47年の歴史に幕。バトンは新庁舎へ。

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こうしてブログを書いていて「ありがたい」と感じるのは、お読みいただいた感想を頂戴することはもちろんのこと、ちょっとした誤字や文章の間違いを指摘いただけること。
 
昨日はその両方の声をいただき感謝。
 
エネルギー政策に対する感想に関しては複数頂戴をし、とりわけ九州管内の火力発電所においては、川内2号機(石油:出力50万kw)、豊前(石油:100万kw)、相浦(石油:85万kw)、新小倉(LNG:180万kwの内60万kw)など多くの発電所が廃止、あるいは廃止を決めており、時代背景やコストの観点からの判断をされていること、またその裏側には職場が無くなる寂しさを抱く現場の思いがあることを改めて認識し、共感した次第です。
 
また、カーボンニュートラルや市場原理による電力自由化を推進するあまり、原子力と同様、火力の技術者確保や技能の維持継承が課題となっていることも事実であり、失ってしまってからでは取り返しのつかない、日本の屋台骨を支える電力関連産業の「人材と技術」をいかにつないでいくかを重要視せねばと肝に銘じた次第です。
 
根底にあるのは、「人材も技術も」国産の比率を高めなければエネルギー安全保障は成り立たないこと。
 
中国製の太陽光パネルに席捲される現状に危機感をもって、私自身は引き続き、現実的なエネルギー政策について一人でも多くの理解者が増えるよう活動していく所存です。
 
さて、エネルギー分野の「継承」とは趣を変えますが、敦賀市役所に目を移すと、28日に現庁舎では「閉庁セレモニー」が行われ、47年間の歴史に幕を閉じました。
 
敦賀市ホームページの“まちかどスケッチ”にも掲載されていましたが、この日は市の幹部が見守る中、庁舎4階講堂にある市章の看板を、渕上市長と田中市議会議長の手で取り外しをされたとあり、その様子を見るに私もどこか感慨深い気持ちになった次第です。
 
市役所新庁舎は年明け、令和4年1月4日から供用開始となります。
 
ホームページには「末永く親しまれ、多くの方々が利用しやすい庁舎となりますよう、職員一丸となって努めてまいります。」との言葉がありました。
 
半世紀ぶりにバトンタッチする新旧庁舎。
 
旧庁舎で育まれた「人材や技術」が、バトンを受けた「新庁舎」でさらに進化、飛躍を遂げ、先の言葉通りの役割を果たされますよう、市議会議員の一人、敦賀市民の一人として大いに期待し、見守っていきたいと思います。
 

【“まちかどスナップ”に掲載されていた昭和49年当時の敦賀市庁舎。周りの風景と合わせ歴史を感じます。】

市民歴史講座第4講「氣比神宮と朝倉宗滴」

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先日の「地域共生社会推進全国サミットプレセミナー」から一昨日の「小さな親切運動 市民のつどい」と、ここ最近は大変貴重な「心の気づき」に出会う機会が続いています。
 
こうした機会に恵まれることに感謝するとともに、人生を豊かにするのは、こうした気づきや学びにより心が満たされることにあることを身をもって感じる今日この頃ですが、昨日は「学び」の場に参加。
 
これまでも毎回楽しみに参加してきています気比史学会が主催する市民歴史講座は、これまた新たな発見とヒントに「出会う」場となりました。
 
今年度第4講となる今回は、福井県立博物館学芸員の有馬香織様をお招きし、「氣比神宮と朝倉宗滴 〜天文十年造営・運営事業を中心に〜」をテーマにご講演いただいた訳ですが、「一乗谷」のイメージが強い朝倉家は、ここ敦賀、とりわけ「北陸の海の総鎮守」である越前国一宮の氣比神宮を取り込むことで、要所である敦賀地域を味方につけるとともに、天文十年の氣比神宮造営は、北陸七ヶ国の神をも巻き込んだ朝倉氏の権力拡張を狙った壮大なプロジェクトであったことを知りました。
 
講師の方が結びに仰ったのは、朝倉家のスーパースターとも言える宗滴(教景)の存在をもっと広めていくとともに、北陸新幹線で今後より一層つながる福井県を朝倉家の歴史で盛り上げていけるのではなどの貴重なご意見もいただいた次第。
 
まさに昨日は、気比史学会結成時からの会是でもある言葉、「過去に学び、未来に期待し、今日に生きる」にふさわしい一日となりました。
 
毎回恐縮ですが、学んだことを私ごとに留めておくのはもったいありませんので、会場でのリアルメモ、資料の抜粋などをまとめたものを以下に掲載いたします。
 
関心のある方は是非、この後も読み進めていただければ幸いに存じます。
 
【以下、やまたけのまとめメモ】
 
令和3年度 市民歴史講座(第4講)
氣比神宮と朝倉宗滴 〜天文十年造営・運営事業を中心に〜
 
1.日 時 :令和3年11月27日(土)14時〜16時10分
2.講 師 :福井県立博物館 学芸員 有馬 香織 氏
3.内 容 :
(1)はじめに
◉敦賀に鎮座する氣比神宮の存在は、越前朝倉氏の勢力進展の要であった。
◉敦賀郡司であり軍奉行であった朝倉宗滴(教景)は「戦わずして勝つ」戦略であったが、宗滴亡き後は続かなかった。
 
(2)氣比神宮
◉越前国一宮の氣比神宮は「北陸の海の総鎮守」。 
◉北陸の海の総鎮守であったことから、敦賀だけではなく広大な(加賀から越後や佐渡、あるいは近江まで)影響力を持っていた。
◉越前朝倉氏は敦賀郡司を置いていたが、①港の権利(通行税の徴収権利など)と②敦賀湾浦々の地域の中心職の任命権だけは氣比神宮から奪えなかった。
◉度重なる造営があったが、これには敦賀湊の関銭(1%課税)が充てられた(延暦寺や奈良の西大寺も敦賀湊関銭が充てられる)。
 
(3)朝倉宗滴(教景)
◉文亀3年(1503)朝倉景豊が貞景に対して謀反を企てた時、教景(宗滴)は寺に入って一乗谷の貞景にその企てを直訴した。その後、貞景は敦賀を侵略し、その際教景の功績を認めて教景を敦賀郡司とした。
◉敦賀郡司の居城は金ヶ崎城。敦賀での館は法泉寺周辺(今の本町あたり)とされる。
◉宗滴の逸話や大絶賛の評判が「朝倉始末記」や「朝倉宗滴和記」などに記されている(悪い話は皆目ない)。
◉近江の浅井氏を始め、上杉家からは大鷹一連と鳥屋を拝領するなど、他国からの評判も良く、交友も広かった。
◉天文24年(1555)9月8日、79歳で死去(内臓の病気による)。
◉死去3日前には、一乗谷外にいた朝倉氏に代々仕える薬師を呼び寄せて治療に当たらせる旨の命令も出されていた。
 
