ゴールデンウィークにめぐる「地域にある宝」

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暦通りでいけば、今日から5連休。
 
ブリッジホリデー(祝日と祝日の間の日に取得する休暇のこと)休暇を取得され、8連休、12連休という方もいらっしゃるかと思いますが、それぞれのゴールデンウィーク(GW)を有効活用され、リフレッシュいただければと思うところです。
 
さて、GWといえば毎年、行楽地に向かう車で渋滞する高速道路の様子や海外旅行に出かける空港の混雑具合などがニュースで流れるのが定番ですが、今年は少し様相が違うよう。
 
明治安田生命保険が、今年3月にインターネット上で行った調査で分かったのは、大型連休は「自宅で過ごす」人が多いこと。
 
調査は、全国の20歳から79歳の既婚男女1620人が回答し、4月末から5月初めの過ごし方についての質問に対し、「自宅で過ごす」が46.7%を占め、最多。
 
「海外旅行」を予定している人は1.2%にとどまり、「理想の連休」の過ごし方について「海外旅行」と答えた人(9.2%)の2割にも満たなかったとのこと。
 
調査ではこうした「理想と実際が違う理由」についても尋ねており、44.4%を占め1位となった「物価高騰」に続き、「円安などの為替の動向」(25.6%)、「航空券・燃油サーチャージの割高感」(24.1%)の順に高く、長引く物価高で海外旅行の断念を余儀なくされている実態が浮かんでいます。
 
また、予算に関しては「使う派」と「抑える派」の二極化がみられ、長引く物価高騰から、連休にも家計の「生活防衛意識」が見え隠れするとあり、このGWはまさに、世相を反映いているものと興味深く拝見した次第です。
 
なお、わが家では、子どもが小さい頃から「混雑」を避け、出掛けるとしても近場で済ませることが多かったため、上記の調査結果に違和感はない訳ですが、こうした心境からくる行動の変化が、少なからず経済活動にも影響するのだろうと推察するところ。
 
このような中、おすすめしたいのは「地元にある宝」をめぐってみては?ということ。
 
実は先日、国民民主党福井県連のタウンミーティングに県外から参加された方から、事前にリクエストされていたことは「金ヶ崎城跡に連れていって欲しい」ということ。
 
その方とは、以前からお付き合いがある「山ガール」ならぬ「山城ガール」(特に石垣が好き)ともうお一方、なんと鳥取県からお越しいただいた、その方のお知り合いの方(こちらも女性)。
 
このリクエストに応えねば!と、事前に一度足を運び、説明ポイントなどシュミレーションをし準備。
 
当日は、金前寺前の駐車場にて、ここ金ヶ崎では、南北朝時代と戦国時代に日本の歴史の転換点となる戦いがあったことを紹介した後、金崎宮から月見御殿、さらに本丸を守るために築かれた三つの木戸跡(一の木戸跡まで)までご案内。
 
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で登場した「金ヶ崎の退き口」の舞台となった場所であり、月見御殿からの眺望とともに、“目の肥えた”お二方にとっては、木戸跡に残る見事な堀切や竪堀に感激され、ご案内した甲斐があったと胸を撫で下ろしたところです。
 

【月見御殿より敦賀湾を望む二人】

【二人が興奮していた堀切(二の木戸だったか)】
 
駐車場に戻った際に、「山城ガール」が仰ったのは「これで1週間頑張れます!(笑)」。
 
このような言葉で表現される、心の栄養、養分になるコンテンツが地元にあると思えることが逆に、私にとっての喜びであり、リフレッシュの源になったところです。
 
こうした経験から、何が言いたいかといえば、遠くへ行かずとも、近場や地元にある歴史遺産や自然に足を運んでみることで、楽しめることが沢山あるのでは?ということ。
 
話は尽きませんが、今日からの5連休。
 
皆さまそれぞれ、ゆっくりとご自身の余暇時間をご活用いただければ幸いです。

4月29日は「吉継(よしつぐ)の日」

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各種団体等の事務局的役割を務めている方にとって、この時期は定期総会や大会に向けた準備に追われる“繁忙期”ではないでしょうか。
 
かくいう私もその一人であり、政治活動と並行して、政党や市民団体などの総会議案作成や段取りを進めていますが、ポジティブシンキングでいけば、ひとつ一つ節目をクリアしていくことは楽しくも達成感を感じるところ。
 
名は伏せますが、昨日はそのうちの1団体の役員会にて大会議案書(案)をご審議、ご承認いただき、ひとつ安堵。
 
いま何が欲しい?と問われれば、迷いなく「時間!」と答えたい気持ちですが、限られた24時間をどう使うかは自分次第。
 
自己マネジメントを楽しみながら、日々過ごしていきたいと思います。
 
さて、長い人では最大12連休にもなろうかという今年のゴールデンウィーク(GW)。
 
その皮切りは、本日の国民の祝日「昭和の日」からとなりますが、こちらは元々「天皇誕生日」であったもの。
 
内閣府ホームページ「国民の祝日」を拝見するに、祝日法は、半年以上に及ぶ国会での審議を経て、昭和23年7月5日に成立し、同年7月20日に公布・施行。
 
祝日法の制定時に「国民の祝日」とされたのは、元日(1月1日)、成人の日(1月15日)、春分の日(春分日)、天皇誕生日(4月29日)、憲法記念日(5月3日)、こどもの日(5月5日)、秋分の日(秋分日)、文化の日(11月3日)、勤労感謝の日(11月23日)で、この九つの日を選定したことについて、当時衆議院の小川半次文化委員長は、法案の提案理由説明の中で、「新憲法の趣旨に副(そ)うべきこと」及び「国民大衆をあげて容易に納得し、参加し得べきもの」の二つを基準としたと説明しています。
 
