『氣比神宮古図』で大いに盛り上がる 〜気比史学会「ミニ歴史講座」を開催〜

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敦賀の地域史は本当に面白い。
 
所属する敦賀の市民歴史団体「気比史学会」では連綿と、毎月第2木曜日の午後に「史楽庭」を開催していますが、タイトルに込められた意味は“地域史を楽しく学ぶこと”にあります。
 
これは昭和52(1977)年に、歴史好きな人たちで設立した当初からの、いわば同会のモットーともいえ、会を引き継いだ立場として重きを置いているもの。
 
「好きこそモノの上手なれ」の言葉がありますが、裏を返せば、“好きで楽しく学ぶ”からこそ、それが原動力となり約半世紀にわたって会が継続できているのではないかと。
 
常々そうしたことを思っているところでありますが、昨日はなお一層そのことを思う機会に。
 
それは、事前にご紹介しました同会主催の「ミニ歴史講座」。
 
どなたでも参加OK、飛び込み参加大歓迎のコンセプトのもと、昨日10時30分より、敦賀駅前知育・啓発施設「ちえなみき」2階のオープンスペースにて開催しました。
 
テーマは『越の日本海ネットワークと敦賀』と申し上げておりましたが、ちえなみきホームページ(HP)掲載の正しくは、『深遠の歴史・敦賀 〜古代から中世へ〜』。
 
敦賀の地域史を通史的に学ぶこのテーマは、スライド56ページのボリュームにつき、分割シリーズで開催しており、8月の第1回では、先史時代の敦賀から、渤海とのつながり(古より大陸に開けた敦賀)、松原客館あたりまで。
 
2回目の昨日は、”古代の北陸道”から入り、紫式部も越えた今に残る北陸最古の道「深坂古道」、北陸道総鎮守 越前国一之宮「氣比神宮」までを糀谷好晃会長よりお話しいただきました。
 
実はこのパワーポイント資料のベースは、8月に氣比神宮で開催された「全国一之宮会」で当会に歴史講演のオファーがあり、その際、糀谷会長が書いた原稿を元に、私の方でスライド化したもの。
 
ついては、手元に資料があるため、スライドベースで昨日の内容をご紹介しますと、まず「古代の北陸道」から入り、駅制を敷いていた当時は、現在の滋賀県湖北にある鞆結(ともゆい)から海津、そこから敦賀の松原駅へとつながる、いわゆる西近江路(七里半越え)が官道(今でいう国道)とされていた。
 
一方、同じ湖北の塩津から、深坂越え(滋賀県から敦賀市追分に抜ける)で敦賀に入る道を「深坂古道」と言い、平安時代には紫式部も超えた、“今も残る北陸最古のみち”であること。
 

【古代の北陸道(講座スライド抜粋)】
 
なお、深坂古道は、用途廃止に伴い荒廃していたところを、気比史学会が昭和57(1982)年より「深坂古道ある講」と題し、10数度にわたりウォーキングイベントを開催。
 
そうして機運が高まった後、平成4(1992)年には、敦賀みなとライオンズクラブの協力を得て、「史と詩の径(みち)」(歴史と詩が詰まったみち)として再生し、今に残されたこと。
 
続いて、話は、北陸道総鎮守 越前国一之宮である氣比神宮へ。
 
氣比神の神階の昇叙は、以下。
◉天平3(731)年・・・従三位、神封200戸
◉寛平5(893)年・・・正一位勲一等
 
数ある歴史の中でも主な出来事は、
◉延元元(1336)年・・・大宮司の気比氏春は、後醍醐天皇を奉じ、足利軍と対峙するも金ヶ崎城にて自害
◉元亀元(1570)年・・・信長の攻略で社殿焼失、古今の社領も没収 ※いわゆる元亀争乱
◉慶長8(1603)年・・・結城秀康が社殿造営(同19年竣工)社領を寄せる
 
とあり、以降の歴史は以下のスライドのとおり。
 

【講座スライド抜粋】
 
それまで“気比宮”であったのが、“氣比神宮”となったのは、意外や明治28(1895)年のことと認識したわけですが、一番盛り上がったのが、上記スライドにある「氣比神宮古図」。
 
先の大戦で多くの建物を失う中、奇跡的に残ったこの古図を元に、参加者同士で、自ら調査・研究した際の発見や考えを紹介し合うなど、大いに盛り上がり、さらには現在、策定委員会を立ち上げて検討を進める「氣比の杜整備構想」にも話が及び、歴史的背景や明治神宮(東京)が学びに来たとされる由縁などから、100年後に名実ともに“杜”として残すような考えがあって然りではないかとの声に、参加者一同、方向性が一致した次第です。
 

【スクリーンを前に盛り上がる様子】
 
あまりの盛り上がりに、昨日の話はここまでで終了。
 
1回目は11スライド、2回目で19スライドまで進みましたが、ゴールは56スライド。
 
やはり、“深遠”(はかりしれない)の敦賀の地域史と感じた次第です。
 
なお、講座閉会後も「氣比神宮古図」が映し出されたスクリーンを前に話が尽きず、冒頭に書いた「地域史を楽しく学ぶこと」とはこれにありと実感しました。
 
こうして2回目が終わり、次回、シリーズ3は10月25日(日)10時30分より、同じ会場にて開催いたします。
 
本当に面白いので、このブログをご覧になった皆様はぜひ、お気軽に足を運んでくだされば幸いです。

「小浜放生祭」と「ミニ歴史講座」

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9月2日〜4日は氣比神宮例大祭であり、これにあわせて行われる“市民総ぐるみ”で参加の「敦賀まつり」。
 
