いまに残る北陸最古の史と詩の径『深坂古道』

ブログ 敦賀の歴史・文化

晴天に恵まれ、最高気温も19℃までとなった昨日。
 
気比史学会「ミニ歴史講座」のため、10時前に「ちえなみき」に向かうと既に、正面玄関前には4、5人のお客さんが開店待ち。
 
オープンと同時に入店される(私もその一人ですが)ほどの人気ぶりを嬉しく感じた次第です。
 
早速、受付でお断りし、2階のセミナー&スタディに向かうと、「ちえなみき」さん側にて当日のイベント情報を掲示してくれてあり、きめ細かな対応をありがたく思ったところ。。
 

【セミナー&スタディにセットされたイベント掲示】
 
パソコン接続など準備を済ませ、10時30分からの講座にお集まりいただいたのは、私を含め5名。
 
先月は愛知県の女性に参加いただきましたが、今回は京都から男性にお越しいただき、SNS(X)を通じてのご縁に話が盛り上がったところです。
 
講座のテーマは、先月に続き『平安時代の敦賀』の後編として、今回は、いまに残る北陸最古の史と詩の径(みち)「深坂古道」を中心にお話ししました。
 
メインスピーカーは今回も私ということで、気比史学会の過去資料等をもとに作成したパワーポイントにて順次説明いたしました。
 
概要をスライドと合わせご紹介いたしますと、長徳2(996)年 紫式部が越前国府に任じられた父・藤原為時と現越前市へ向かう際に越えたとされる「深坂古道」の初見は『万葉集』。
 
中臣宅守(なかとみのやかもり)が「み越路の手向けにたちて」、笠金村(かさのかなむら)が「塩津山打ち越え行けば 我が乗れる馬ぞつまづく 家恋ふらしも」と詠んだこと。
 
敦賀と琵琶湖北岸を結ぶ最短経路であった深坂越え(深坂古道)は、北陸五カ国の穀物輸送の重要な官道として『延喜式』にも定められ、この間の公定駄賃を一駄につき米一斗六升(約24Kg)と規定していたこと。
 

【琵琶湖北岸の塩津と敦賀の追分を結ぶ「深坂越え」は最短ルート。西側には海津から愛発山を越えるルートもあり。】
 
また、紫式部が深坂古道を越える際に詠んだ歌と解説は以下のスライドのとおり。
 

 
さすが式部さん。
 
ひとつの歌に3つも掛けたことや、それぞれの意味合いについて、参加者の皆さんが思いを述べ合い、盛り上がったところです。
 
「深坂古道」は近世初期には、新道野越の開発により衰微。
 
ここで気比史学会では、いにしえのみちを「史と詩の径」として後世に伝えていこうと衆議一決し、会員はもとより、市民にも広く呼びかけて「深坂古道ある講」が昭和57(1982)年5月9日を皮切りに始められたこと。
 
その後、平成4(1992)年には、敦賀みなとライオンズクラブによる整備が行われ、「史と詩の径」として再生。
 
同年10月23日の当時の高木孝一・敦賀市長も出席され、盛大に整備完成式が開催されるとともに、気比史学会ではパンプレットを作成し、広く市民に配布したこと、「深坂古道ある講」には毎回、多くの方が参加されたことなどを、当時の新聞記事なども参考にご紹介。
 



【気比史学会作成のパンフレット。京都の方からは、「ぜひ京都駅に置いて欲しい」との要望あり。】
 
最後は、私の思いものせて以下のスライドのようにまとめた次第です。
 

 
その後は、同じ平安時代のトピックとして、古代の北陸道や芋粥、安倍晴明と晴明神社をご紹介し講座を閉じましたが、皆さんと和気あいあいお話しするなかで、新たな知見もあり、地域史を楽しく学ぶとはこういうことと、改めて認識した次第です。
 
なお、「深坂古道ある講」は気比史学会として早々に復活させたいと思いますので、その際はぜひ皆様もご参加いただければ幸いです。
 
後片付けを終え、階段を降りると「ちえなみき」の配色は白からピンクに。
 
いよいよ季節は春ですね。
 

国登録無形文化財登録はゴールではなくスタート 〜「再発見!敦賀のおぼろ昆布」ミニシンポジウム〜

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空気はまだ冷たいものの、比較的天気に恵まれているこの週末。
 
昨日は、以前のブログでもご紹介した、北陸三県で初開催となる「Out of KidZania in つるが2024」(アウトオブキッザニア)が敦賀市総合運動公園などで開催され、その様子がテレビの特集番組やニュースで取り上げられていました。
 
