分析する
4 ゆかりの地における戦後の天狗党の評価を分析する
 
元治元(1864)年3月27日、常陸国筑波山において、水戸藩士藤田小四郎らが、幕府に攘夷実行(横浜鎖港)を促すことを目的に挙兵した以降、敦賀で幕府軍(加賀藩)に降伏するまでの過程は、以前にもご紹介しているため割愛しますが、当時の水戸藩で、反改革派の流れを組む門閥派は、改革派(尊攘派)を「成り上がり者が天狗になって威張る」という軽蔑の意味で「天狗党」と呼んだのに対し、尊攘派は、「天狗は義勇ないし正義の変え名である」と称して、自ら天狗であることを誇示したと、相反する考えがあったことを知りました。
 
また、「ゆかりの地における慰霊・顕彰」では、水戸市、下仁田市(群馬県)、下諏訪町(長野県)、飯田市(長野県)、敦賀市のそれぞれが、墓標や留跡碑の建立、祭りの開催などの行事を行なっていること。
 
「ゆかりの地における『戦前』と『戦後』の天狗党の評価を分析する」では、「戦前」が表現は異なるものの、各地域において天狗党=勤王(国家功労者)と評価している点が共通していること、(皇国史観の影響か)、「戦後」が茨城県や長野県、福井県において、天狗党の行動が明治維新の契機となった旨が述べられている点が共通しているとし、戦前から戦後にかけて、天狗党は「勤王(国家功労者)」から「明治維新の契機となった人々」と評価が変化している(好意的に捉えている点は共通か)との結びがありました。
 
なお、敦賀においては、元治2(1865)年2月に処刑された際に形成された「五塚」を、慶應2(1866)年頃には一所に集めて八間四方「墳塋」(ふんえい)したうえ、明治元(1868)年には、12間四面の方塚となり、墓石を建立しています。
 
さらに、明治2(1869)年7月、敦賀の真言宗行寿院峻山は水戸藩を通して太政官に天狗党の祭祀の許可を出願。
 
明治8年1月、松原神社創建と天狗党の祭祀が許可され、明治11年10月10日、祭粢料500円が滋賀県(当時の敦賀は滋賀県)に下賜されており、以降、例祭日である10月10日に連綿と「例大祭」を執り行ってきています。
 
このように、敦賀の人々が、水戸天狗党を「勤王」の「有為の士」、「義士」として敬意をもって祀ってこられたことを改めて認識した次第です。
 
あくまでも私見ですが、こうして対応されたことは、「義の武将」と称される敦賀城主「大谷吉継」公の思いや生き様が、敦賀の人々の心に宿っていたからではないか。
 
また、水戸天狗党に因む「人道の史実」は幕末から明治、大正、昭和と続く中で、ポーランド孤児やユダヤ難民を受け入れた「人道の港敦賀」につながったのではと考えるところです。
 
そうして思えば、吉継公、水戸天狗党、人道の港の歴史こそ、敦賀のアイデンティティを表すもの。
 
私も敦賀人の一人として、「義」の一文字を胸に刻む次第です。

筑波山での挙兵から160年 〜松原神社例大祭にて水戸烈士の遺徳を偲ぶ〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

毎年10月10日は、松原神社例大祭。
 
水戸烈士の遺徳を偲ぶ墓前祭であるこの例大祭に、今年は市議会副議長として参列いたしました。
 
「幕末の悲劇」とも称される「水戸天狗党」は、元治元(1864)年に藤田小四郎らを中心に筑波山で挙兵した後、京にいる一橋慶喜を頼り、朝廷に尊王攘夷を訴えようと約千名が行軍。
 
その年の12月、風雪の中、木ノ芽峠を越えて敦賀の新保村に着陣したものの、そこで幕府軍(加賀藩)に捕らえられた首領の武田耕雲斎先生、藤田小四郎ら天狗党は、船町(現蓬莱町)に所在した鰊蔵に収容された後、志半ばで非業の最後(処刑)を迎えるとの幕末の歴史。
 