「けえ(氣比)さん祭り」の愛称で親しまれる「敦賀まつり」はまた「氣比の長祭り」として有名で、露店の一部は9月15日までお店を出しているなど、歴史に育まれた特徴ある敦賀の一大イベントであることは言うまでもないところ。
 
そうして、地域にある「祭り」は最大のコミュニティであり、地元民にとって楽しみであり自慢でもあるわけですが、今朝の福井新聞を見ると1面に掲載されていたのは、小浜の「放生祭(ほうぜまつり)」。
 
「小浜放生祭」は、小浜市小浜男山に鎮座する八幡神社の例大祭で、毎年9月14日・15日に行われてきましたが、平成15(2003)年の祝日法改正以降は、敬老の日直前の土・日曜日に行われています。
 
この両日は、氏子の24区が隔年で12区ずつ出番となり、大太鼓・神楽かぐら・獅子・山車(やま)・神輿といった多彩な演し物を繰り出し、氏子範囲である小浜の旧市街地を巡り、芸や囃子(はやし)を披露するというもので、一度見に行こうと思いつつも行けていないという、同じ福井県嶺南の気になるお祭り。
 
せっかくなのでと検索してみると、しっかり「小浜放生祭」のホームページ(HP)があり、祭りの由来を見るに、現在の放生祭の演し物は、江戸時代までは天王社(現在の廣嶺神社=小浜市千種2丁目)の祇園祭に出ていたもので、江戸時代の祇園祭は、6月7日に神輿3基が天王社を出御(しゅつぎょ)し、府中・上竹原などを経由して、御旅所であった八幡宮(現在の八幡神社)に渡御した。
 
この時、藩の足軽などが出した大太鼓・神楽太鼓・獅子が行列を組んでお供をし、神輿を八幡宮まで送ったほか、神輿は7日後の6月14日に天王社に還御(かんぎょ)しましたが、この時には、城下の町人町(現在の24区の範囲)からそれぞれに傘鉾・大太鼓や神楽太鼓、山車、さまざまに趣向をこらした仮装の練り子や作り物などで長大華麗な行列を構成してお供をし、神輿を天王社まで送り戻した。
 
このように小浜の各町がこぞって祭りに演し物を出すようになったのは、藩主酒井忠勝によって祇園祭が再興され、御旅所が八幡宮に定められた寛永15(1638)年からのことと考えられ、「380年以上」とされる小浜放生祭の歴史は、ここから始まっているとありました。
 

【大正〜昭和初期の放生祭で、広市場を出発する各演し物(小浜放生祭HPより引用)】
 
初代小浜藩主 酒井忠勝といえば、寛永19(1642)年には氣比神宮例大祭も一覧されたとの記録にもあるよう、そうした文化を大切にされていた方であったことが思い浮かぶもの。
 
このように、小浜放生祭は、京や江戸の文化を受け入れ、独自に発展させながら、380年継承されてきた歴史に思いを馳せた次第です。
 
さて、他のまちの歴史を学ぶことも楽しいわけですが、やはり面白いのは敦賀の地域史。
 
これまで敦賀の地域史を呼ぶに、「豊富で悠久の」と枕詞をつけていましたが、先の一般質問でもご紹介したよう、ふさわしい枕詞は「深遠(しんえん)」。
 
と言いつつ、通告書では「深淵」と誤って書いてしまい、壇上で訂正した次第ですが、「深遠」とは一言で言うと“はかりしれない”ということ。
 
さて、今日はその“はかりしれない”敦賀の地域史を通史的に学ぶ、気比史学会の「ミニ歴史講座」が開催されます。
 
前回に続き、テーマは『越の日本海ネットワークと敦賀 』で、講師も同じく糀谷好晃会長。
 
時間は、10時30分〜12時、ちえなみき2階のオープンスペースにて開催しますので、ぜひご一緒に楽しく、「敦賀の地域史」を学びましょう!
 
どなたでも参加OK、初めての方、あまり歴史に詳しくないけど興味があるという方大歓迎ですので、お気軽にお越しいただければ幸いです。
 

【こんな雰囲気で開催しますので(前回開催時の写真)】

参加者募集中!『羽柴兄弟とめぐる北近江の旅』

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敦賀の「おぼろ昆布」×ロックに「おぼ」れる
食と文化と音楽が混ざり合う、
地域密着ロックフェス第3回!
 
全国にフェスは数あれど、敦賀をまるごと味わえるのは「おぼろっく」だけ。金ヶ崎の海風を浴びて、地元の食と最高の音楽にどっぷり浸る2DAYS!
 