(4)氣比神宮と朝倉家の関係
◉朝倉孝景(宗滴)が敦賀郡司の頃は、氣比神宮は「支配」ではなく「気遣い」による関係であった。
◉宗滴の時代には、氣比神宮の社家に朝倉氏の一字(冬や景)を名前に賜った人が増えてきていることから、朝倉氏が社家を取り込んでいるように伺える。
◉敦賀湊浦々の氣比神宮が有する権利に関わる人にも朝倉家から一字を賜った人になってきていて、じわりと氣比神宮が持つ権利を取り込んでいったことが「氣比神宮社記」により分かる。
 
(5)朝倉家による天文十年(1541)の氣比神宮再建事業
①朝倉家による造営の意図
◉氣比神宮造営と御遷宮の儀については、従来、北陸道七カ国で費用を出していたが、この時は「越前一国だけで行う」ことを申し出ている。つまり、朝倉家が北陸道七カ国の鎮守を守る立場の頂点にいることを内外に知らしめる効果を期待したもので、周到な政治的計画であった。
◉越前一宮を大掛かりに取り込めば(要所の敦賀を味方につける)、北陸道七カ国への神をも巻き込んだ朝倉氏の権力拡張となり、朝倉家にとって壮大なプロジェクトであったとも言える。
 
②「氣比神宮古図」(敦賀市指定文化財)を読み解く
◉「氣比神宮古図」に関し、氣比社遷宮条々の中にある「当国」、「社絵図之事」とあり、つまりは越前側から出した条々で朝倉氏が作成したものと考えられる。
◉「氣比神宮古図」は、大鳥居の位置と神宮寺の存在が特徴的とされてきたが、本来「西側」にあるべき大鳥居が「東側」に書かれているのはいかにも不自然であり、懐疑的に見れば、大鳥居は「朝倉側」を向いているように思える。
◉通常の絵図にはない「礎石」が書かれていて、設計図かのように何間(距離)かが分かるように描いているのは朝倉氏の建築物への拘りではないか(礎石まで書かれた絵図は見たことがない)。
◉その他にも塀の「押さえ」が朝倉氏の時代に見られる方法であることや防御のためと考えられるような外の塀があるのは、氣比神宮が戦場になることを想定していたのではないか。→その後、実際戦場となった。
◉造営するための御材木の手配は敦賀に基盤のある宗滴に権限があり、一乗谷の裁決を覆したほか、近江からの材木は敦賀郡司が守ると述べ、敦賀郡が主体となっていた。
◉天文十年の造営は朝倉家にとって大きな意義があるものであったと言える。
 

【「氣比神宮古図」・・・左下(西側)にあるべき大鳥居が右上(東側)に描かれているなど見れば見るほど朝倉家の意図が透けて見えるとのこと。】
 
(6)宗滴亡き後の敦賀、氣比神宮と朝倉義景
◉文亀元年春に織田信長のために氣比神宮が戦場となる。
◉手筒山城が落城した理由は、朝倉義景と氣比神宮の社家には「万事相談するな、裏表が分からない」と命じていたことに対し、社家が憤り、お互いの不信感が講じたことにあると言われる。
◉天正元年の刀根坂の戦い前には、朝倉義景の陣中に氣比神宮の御使があり、氣比大明神が出陣せぬよう仰っている旨伝えるが、義景は聞かず出陣し敗れ、一乗谷は三日三晩焼かれ朝倉家は滅亡した。氣比神宮は最後まで朝倉家のことを心配していたことが分かる(朝倉始末記)。
 
(7)さいごに
 宗滴の頃から、戦わずして氣比神宮社人を取り込み、越前国だけで氣比神宮再興を成し遂げたことは、この時朝倉氏最盛期であり、越前国一宮まで取り込む野心まで想定できるが、その努力は宗滴亡き後には続かなかった。
 
以 上

人道の港敦賀ムゼウム企画展「生と死の間」

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文化勲章を受章した作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが99歳でご逝去との報。
 
「源氏物語」の現代語訳を達成し「平成の源氏ブーム」の火付け役となったことは有名で、その後晩年まで創作意欲は衰えず、愛と人間の業を描いた小説や心に寄り添う法話で著名な寂聴さんは、1988年から計4年間、旧・敦賀女子短期大学の2代目学長を務められた方でもあり、ここ敦賀とも深い縁がある方。
 
以前には、関西電力大飯原子力発電所の運転再開に反対するハンガーストライキや安全保障関連法に反対する国会前のデモに参加するなどの社会的活動に参加されたこともあるものの、作家としての執筆活動の一方、30年以上に亘って各地で法話を続け、多くの人々の悩みや苦しみに耳を傾けてこられるなど、生前のこうしたご貢献に対し敬意を表するとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。
 
さて、寂聴さんが生涯を通じて語り続けた「愛」に関して。
 
「愛の反対は憎しみではない 無関心だ」との言葉を残したのは、かのマザー・テレサでありますが、これは「無関心」であること、苦しむ者に関わりを持たずに「傍観者」であることが愛の対極にあるとの意を指します。
 
ここに通ずるのかも知れませんが、昨日は「人道の港敦賀ムゼウム」で開催されている企画展「生と死の間」を鑑賞し、改めてそのことを痛感した次第です。
 

【鑑賞終了後、ムゼウム前にて】
 
この企画展は、European Network Remembrance and Solidarity(記憶と連帯の欧州ネットワーク)との共催、公益財団法人大阪国際平和センター(ピースおおさか)の協力を得て開催されたもので、サブタイトルは「ホロコーストとユダヤ人救済の物語」。
 
第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツによる迫害で多くのユダヤ人が犠牲となりましたが、この迫害の中で、危険を冒してでもユダヤ人に手を差し伸べた人々がいて、そのお陰で生き延びることができたユダヤ人がいたのも歴史上の事実でありますが、この企画展では、12ヶ国のヨーロッパの国々におけるユダヤ人救済の物語を紹介する、まさに見つかれば殺される「生と死の狭間で人々が選んだ道」に焦点を当てたもの。
 
ちょうど鑑賞していた時間帯、企画展ルームには私ひとりだったこともあり、展示パネルひとつ一つをじっくりと拝見することができました。
 
「命のビザ」で有名な杉原千畝氏の功績を讃えるビデオも流れていた訳ですが、パネルにある史実は、自分の命をかえりみずユダヤ人を自宅に招き入れたことなどの証言、反対にそうした方に助けられ命をつなぎ、感謝してもしきれないとのユダヤ人の言葉など、そこには想像を絶する現実がありました。
 
また、ホロコーストからユダヤ人を守った非ユダヤ人の人々を表す称号で正義の異邦人とも呼ばれる「諸国民の中の正義の人」が残した言葉も記されており、
 
助けを必要としている人と、それに力を貸す人の運命はつながっているのです。
 
との、諸国民の中の正義の人の一人、ギゼラ・チェルタンさんが残した言葉が強く心に残りました。
 
現に助けを受け入れた非ユダヤ人が、心を許したユダヤ人をナチスに密告し引き渡したこともあったことからすれば、チェルタンさんが残した通り、そこには理屈でない運命というものがあったのだと共感した次第です。
 