水戸烈士が最後を遂げた敦賀の地においては、総大将の武田耕雲斎先生以下、烈士411柱の御霊を松原神社に祀り、長きにわたり連綿と敦賀水戸烈士遺徳顕彰会や市民の皆様の手によって守られ、顕彰されてきています。
 
なお、そうした関係から、水戸市と敦賀市は水戸烈士没後100年(1965)には姉妹都市となり、以降、相互交流が続けられているところですが、昨日は、水戸市をはじめ、常陸太田市、潮来市よりそれぞれ市長、議長を始め多くの関係者の皆様が参列のもと、厳粛な雰囲気のなか例大祭が執り行われ、遺徳を偲ぶとともに、安らかに眠られますよう祈りを捧げた次第です。
 
また、例大祭を終え、参列者一同で神社の向かいにある「武田耕雲斎等墓」(幕府が下した斬首刑により敦賀で命を落とした353名の名前が墓石に刻まれている)を参拝。
 
国を思う一心で行動を起こし、純粋な「誠」と「義」、まさに「散って燃ゆる」武士道を貫いた、耕雲斎先生らの墓前に静かに手を合わせました。
 

【墳墓に向かう参列者。左手に建つのは武田耕雲斎先生の銅像。命を賭して貫いた武士道ここにあり。】
 
筑波山での挙兵から今年は160年。
 
こうして例大祭を挙行いただきました敦賀水戸烈士遺徳顕正会の皆様に心より感謝申し上げるとともに、天狗党の歴史でつながる水戸市、常陸太田市、潮来市の皆様とはより関係性を深め、私たち世代、さらには次代へつないでいかねばと胸に誓った次第です。
 
結びに、160年の節目を機に、敦賀市では武田耕雲斎等墓、水戸烈士記念館(旧鯡蔵)の周辺整備を完了。
 
10月12日(土)午前中には、学芸員による現地解説会が開催されます。
 
また同日の午後2時からは、気比史学会 敦賀市民歴史講座(第4講)として、『水戸天狗党ーゆかりの地における慰霊・顕彰と評価一』と題した講座を開催します。
 
是非これらの行事に参加いただき、水戸烈士を偲ぶとともに、160年前の敦賀に思いを馳せていただければ幸いに存じます。
 

【広報つるが(令和6年10月号)より抜粋】
 
<参考>
水戸天狗党を取り上げた、過去の「やまたけブログ」(3件)をご紹介いたしますので、以下リンクよりご覧ください。
 →①天狗党の志士に思いを馳せる(2019年11月3日ブログ)
 →②幕末の悲劇「天狗党」〜武田耕雲斎からの手紙〜(2021年7月10日ブログ)
 →③水戸「弘道館」で幕末の歴史に思いを馳せる(2023年8月7日ブログ)

「SLを磨こう!」に参加 〜C58-212の栄光と皆さまの善意を讃える〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

気持ちの良い秋晴れとなった昨日、大型観光企画「北陸デスティネーションキャンペーン」に合わせ、12月22日までの土日に運行するJR西日本の観光列車「はなあかり」の運行が、敦賀―城崎温泉(兵庫県豊岡市)間で始まりました。
 
黒褐色の車体に金色で草花文様が描かれたデザインの「はなあかり」は、内装に越前和紙など各地の工芸品が随所に飾られる豪華仕様。
 
敦賀駅で開かれた出発式には、豪華な車両を一目見ようと、多くの鉄道ファンらが詰めかけたようですが、10月分の切符は完売とのこと。
 
はなあかりが走るJR小浜線は、全通から間もなく102年を迎えます。
 
こうした企画を契機に、鉄道でもつながる福井県嶺南地域に多くの方が訪れることを期待する次第です。
 
さて、鉄道つながりで、昨日は「敦賀・鉄道と港」まちづくり実行委員会が主催する「SLを磨こう!」(SL清掃活動)に参加してきました。
 
この実行委員会に、自身が所属する気比史学会も参画していることから、昨年に続き参加したところですが、本町第3公園に保存されている蒸気機関車「C58-212」(昭和15年製造)は「鉄道のまち」敦賀を感じる鉄道遺産のひとつ。
 