これは、敦賀市民文化センター発行したチラシにあった『おぼろっく2026 〜TSURUGA MUSIC FESTIVAL〜』の紹介文。
 
昨日と今日、敦賀音楽祭おぼろっく実行委員会が主催する『おぼろっく』が、同文化センターとお隣のきらめきみなと館を会場に開催されています。
 
実は、東京で働く長女が、敦賀の同級生と一緒に『おぼろっく』に“初参戦”するとのことで金曜の晩に帰省。
 
地元で開催されるフェスが帰省のきっかけになるという、こういう効果もあるのかと思ったところですが、1日目の昨日は楽しんできた様子。
 
これまで参加したフェスと比較しての“ご意見”が参考になったりもしましたが、今日も参戦するとのことで、もちろん長女のみならず全体が、会場周辺に設けられた食(飲食ブース)ともあわせて、大いに盛り上がることを期待する次第です。
 
さて、話は変わりまして、本日は1点、気比史学会が開催するイベントのご案内を。
 
これまで連綿と開催してきました敦賀市民歴史講座は、毎期、年間テーマを設けて構成しているところ。
 
今年度、第42期のテーマは、『信長から秀吉へ~そして家康へ―越前・若狭の武将たち―』。
 
本年1月からは、豊臣秀吉の弟、秀長を主人公に、NHKの大河ドラマ『豊臣兄弟!』が放映されていますが、今年度講座では、この放映にちなみ、豊臣兄弟が生きた時代における越前・若狭地域の武将たちの動向を通じて、地域の歴史的意義を再発見し、市民の歴史理解を深めることを目的とする講座を、多彩な講師陣により展開しています。
 
そうした趣旨のもと、ここまで3講は座学で開催してきましたが、次の「特別講」はフィールドワーク形式。
 
『羽柴兄弟とめぐる北近江の旅』と題し、9月27日(日)に開催予定としています。
 
開催概要としては、天下統一を成し遂げた羽柴秀吉・秀長に思いを馳せ、秀吉が柴田勝家軍と対峙するため、秀長が布陣した田上山砦(木之本)、「豊臣兄弟!北近江長浜 大河ドラマ館」(長浜の大通寺敷地内)などをめぐるもの。
 
なお、現在、参加者募集中で、まだ定員(25名)に対し余裕のあるところ。
 
ついては、以下に開催案内チラシを添付しますので、興味のある方は、ぜひとものご参加をお待ちしています。
 
※お申し込みは、チラシのQRコードからお願いします。
 

 
なお、何かお問合せがございましたら、以下アドレス(私の)まで連絡ください。
 
→問い合わせ先 yamatake@yamamoto-takeshi.net
 
なお、先日は下見に出かけ、当日ご案内いただく、奥びわ湖観光ボランティアガイド協会の会長さんと一緒に田上山を途中まで登ってきましたが、JR木ノ本駅から登り口までの風情ある街並みからは風情を感じつつ、中腹までではあったものの、この先に秀長が布陣した砦があると思うとワクワク感が大いに高まった次第です。
 

【田上山から木之本の町並みを望む】

【田上山前半の登り。最短ルートを行くので、しばらくは少し急です。】
 
田上山砦の後に向かう、長浜の大河ドラマ館とあわせ、戦国の世を感じつつ、季節は秋。
 
気持ち良いハイキング気分と重ね、ぜひいかがでしょうか?
 
申し遅れましたが、私はこの企画の事務局を担当していますので、皆さんとご一緒できることを楽しみに準備を進めてまいります。

「敦賀まつり」のフィナーレは秋の始まり

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例年と異なる日程で開催された「敦賀まつり」は昨日が最終日。
 
この日のメインイベント「カーニバル大行進」には、市内中高校による①マーチングの部、企業・団体による②パレードの部、③仮装・電飾パレードの部の3部で構成される「カーニバル大行進」に、今年は21チームが参加(昨年から1チーム減)。
 
福井新聞の記事では、参加者940人。
 
私は、パレードの部に出場する日本原子力発電(株)の皆さんと、今年も「ひょっとこ踊り」に参加してまいりました。
 

【神楽通りを行進する日本原電の隊列(嶺南ケーブルネットワークの中継画面より引用)】
 
「踊り」といっても、私は獅子舞担当(これで4年連続)で、隊列の周りで賑やかしをするに過ぎませんが、沿道の皆さんの触れ合いは楽しいもの(泣かせちゃったお子さんにはゴメンなさい)。
 
神楽通りから、途中センターステージで踊りを披露し、相生通りの最終地点まで、社員の皆さんと気持ち良く行進した次第です。
 
なお、各チーム色とりどりの衣装を纏い、この日のためにと練習してきた成果を披露する姿はまさに、“市民総参加”と感じたところであり、前日の「民謡踊りの夕べ」に続き、一体感を感じました。
 