こうして展示を全て見終え、目を背けたり忘れてはいけないホロコーストの事実、そしてユダヤ人救済のため、まさに命懸けで行動された人々がいて、残された言葉があることを胸に留めると同時に、今なお世界各地である人種差別や迫害は、決して繰り返してはいけない許されざることであること、そして傍観者ではなく、自分ごととして捉えるべき問題であることを改めて考えさせられる時間となりました。
 
そして最後に「人道の港敦賀ムゼウム」について。
 
リニューアルオープンから1年が経過し、とかく来館者数が計画に達していないことなどの状況であることは事実でありますが、オープン式典の際に各国大使が述べられたのは「ムゼウムは敦賀の宝」であるということであり、その言葉に照らせば、コロナ禍にあっても校外学習などで市内外の児童生徒が訪れているほか、最近ではポーランド広報文化センターのウルシュラ・オスミツカ所長と敦賀高校「創作部」の生徒さんとの座談会や、その後も「創作部」の皆さんは精力的に館内ガイドをされるなど、次代を担う地元の子たちが学び、感じる場となっていることは大変素晴らしいことと、私は評価するところです。
 
ムゼウムは市直営での運営であり、民間であれば簡単にできることも一筋縄ではいかない面も多々あろうかと思いますが、逆に市直営であったからこそできていることもあるのだと思います。
 
上記のような地元に密着した取組みがまさにそれであり、こうした積み重ねは必ずや大きな意味での成果(歴史や史実から人道の大切さを学び、そこから生まれる個々の成長やシビックプライド)につながるものであると、こちらも私は期待するところであります。
 
これまで色々な方とお話しさせていただくと、悲しいかな「ムゼウムなんて」という方に限って「まだ行ったことがない」という割合が多いのが実態としてあります。
 
冒頭述べた、マザー・テレサの言葉は「愛の反対は無関心」です。
 
まだ行かれたことのない方は是非ムゼウムに足を運んでいただき、そこで心で感じること、それが即ちムゼウムの「価値」だと思いますので、またご感想などお聞かせいただければ幸いに思います。

「氣比神宮」が「日本百名月」に認定登録される

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コロナ禍で一気に広まったのは「オンライン」ですが、やはりコミュニケーションは「フェイスtoフェイス」に勝るものなし。
 
昨晩は、若狭町レピアにて開催された連合福井嶺南地域協議会並びにF-TOP21敦美支部主催の議会報告会に出席し、敦賀から高浜までの組合役員が集う中、久しぶりに対面で、皆さんの表情を拝見しながらお話しさせていただくことが出来ました。
 
タイムスケジュールの関係上、私の持ち時間は5分少々でしたのでコンパクトにせざるを得ませんでしたが、限られた時間の中で9月定例会での質問内容や市政のトピックスを報告させていただきました。
 
今回は、広い会場で人数も絞っての開催ということで、まだまだコロナ対策に留意をしながらとなりますが、いずれにしても「活動の原点は職場の声にあり」をモットーに「オンライン」と「フェイスtoフェイス」のハイブリッド型で自身の活動も進めていきたいと思います。
 
そうしたことあり、大変前向きに過ごせた一日でしたが、ここ敦賀ではもうひとつ明るいニュースがありました。
 
夕刻、スマホに「日本百名月に氣比神宮、福井県内で初の認定」とのタイトルで福井新聞の速報メールが届き、メールを開くと「日本百名月に敦賀市の氣比神宮が15日、登録された。61号目で、福井県内からは初の認定となる。登録名は”氣比神宮にのぼる月”」とありました。
 
何やら喜ばしいことであることは分かるのですが、そもそも「日本百名月」とは何かさえ知りませんでしたのでネットで調べると、一般社団法人 夜景観光コンベンション・ビューローが認定する「日本百名月」とは、近年、「夜景観光」の発展に伴い、中秋の名月にちなんだ観光目的の観月イベントも増え続け、月の魅力を伝える書籍やメディア等でも扱いも増加し注目される一方で、関係する事業者は各々でプロモーションを行う等と広がりがなく、観光集客に直結するコンテンツとしても発展途上という課題があったことから、そこで、特に後世に残したい名月を、一定基準のもとに「日本百名月」として認定・登録し、スケールメリットを生かすことはもちろん、名月観光に従事する事業者連携より新たなる価値の創造を目指すこととなったとのことでした。
 
なお、認定・登録された「百名月」は、昨日現在で「68」。
 
位置付けを理解したうえで、敦賀で月といえば、以前から度々ご紹介している「名月や北国日和定めなき」で、松尾芭蕉が元禄2年(1689年)旧暦8月、「おくのほそ道」の道中で詠んだ句が有名ですが、残念ながらこの月は、楽しみにしていた中秋の名月が「見れなかった」ことを詠んだ句。
 
一方、同じく敦賀で詠んだ「月清し遊行のもてる砂の上」は、実際に「月を見た」句で、敦賀の地を訪れた芭蕉が、宿屋の主人に「明日(中秋の明月の日)も晴れるか」と問うと、主人は「北陸の天気は変わりやすいので、月見なら今晩のうちに」と伝え、芭蕉はその夜に氣比神宮に参拝。
 
月明かりに照らされた神前の白砂が、遊行上人二世の他阿が参詣往来の妨げを防ぐために沼地を埋めた功績と知り、詠んだ句であり、「おくのほそ道」では「けいの明神(氣比神宮境内)に夜参す」と記されています。
 
このように、氣比神宮は俳人・松尾芭蕉ゆかりの地としても知られており、中鳥居正面には芭蕉像と句碑が建立されてもいる訳ですが、敦賀の方以外のために、この氣比神宮については、大宝2年(702年)に建立され、ご祭神は伊奢沙別命、仲哀天皇、神功皇后、日本武尊など7柱。
 
明治時代には官幣大社となり、高さ約11メートルの大鳥居は奈良県・春日大社、広島県・厳島神社と並ぶ「日本三大木造鳥居」の一つで、国の重要文化財に指定されています
 
境内には、神宮造営中に湧き出た1300年の歴史ある水をたたえる「長命水」や、南北朝争乱時代に南朝後醍醐天皇を奉じ、氣比大明神の神旗を掲げたという「旗掲松」など、見どころも多数あり、地元の人々からは親しみを込めて「けひさん」と呼ばれています。
 
その「氣比神宮にのぼる月」が、単に景色の美しさのみならず、こうした歴史的エピソードも添えて「日本百名月」に選ばれたことは、改めて大変喜ばしいことであり、年間130万人が訪れる(コロナ以前)この氣比神宮の魅力をさらに高めるものとしてアピールしていければと思うところです。
 