なお、その後、祝日法は主に議員立法による改正が重ねられ、七つの「国民の祝日」が順次追加されるなどした結果、今日では、計16日の「国民の祝日」が定められているとありました。
 
時を経て、「天皇誕生日」から「昭和の日」となった今日の祝日法における意味は、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」
 
「昭和100年」の節目を超え、今一度その意味の重みを感じる次第です。
 
また、こちらは“語呂合わせ”となりますが、「知る人ぞ知る」から「広く知ってもらいたい」との思いが募るのが、今日4月29日は「吉継(よしつぐ)の日」であるということ。
 
このブログで何度もご紹介している、最後の敦賀城主「大谷吉継」は、盟友石田三成とともに関ヶ原で戦い、悲運の死を遂げた「義の武将」として有名ですが、天正17(1589)年に敦賀の領主となった吉継は、敦賀を“城のある港湾都市”につくりかえ、これにより敦賀は京都・大坂に物資を供給し、朝鮮出兵など戦争のおりには兵粮、船、操船者を整える拠点としても機能することに。
 
江戸時代の敦賀湊の繁栄の基礎は、吉継の時代につくられたといえる、まさに、今の敦賀の礎をつくった偉大な人物なのであります。
 
ついては、語呂合わせとはいえ、この日を契機に、大谷吉継公のことをより多くの方に知っていただければと思うところですが、吉継ファンから親しまれる今日は、「つるがみなと山車(やま)会館」では、市内外の吉継キャラクターが大集合し、「吉継の日」を一緒に盛り上げてくれるとのこと。
 

【「吉継の日」チラシ(つるがみなと山車会館HPより引用)】
 
イベントの詳しくは、以下リンクよりご覧ください。
 
 →つるがみなと山車会館HP『2026年「吉継の日」特別企画「吉継大集合!山車会館でクイズラリ~」』はこちら
 
私もどこかの時間帯で山車会館に足を運んでみようと思っていますが、先の「昭和の日」の意味と掛ければ、「吉継の日」の今日は、
 
「激動の戦国時代を経て、発展を遂げた郷土の歴史を顧み、敦賀の将来に思いをいたす」
 
といった感じでしょうか。

戦国の世と日本史を動かした「金ヶ崎の退き口」

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昨晩、初回の放送を迎えたフジテレビの「月9」。
 
福井県内はもとより、大々的に全国的に宣伝されているため、皆さんご承知置きかと存じますが、「月9」の新クール「サバ缶、宇宙へ行く」は、宇宙食サバ缶を開発した福井県小浜市の若狭高を題材にしたもの。
 
ドラマでは、水産高の新米教師役を演じる主演が北村匠海さん、生徒役には出口夏希さんら、今をときめく俳優さん達が登場することもあって注目の的となっており、私も初回放送を拝見しましたが、美しい小浜の風景や行ったことのある場所も登場し、あらためて同じ福井県嶺南地方のまちが取り上げられたことを嬉しく思ったところです。
 
なお、福井新聞で先日紹介されていた記事によれば、この宇宙日本食「サバ醤油味付け缶詰」は、2006年、旧小浜水産高が米国航空宇宙局(NASA)などが考案した食品製造の衛生管理システム「HACCAP」(ハサップ)を取得したのを機に生徒らの発案で開発がスタート。
 
2013年4月に水産高が若狭高に統合後、同校海洋科学科が研究を引き継ぎ、2018年11月には、高校が開発した食品では全国で初めて宇宙航空研究開発機構(JAXA)の認証を受け、さらに2020年には、宇宙飛行士の野口聡一さんが国際宇宙ステーション(ISS)でサバ缶を食べる様子が動画配信されました。
 
なお、北村匠海さん演じる主人公のモデルになった小浜市の小坂康之教育長は、福井新聞のインタビューに「生徒の飽くなき探究心が教師や地域の人たちを巻き込み、サバ缶を宇宙食にするという夢を実現した。自分たちに湧いて出てくる思いを大切に、挑戦し続ければ夢はかなう、ということを多くの人に知ってもらいたい。子どもたちだけでなく、大人の可能性も無限大であるということも」と述べています。
 
小浜市の食文化や自然の美しさとともに、小坂教育長が仰ることがどう表現されていくのか、今後の放送が楽しみですね。
 
さて、負けてはいられないと、こちらはNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」(この日のタイトルは“絶体絶命”)で登場した敦賀が舞台となった「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」。
 
一昨日の放送に合わせ、敦賀市ではパブリック・ビューイングと歴史講座を行ったことまでは紹介したところですが、この歴史講座で講師を務めたのが、敦賀の市民歴史団体「気比史学会」理事の丸山哲士(さとし)さん。
 

【会場の松原公民館には多くの参加者。右奥でマイクを持つのが講師の丸山さん。】
 
大河ドラマ放送の前、午後7時から開催された講座ではまず、金ヶ崎での戦いに関しては、信長が野望を果たすために行われたと思われている方もいるかと存じますが、この戦いは「幕府軍としての連合軍」の戦いであり、幕府軍の戦いなので、「天下の乱れを鎮めるため」の戦いであったと説明。
 
その根拠は、信長自身が、大飯郡佐分利の石山城主・武藤友益の討伐のために出兵するとの書状を送っていることにあり、武藤は当時朝倉と連携していたため、朝倉を倒す必要があったとも。
 
また、軍勢に関しては、『敦賀市史』では10万8千人とあるものの、この人数を賄う兵糧(当時は玄米)を算定すると75万トンが必要であり、これは現実的ではない。
 
丸山氏としては、『言継卿記』に記される“3万人”が妥当の線ではないか。
 
続けて、わずか一日で落とされたとある手筒山城の戦いについては、南東側から攻撃されたというのが通説だが、東側の沼地(中池見側)から攻めたとする伝聞がある。
 
そして、注目の浅井長政が裏切った(突然の謀反)理由については、信長と父の関係で板挟みになったというのが、これも通説にあるが、史料によれば、長政は武将ではなく、信長からも朝倉からも“家来”として見られており、金ヶ崎の地で朝倉の軍勢1万と自軍の5千により南北から挟み撃ちすれば、信長の首が取れるとの誘惑に勝てなかったのでは?と。
 