→民謡の模様をご紹介したYouTube「やまたけチャンネル」はこちら
 
これでフィナーレを迎えた今年の「敦賀まつり」。
 
昨日と同様となりますが、参加された皆様、企画・運営に携わっていただいた全ての方々、大変お疲れ様でした。
 
さて、私にとって「とうろう流しと大花火大会」、「夏の甲子園決勝戦」の終わりが“夏の終わり”と以前にお伝えしましたが、この「敦賀まつり」が終わると秋の始まり。
 
今朝、散歩に出るとグッと涼しく、虫の音色も心地良い限り。
 
こうして地域に続く行事と季節の変わり目がリンクするというのが、敦賀の風情なわけですが、ゆったりしてばかりいられないというのも現実。
 
今日は国民民主党の党首を決める臨時党大会が行われることに加え、明日からは令和8年第4回(9月)敦賀市議会定例会が開会を迎えます。
 
そしてその先を見れば、来春の統一地方選挙までは半年と少し。
 
目の前のことをコツコツと、着実に取り組んでいくのみであります。
 
<おまけ>
カーニバルの司会をお務めの彩葉わかなさん(職人タレント)が“志願して”噛まれてくれました(笑)
※写真は、わかなさんのXポストより引用

大いに盛り上がった「民謡踊りの夕べ」

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「開催できたじゃないか」
 
これは、ちょうど1年前のブログの書き始め。
 
敦賀まつりのフィナーレを飾る「民謡踊りの夕べ」が中止になった際、多くの市民から聞いた言葉で、その意味とは、後の悪天候を予想し、お昼過ぎには主催者側が中止を公表したものの、結果して午後9時を過ぎるまで雨は降らず、参加を楽しみにされていた方々から冒頭に述べた気持ちが寄せられたもの。
 
なお、その際、私から申し上げたのは「それは結果論」。
 
各地区から集う参加人数の規模やバスの配車(敦賀市内や美浜町の事業者までご協力)、職員の動員、また何より、安全を最優先する上において、早めの判断により混乱を回避することが肝要であり、結果して雨の降り始めは遅くなったものの、賢明な判断であったとの考えをお伝えしたところ。
 
こうして1年前のことを思い返しつつ、昨日も日中は雨が降ったり止んだりで「山車巡行」が中止となるなど、主催者泣かせな天気と心配していましたが、「民謡踊りの夕べ」は、お昼過ぎに“開催”の判断で安堵。
 
私は地元ひばりケ丘町から参加するため、午後6時過ぎには町内会館を出発しましたが、途中ポツポツとあった雨は徐々に止み、会場に着く頃には夕焼けでうっすらピンクに染まる明るい空に。
 
「2年連続で中止にしてなるものか」との、市民の皆さんの熱意が雨雲を吹き飛ばしたに違いないと思った次第です。
 
そして、午後7時からいよいよ「民謡踊りの夕べ」がスタート。
 
日程の組み替えにより、今年は敦賀まつりのフィナーレではないものの、市内各地区から本町通りに集結した人数は、何と約2,100人(主催者発表による)。
 
ひばりケ丘町からも約35名が参加し、敦賀とてもすきすき、すてな踊り、大敦賀行進曲と敦賀の代表的な曲に合わせて、私も踊りを大いに楽しみました。
 

【壮観の本町通りを進む、ひばりケ丘町の隊列】
 
なお、毎年参加する中で、特に思い出に残るのは4年前。
 
未曾有のコロナ禍から明けた市民の皆さんの喜びやパワーを感じたところですが、今年も本町通りを埋め尽くす踊りの隊列は壮観。
 
対向する列で踊る多くの知り合いと手を振り合ったり、声を掛け合ったりと、また沿道には若い方からお年寄りの方まで多くの観客もおられ、まさに地元の民謡を通じて生まれる一体感を感じたところです。
 
阿波踊りには、かの有名な「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」とのフレーズがありますが、本当その言葉を体感する次第であり、来年はさらに多くの皆さんと踊れることを楽しみにしています。
 
さて、例年であれば9月2日から4日で行われる「敦賀まつり」は、今年は1日追加。
 
最終日の今日は、午後3時30分から「カーニバル大行進」が行われます。
 
土曜日開催としたこともあり、ご来場される多くの皆さんと一緒に盛り上がってのフィナーレになることを祈念しつつ、私も「ひょっとこ踊り」を全力で踊ってまいります(獅子舞担当ですが笑)。
 
<おまけ>
家でお祭り気分を味わう(?)きゅうちゃん。ハッピはまんざらでもない様子(笑)

市民総参加の「敦賀まつり」は今日から

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先の6月定例会の一般質問で取り上げた、原子力発電所から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分地選定の件について。
 
既に大きく報道されているとおり、経済産業省・資源エネルギー庁は8月31日に、同最終処分地選定に向けた文献調査を茨城県常陸大宮市に申し入れ。
 
これに常陸大宮市の鈴木定幸市長は「私自身は調査自体を前向きに検討したいと思っているが、市民の声を代弁する立場である市議の意見を伺った上で判断する」と回答した上で、昨日から始まった市議会定例会の本会議においても「前向きに検討したい」と公言。
 
加えて、勉強会開催や議員の意見を聴いて、早ければ今定例会会期中に結論を出したいとの考えに、心から感謝と敬意を表するところ。
 
自身の一般質問でも述べたよう、この問題は、原子力発電所の立地地域、電力消費地を問わず、国民全体で考えることであり、今後は「手挙げ方式」「国の申し入れ方式」を問わず、一つでも多くの自治体で調査に進むことを期待する次第です。    
 