芭蕉さんのように、氣比神宮で月を見るため敦賀に来られ、そのまま飲食、宿泊へと経済効果も高めていけるといいですね。
 
仕事柄、ついついそう結びつけてしまうのでは、「風情がない」と芭蕉さんに叱られるかもしれませんが…。
 
最後に、夜景観光コンベンション・ビューローのサイトでは、氣比神宮のページをこう結んでいました。
 
「月光により神々しく照らされる氣比神宮。松尾芭蕉も眺めたであろう景色を今に伝えている。」
 
澄み渡る、秋の夜空に輝く月。
 
332年前にこの地で詠んだ芭蕉さんに思いを馳せ、たまには夜の氣比神宮に参ってこようかと思います。
 

【認定登録第61号「氣比神宮にのぼる月」(日本百名月HPより)】

海陸交通の要衝「敦賀」は、芸術への関心も高かった

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胸が澄くような秋晴れが続いた敦賀ですが、今日は残念ながら雨模様。
 
気になる台風16号はフィリピンの東を進み、27日には一番上のランクの「猛烈な」勢力となる予想とのこと。
 
今日からは南西諸島や西日本・東日本の沿岸部では、次第に影響が出始めるとありますが、今後の進路には十分留意しておきたいと思います。
 
さて、様々な楽しみのある「秋」ですが、昨日は令和3年度第3講となる気比史学会主催の市民歴史講座に参加し、「敦賀の芸術」に触れることが出来ました。
 
「地域史を掘る」と題し、全5講で行われる今年度の講座ですが、昨日のテーマは「敦賀コレクションの魅力と敦賀ゆかりの絵師たち」。
 
郷土ゆかりの画家はもちろん、江戸時代から近代にかけて京都で活躍した画家たちの作品を豊富に集めた「敦賀コレクション(敦賀市立博物館館蔵絵画)」について知り、学ぶことが出来ました。
 
正直、この分野の知識は皆目ありませんでしたが、講義のまとめにあったよう、敦賀は海陸交通の要衝であり、町人文化の発展、芸術への関心の高さから「町絵師」への支援につながったこと、みなとまちであったことの影響は間違いないが、人もモノも集まる敦賀であったからこそ、今のコレクションがある。
 
つまりは、「敦賀コレクション」は、みなとまち敦賀の文化、歴史の豊かさを語るものだということを知り、ますます敦賀というまちの奥深さを感じた次第です。
 
先週の「鉄道カフェ」に続き恐縮でありますが、この市民歴史講座の内容も私だけの知識に留めておくにはもったいないことから、概略メモを掲載させていただき、皆さんへのご紹介と情報共有に変えたいと存じます。
 
以下に、私が書き留めたメモを記載しますので、宜しければご覧ください。
 
【敦賀コレクションの魅力と敦賀ゆかりの絵師たち】
 
1.日 時 : 令和3年9月25日(土)14時〜16時
2.講 師 : 敦賀市立博物館 学芸員 加藤 敦子氏
3.内 容 :
(1)はじめに
・敦賀コレクション(敦賀市立博物館館蔵絵画)は、1978年8月の市立歴史民俗資料館開館の翌年の1979年に絵画作品の第1号を購入。
・1983年より絵画収集を本格化し、312点を収集。
・コレクション収集にあたっては、調査研究員・美術購入選考委員会の故田邊昌平氏が多大な貢献をされた。
・コロナ禍で開催した「ふつうの系譜おかえり展」には3,817人が来館。市内外の来館者の多くからは「癒しになった」との声を頂戴した。
 
(参考)敦賀市立博物館の江戸絵画の一部は、府中市美術館の「春の江戸絵画まつり」でもたびたび展示され、「やまと絵や円山四条派など、ひたすら美を追求した画家たちの作品によって、ひたすら美しい「非奇想」の世界に浸っていただきます」と紹介されている。
 
(2)コレクションの構成
・収集方針
 ①第1項 郷土ゆかりの作家の作品
 ②第2項 前項の師弟関係にあたる作家の作品
 ③第3項 郷土作家に影響を与えたと考えられる作家の作品
 ④第4項 前1〜3に掲げた以外の郷土との人縁・地縁で結ばれる作品
・コレクションを構成する主な流派のうち、弟子が千人居たと言われるくらい人気であった「丸山応挙」、応挙の影響を受けた「呉春」らを総称する円山四条派は、バラエティーに富んだ画風を築いた。 
・狩野派や土佐派は、世襲により流派の画風を重んじた。
・コレクションの流派別では、円山四条派が32%、狩野派が12%を占める。
・絵師の活動エリア別では、京都が55%、東京25%、敦賀は6%。
・活動時期では、江戸時代中期が51%で大半を占める。
 

【円山応挙 《狗子図》 安永7年(1778年) 敦賀市立博物館】
 
(3)江戸時代の敦賀の文化情勢について
(江戸時代前期)
・敦賀の経済は、幕藩体制の下、上方と北前をつなぐ港が栄え、かの井原西鶴は「敦賀は北国の都」と呼んだ。
・敦賀の絵師、橋本長兵衛(初代)は現在の相生町に住み、権力者に重宝されたほか、学雄、中村幽甫、橋本仙桂らがいた。
 
(江戸時代中期・後期)
・国全体が活気付き、町人が台頭。絵師たちの活躍の場も広がり、画壇でも新しいものへのニーズの高騰から個性化、人々の好奇心、知識欲の高まりから「真写」の動きとなった。
・敦賀の経済は、西回り航路が開発されたため、入船数が以前より減少したものの、近江商人の松前物の荷役が増加。
・敦賀の絵師、内海元孝は円山応挙に学んだのは確実と言われ、スケッチが八幡神社に残されている。
・今村公龍の作品は貴重で氣比神宮に保存されていたが消失。市立敦賀病院のロビーに掛かっている敦賀湾の絵は、公龍のものである。
 
(近代)
・近代国家体制の中で「美術」の概念や制度化が進められる。
・フェノロサらによる日本画の近代化。京都画壇の近代化も進められ、流派は消滅し、美術学校や美術団体が設立、展覧会などで競い合う時代に。
・東京や京都と違い、敦賀はおおらかな雰囲気の中で、上方絵師の来敦により、京都画壇の影響が広まる。
・豪商、財界人らが学問的な教養として、芸術分野への関心を高める。
・敦賀出身の内海吉堂は、南画家として活躍し、鯉の絵が有名。
 
(4)地域を超えた人的交流
・敦賀に来た絵師は、狩野永敬、円山応挙、山口素絢、横山華山など著名人が多数。
・こうした環境から、敦賀の商人も絵師の襖絵などを所有していた。
敦賀では、多岐に亘る寺子屋や私塾での教育が発達していたこともあり、絵や芸術に対する関心や教養が高かった。
・寺子屋以外でも「文化サロン」があり、大和田荘兵衛が立ち上げた「揮毫会」は、後に「文殊会」として地域を超えた文化交流がされた。
 