こうした丸山さんの話を大変興味深く拝聴し、信長、朝倉、そして浅井三者の思惑に思いを馳せるとともに、戦国の世の情景が浮かんだ次第です。
 
そして、昨日もご紹介したとおり、金ヶ崎の地に集ったのは、信長に木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)、徳川家康、明智十兵衛(後の光秀)の戦国時代4英傑。
 
お市の方が信長に送ったとされる“小豆袋”(史料にはない)により挟み撃ちに気づき、信長は撤退を決めるも、この時殿(しんがり)を務めた藤吉郎の功績が認められ、後の天下取りにつながったことを思えば、まさに戦国時代の、いや日本の歴史上、重要なポイントがここ敦賀であったと言えます。
 
講座の後は、丸山さんのお話と重ね合わせながらドラマを鑑賞。
 
金ヶ崎での戦いの描写はもとより、信長勢が京に戻ってからの家康、光秀の動向に「なるほど」と頷いたところ。
 
こうしてパブリック・ビューイングと歴史講座を大いに楽しんだところであり、やはり敦賀の歴史は深くも面白い。
 
企画・準備から、この日も遅くまで対応された市職員の皆さんに感謝するとともに、気比史学会として役割を果たしていただいた丸山さんに敬意を表する次第です。
 
「サバ缶」に張り合って?、今日は代表的な敦賀の歴史をご紹介しましたが、ぜひ地域史の探究を楽しくやりたいという方がいらっしゃいましたら、私まで連絡いただけますようお願いいたします(気比史学会では、絶賛会員募集中ですので)。
 
※参考まで、金ヶ崎の戦いを含む「元亀争乱」に関しては、450年を迎えた2020年に、気比史学会が市民歴史講座で取り上げています。
ついては、その際に報告として記載したブログを2件(①美浜の国吉城、②浅井と③朝倉の三者からの視点)を以下にリンクしますので、関心のある方はぜひご覧ください。
 
 →①2020年9月20日ブログ『通説から新設へ、やっぱり歴史は面白い』
 
 →②2020年11月29日『市民歴史講座第3講「近江の元亀争乱」』
 
 →③2020年12月20日ブログ『文化と歴史をつなぐ大切さ 〜今年度の市民歴史講座を終えて』

桜の開花と時を同じくして始まる「花換まつり」

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昨日の敦賀の最高気温は15.4℃、風は北北東からでまだ肌寒いといったところ。
 
気になる“桜”に関しては、同じく27日の午前10時すぎに、福井市豊島にある福井地方気象台で行われた桜の開花状況の確認で「まだ一輪も開花していない状況」とのこと。
 
気象台の構内にある、標本木のソメイヨシノが5~6輪咲くと「開花宣言」とのことでしたが、この日はゼロということで発表はお預けとなりました。
 
なお、世の中にはいろんな「法則」がありますが、「600度の法則」というものがあるようで。
 
桜に関しては、2月1日以降の毎日の最高気温の合計が600度に達する頃に開花すると言われているとあり、これに当てはめると、福井市では26日までの合計が599度で、27日の最高気温を足すと616度となり、もういつ咲いてもおかしくない状況とのこと。
 
ネットニュースからの「にわか知識」ではありますが、敦賀も今日からは20℃超えの気温が続くようで、いよいよ待ちに待った「春本番」かと。
 
そして、春、桜といえば「金崎宮」。
 
海 山 港そして歴史の街
海と山に囲まれた
風光明媚な敦賀は
日本の歴史にいく度も登場する
その街の東北に鎮座する社
 
これは、金崎宮公式サイトのトップページにある言葉ですが、まさに古より、交通の要衝として発展してきた敦賀を象徴する社であり、もう一方で有名なのは「縁結び神社」であること。
 
 →恋の宮「金崎宮」公式サイトはこちら
 
金崎宮は「恋の宮」とも呼ばれ、これを体現する「花換まつり」が本日28日からはじまります。
 
昨日は夕方に少し空き時間があったため、金崎宮の様子を見に行くと、“主役の桜”はまだ「つぼみ」といった感じでしたが、階段や境内にはボンボリやのぼり旗が設置され準備万端といったところ。
 

【多くの来訪者を待つ金崎宮(登り口)】
 
また、「花換まつり」を特集する港都つるが観光協会のホームページを拝見すると、
 
 『明治に芽吹き、大正に花開く 今、あなたの恋物語が花開く』
 
と、何ともロマンチックなキャッチフレーズがならぶとともに、次のように説明されています。
 
花換祭は良縁祈願の祭として明治40年代から始まったと伝わっております。その始まりから数年後の大正初めには今の祭の形が出来上がったと言われております。百有余年の歴史の中で様々な縁を結んできた花換祭は、今年も皆様それぞれの恋物語が花開くことを応援いたします・・・。また現在では「花換まつり」として良縁祈願だけでなく、心眼成就のお祭りとして毎年、金崎宮は桜で染まる4月に開催されるようになりました。
 

【2026「花換まつり」の案内チラシ】
 
なお、期間中開催されるイベントやキッチンカー出店など詳しくは、以下の同協会ホームページをご覧ください。
 
 →「花換まつり」特集ページはこちら
 
今年の「花換まつり」は4月7日(火)まで。
 
ちょうどこれから咲き始めるタイミングと週末が重なることに加え、夜はライトアップもされますので、ぜひ足を運んでいただければ幸いです。
 
また敦賀市では、金崎宮の眼下に広がるエリアを「(仮称)敦賀みなと公園」として整備することとしており、今後工事が進められることから、今の風景が見られるのは今年が最後となります。
 