さて、話は変わり、今日から地元では「敦賀まつり」が開催されます。
 
『敦賀に秋の訪れを告げる北陸随一の長まつり』
 
これは、敦賀まつり振興協議会のホームページ(HP)にあった言葉ですが、「氣比神宮例祭」は、9月2日の宵宮祭、3日神幸祭、4日例大祭、5日より10日まで後祭、15日の月次祭をもって終わる「氣比の長まつり」として有名であり、例祭の前夜祭にあたる2日の宵宮祭は、宵山巡行がないと本祭りは始まらないと言われているほど。
 
HPでは、3日の御鳳輦(ごほうれん)は、氣比神宮の御神体である仲哀天皇を祀ったお神輿で、菊花の紋章入りの錦旗を先頭に、烏帽子(えぼし)、護衛の直垂の衛士(ひたたれのえじ)、甲冑をまとった武士の犬神人(つるめそ)、神馬に乗った神官の神職(しんしょく)、稚児、楽人を従えて、雅楽が奏でられるなか、氏子達と共に古式ゆかしく市内を巡行する例祭の本祭りであること。
 
4日の例大祭では、まつりのシンボルとして長い歴史を持つ6基の山車(やま)が揃い、敦賀の山車の特徴は等身大の人形に本物の能面や甲冑を飾り付け、戦国時代の合戦における武将の勇姿を表現していること。
 
と、歴史ある「氣比神宮例祭」の内容を紹介しています。
 
また、9月2日の宵宮祭から4日例大祭までの期間を「敦賀まつり」と呼びます。
 
今年は、5日までと日程を1日延ばしての開催となり、4日には市内各地区から参加しての「民謡の夕べ」、5日は市内の小中高、企業や団体などが参加しての「カーニバル大行進」が予定されており、まさに“市民総参加”のまつり。
 
私も民謡、カーニバル両方に参加予定であり、大いに楽しみたいと思います。
 

【敦賀まつりのポスター(敦賀まつり振興協議会HPより引用)】
 
→敦賀まつりの詳しい日程はこちらをご覧ください
 
なお、昨年はフィナーレを飾る「民謡の夕べ」が雨により中止となりましたが、今年も心配なのが天気。
 
明日3日と4日が雨マーク、天気図によれば秋雨前線停滞に南からは台風と、こちらの心配も尽きないところでありますが、何をおいても判断の基準は“安全第一”で。
 
敦賀の歴史であり、地域をつなぐ最大のコミュニティである「敦賀まつり」が無事に開催されることを祈念する次第です。

『大谷吉継 挫折からの復活と敦賀』

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今年度においては、NHKの大河ドラマ『豊臣兄弟!』の放映に合わせ、豊臣兄弟が生きた時代における越前・若狭地域の武将達の動向を通じて、地域の歴史的意義を再発見し、市民の歴史理解を深めることを目的とする講座を全4講にて開催している気比史学会の市民歴史講座。
 
いずれも興味深く、ここまで2講を開催してきたところ、昨日の第3講では、日本中・近世史に精通し、大谷吉継の研究等多岐にわたりご活躍されておられる、大手前大学国際日本学部講師の石畑匡基(こくはたまさき)氏にご登壇いただきました。
 
テーマは『大谷吉継 挫折からの復活と敦賀』。
 
なお、今年度の講座リーフレットに寄せていただいた石畑先生からの言葉(講座趣旨)は以下。
 
天正17(1589)年に、大谷吉継は敦賀城主となったことは、敦賀の人なら誰でも知っている事柄でしょう。豊臣秀吉に早くから仕えた吉継は、順風満帆な人生を歩み、城主に就任したと思われるかもしれません。しかしながら、その直前の吉継は、豊臣政豊臣政権から追放される危機に瀕していたことが、近年の研究によって明らかになってきました。
追放の危機という大きな挫折を味わった吉継は、豊臣秀吉から何を期待されて、敦賀城主として復活を遂げたのでしょうか。本講では、吉継の挫折と復活の物語を皆さんと紐解いていきたいと思います。
 
この趣旨を読むだけで、どんなお話が聞けるのかワクワクして昨日を迎えたところ。
 
主な論文に「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」(『日本歴史』772 号、2012年)、「大谷吉継発給文書の基礎的研究」(『織豊期研究』27号、2025年)などとあるよう、第一線の吉継研究者である石畑先生からは、講座の冒頭、①吉継の基礎研究、②九州出兵での挫折、③復活と敦賀入部 の3章構成となる旨説明。
 
また、ポイントとしては、①大谷吉継発給文書から判明する基礎事項、②敦賀配置前に吉継が置かれた立場を究明、③吉継が敦賀に配置された意味を再検討とありました。
 

【熱気あふれる講座会場(市立図書館3階)】
 
第1章では、発給文書や花押の変遷など、積み上げられた丁寧な基礎研究から得られたことのご紹介に続き、第2章では、「挫折」を味わうことになった九州出兵について。
 
天正14(1586)年、豊臣秀吉による九州出兵が開始され、吉継も同行するも、天正15年6月21日付の新庄直友書状によると、吉継に加え、木下吉隆・高山右近が国外追放の危機にあり、秀吉から折檻(ここでは、暴力ではなく刑罰・処罰との意味)を受けたその理由が「キリシタン」にあったと。
 