昭和46年9月まで、小浜線で活躍していたこの機関車は、同線の無煙化に伴い引退になったことを機に、国鉄(当時)当局のご厚意により敦賀市に貸与され、子ども達の生きた教材として展示されることになったもの。
 
なお、この公園までは敦賀ライオンズクラブのご奉仕によって運搬され、昭和47年4月から展示。
 
私が生まれたのが昭和47年2月ですので、52年もの間、丁寧に保存されていることとなります。
 
こうした経過から、本町第3公園は市民から親しみを込めて、「SL公園」と呼ばれている訳ですが、昨日の清掃活動には、実行委員会に所属する各団体やスポーツ少年団(剣道関係)の子ども達らが集い、約1時間半、高圧洗浄機やブラシを用いて埃を洗い流し、周辺の草むしりを行うなど、それぞれが汗を流しました。
 


【清掃風景。子ども達も一生懸命磨いていました。】
 
また、子ども達の何人かは機関室に入り、詳しい方に説明を受けるなど、良い経験になったのではと感じました。
 
私も昨年参加した際、SL(C57とD51)を運転していたという国鉄OBの方とお話しする機会を得、蒸気機関車の構造や仕組み、当時の情景さながら、前が見にくい恐ろしさやスピードコントロールの難しさなど、大変貴重なお話しを伺ったことを思い返しましたが、最も印象に残っているのは、機関士の士は、武士の「士」だと仰っていたこと。
 
70℃にも上る機関室内で、まさに命懸けで運転に臨んでいた機関士の、使命感や心意気を改めて感じた次第です。
 
SLを囲むフェンスにある看板の結びにはこうあります。
 
「C58-212の栄光と皆さまの善意を讃え、市民こぞって感謝しながら永く大切に保存することにご協力をお願いします。」
 
製造された昭和15(1940)年から数えて84年。
 
この言葉を思いながら、「鉄道と港のまち」のシンボルでもある機関車を、また来年も磨き上げたいと思います。
 

【「C58-212」。84年を経てもその勇姿は変わらず。】

関ヶ原合戦から425年 〜義の武将 大谷吉継公を偲ぶ〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

プロ野球セ・リーグが面白い。
 
青木宣親選手の引退発表に奮起したかのヤクルトが、昨日は村上宗隆選手の特大ホームランなどで首位巨人に快勝。
 
また、阪神が広島にサヨナラ勝ちし、元々首位だった広島はこれで6連敗。
 
首位から3位まで4ゲーム、4位DeNAを含めても5ゲーム差と、残り20試合を切る中で激戦の様相を呈しており、ペナントレースを制する「天下分け目」の戦いがいつになるか、そしてできれば贔屓のチームが2年連続の「ARE」を決めてもらいたいと願う次第です。
 
さて、本題に結びつけるかの前置きで恐縮ですが、天下分け目の戦いといえば、1600年の「関ヶ原合戦」。
 
今日は、その合戦の日から425年にあたります。
 
敦賀と関ヶ原合戦の関係では、敦賀城主で「義の武将」と呼ばれる、我らが大谷吉継公。
 
吉継公は、幼少期から秀吉のもとで石田三成、加藤清正らと競い合いながら成長したと言われ、本能寺の変ののち、秀吉が天下人となると、吉継は優秀な実務官僚として豊臣政権を支えました。
 
1585(天正13)年に秀吉が関白となり、吉継公も刑部少輔(ぎょうぶのしょうゆう)に任じられたことが、「大谷刑部」と呼ばれる由縁ですが、敦賀城主として、1589(天正17)年に敦賀の領主となり、敦賀を「城のある港湾都市」に作り変えたことにより、敦賀は京都・大坂に物資を供給し、朝鮮出兵など戦争の折には兵粮、船、操船者を整える拠点としても機能することになります。
 