キッザニアは、こども達が 好きな仕事にチャレンジ し、楽しみながら社会の仕組みを学べる「こどもが主役の街」のことで、その言葉のとおり、敦賀にある様々なジャンルの仕事を子ども達(保護者の方も)に楽しく知ってもらおうと企画されたもの。
 
将来、敦賀に定着をという狙いがある訳ですが、本日も開催されるこのイベントで、何をおいても楽しく体験いただければと思うところです。
 
イベントの詳細は、以下のブログ(再掲)よりご覧ください。
 
→2024年2月24日ブログ『「Out of KidZania in つるが2024」参加者募集中!』はこちら
 
また、こちらも以前のブログにて、「悠久の歴史と文化を有する敦賀にとって大変嬉しいニュース」と書きました「敦賀のおぼろ昆布製造技術」が国登録無形民俗文化財に登録されることが決定したことについて。
 
 →2024年1月26日ブログ『祝!「敦賀のおぼろ昆布製造技術」が国登録無形文化財に登録』はこちら
 
本年1月24日(金)に国の文化審議会が開催され、同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、登録無形民俗文化財の登録について、文部科学大臣に答申された(福井県では初めての無形民俗文化財登録)訳ですが、昨日は、「登録決定記念イベント 再発見!敦賀のおぼろ昆布」と題したミニシンポジウムが敦賀市立図書館で開催され、参加してまいりました。
 

 
開催チラシにあった内容は以下。
 
◉基調講演 「食文化の保護継承と無形民俗文化財について」 文化庁 大石 和男 文化財調査官(食文化部門)
◉成果報告 「敦賀のおぼろ昆布製造技術の調査成果と今後の展望」 龍谷大学政策学部 石倉 研 准教授
◉学生発表 「おぼろ昆布産業の現状と展望」 龍谷大学政策学部石倉ゼミ
◉座談会   上記の大石氏、石倉氏、福井県昆布商工業協同組合 森田 貴之 理事長、敦賀市教育委員会事務局文化振興課 奥村香子係長による
 
大石調査官からは、文化財の体系や文化庁からの視点、石倉准教授ならびに龍谷大学の学生さんからは、調査研究を踏まえての現状と展望について、それぞれ興味深い内容を拝聴した次第です。
 

【ミニシンポジウムの様子(市立図書館3階 研修室にて)】
 
加えて、大変貴重な視点やご示唆をいただいたのが「座談会」。
 
石倉准教授がファシリテーターをお務めになり、上記3名をパネラーとして行われましたが、文化庁、昆布業界、文化行政のお立場それぞれから「おぼろ昆布」の価値あるいは今後について、次のようなお話がありましたのでご紹介いたします。
 
<国登録無形文化財に登録を受けて>
(奥村)日本遺産登録あたりから取り組んでいるが、今回の文化財登録はゴールではなくスタート。文化財登録されたことを契機に知っていただくことで、「おぼろ昆布」の良さが深まっていくこともあり。産業に従事されている方のお手伝い、業界や市民の皆さんにとっても良くなるよう取り組んでいきたい。
(大石)文化財予算は少なく、年間1千億程度。文化庁としては、背中を押すくらいの感覚。文化財は、地域のアイデンティティと結びついているため、地域の民さんで後押しして欲しい。新幹線効果によって、他の地域に呼び掛けていこうという視点が大事
(森田)敦賀といえば「おぼろ昆布」と言われるよう取り組んでいきたい。
 
<今後のこと>
(森田)職人として選択されにくい職種という現実はある。お店では、職人の手すきを実際に観光客の方に見てもらうことに加え、体験もしてもらっているが、そういう取組みを通じ、職人に接客いただくことで、作り手のストーリーも含めて「おぼろ昆布」を買ってもらう。付加価値をつける一助になればと。
(奥村)なぜ登録を目指すのか。誰が見ても分かる価値、肩書きを手に入れるということではないか。これからストーリーを広げていくのが行政の役割であり、市役所の組織体制が今後「文化交流部」として市長部局に移る(予定)ことを考えると、仕事上もマッチしてくる。皆さんに楽しんでもらうことで、滞在してもらうための動機づけになればと思う。
(大石)「バッテラ」は、おぼろ昆布を作らないと出来ない。つまりは、おぼろ昆布を残すということは、バッテラも残るということで貴重。ほとんどが機械製造という中で、おぼろ昆布は手作業でしか作れないレアなもの。クラフトとしての価値がある。なお、おぼろ昆布を食べる場所があまり無く、もったいない。おぼろ尽くしの料理など、ぜひお店を開拓していただきたい。
(奥村)行政的に気をつける点としては、おぼろ昆布は、生業(なりわい)にして生活している産業であるということ。そういう意味でも、業界の方と話をさせていただきながら、良い方向に持っていきたい。
(大石)文化庁でも「100年風土サミット」でネットワーク、知恵を広げていきたい。郷土料理はブームでもある。
(奥村)敦賀の港が、物資輸送の重要な中継点であったことを表すのが「昆布」だった。今後は、食べて広めるという視点も大事にしたい。
 