実際、高山右近は、天正15年6月19日付伴天連(バテレン)追放令に抵触し追放された一方、吉継と吉隆はそれに至っておらず、正真正銘のキリシタンであったのか、または、キリシタンに関する何らかの対応が原因で折檻を受けたのかは明らかになっていないものの、何らかの関連があったのではとありました。
 
なお、天正15年6月27日付山崎秀家書状によると、「吉継は秀吉から折檻を受けているが、きっと大坂で召し直される」という見通しが書かれていたことは、おそらく、秀吉が吉継の存在を大事にしていたことを表すものであり、大変興味深く思った次第です。
 
「挫折」から「復活」となった第3章では、秀吉から折檻を受けるも、赦免(刑罰などを免れるとの意味)された後は、天下統一から対外戦争へと向かう秀吉政権にとって、中国大陸に向き合う地であり、北国の敦賀が集散し京・大坂への供給拠点となっている敦賀を万全に掌握することが、きわめて重要と判断された結果(外岡慎一郎先生:2000)もあり、①出羽方面の諸勢力とのパイプ役を吉継に集約していく意図、②豊臣政権による天下統一と大名・国衆統制政策のためと、吉継が敦賀に入部(配置)された意義を学ぶことができました。
 
“最後の敦賀城主”となった吉継の活躍と、最後は関ヶ原の地で散ったことはご承知のとおり。
 
こうして膨大な基礎研究から一つひとつ丁寧に、明快な語り口でご教授いただいた石畑先生に心より感謝申し上げます。
 

【石畑先生、ありがとうございました!】
 
なお、昨日の参加者は、定員を超える103名。
 
県外からも多く、遠くは神奈川、静岡、愛知、岐阜、兵庫からもお越しいただきありがたい限り。
 
いつもより女性参加者の割合が高いことも特徴的で、このように全国からファンが集う吉継を羨ましくも、あらためて誇らしく思った次第です。
 
<参考>
先般行われた戎光祥出版における「戦国豊臣武将総選挙」で、なんと1位に輝いたのは「大谷吉継」!
序盤から優勢にあったともあり、ダブルで誇らしく思ったところです!
 

「嶺南忠霊場盂蘭盆法要」にて先人の気概を知る

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お盆の最後を締めくくる、昨晩の「とうろう流しと大花火大会」。
 
こうした節目があるのも敦賀の良いところと思うところですが、お盆とともに夏も徐々に終わりに近づき、今朝は涼しげな風。
 
次は秋へと、季節の移り変わりを感じるところです。
 
お盆の節目に関しては、今年から参列した「嶺南忠霊場盂蘭盆(うらぼん)法要」。
 
毎年、8月16日の14時から、市野々の良覚寺様で営まれる嶺南忠霊場盂蘭盆法要は、もともと嶺南忠霊場(敦賀市岡山町)で行われていましたが、参列者の高齢化とコロナ禍もあって、ここ数年は良覚寺様のご本堂をお借りして営まれているとのこと。
 
法要の趣旨からいって、本来どなたでも参列可能でありましたが、恥ずかしながら私はこれまで参列したことなく。
 
今年、自身が所属する気比史学会が「戦没者追悼敦賀市民の会」の賛助団体となり、その関係で私も同会の会員に。
 
そうした経過もあり、今回お声かけをいただき、それは是非ということで参列した次第です。
 
14時からの法要ではまず、参列者全員での合掌に続き、戦没者追悼敦賀市民の会代表より追悼の辞、良覚寺住職様による読経と法話(途中、お焼香)。
 
その後は、来賓代表として米澤光治敦賀市長からのご挨拶、結びに嶺南地域遺族連絡協議会会長からの謝辞で締めくくられました。
 
なお、最後の嶺南地域遺族連絡協議会会長である奥野治樹さんからのご挨拶では、なぜこの法要を良覚寺様で営んでいるかの経緯に連れられるとともに、戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の管理下で嶺南忠霊場を取り壊す命令が下された際、これに良覚寺の前々住職様が大きく関係し、元のまま残された歴史を拝聴。
 
なお、この歴史的エピソードは、この日配布された良覚寺 寺報(第11号を戦没者追悼敦賀市民の会にて拝刷)に記されており、これによれば、昭和20年8月に終戦となったその年の12月下旬、GHQが忠霊塔を爆破するとの噂を耳にした遺族代表の橋本五郎さんが、福井県軍政部のハイランド中佐に爆破の中止を頼みにいく前日のこと。
 
GHQの軍政官が敦賀市役所に来て、「忠霊塔の中に軍人の遺骨が入っているだろう。すぐに取り壊せ。」との指示があり、市役所は関係しておらず、管理しているのは敦賀遺族会と敦賀市内の寺院である旨回答すると、明日案内せよと。
 
翌日の朝、軍政官3人と敦賀市職員5人が良覚寺を訪ね、同様の質問をするに、前々住職様は、8千余の軍人の遺骨は、福井、滋賀、岐阜など他県に引き取られた旨を説明した上で、「今は、戦没者嶺南地区一部と敦賀市内の寺院有志が預かった身寄りのない遺骨が入っている。中を見せるには全有志の承諾のもと、有志寺院3名以上の立会いが必要で、反対する寺院が一つでもあった場合は忠霊塔の中を開けることはできない。その鍵は全有志の委託を受けて私が預かっている」と言うと、軍政官は「分かった」と言ってくれたとのこと。
 