【昨日撮影した金崎宮階段からの風景】
 
南北朝や戦国時代にあった歴史的な戦いをはじめ、名だたる武将や明治期以降はここから欧州へ渡った、多くの人物が見下ろしたであろう金ヶ崎エリアと敦賀湾。
 
今後のさらなる発展に期待をしつつ、今日は私も足を運びたいと思います。

「敦賀ちえなみき大学」が開講 〜「時代と時間」がワープする一日〜   

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開業以来、市内外から多くの来館者でにぎわう敦賀駅西の知育・啓発施設「ちえなみき」。
 
「本屋でも図書館でもない」この空間と存在を、私自身も利用する中で、すっかり自慢の場所に思うところ。
 
なお、「ちえなみき」に関しては、2025年3月21日に開催された「第2回敦賀まちづくりシンポジウム」での『地域の「知のインフラ」をイノベーションする』をテーマにて、この施設が持つ、今後のまちづくりに生かす意味においてのポテンシャルや可能性を大いに感じたところ。
 
シンポジウムで何度も出てきた、“ちえなみき的な”発想や考え方に私自身共感しましたので、ご参考まで過去ブログをご覧いただければと思います。
 
→2025年3月21日ブログ『地域の「知のインフラ」をイノベーションする」はこちら
 
それからちょうど1年が経過した昨日、「ちえなみき」では新たな取り組みが始まりました。
 
取り組みとは、その名も「敦賀ちえなみき大学 -Active Knowledge Commons-」。
 
敦賀市と大日本印刷株式会社及び丸善雄松堂株式会社は、地域の歴史や文化情報の活用による多面的なまちづくりの包括的地域連携協定を本年2月に締結し、取り組みを進めるところ。
 
丸善雄松堂ではその一環として、編集工学研究所と連携のもと、“地域に潜在する知の発掘と共有を行う”ことで、学びを通じて人がつながり、地域内で経済と文化が循環する新しい知の社会インフラを作り出そうと開講されたもの。
 
こう書くと難しく感じると思いますが、「ちえなみき」のホームページに分かりやすく紹介されていました。
 
<ちえなみきHPでの大学紹介>
 
一人ひとりがキャリアや経験の中で
積み上げた知を埋もれさせず
次の誰かに伝える講義を行います。
講師も聴講者(生徒)も地域の皆さんです。
互いに教え合う、まなび合う場を仕組化することで、
誰もが地域社会に貢献するとともに、
健康で活き活きと自己実現ができる場を創ります
 
実は昨年8月末頃、こうした企画を立ち上げていきたいとの話を伺っており、多世代が交じり合う、まさに「知の社会インフラ」につながるものと応援していたところ。
 
14時からの記念すべき開講式では、米澤敦賀市長のご挨拶に続き、主催者からの趣旨説明では、「ちえなみき」の“これまで”と“これから”についてお話あり。
 
会場のちえなみき2階のスタディ&セミナーエリアがほぼ埋まる参加があり、盛大に開催されました。
 

【開講式の様子】
 
その後、第1回の講師には、敦賀市出身でアーティスト、クリエイティブディレクターとしてご活躍されている「ハシモトタカヒサ」さんが登壇され、「パーソナリティーとアイデアの作り方」について講義いただきました。
 
誠に残念ながら、私は予定により、講義後のワークショップ前に中座いたしましたが、「世界はコンセプトでできている」との言葉に始まり、
◉コンセプト=ものごとを貫く観点
◉コンセプトを作ることは、新たな意味を創造すること(ビートルズ、史上初のコンセプトアルバム)
◉「なんのために存在するのか」、今なにを買うのかの前に「なぜ買うのか」の視点が大事
 →スターバックス=家と会社の間にあるくつろげる場所(サードプレイス:第3の場所)
 →エア・ビーアンドビー(世界の民泊ブームの先駆け)=世界中を自分の居場所にする
 →ディズニーランド=気持ちよくなる魔法をかける
◉コンセプトの役割とは、判断基準、一貫性を与える、対価の理由になる → 価値の設計図
◉コンセプトのつくり方
 →step1 現状認識する
 →step2 洞察する(消費者が言っていることではなく、実際にやっていることや隠している感情を観察する)
 →step3 発見する(発見のヒント「動詞を攻略する」)
 →step4 言語化する(いいコンセプトは1行にできる)
◉パーソナリティ(個性)とは、もし人間だったらどんな性格か
◉「なんかいいよね」を形容詞で表現する
 ①誠実・親しみやすさ
 ②刺激・ワクワク感
 ③有能・頼もしさ
 ④洗練・上品さ
 ⑤逞しさ・力強さ
◉パーソナリティ→世界観ができる→伝わりやすくなる
◉発想の飛躍は、ひとりの閃(ひらめ)きから
 
さすが、こうした考えを実践されているハシモト講師とあって、選択する言葉と考え方は大変勉強になりました。
 
こうして開講された「ちえなみき大学」。
 
先のちえなみきHPにあったのは、「次の誰かに伝える講義を行います。講師も聴講者(生徒)も地域の皆さんです。」
 
ジャンルは問わないということですので、皆さまがお持ちの「知」をお伝えいただければ幸いです。
 
※講師に手を挙げていただいた方には、講師を証明する「名刺」がプレゼントされるとのことです。
 
その後、向かったのはプラザ萬象。
 
大学を中座したのは、小ホールで開催の「第44回考古学研究会東海例会」で発表される、越前南部・若狭地域のパート、とりわけ敦賀市の奥村香子学芸員の『敦賀の古代遺跡調査 その現状と課題』をどうしても聞きたかったからでありますが、途中入場するとこちらも盛況。
 