(5)まとめ
・敦賀は海陸交通の要衝であり、町人文化の発展、芸術への関心の高さから「町絵師」への支援につながった。
・みなとまちであったことの影響は間違いないが、人もモノも集まる敦賀であったからこそ、今のコレクションがある。
・つまり、敦賀コレクションは、みなとまち敦賀の文化、歴史の豊かさを語る。
・こうした土壌があって、全国でも有数のコレクションとなっている。
・当時の人々が愛した「美しさ」が伝わるコレクションから「美」を感じる心は昔も今も同じである。

 
講師の加藤さんが説明いただいたパワーポイントのスライドをお見せ出来ないのが残念ですが、江戸時代からの絵師の作品を始め、ゆかりのあるエピソードの紹介などから、当時の敦賀の賑わいや一歩先を行く芸術文化に触れる風土があった情景を浮かべることが出来た次第です。
 
こうして、私にとっては未知の角度から敦賀のことをより知ることが出来たことは貴重な財産でしたが、より多くの市民の方に知っていただきたいとの思いとなるのも事実。
 
次回の市民歴史講座(4講)のテーマは、「氣比神宮と朝倉宗滴 〜天文十年造営・遷宮事業を中心に〜」(講師:福井県立歴史博物館主任 有馬香織氏)となります。
 
11月27日(土)14時より、敦賀市立図書館3階にて開催されますので、興味のある方は是非お気軽に参加いただければと思います。

「知っとるけ?小浜線ものがたり」から得た大切なこと

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今朝は「台風一過」の晴天を期待しカーテンを開けましたが、見事に期待を裏切る“どんより曇り空”
 
予報によるとこの後は晴れマークとなっていますので、予報的中に期待しつつ、三連休の中日、貴重な今日一日を有意義に過ごしたいと思うところです。
 
さて、これまでもこのブログにおいて、気比史学会主催の市民歴史講座などを通じ、敦賀の歴史や文化の深さ、学ぶ楽しさ、そこから得られる「今ある資源を生かしながら保存する」ことの大切さを記載してきているところですが、昨日はつるが観光ボランティアガイド主催の「鉄道カフェ」にて、改めてそのことを感じました。
 
ちなみに「鉄道カフェ」とは「港と鉄道のまち敦賀」を広く市民の皆さまに知っていただくことを目的とし、平成26年度から開催しており、今回で第22回目となるとのこと。
 
令和3年第1回の開催となる昨日は、事前申込みをしたうえで参加。
 
松原公民館を会場とし、新型コロナ対策もあって定員を40名に絞っての開催でしたが、開始時間にはほぼ定員どおりの参集があり、敦賀の鉄道歴史ファンの関心の高さを感じた次第です。
 
そして、今回のテーマは、「小浜線ものがたり 〜小浜線の今昔〜」
 
講師に小浜線鉄道遺産を守る会代表の桝郷三好氏をお招きし、今から100年前に建てられた蒸気機関車用の給水塔(小浜駅に現存)を始めとする鉄道遺産の保存や「知っとるけ?小浜線ものがたり」の発刊などを通じ、小浜線のことを広く知っていただく活動をされているお話しを拝聴し、大変多くの学びと大切な気づきがありました。
 
せっかく学んだこと、しかも身近にある小浜線の歴史ということとあっては、参加者だけのものにしておくのは勿体ないということで、市民歴史講座と同様、本日は概要メモを記載しますのでご覧いただければと思います。
 

【小浜線鉄道遺産を守る会編集の「知っとるけ?小浜線ものがたり」と大正10年当時の写真】
 
【小浜線ものがたり 〜小浜線の今昔〜】
 
(1)はじめに
◉鉄道に縁もゆかりもないところから、小浜線の鉄道遺産を守る活動に携わることになり、手探りで模索する中、県立図書館で見つけた一冊の記録「小浜線建設工事概要」が契機となった。鉄道建設工事の鉄道省敦賀建設事務所が記録した大正時代、約100年前の記録を読み解くことから活動が始まった。
◉小浜駅にある給水塔(蒸気機関車時代から使用)は現存するものの中でも貴重な鉄道遺産なのに、市民にすら知られていないことが残念であり、小浜線の歴史を含め、市民の方に知っていただくために「知っとるけ?小浜線ものがたり」を作成、2,000部発行し、市民や公民館に配布した。
 
(2)小浜線の歴史
◉明治25年に鉄道敷設法「京都府殿田附近ヨリ福井県小浜に至ル鉄道」が規定。
◉明治28年には、同法に「舞鶴ヨリ福井県小浜ヲ経テ敦賀に至ル鉄道」が追加。
・若狭地方選出の小畑岩次郎衆議院議員が帝国議会で北陸線の改正を提案。
・当初は「敦鶴線」と呼ばれていた。
◉明治35年「敦鶴線」は北陸と山陰を結ぶ日本海側のバイパス路線としての期待もあり、早期着工すべき「第一期線」に昇格。
◉明治39年、地元では敦鶴鉄道規制同盟会が設立される
◉大正4年5月、敦賀側から暫次建設開始。
◉大正6年に敦賀〜十村間開業。
◉大正11年には若狭高浜〜新舞鶴館開業により全線開通。
・小浜出身の山口嘉七代議士が「小浜線と名付けるべし」と断固主張し、その名が決まった。
・敦賀・小浜間、小浜・新舞鶴間にそれぞれ6往復の列車が運転され、そのうち2本は京都への直通列車で、京阪地方へは一日で往復できるようになった。
・停車場は、既設の敦賀・舞鶴を除いて12箇所を新設。うち、十村と小浜の停車場に給水の設備を設けた(小浜の給水塔は国内で現存する20基あまりの中でも良好なもの)。
・なお、現在、敦賀〜東舞鶴まで24の駅があり、うち11の駅が無人となっている。
◉昭和43年には、名古屋〜小浜〜東舞鶴間で臨時急行「エメラルド」の運転がスタート。京都、大阪からは「おばまビーチ」、「わかさビーチ」といった海水浴臨時列車が運行されて、賑わいを見せた時期もあった。
◉昭和46年に蒸気機関車廃止、ディーゼルエンジン機関車導入
◉平成15年に電化開業
◉平成29年に敦賀〜十村間開業100周年
◉平成30年に十村〜小浜間開業100周年
 
(3)給水塔の保存活動、小浜線を知ってもらう取組みについて
◉毎月1回、会では保存に関するトータル的な議論を続けている。
◉まずは子ども達に小浜線の歴史を知ってもらうことと、駅のプラットホームで給水塔の写生大会を実施した(夏休みの恒例行事)。
◉絵は市役所のロビーや公共施設などに掲示。
◉蒸気機関車も子ども達に描いてもらった。
◉地元の鉄道を身近に感じてもらうためには、話しをするだけでなく、小浜線に乗ってもらうことが重要と、小浜から西は東舞鶴、東は十村までの往復ツアーを行ったほか、敦賀〜長浜間130年記念の行事にも参加した。
 