その後、軍政官は祀ってある仮仏を観て、深々とお辞儀をしたり、帰り際に渡した日本酒一升瓶を大層喜んだこと、前々住職様と握手して帰った様子が手に取るように記されていました。
 
寺報は続けて、後日、この話を聞いた市長(当時)さんが「お酒一升で取り壊しを免れたことは欣快(きんかい)この上ない」と前々住職様への謝意を述べられたとのこと。
 
今の忠霊塔(忠霊場)があるのは、まさに命懸けでGHQに懇願を試みた橋本五郎さん、そして前々住職様が気概をもって凛とした対応をされたことがあってのことと、これに心から敬意を表するとともに、大変感慨深く学んだ次第です。
 
また、奥野さんがお話の中で、前々住職様の肖像画があると仰ると、お寺の方が持ってきてくれてお披露目。
 
上記のエピソードから想像するとおり、肖像画のお姿は貫禄と徳がにじみ出るお方でした。
 

【良覚寺ご本堂の前でお披露目された前々住職様の肖像画】
 
こうした歴史的経緯を経ての法要を今後も連綿と続けていくこと、そしてこれらを語り継ぐことの大切さを思いつつ、来年以降もお盆の節目に参列することを思い、良覚寺様を後にした次第です。

嶺南忠霊場清掃奉仕にて先人たちを思う

ブログ 敦賀の歴史・文化

昨日発行しました「やまたけNEWS(第29号)」の冒頭には、先の大戦末期の空襲によって、ここ敦賀も未曾有の戦禍に遭ったこと、そして先人たちの犠牲の上に今の私たちがあることを深く胸に留める旨、書き置いたところ。
 
これは、7月12日の敦賀空襲をはじめとする戦争の悲惨さ、また平和の意義や人間の尊厳を考える大切さを、今一度皆で考えることを呼びかける意味でも書いたわけですが、ちょうど発行した日に、自身がそのことを今一度強くする行事に参加してまいりました。
 
それは、中郷地区嶺南忠霊場清掃奉仕作業。
 
敦賀市岡山町の市立中郷小学校グランドに面した小高い山の頂上にある嶺南忠霊場(嶺南忠霊塔)は、昭和17(1942)9月27日に建立された高さ19メートルの忠霊塔で、第二次世界大戦などの戦没者6,765柱が安置されており、敗戦後の昭和21年12月23日に敦賀市長から福井県遺族互助会へ管理が移行され、「嶺南忠霊場」と改称されたもの。
 
奉仕作業は午前8時より、地元の社会福祉協議会や関係団体が参加して行われ、私は先般入会しました「戦没者追悼 敦賀市民の会(以下、敦賀市民の会)」の一員(気比史学会も賛助団体として協力)として、初参加してまいった次第です。
 
作業前のご挨拶では、中郷地区社会福祉協議会の会長さん(会社の大先輩でした)に続き、敦賀市民の会の野添会長からは、奉仕作業への感謝と、準備された1枚のパネル(戦後まもない頃の嶺南忠霊場)を掲げつつ、当時は、近くに走る北陸線列車の乗客は、忠霊塔下を通過する際、車掌の合図(車内でアナウンスが流れた)で英霊に黙祷を捧げたとのエピソードを紹介。
 
その情景を思い浮かべつつ、あらためてこの場所の大切さを認識したところです。
 
せっかくの機会と、本忠霊場のことをもう少し詳しく調べてみると、昭和12年、支那事変の勃発と共に戦没者は激増し、昭和14年に「敦賀忠霊塔顕彰奉賛会」が設立され、合葬墓としての忠霊塔の建設が進められ、昭和17年9月に(前述の)「支那事変戦没者忠霊塔」が竣工。
 
忠霊塔の右方、低い広場には沓見の墓地から移された3基(満州事変陣歿者合葬碑、上海事件陣歿者合葬碑、明治卅七八年役戦病歿 将校下士兵卒墓)の合葬碑が並ぶ。
 
山頂正面の台上に立つ忠霊塔は。建屋(台座)部分の間口約8.9m、奥行約9m、全高約19m(建屋部分は約4m)の大きな塔であり、終戦までに合祀された英霊は、1万5千余柱に達しましたが、戦後、滋賀・岐阜の両県の護国神社に引き渡され、現在は嶺南地区の英霊6765柱が祀られている。
 
終戦後、敦賀に進駐した米軍が敦賀忠霊塔を爆破すると伝えられ、遺族代表の橋本五郎氏が県軍政部代表のハイランド中佐に中止を懇請し、橋本氏個人の所有名義とすることで現状維持が認められた。
 
昭和21年12月23日、敦賀忠霊塔の管理は敦賀市長から福井県遺族互助会に引き継がれて嶺南忠霊場と改名され、昭和50年には、敦賀市公園緑地法の適用を受け国庫補助も含め参道遊歩道の整備のほか美化工事も行われた(今では桜の名所にもなっている)。
 