考古学者たちの熱気を感じた次第です。
 

【会場のプラザ萬象小ホールの様子(講演者は奥村学芸員)】
 
奥村学芸員からは、敦賀が古来より海陸の要衝であったことから、古代三関の一つ「愛発関」や渤海使を迎えた「松原客館」、藤原武智麻呂が建立した「気比神宮寺」などが文献等から古代敦賀に存在したと推定される諸施設とあるものの、現在発掘等によって所在地が明らかになっているものは一つもなく、敦賀の古代の状況は謎に包まれているといってよいとの言葉に始まり、結びには、調査・研究を進めるにおいて、敦賀の古代を考える上でのキーワードは、①越前国と気比社の二重権力、②製塩 であるとの話がありました。
 
発表の詳細は割愛いたしますが、古代ロマンに思いを馳せつつ、何とか「敦賀の謎」を発掘できないものかと、大変興味深く拝聴した次第です。
 
プラザ萬象では、お隣の大ホールでは「第2回 ご当地ロボコン全国大会」が開催されており、大人から子どもまで、多数のプログラミングブースなど、こちらも熱気に包まれていました。
 
「知のインフラ」にはじまり、「古代」と「デジタル」が隣り合わせという、どこか「時代と時間」がワープするような、そんな一日となりました。
 

【ご参考まで、ロボコン会場も添付します】

都怒我・角鹿・敦賀の地名の謎に迫る

ブログ 敦賀の歴史・文化

今朝の福井新聞にはやや残念な記事。
 
毎年1月の第3日曜に開催される、敦賀の冬の風物詩で国指定重要無形民俗文化財となっている「夷子(えびす)大黒綱引き」について、運営団体の「敦賀西町の綱引き伝承協議会」は来年の開催見送りを決めたとのこと。
 
夷子大黒綱引きは相生町内の「西町」で400年以上続く伝統行事で、漁業関係者の「夷子方」と農業関係者の「大黒方」に加えて見物客も綱を引き合い、夷子方が勝てば豊漁、大黒方が勝てば豊作とされ、当日は多くの観客も集まり賑わうところ。
 
見送りの理由は、大綱作りや運営に必要な協賛金集めに当たる人手の確保が困難なためとありましたが、伝承協議会の事務局長さんからは無念とお詫びの言葉に続き、「貴重な敦賀の文化財を守りたいという気持ちは我々としては強いので、地元西町の皆さんはじめ関係者とともに継承の仕方や運営体制を考えていきたい」とありました。
 
敦賀のこうした伝統行事を守っていただいていることに感謝申し上げた上で、地元や協議会にすべてを委ねるのではなく、地域を問わず市民皆でつないでいくことが必要な時代になっていることから、自らが協力することも踏まえつつ、再来年の再開を切に願う次第です。
 
さて、文化や歴史に関する話題を続けますが、自身が所属する気比史学会では、基本月1回、知育・啓発施設「ちえなみき」の2階をお借りしての「ミニ歴史講座」を開催しています。
 
直近では、11月30日(日)に開催しており、その際はテーマを『記紀の世界と敦賀』、『都怒我(つぬが)・角鹿(つのが)・敦賀(つるが)の地名の謎に迫る』をサブタイトルに学んだところです。
 

【ちえなみき2階のディスプレイに表示した当日の資料表紙。写真は、敦賀駅前に立つ“都怒我阿羅斯等像”】
 
まず、敦賀の地名の由来については、敦賀市ホームページに掲載の「市の紹介(あゆみ)」にこう書かれています。
 
“敦賀の地名の由来にはいくつかありますが、『日本書紀』には、崇神天皇の時代に朝鮮半島から「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」がこの地に渡来したことにちなんで「角鹿」と呼ばれるようになったとあります。必ずしも史実かどうかはわかりませんが、古くからの大陸との関わりを思わせる、興味深い説話です。”
 
なお、「敦賀」という字に改められたのは和銅6(713)年。
 
“必ずしも史実かどうかはわかりませんが”とあるのがポイントであり、講座では、役員でもある発表者より、古事記や日本書紀、敦賀市史などを丁寧に読み解いた上で、〝都怒我阿羅斯等は個人名ではなく称号であることから、地名の由来としては不自然”と指摘(実は、敦賀市史にも同様の趣旨の指摘があります)。
 
「角鹿」の由来について、古事記にある異説や別の地形説(敦賀半島が角のように見える)もご紹介されつつ、ご自身の見解として「新説」を述べられるなど、大変興味深くも探究心高まるお話をお伺いすることができました。
 
※「新説」は説得力のあるものであり発表したいところですが、ご本人の了承を得ていないのでここでは差し控えます。
 
他の参加者と一緒に、私も興味津々で拝聴した訳ですが、古事記には、「(要約)気比大神が皇子(応神天皇)に与えたイルカの血が臭かったので血浦(ちぬら)と名づけ、それが角鹿になったとの記述もある」とのこと。
 
こうして地名ひとつとっても奥が深く、諸説あるところを探究していくことがまた、地域史の再発見、深掘りになった次第であり、今後も楽しみながら学んでいければと思います。
 
なお、講座の概要は、気比史学会のFacebookにも投稿されていましたが、多仁照廣先生からは次のようなコメントがありました。
 
(以下、多仁先生コメント)
敦賀の地名についての検討視覚で欠けているのが「鶴賀」です。鶴を獲って朝廷に献上する場所から鶴賀といわれ、美称にするのに敦賀としたと考えることも必要です。ラクーン(潟)が広がりそこには丹頂鶴が飛来していたことが考えられます。舞鶴市の鶴賀はそうです。醍醐寺文書に敦賀から鶴が献上された文書があります。もっとも文書名は忘れましたが。
 