(4)さいごに
◉国鉄にお勤めされていた方からの小浜線への思いを綴った「小浜線の思い出」も作成、発刊した。
◉小浜線の写真パネルは後日、都賀の鉄道資料館に展示される予定。
 
そして最後に、「知っとるけ?小浜線ものがたり」の編集協力人であり、枡郷さんの娘さんでもある岩崎春美さんが書かれた「あとがき」にホロリときてしまいましたので、併せて掲載させていただきます。
 
【あとがき】
父が小浜駅にある給水塔の保存活動に取り組んでいることを知ったのは、最近のことです。そこには、利害とは無関係なところで一生懸命、活動に取り組んでいる姿がありました。地元、小浜を何とか盛り上げたという熱い思いを感じ取り、私も小浜に生まれ育ったひとりとして、この度微力ながら冊子作成に協力させていただきました。
海あり、山あり、田園風景あり、そして夕日のきれいな小浜線からの眺めは、本当に気持ちが落ち着きます。いにしえの人たちがずっと見守り、静かにたたずむ給水塔。小浜のシンボルとして、これからも皆で大切にしていきましょう。
この冊子を通して、皆さまが地元の文化財の存在を知り、愛着を感じるきっかけになれば幸いです。(編集協力・岩瀬春美)
 
大正6年の敦賀〜十村間(現若狭町)開業からは今年で104年、大正11年の新舞鶴までの全線開業からは99年の歴史を持つ小浜線。
 
知れば知るほど興味が湧く路線な訳ですが、旧北陸本線同様、この歴史ある鉄道遺産をどう生かし保存していくか。
 
これは、今後の北陸新幹線延伸と並行しての大きな課題でありますが、一方こうして嶺南一円に広がる魅力と捉えれば、まだまだ秘めたポテンシャルありとの気づきも得た次第。
 
これまで学んだこと、そして昨日新たに得た気づきをしかと胸に置き、引き続き、先人達が残した歴史や文化を大切にし、今ある資源を最大限生かすよう尽力していきたいと思います。
 
【会場ホールの壁面には、小浜線の貴重なパネルが掲載されていましたので、いくつか紹介させていただきます】
 




関ヶ原の合戦の日に吉継公を思う。

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少しくどくて恐縮なのですが、昨日記載しました日本共産党の「いわゆる『敵の出方論』」について、今度はテレビ局ではなく、加藤官房長官が14日の記者会見で「政府としては日本共産党のいわゆる『敵の出方論』に立った暴力革命の方針に変更はないものと認識している」と述べました。
 
これは、共産党が8日の中央委員会総会で、権力側の出方によっては非平和的手段に訴える「敵の出方論」との表現を今後は使用しないと決定したことに関する質問に答えたもので、志位委員長は同総会で、「敵の出方論」について「どんな場合でも平和的、合法的に社会変革の事業を進めるという共産党の一貫した立場を説明したものにほかならない」と述べたとのことですが、官房長官は「志位氏の発言によって政府の認識は何ら変更するものではない」とも語ったとのこと。
 
よって、私自身も今一度、この認識を正式なものとして留めておきたいと思います。
 
そして、何故このことに拘るかと言えば、即ち、次期衆議院選挙を、共産党と手を取り合って野党4党連携で戦うとすることの意味合いに直結するからであり、仮に立憲民主党が「こうした方針は別物」だと仰るのであれば、理念や信念なき、選挙のためのご都合主義と批判されて当然と思うところです。
 
さて、話しは変わり、今日9月15日は、天下分け目の「関ヶ原の戦い」の日です。
 
「関ヶ原の戦い」を説明するのは野暮というものですが、ここ敦賀との関係と言えば「病と闘いながらも友情に殉じた名将」敦賀城主「大谷吉継」の命日にあたります。
 
吉継公を祀る永賞寺では、コロナ禍を踏まえ一般の方が参加しての法要は行わないとのことでありますが、智勇兼備でとにかく人望が厚かった吉継公に改めて思いを馳せる次第です。
 
大阪城で開かれた茶会で、当時皮膚病(ハンセン病と言われる)を患っていた吉継公が口をつけた茶碗を誰もが敬遠するところ、石田三成だけは普段と変わりなくその茶を飲み干したことに感激をし、以後2人は友と呼び合う仲となり、この関ヶ原においても、劣勢を知りながらその信義を貫き、三成側の西軍で戦い、最後まで裏切ることなく戦い抜いたとの話しは、まさに吉継公の人柄、生き様を表す有名なエピソードとして語り継がれています。
 
吉継公はこうした人柄もさることながら、賤ヶ岳・九州・小田原戦役などで活躍しましたが、あの秀吉をもってして「百万の兵を与えてみたい」と言わせた軍才と奉行としての手腕も持ち合わせていました。
 
決戦の日は、既に盲目となり、病気で崩れた顔を隠すため絹の布をすっぽりと被り、輿に乗って自らの軍を指揮し、島津勢が「比類なき様子に候」と語ったよう、目覚ましい戦いぶりを見せた吉継勢でしたが、徐々に防戦一方となり壊滅。
 
吉継公は、自ら脇差で腹を突き、家臣に介錯させ自刃。享年42歳。
 
なお、敗れた西軍の一万石以上の大名で、関ヶ原の戦いの地で死を選んだのは大谷吉継ただ一人であったと言われています。
 

【関ヶ原の合戦絵図と大谷吉継公(インターネットサイトより引用)】
 
重い病気で、明日をも知れぬ命とは言いつつ、いつか果てるなら豊臣家再興と盟友三成のためと、恩義と忠義を全うしたその生き様たるや、敦賀の誇りであり、決して真似は出来ぬとも、一度しかない人生において吉継公から学ぶことの大きさを改めて感じる次第です。
 
敦賀の方にとっては釈迦に説法のような話しであったかもしれませんが、今日は「関ヶ原の戦い」に掛け「大谷吉継公」を紹介させていただきました。
 
同じ戦いでも総裁選や衆議院選、ここでは吉継公のような恩義や忠義、信念を貫く姿は見れるのか。
 
人のことは置いておいて、私自身は「信念なくば信頼なし」の言葉、吉継公から学ぶこととを胸に活動を続けてまいります。

古墳時代の新知見から分かる「重要都市敦賀」 

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どうしても気になるのは、犠牲者が100人超えにまで膨らんだアフガニスタンの自爆テロ。
 
現地に残る邦人らの国外退避のため派遣された自衛隊機は、これまでに邦人1人、米軍の要請に基づくアフガン人14人を首都カブールの空港から隣国パキスタンに輸送、退避させたとの報道となっており、引き続き、個別の事情で即時退避を希望しなかった少数の邦人や、退避希望を示す輸送対象のアフガン人約500人などに対しては、隣国パキスタンから支援活動を継続するとしています。
 