つまりは、江戸時代の敦賀湊の繁栄の基礎は吉継の時代に作られたといえます。
 
この後は、ご存知のとおり、秀吉が没すると、次第に徳川家康が政治の中心となり、これに抵抗した石田三成に、劣勢と知りつつも「義を貫き」、味方して戦った関ヶ原合戦(1600年/慶長5)で敗れ、吉継は自刃します。
 
なお、合戦で敗れた武将は数多かれど、戦地で自刃したのは吉継のみであったと言われており、最後の最後まで己の信念を貫いた生き様であったことが分かります。
 

【敦賀市立博物館所蔵「関ヶ原合戦図屏風」(せきがはらかっせんずびょうぶ) ※大谷吉継陣を示すため、やまたけにて一部加工】
 
(参考)合戦図の解説
安政元(1854)年 菊池容斎(狩野派)作。主に右隻は西軍、左隻は主に東軍の陣を配しているが、敦賀城主・大谷吉継は右隻中央に頭巾姿で表されている(黄色線の丸囲み)。金箔地に極彩色を施し、金砂子を蒔くなど、重厚で華麗な作品に仕上げられている。
 
敦賀市立博物館 所蔵品データベースでは、同図を拡大して見れますので、以下リンクよりご覧ください。
 
 →敦賀市立博物館 所蔵品データベース「関ヶ原合戦図屏風」はこちら
 
契りあれば 六つのちまたに 待てしばし
遅れ先だつ ことはありとも
 
実は昨年もこの日のブログで紹介したのですが、これは関ヶ原の合戦において、家臣 平塚為広が「お先に敵陣に突入します」と、大将大谷吉継に書き添えて送った死別の歌に対し、吉継公が使者に手渡した返歌。
 
いわば、吉継公の辞世の句ですが、句の大意は「為広殿は武勇も和歌も感じるに余りある御仁である。わしも早々にあの世で逢おうぞ」とあり、同じく吉継公も既に、死を覚悟していたことが分かります。
 
家康が天下を納めた後、敦賀城は1615(元和元)年の一国一城令で廃城となりますが、吉継公の義の心と、武士道の精神は今なお人々に受け継がれています。
 
関ヶ原合戦から425年。
 
敦賀城主 大谷吉継公が残した功績への感謝と誇らしき生き様を偲び、心より供養の念をお送りする次第です。

足利一門桃井氏について ー越前・若狭に残された足跡ー

ブログ 敦賀の歴史・文化

今朝はそうでもありませんでしたが、寒暖の差があった昨日は、早朝に草木の先や花、車の窓ガラスに露がついていました。
 
季節は進み、二十四節気では今日から「白露(はくろ)」。
 
前述のとおり、露が結び、白く光って見えるという時季で、秋分の前日9月21日(土)まで。
 
日中はまだまだ暑い日がありますが、どこか涼しげな、節気の文字を思い浮かべてみるのも良いのではないでしょうか。
 
さて、そのような季節の変わり目の昨日は、気比史学会が主催する「第40期 敦賀市民歴史講座(第3講)」を市立図書館3階研修室にて開催。
 
桃井(もものい)氏研究の第一人者である松山充宏先生(射水市新湊博物館学芸係長)をお招きし、「足利一門桃井氏について ー越前・若狭に残された足跡ー」をテーマにお話しいただきました。
 
会場には約65名の聴講者にお集まりいただきましたが、YouTubeなどでも人気の先生とあって、遠くは長野や大阪からも遠征して来られた方もおられ、関心の高さを感じた次第です。
 

【他府県からの遠征もいただき開催された市民歴史講座】
 
時は南北朝時代、講座のメインで登場する「桃井直常(ただつね)」は、松山先生の著書によれば『鬼神の如き堅忍不抜の勇将』と称するほどで、節義を通した人格や求心力をもって、「※観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」をはじめ様々な合戦で活躍。
 