これに別の方からは、「敦賀の地名語源に丹頂鶴は関係ないでしょう。語源説にもなりません。」などと反論のコメントあり。
 
専門家でも意見の分かれる「敦賀の地名の由来」。
 
多説あったほうが面白いと思うのは、私のような素人の考えか。
 
いずれにしても、次の「敦賀市史」改定の際には、大議論になりそうです。
 

【会場の「ちえなみき」。冬に暖色カラーであたたかみを感じました。】

「敦賀市民文化祭」と「氣比の杜整備構想市民ワークショップ」

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文化芸術に触れ、心満たされる。
 
昨日は11月6日(木)から開催の「敦賀市民文化祭」(敦賀市文化協会・敦賀市教育委員会主催)総合展示が最終日ということで、見逃すまいと鑑賞してまいりました。
 

【会場のプラザ萬象入口】
 
会場のプラザ萬象では、大ホールにて写真や絵画、水墨画、書道、工芸、俳句など、小ホールでは小中高生が描いたポスター原画と、いずれも力作ばかり。
 

【作者の思いがこもった力作はすべて見どころ】
 
ジャンルを問わずじっくりと鑑賞した中に、先輩や知人の作品も多く展示されていましたが、こちらは工芸(漆塗)の分野で、現代の名工に学び、全国レベルの賞を数々受賞されている浅賀貴宏さんの作品とともに、敦賀で立ち上げた「敦賀工藝鹿鳴会」の紹介もあり、鑑賞を通してエールを送ったところです。
 


【浅賀さんの作品(上)と「鹿鳴会」の紹介】
 
また、多目的室(市民ギャラリー)では、創作の部として、市内で活動する「hari hari warks(ハリハリワークス)」さんの作品を鑑賞。
 
手芸にフラワーアレンジメント、ワイヤーアート、押し花、水引など、こちらはよくもまあこんな細かい仕事ができるものだと、感嘆の声を挙げながら見て回ったところですが、なんと知人のご姉妹が、水引・つまみ細工の技術で国際平和美術展に出展されるなど、世界的な評価をされていることを知り、その方から直接じっくりお話しを伺うことができた次第です。
 

【水引とつまみ細工で作ったRaruraさんの作品(同じものが国際平和美術展に出展)】
 
こうして気づけば、1時間半ほど鑑賞した訳ですが、冒頭で述べたとおり、文化芸術に触れることは心癒され幸せな気持ち、そして力をもらったところ。
 
「心をつなぐ 世代をつなぐ 文化のちから」の基に伝統文化の継承と発展に取り組むことはもとより、新しい流れにも目を向けながら、文化でつながる親しみのある町へ会員一同で取り組んでいただいている敦賀市文化協会様に敬意を表するとともに、こうした場を提供いただいたことに感謝申し上げる次第です。
 
その後は、北公民館で開催の「氣比の杜整備構想(けひのもり)市民ワークショップ(WS)」へ。
 
氣比の杜整備構想に関しては、これを調査・検討する委託業務「氣比神宮周辺公有地等の利活用方策検討調査業務」の仕様書を見るに、「本業務は、本市の歴史と文化の中心である氣比神宮の周辺公有地等の利活用について、上位・関連計画の整理や市民意識調査などを実施し、得られた情報の整理・分析を行った上で、氣比神宮エリア一帯の魅力をさらに高める「氣比の杜」構想のコンセプト策定及び望ましい導入機能を検討し、利活用方策をとりまとめることを目的とする。」とされており、その一環として、昨日の市民WSも開催されているところ。
 
既に第1回目のWSは10月12日(日)に同じく北公民館で開催されており、2回目の昨日、傍聴に参加した訳ですが、北地区を中心に参加されている皆さんは、高校生から現役世代、ご高齢の方まで、まさに老若男女が集い、どこかアットホームな雰囲気を感じた次第です。
 

【市民WS会場の様子】
 
市のホームページによれば、このWSは、世代を問わず地域で生活するさまざまな方の意見を聞いて、今後のまちづくりに活かすために実施しており、「将来このような場所になったらいいな!」「こんな活動ができる空間がほしいな…」 などの思いやアイデアについて出し合い、今後の“氣比の杜整備構想”の検討に反映していくとあります。
 
昨日のWSでも、自分たちが欲しいもの、観光客目線ではどうかなどが話し合われ、様々なご意見があったところ。
 
ワークショップは全3回開催する予定であり、次回は11月30日(日)。
 
3回では少ないのではないかとの思いはあるものの、こうした機会を通して、氣比神宮やその周辺の現状や課題、将来のあり方などを地域住民自らが考えることには、大いに意味があると思うところであり、注視していく所存です。
 
今朝は時間がなく、この後追記するかもしれませんが、一旦これまでに。。。

文化的、政治的、芸術的側面から、世界と日本をつないだ「敦賀」は特別な存在であり

ブログ 敦賀の歴史・文化

「人が一番の宝」
 
「自分で自分を知るということは意外に難しい」
 
講演会の冒頭にあった、小倉和夫氏からの二つのキーワード。
 
昨日14時より、きらめきみなと館小ホールにて、約90名の方にお集まりいただき、気比史学会主催(敦賀市共催)第41期敦賀市民歴史講座「シリーズ戦後80年」(最終講)を開催しました。
 
テーマは「ー戦後80年 昭和100年ー 世界の中の日本、そして敦賀」。
 
講師には、祖父母、母が敦賀にゆかりがあり、1938年に東京でお生まれ、東京大学法学部卒業後、外務省に入省。
 
外務省文化交流部長、経済局長、また各国大使、国際交流基金理事長を歴任され、現在は同基金顧問、日本財団パラスポーツサポートセンターパラリンピック研究会代表をお務めの小倉和夫氏。
 