ハイランド中佐は、昭和23年に更迭されたが、昭和46年秋に敦賀を訪れた際に忠霊塔に参拝し、整備された霊場の姿に感慨無量と懐古されたとありました。
 
こうした変遷を経て、現在に至る嶺南中霊場。
 
奉仕作業では、急階段を登り、それぞれの団体さんが持ち場持ち場を清掃。
 
敦賀市民の会では、参加された6名にて、山頂から合葬碑までの通路部分に覆い茂った草木の剪定や土砂の除去を行い、電動工具の恩恵もあってか、約1時間ほどで見違えるほど綺麗に。
 
最後は参加者一同で忠霊塔に合掌をし、作業を終えた次第です。
 

【合掌を終え、忠霊塔を望む】
 
この機会に、忠霊塔の内部を初めて拝見しましたところ、人口正面には小さいながら荘重な祭壇があり(霊記簿が納められているという)、高く周囲をぐるりと囲むように戦地でお亡くなりになった方々のお名前が刻まれた筒状のものが祀られていました。
 
こうした雰囲気を肌で感じ、犠牲となった先人への敬意と感謝の念が湧き起こるとともに、大切なこの場所を今後も守っていくことの重要性を認識した次第です。
 
ここは春になると桜の名所。
 
舞い散ってゆく桜は「日本人の心」であり、そうした場所に祀られていることに、今を生きる者へのメッセージが込められている。
 
初めての奉仕作業に参加し、その思いを今一度強くした次第です。
 

『柴田勝家と丹羽長秀』〜第42期 敦賀市民歴史講座(第2講)を開催〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

夏の高校野球 福井大会。
 
昨日、福井市のセーレン・ドリームスタジアムで決勝戦が行われ、先制点を奪った敦賀気比は、試合を優位に進め、福井工大福井に4-1で勝利。
 
見事、甲子園の切符を手にしました。
 
全国高校野球選手権の開幕は8月6日。
 
敦賀気比には県勢27校の代表として、“聖地”甲子園でも大いに活躍されることを期待いたします。
 
さて、決勝戦の行方を気にしつつ、お昼過ぎからは、気比史学会主催の「第42期 敦賀市民歴史講座(第2講)開催のための準備。
 
こちらはもう手慣れたもので、机・椅子などの設営は敦賀市シルバー人材センターの方々にお任せし、役員側にてプロジェクターや音響などのセッティング、受付の準備など。
 
開演1時間前の13時に受付を開始すると同時に、数名の方がお越しになり、それだけ楽しみにお越しいただいたことを嬉しく思った次第です。
 
その後も続々と来場があり、開演前には定員100名がほぼ満席。
 
昨日も30℃を裕に超える猛暑の中、95名の参加をいただいたことに事務局として心より感謝申し上げます。
 

【ほぼ満席となった会場の市立図書館3階 研修室】
 
今期第2講の講師は大河内勇介様(福井県立博物館 学芸員)。
 
『柴田勝家と丹羽長秀』をテーマに、冒頭、趣旨として、秀吉が多大な影響受け、名字とした「羽」=丹羽長秀、「柴」=柴田勝家をとりあげ(羽柴名字の由来は、寛永8年(1631)竹中重門『豊鑑』)、勝家の越前統治や長秀の若狭統治の特徴、そして二人の運命を大きく変えた本能寺の変から腰ヶ岳の戦いまでの動向、柴田家滅亡後の丹羽家の変遷などについて、古文書を読み解きながら紹介していくとありました。
 
また講座では、①勝家の越前統治、②長秀の若狭統治、③本能寺の変から賤ヶ岳の戦いまで、④丹羽家の越前統治と変遷等について、例えば古文書をLINE風にお示しいただいたりと、大変分かりやすく、また楽しくご教授いただきました。
 

【古文書もLINE風にするとこんなに面白い。信長からの手紙に部下は「承知しました」のみ。】
 
なお、当会の糀谷会長曰く、通算300回近くになる本市民歴史講座で、“勝家と長秀”を本格的に取り上げたのは、意外や初めてとのことで驚き。
 
先生の資料によれば、本能寺の変で信長が亡くなり、勝家、長秀、秀吉の運命が変わった。
 
織田家に忠実で合議を重視し、天下人になろうとしなかった勝家。
 
織田家中の情報の結節点・調整役であったが秀吉についた長秀。
 
山崎の合戦で最大の功績をあげ、勢力を伸ばし、天下人となる野望を自覚した秀吉。
 
秀吉は天下分け目の戦いで長秀とともに勝家を滅ぼし、勝家は織田一族の血を秀吉に託した。
 
内容を端折り恐縮ですが、“まとめ”では、「秀吉に深く関わった勝家と長秀。二人とも福井にゆかり。対照的な動向。墓所は近く。」とありました。
 
墓所は確かに、福井市内の足羽山近くのわずか1kmしか違わないということで、機会あらば、二人の墓所をお参りしたいと思う、心に残る講座となった次第です。
 
本講座に初登壇いただいた大河内先生。
 
最近ではAIも駆使して研究に取り組まれる、日本中世史の分野において大活躍されている方。
 
今回、大変興味深いお話をいただいたことに感謝申し上げるとともに、今後ますますのご活躍をご祈念いたします。
 
誠にありがとうございました。

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