一方こうした状況を受け、立憲民主党の福山哲郎幹事長はtwitterで、派遣された隊員に敬意を表するとしつつ、「なぜわずか1人なのですか。退避を希望する日本人やアフガン人のスタッフなど500人程度の想定だったではないですか。ロシアも韓国もEUも数百人程度で退避しています。」と投稿。
 
自衛隊法84条の4「在外邦人等の輸送」に基づく自衛隊機派遣では、「輸送を安全に実施できる」ことが前提になっており、その狭間での命懸けの任務を遂行する自衛隊に対し、「わずか1人」とは何事かと、この野党第一党幹部の認識に呆れ返った訳でありますが、どうやら私の認識は真っ当であったようで、その後同twitter上は批判のコメントで溢れていました。
 
いずれにしても、米軍撤退期限の31日までは時間がなく、残された退避対象の方々の輸送、自衛隊の皆さんが任務を無事に遂行されることを願うばかりです。
 
さて、昨日は、週明けから始まる9月定例会に向け、今一度議案の読み込みや一般質問の通告書作成などを行いつつ、午後は気比史学会主催の「市民歴史講座」に参加してきました。
 
受付などのお手伝いもさせていただいた訳ですが、検温、手指消毒の徹底や常時換気、定員も通常の半分まで縮小するなど、十分なコロナ対策を講じた中での開催となりました。
 
今年度第2講となる昨日は、おおい町暦会館の山田虹太郎氏を講師にお招きし、「陰陽道の歴史と禍事防除 〜生活の中にある陰陽道〜」との興味深い講座であった訳ですが、こうして書いておりましたら、前回7月31日に開催された第1講のことをご紹介していないことを思い出しましたので、本日まず先に、そちらの方をご紹介したいと思います。
 
日曜日の朝ということもあり、ごゆるりとご一読のうえ、ロマンあふれる古の敦賀の情景を思い浮かべていただければ幸いです。
 
テーマ:「敦賀の古墳時代に関する新知見 〜沓見遺跡・手筒山古墳群などにおける最近の調査から〜」
 
1.日 時 : 令和3年7月31日(土)14時 〜 15時30分
2.講 師 : 福井県教育庁埋蔵文化財調査センター 安達 俊一氏
3.内 容 :
(1)はじめに
・敦賀の古墳や集落は東部に多いと言われていたが、調査により西部でも多くの集落が展開していたことが明らかになった。
 
(2)敦賀西部地区(沓見エリア)のほ場整備に伴う調査成果
・沓見遺跡は、8,200m2を対象に調査を実施(大町田遺跡は22,000m2)。
・弥生時代から古墳時代の周溝を伴う建物、古代の堀立柱建物、自然河川を確認。
・柱の穴の中から平安時代あたりの土器が見つかっている。
・一辺が6mくらいの建物跡もあり。
・大型の高坏(たかつき)は向出山1号墳でも見つかっていて、火にかけたことを証明する煤けた跡がある。
・沓見遺跡の須恵器(5世紀の中頃)は、日本に須恵器が広まって間もない頃のものが沢山あり貴重。
・畿内が朝鮮半島から導入した技術を伝えたのではないかと推定。
・敦賀という地域が、畿内の何者かの勢力に大変大事にされていた可能性がある。
 

【河川から見つかった土器(収集した破片から復元)】
 
(3)手筒山古墳群について
・手筒山西1号墳(前方後円墳、墳長53m)は、敦賀市内で2番目の規模。
・前方の等高線が立て込んでいることから、海からの眺望を意識していると言える。
・手筒山1号墳(円墳、径50m以上)。2段築成の円墳。海からの眺望良好で恐らく中期前半の古墳。頂上に登る階段の脇にある。
・手筒山2号墳(方墳、一辺約33m)。2段築成の方墳で墓石を持つとされるが、平野側からの眺望は悪い(1号墳の陰に隠れる)。
・敦賀市内2例目の埴輪(円筒埴輪)を持つ。
敦賀には、中期の古墳はないと思われていたため、中期の古墳が多くある若狭の勢力に押されていたのかのイメージが多かったが、今回見つかった古墳は、その間を埋めるものであり、逆に中期の古墳が充実してきたという結果になってきている。
・ランクが少し上の古墳が、中期の敦賀には多くあるというのが特徴。
・敦賀の古墳を作った勢力が、敦賀の海・船に関わる勢力であったと推定される(経済の構造)
 

【手筒山2号墳で見つかった埴輪(写真は反射して見づらいのですが)】
 
(4)大町田遺跡の整理作業から
・古墳時代前期の製塩土器が出土したことが明らかとなっている。
・櫛川遺跡からは製塩土器も発見されている。
 

【櫛川遺跡で発見された製塩土器】
 
(5)まとめ
・敦賀の勢力が当時貴重品であった須恵器を大量に保管していた点や畿内政権と関係が深い大阪湾沿岸の製塩土器が導入されている点から、古墳時代前・中期の段階で畿内政権にとって、敦賀が重要な地域として認識していたことが伺われる。
・また、海からの眺望を強く意識した古墳群の存在や、古墳時代前期に遡る製塩土器の出土は、その背景にある敦賀と「海」との関係性を端的に示している。

 
発掘調査で見つかった遺跡、古墳からはこうして様々なことが分かっています。
 
ここ敦賀は「交通の要衝」、「鉄道と港のまち」と言われますが、その歴史や重要さは国内でも有数のもの。
 
こうした情景を思い浮かべつつ、今を生きる私たちは郷土に誇りを持ち、今そして次代にこの大切な歴史をつないでいかねばなりません。

幕末の悲劇「天狗党」〜武田耕雲斎からの手紙〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

7月5日に住所地が大阪府の方で1人、新型コロナウイルス新規感染のあった敦賀市ですが、一昨日8日は3人、昨日は4人と、ここ1週間で8人の新規感染者数となっています。
 
感染のあった市内のバーについては、既に公表もされているところですが、こうして店舗名を明らかにされることで濃厚接触者や推定者の特定がしやすくなり、ひいては感染拡大を最小限に留めることにつながることから、どのような形で感染されたのかは置いたとして、勇気を持って公表されたことを感謝するところであります。
 
今日も複数名の新規感染は免れないところかと推測しますが、数に一喜一憂することなく、対策の基本行動遵守に努めていきましょう。
 
さて、市内の状況がこうなってくると、中々外出するのも慎重になろうかと思いますが、感染リスクの低い場所で余暇を楽しむとの観点から皆さんにご紹介したいのが、市立博物館で開催されている特集展示「天狗党~武田耕雲斎からの手紙~」。
 