長身で年齢を感じさせない、まさに紳士であり、重責を担ってこられたそのご経験から、質疑を含めて約2時間、ご講演をいただいた次第です。
 
講演では、こちらからのテーマ設定を、「人」に焦点を当て、『「敦賀の人」物語』のタイトルにてお話しいただきました。
 

【投影した資料の表紙】
 
また、歴史上、敦賀を発った人、敦賀を通った人、敦賀に来た人(敦賀を語った人)など、講演の構成は以下スライドのとおりであり、以下概略をご紹介いたします。
 

【資料より抜粋】
 
「敦賀を発った人」ではまず、与謝野晶子。
 
敦賀よりフランスに渡り、流行を追いながら、しかも流行の中から自分の趣味を標準にして、自分の容色に調和した色彩や形を選んで用い、一概に盲従して居ない、言わば「自分らしさや個性」を持つ、フランスの「婦人の姿」に感服した彼女は、一方で当時(明治期)の日本を次のように表現。
 
 堅苦しく、うはべの律義を喜ぶ国
 しかも、かるはずみなる移り気の国
 支那人などの根気なくて、浅く利己主義なる国
 阿米利加の富なくて阿米利加化する国
 疑惑と戦慄とを感ぜざる国
 男みな背を屈めて宿命論者となり行く国
 めでたく、うら安く万万歳の国
 
小倉氏からは、この状態というのは、100年以上経った今の日本も変わらないのではとの問い掛けがありました。
 
また、次に登場した林芙美子の同じくフランスヘの旅立ちは、下関から朝鮮半島、中国を経てウラジオに至り、シベリア鉄道でパリに赴いたもので、敦賀経由ではないものの、パリに芙美子が着いた終着駅「北駅」(ガールドノール)と敦賀を掛け、終着駅にはロマンがあり、敦賀は、現在その状態であることをむしろ思い切ってPRしてはどうか、加えて、駅をつなぐ連絡通路に絵を飾ってギャラリー(文化的なまち)にとのご示唆。
 
「敦賀を通った人」では、ロシアの音楽家プロコフィエフ。
 
プロコフィエフは、かくて1918年5月、ペトログラードを発ち、シベリア鉄道でウラジオストックに着き、そこから船で敦賀に上陸。
 
6月、東京へ赴いた訳ですが、現代的スタイルの音楽家として名をなすようになった彼は、「長唄 越後獅子」からヒントを得て、そのリズムを用いて「ピアノ協奏曲 第3番第3楽章」を作曲したこと。
 
「敦賀に来た人」ではまず、かの有名な建築家ブルノ・タウト。
 
ブルノ・タウトは、1933年5月、ウラジオストックから汽船で敦賀に乗陸して、日本に1936年10月まで滞在。
 
その間、桂離宮などの日本建築に心酔し、日本建築の美と精神を国際的に知らしめる役割を担いましたが、そのタウトが敦賀に入港する際、港の風景に触れて記したのが「気比の松原」。
 

【タウトが表現した「気比の松原」(資料スライドより抜粋】
 
ここでは、小倉氏より「タウトが称賛した気比の松原を世界に」の言葉がありました。
 
続いて、日本人では水上勉。
 
敦賀を訪れた水上が「思いのこもる故郷」として残したのは、これまた「気比の松原」。
 
<以下、水上勉の言葉>
 
何げない松並木でも、山の端道にも、海岸の砂浜にも、その人の心の歴史が落ちこぼれているからにほかならない。私は私で、あの気比の松原から、三松、勢の松原にいたる岸辺を、若い妻と、長くあずけていた子をつれて、さまようた日を懐しいと思う。とりわけ、敦賀の気比の松原は、私にとっては、永劫のものである。
(中略)
そこで走っていた子の耳と髪とワンピースに、松の落葉が、ふきこぼれていた風光も、牛が寝たように見えた立石岬も、糸をひいたようだった波荒い白い沖も、私だけのものだ。
 
小倉氏から特別な言葉はなかったものの、情景浮かぶ水上の文章から、気比の松原が特別な存在であることを感じた次第です。
 
その後は歴史を遡り、「渤海と敦賀」では、古から敦賀が大陸とつながる重要港であったこと、長屋王の例からは、伝統的に陸上交通の要地であったことを紹介。
 
一部、スライドを割愛されたものの、「歴史と人」の視点から、文化的、政治的、芸術的側面から、世界と日本をつないだのが「敦賀」であり、外国人にとっても日本人にとっても「敦賀」は特別な存在であったことを学んだ次第です。
 
ご講演は、その後、数件の質疑を受けた後、司会の私から、世界を俯瞰するお立場から、今後の敦賀に向けた貴重なご示唆をいただいたこと、歴史を大切にし、人は宝であることを再認識できたことに感謝申し上げました。
 
なお、冒頭にありました「自分で自分を知るということは意外に難しい」の意味とは、個に留まらず「自分たちの住むまちを自分たち自身が知るということ」と置き換えれば、こうして、連綿と継承される地域史を学び、知ることの重要性はもとより、「日本」に置き換えても然りと考えるところです。
 
こうして、戦後80年、激動の昭和100年の節目の最後にふさわしい講座になったと思うところであり、ご多忙のなかお越しいただいた小倉氏に感謝申し上げます。
 
そして、秋晴れの行楽日和にも関わらす、参加くださいました皆様にも心より感謝申し上げます。
 
今回お話しいただいたことと重なるのは、気比史学会設立以来の会是。
 
「過去に学び 未来に期待し 今日を生きる」
 
会是を胸に、また豊富で悠久の歴史を持つ郷土敦賀を誇りに、今後も活動してまいります。

公私それぞれ活動再開

ブログ 働く仲間とともに 敦賀の歴史・文化

はや本日11月7日からは、二十四節気の「立冬」に入ります。
 
立冬は、秋分と冬至のちょうど中間にあたり、暦の上では今日から冬。
 
いよいよ寒さが本格化する時期となる一方、福井県では昨日「越前がに」の漁が解禁となり、越前漁港や三国漁港に帰港する底引き網漁船から新鮮なカニが次々と水揚げされる、活気に包まれた様子が報じられていました。
 