桃井直常ら本宗家のみならず、桃井氏は東北から九州まで足跡を残した姿から、神出鬼没の一族とも言われています。
 
※観応の擾乱
室町幕府草創期の南北朝時代、日本史上最大の兄弟争いと言われる。室町幕府初代将軍「足利尊氏」・重臣「高師直(こうのもろなお)」が、足利尊氏の弟「足利直義(ただよし)」と争った内乱。この兄弟争いは室町幕府を二分し、日本全土を巻き込む争いへと発展。はじめは力を合わせて幕政の安定を目指した兄弟は、泥沼の戦いの末に足利直義の死という悲劇的な結末を迎えます。また、観応の擾乱は、南北朝の動乱を長引かせる要因にもなりました。
 
なお、松山先生が高校生時代から研究してきた、一族の動向・史跡・伝承までを網羅した桃井一族の伝記の決定版でもある著書は以下掲載の通りですので、ぜひご覧になっていただければと存じます(市立図書館にも1冊あります)。
 

【松山先生著『桃井直常とその一族』】
 
本家の足利尊氏に従い、鎌倉幕府滅亡以降続く争乱に参戦した桃井直常は、越中・若狭・伊賀守護を歴任し、引付頭人にも抜擢され室町幕府を支え、「観応の擾乱」が勃発すると足利直義の強力な与党として、北陸から京都・関東を縦横無尽に駆け二度も将軍を京都から追放した猛将として知られる訳ですが、時には幕府、時には反幕府方として、全国各地で活躍した直信・直弘・盛義ら多士済々の一族たち。
 
越前・若狭との関係では、幕府が直常を若狭守護に補任された際には、太良荘に禁制発給、明通寺(小浜市)に礼状送付したことや、敦賀では、金ヶ崎城に立てこもっていた南朝軍が、麓の敦賀津に陣を設けた際、直常の軍勢が攻め寄せ、南朝軍を金ヶ崎城に撤退させたとあります。
 
また、桃井一族で越前田中荘に生まれた桃井直詮(なおあきら)は、中世芸能「幸若舞(こうわかまい)」宗家である「幸若家」の祖とされ、幸若家の一流が敦賀に住み、屋敷跡は今も「幸若遺跡庭園」として残されていることも紹介されました。
 
「幸若舞」は、『人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり』の舞にあるよう、かの織田信長が愛したことでも有名で、そうした文化の足跡が敦賀にあったことを改めて学びました。
 
回遊式の築山林泉庭園である遺跡庭園は現在、三島の天理教にあり、敦賀市指定名勝ともなっていますので、機会あらば足を運んでいただければと。
 
さらに、越前との関係では、江戸時代末に越前福井松平家に仕えた橋本左内の肖像画に、桃井氏の家紋「五七の桐」が入っていることから、桃井直詮の子孫を称することなども紹介され、意外なつながりがあったことも学んだ次第です。
 
話しを「直常」に戻しますと、最後は越中(富山)で戦況不利となり、飛騨へ撤兵後、行方不明になったとあり、このことが『太平記』の締め括りになっているとも。
 
こうして、質疑を含めた2時間があっという間に過ぎてしまいましたが、激動の南北朝時代と、膨大な桃井一族の動向・史跡・伝承を軽快な語り口で、分かりやすく且つ丁寧にご講義いただきました松山先生に心より感謝申し上げます。
 
     
【熱のこもったご講演をいただいた松山先生】
 
結びに、先生がお勤めの旧新湊地域(越中:富山県)は、古代より氣比神宮を通じ、敦賀との関係が深いまち。
 
また、射水市新湊博物館に展示されている『高樹文庫』の所蔵品(敦賀湾と琵琶湖をつなぐ運河計画:疋田舟川の測量図等)を11月には敦賀市立博物館がお借りし展示されるともあり、今回の講座ならびに歴史を通じて、両市の関係がより深くなることを祈念する次第です。

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