「幕末の悲劇」とも称されている水戸「天狗党」ですが、元治元年(1864年)に藤田小四郎らを中心に筑波山で挙兵した後、京にいる一橋慶喜を頼り、朝廷に尊王攘夷を訴えようと約千名が行軍、その年の12月、風雪の中、木ノ芽峠を越えて敦賀の新保村に着陣したものの、そこで幕府軍に捕らえられ首領の武田耕雲斎、藤田ら天狗党は、そこで処刑されるとのエピソード。
 

【展示物の写真撮影はNGにつき、入口でのみ撮影】
 
この特集展示では、天狗党や当時の水戸藩の事情、挙兵から行軍、新保で止まる行軍のあゆみなどの流れに沿い、武田耕雲斎が加賀藩を通じて追討軍総指揮・一橋慶喜の元へ届けられた手紙を始め、博物館に寄託・寄贈された60に及ぶ貴重な関連資料が展示されており、天狗党降伏までの様子を伺うことが出来ます。
 
また、NHK大河ドラマで話題の渋沢栄一の従兄・成一郎(喜作)が、栄一と共にこの時期、一橋慶喜の部下として働いており、天狗党と間違えられ捕らえられるなど、知られざる天狗党関連エピソードも一部パネル展示で紹介されています。
 
私も先日観覧してきましたが、幕末の動乱期にタイムスリップしたかのような気分になりました。
 
武田耕雲斎は那珂湊(茨城)での戦争の際、「大いなる紅葉二三を縫った白の陣羽織」を着用しており、展示コーナでも所用の陣羽織及び軍扇が展示されていましたが、この陣羽織には、水戸藩主斉昭が急進的な幕政改革を幕府に咎められたことにより、致仕・謹慎を命じられ、これに連座して謹慎となった時に耕雲斎が詠んだ歌「木かくれて常には見えぬ紅葉はの散りてこそ知れ赤き心を」の思いが込められていたことを知りました。
 
まさに「散って燃ゆる」のは陣羽織のみならず、耕雲斎の生き様自体を表したものであると、純粋な「誠」の文字を貫いた武士道に心打たれたところであります。
 
この特集展示の会期は、8月3日(火)まで。
 
是非皆さんも幕末の悲劇と敦賀の関わりの歴史を振り返ってみてはいかがでしょうか。
 
※参考まで、2019年度気比史学会主催の市民歴史講座「峠を越えた群像」の第4講「小浜藩から見た天狗党」を聴講した際に、内容を書き留めたブログ(2019年11月3日)を以下にリンクします。
本来の敵は外国人であったはずなのに、何故日本人同士が戦わなくてはならなかったのか、純粋に国を思う志士と幕末の混乱など、天狗党がいかに深く、複雑な環境から生まれたのかをご理解いただけるかと思いますので、博物館に行かれる前に是非、お読み取りいただければ幸いです。
 
 →→→天狗党の志士に思いを馳せる(やまたけブログ)

名勝気比の松原と勝海舟

ブログ 敦賀の歴史・文化

誰だ 誰だ 誰だ〜♬
 
から始まる歌と言えば、私たち世代なら誰しも知る「科学忍者隊ガッチャマン」のテーマソング。
 
車中では結構、敦賀FMハーバーステーション(77.9MHz)を聴いていることが多いのですが、昨日午前中はちょうどアニソン(アニメソング)特集の時間があり、そこで流れてきたのが冒頭のガッチャマン。
 
元祖アニソンとも言える歌ながら新鮮で、歌手は「泳げたいやき君」で有名な子門真人さん、作詞はタツノコプロダクション文芸部、作詞は小林亜星さんという豪華メンバーであることも改めて知った次第。
 
この歌の何が良いかと言えば、サビの「地球はひとつ 地球はひとつ」と繰り返される部分。
 
今に置き換えれば、この新型コロナや環境問題を始め、地球規模で取り組まねばならない課題が多くあり、何か時代を示唆するかのような歌詞に思えたところです。
 
ガッチャマンにはなれませんが、科学忍法はなくとも科学的に解決することは出来るとの思いを持って、苦しい時は、この歌を口ずさみながら頑張りたいと思います。
 
そうした昨日は公的予定なしということで、午後は妻と愛犬きゅうとで松原公園内を散歩してきました。
 
時間は14時頃でしたが、駐車場はほぼ満車、県外ナンバーの割合も高かったように思えましたが、屋外でマスク着用のうえ、ご家族やグループ単位で浜辺を楽しんでおられること自体、極めて感染リスクが低く、目くじらを立てるようなことではないとの考え。
 
釣り糸を垂れる人、波打ち際で遊ぶ人、ボーっと海を眺めている人など、楽しみ方は様々なれど、こうして敦賀の自慢の場所に来て、思い出のひとつになることは嬉しいことであり、コロナが明けた際にも是非、リピーターとしてお越しいただきたいものです。
 
愛犬との散歩のほうは、グルっと松林の中の遊歩道を歩き、最後は「駐輦(ちゅうれん)の碑」まで。
 
日本三大松原で有名な「気比の松原」ですが、実は明治11年(1878年)には明治天皇が、明治24年(1891年)には勝海舟がこの地を訪れていて、勝海舟においては、かつて明治天皇が松原の景色をご覧になったことに思いを馳せ、次のような意味の漢詩を残しており、その証がこの「駐輦の碑」に刻まれています。
 
(以下、碑文に刻まれた漢詩の意味)
ここは、かつて明治天皇が、お乗物を留めて景色をご覧になられたところである。
国民は明治の善政を喜んでいる。
松風の音はあたかも音楽を奏でているようであり、波の音もこれに調子を合わせて、まさに洋々たる日本の前途を祝しているようである。
 

【浜グラウンドの横に建立されている「駐輦の碑」】
 
意外と敦賀市民も知らない、このような歴史やエピソードをもっとPRして、観光動線にも乗せられないかと思うと同時に、こうした歴史を知れば知るほど、より郷土に愛着が増すとの思いで紹介させていただいた次第。
 
先の勝海舟の言葉「洋々たる日本の前途を祝している」とは、日本の玄関口、国際貿易港として栄ええつつあった敦賀のことを頭に浮かべてのことと存じますが、そう言われれば尚のこと、このまちに誇りと帰属意識を強く感じる訳であります。
 
今の予定では、5月29日に東京オリンピック聖火リレーが、この松原を駆けることとなっています。
 

【松原海岸の様子(花城側を見る)】
 
多くの人が集まらないようにしないといけないのが大変残念ではありますが、風光明媚というに留まらず、気比の松原に詰まる歴史やエピソードが浮かび上がるように、全国に発信されることを切に望むところです。
 
敦賀市にお住まいの皆さんにおかれましては、是非また気比の松原へ、そして「駐輦の碑」にお立ち寄りいただき、明治の一傑の思いを感じていただければ、これ幸いに思います。
 

【おまけ:浜風に立髪なびかす愛犬「きゅう」。敦賀湾を望み何を思う(何も思わないか…)。】

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