私のメモをもとに記載したため、表現が少し異なっている点があればご容赦いただきたいと存じますが、私にとって大変有意義な、そして今後の展開として「鍵」となるようなワードや視点をいただくことが出来ました。
 
なお、調査から報告書まで作り上げた奥村学芸員の存在自体を心強く感じたのは、私だけではないと思いますが、仰るよう、生業や産業であることを大事にしながら、世界に誇る「食文化ストーリー」を広め、磨き上げることに引き続きご尽力いただけますようお願いする次第です。
 
「みなとまち敦賀」と「おぼろ昆布」。
 
敦賀市民の一人として、その歴史と関係性を改めて認識する機会をいただいたことに感謝申し上げます。
 
(投稿後追記)
私も毎朝、熱々ご飯に「おぼろ昆布」を乗せて食べています(参加されていた方には意味が分かるかと)。
 

【会場後方に展示されていた「おぼろ昆布」のパネル。今後、市内各所でも展示されてはと。】

一日を振り返り、思うは郷土と祖国

ブログ 原子力 政治 敦賀の歴史・文化

穏やかな晴天に恵まれた昨日は、ブログに書いた予定のとおり、敦賀の歴史、革新的原子炉や国家防衛に関する講座や懇談会に出席。
 
スタートの会場が知育・啓発施設「ちえなみき」ということで、久々に駅前立体駐車場の屋上に停車をするとこの景色。
 
胸の澄く風景のとおり、充実した実りある一日となりました。
 

【青空に映えるJR敦賀駅。やはりここからの眺めは自慢のポイント。】
 
順を追ってトピックス的にご紹介しますと、まず、午前中にちえなみき2階 セミナー&スタディで『ミニ歴史講座』を開催(主催は気比史学会)。
 
人数こそ、私を含めて7名と少数でしたが、何とSNSをご覧になった県外からの参加者もお見えになる中、今回は「平安時代の敦賀(前編)」について、主に「松原客館」はどこにあったのかをテーマに最新の知見(今期の敦賀市民歴史講座であった南出眞助教授の説)をご紹介。
 
拙い私からの説明ではありましたが、参加者間でも活発に質問や意見交換がされるなど、大変楽しくも有意義な機会となりました。
 

【ミニ歴史講座の様子。フランクな雰囲気を心掛けて進行しました。】
 
次回は3/23(日)10時30分から、後編は、紫式部も通った「深坂古道」や「古代の北陸道」等について触れてまいりますので、皆様ぜひお気軽に参加くださいませ。
 
続いて、場所をプラザ萬象に移し、革新的原子炉推進協議会主催のシンポジウム『エネルギーの未来を考える 〜脱炭素化、エネルギー自給等への原子力の貢献〜』に出席。
 
こちらは小ホールがほぼ満席となるほどの熱気のなか、以下のお三方より基調講演。
 
◉基調講演1 エネルギー・原子力政策
・テーマ:エネルギー政策及び原子力政策の動向
・講 師:経済産業省 資源エネルギー庁 電力・ガス事業部 原子力政策課長 吉瀬 周作氏
◉基調講演2 高速炉サイクルの役割
・テーマ:高速炉および高速炉サイクル導入による原子力エネルギーの持続的利用について
・講 師:東京科学大学 理事特別補佐(特任教授/名誉教授)竹下 健二氏
◉基調講演3 GX推進における原子力の役割
・テーマ:原子力政策の動向及びGX推進に対する原子力の役割
・講 師:革新的原子炉推進協議会 副理事長 辻倉 米蔵氏
 

【ほぼ席が埋まった会場全景】
 
講演1では、今後原子力を活用していく上で、①サプライチェーン、②規制の許認可性(ATENAと規制庁との予見性もった対話)、③コスト に関しブレイクスルーが必要であること。
 