漁期は雌のセイコが12月31日、雄のズワイが来年3月20日まで。
 
「越前がに」は、言わずと知れた福井を代表する冬の味覚であり、「解禁」をさりげなく妻にPRしつつ、わが家にも早くあの姿(セイコ専門ですが)、あの味が訪れることを楽しみに待つところです。
 
こうして季節の移り変わりを感じる中でありますが、活動のほうは通常に戻り、今は順次、職域での市政報告会を開催しています。
 
一昨日は、日本原電の敦賀発電所で開催したところ、お昼休みの貴重な時間にも関わらず、多くの皆様にお集まりいただき感謝。
 
こちらも度々申し上げているとおり、敦賀発電所は、新入社員時代から私を育ててくれた「マイプラント」であり、1号機は廃止措置、2号機は再申請・再稼働に向けた調査や維持管理など、発電所を運営いただいている所員の方々に敬意を表しつつ、自身の一般質問の内容や敦賀市政のトピックスに関し、思いの丈をお話しした次第です。
 

【多くの皆様にお集まりいただいた市政報告会】
 
質問時間があまり取れず申し訳なかったのですが、感じたのは母体組織のあたたかさ。
 
真剣なまなざしでお聞きいただくとともに、励ましの言葉まで頂戴し、沸々と力がみなぎってきた次第です。
 
「活動の原点は、職場と地域の声にあり」
 
今一度この思いを胸に、引き続き活動にあたる所存です。
 
なお、報告会は職域・地域を問わず、オファーがあればお伺いいたしますので、ブログをご覧の皆様からもぜひお声掛けいただければ幸いです。
 
また、ジャンルは変わりますが、活動を通常に戻すといえば、プライベートで事務局を務める市民歴史団体「気比史学会」。
 
再掲となりますが、明日11月8日(土)14時からは、今年度講座の最終講として、「戦後80年」そして激動の「昭和100年」の節目にあたり、「世界の中の日本、そして敦賀」をテーマに、各国大使を歴任された小倉和夫氏による講演会を開催いたします。
 
 →詳しくはこちらより、11月2日掲載のブログをご覧ください
 

 
世界を俯瞰した立場から、どのようなご示唆をいただけるのか、私自身大変楽しみにするところであり、一人でも多くの方、特に次代を担う世代の皆さんにお聞きいただきたく。
 
入場料無料、事前申込はございませんので、皆様お誘い合わせのうえ、ぜひ参加いただけますようよろしくお願いいたします。

テレジン収容所の幼い画家たち展

ブログ 敦賀の歴史・文化

ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の象徴的な場所は、ナチス・ドイツが占領下ポーランドに建設した最大の強制収容所「アウシュビッツ」であることは周知の事実ですが、その歴史の中で、「アウシュビッツという地獄への控え室だった」と言われるのが「テレジン」という小さな街。
 
こちらもドイツの占領下にあったチェコスロバキア(当時)の首都・プラハから北へ60キロほど離れた街に作った収容所は、アウシュビッツへの中継地となり、多くの子ども達までが収容されました。
 
1945年5月8日に解放されたテレジン収容所には、子ども達が書いた4,000枚の絵とともに数十枚の詩が残されていたとあり、現在「人道と港敦賀ムゼウム」で開催中の特別展『テレジン収容所の幼い画家たち展』では、遺された絵の一部が展示されています。
 
アウシュビッツに送られた幼い子ども15,000人のうち、生き残って平和な日を迎えたのは、わずか100人。
 
明日への希望を夢見て書いた絵と照らし合わせ、罪なき子ども達が「ユダヤ人だから」という理由だけで殺されなければならなかった史実を思うに、胸を裂くものがありました。
 
「子どもたちが遺した絵や詩が私たちに教えてくれる」
 
これは、特別展のタイトルに添えられていた言葉ですが、まさに1枚1枚の絵から深く感じるものがありました。
 
また、展示室を出た廊下の壁面には、ポーランド生まれでアウシュビッツができた初日に送られたヤン・コムスキー氏が書いた、自身が経験した同収容所の実態の絵が展示されていました。
 
収容所内では、従順な「被支配者」になりたくないという思いから反抗的な態度をとり、度々「ムチ打ち」や後ろ手に縛られて吊るされるなどの懲罰を受けるなど、苦痛は大きかったものの、そのたびに「自分は生きている」と確認し、さらに「生きのびてこの事実を伝えねば」と、弱った体を奮い立たせていたと、展示パネルに氏のことが紹介されていました。
 
なお、そうして描かれた絵はリアルに、非人道的な扱い、環境を伝えていて、こちらは呼吸が詰まるかのような、ずっしりと胸に重くのしかかるものがありました。
 
私自身、昨日足を運び、じっくりと企画展を拝見したところですが、ちょうど11月3日は、ムゼウムのリニューアルオープンから5周年。
 
この3連休開催された「みる しる わかる ムゼウムDays!」には多くに方々が来館されたとお聞きしたところであり、恒久平和や命、そして人道とは何かを教え、問いかけてくれるムゼウムの存在意義は年々大きくなっており、今後もここ敦賀から世界へ、発信を強めていっていただきたいと願う次第です。
 

【昨日の「人道の港敦賀ムゼウム」。リニューアルオープンの5年前と同じ、青空が広がっていました。】

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