原子力の海外展開を考える上で、日本の規制は特殊性があるため、米国基準ベースで売れるところを開拓してもらい、その先に日本の海外展開を考えていくべきか。
 
講演2では、当面は軽水炉のマルチサイクルを進めていくとした上で、今後は高速炉と軽水炉の共存時代を目指すべきであり、軽水炉を動かしている間に最終処分場の軽減を図る策を講じることが重要との言葉が印象に残りました。
 
私は、次の予定のため、ここまでで途中退席しましたが、その後行われた福井南高校、福井大学・京都大学の学生さんを交えた『エネルギーの未来を考える』と題したパネルディスカッションでは、原子力の関係者で集まってしまいがちだが一般の視点も重要、原子燃料サイクルについては「先人からバトンを受け取り自分たちの世代で実現」すること、原子力専攻の人気が上昇していることなど、若い方の視点に会場の皆さんも刺激を受けたとの伝言があった次第です。
 
そして、この日3コマ目は、場所を大ホールに移動し、敦賀防衛懇話会主催の「新春防衛懇談会」へ。
 
懇談会は、第1部として講演会、2部は懇親会で構成。
 
第1部では、130名を超える多くの方がご参加のもと、航空自衛隊第6航空団司令 兼 小松基地司令 空将補の村上博啓氏より、『大空とその先へ 〜To the Sky and Beyond〜』と題し、約1時間のご講演をいただきました。
 
自己紹介では何と、23回もの転勤経験がおありとのことに驚いたところですが、ご講演では、航空自衛隊や小松基地の変遷や役割・任務について、わが国を取り巻く安全保障環境、防衛に関する昨今の状況について、大変分かりやすくお話しいただきました。
 
安全保障環境においては、防衛白書にもあるよう、“戦後最大の試練の時を迎え、新たな危機の時代に突入しつつある”というのが現在の認識であること、小松基地におけるF35(ステルス戦闘機)の配備、従前の防衛機能に加えてサイバー防御やさらには宇宙戦略も見据えた対応が必要となっていることなど、今一度、日本が置かれている危機に対し、認識を高めた次第です。
 
柔らかな語り口の中にも凛とした雰囲気、そして「国を守る」という使命感に満ちた村上空将補に、心より敬意と感謝を申し上げます。
 

【ご講演される村上空将補。皆さん熱心に聞き入っておられました。】
 
こうして歴史、原子力に国防と学んだ一日を振り返るに、思うは郷土と祖国。
 
「自分の国(地域)は自分で守る」との思いのもと、郷土や祖国の発展に向けては、気比史学会の会是「過去に学び 未来に期待し 今日に生きる」。
 
今日お伺いしたことを今後の糧に、微力ながら自身も精一杯取り組む所存です。

敦賀の歴史、革新的原子炉に国家防衛と盛り沢山の一日

ブログ 原子力 敦賀の歴史・文化

昨日のブログに書きました、いわゆる「103万円の壁」引上げに向けた国民民主党と公明党の連携について。
 
公明党の西田実仁、国民民主党の榛葉賀津也両幹事長は14日、国会内で会談し、所得税が発生する「年収103万円の壁」の引上げに向け、自民党を含めた3党協議の膠着(こうちゃく)状態を打開することを確認した。財源を理由に慎重姿勢を示す自民に協力して働きかける。公明と国民民主は先の衆院選後から距離を縮めてきたが、与野党を超えたタッグで自民に政策実現を迫る異例の展開となった。
 
この日、榛葉氏に直接電話で会談を持ち掛けたという西田氏も「自民の森山裕幹事長には私の方から働きかけていく」と請け負った。
 
との報道あり。
 
実は現在、資料を精査している敦賀市の来年度予算(歳入)にも影響することにはなるものの、目指すは「178万円」とした上でのタッグであり、今後の動きに引き続き注視する次第です。
 
さて、来週から始まる令和7年第1回(3月)定例会に向けた準備を整えつつ、昨日午後は公務で福井県自治会館(福井市)へ。
 
敦賀市議会からは、副議長の私と中道恭子文教厚生常任委員長が議員となっている「福井県後期高齢者医療広域連合議会」の令和7年第1回定例会に出席。
 
13時30分からの全員協議会に続き、定例会では、令和6年度補正予算案、令和7年度一般会計・特別会計予算や同連合会に関わる条例の一部改正等について審議のうえ、全議案を可決しました。
 
管理者側は、広域連合会長の西行福井市長をはじめ、副管理者の佐々木鯖江市長、杉本池田町長、議員側は県内全市町議会から議長さんも多く出席されるとあって、閉会後、資料をカバンに入れている間に「あっ」という間に会場はもぬけの空。
 
皆様、お忙しいようで…。
 
おかげさまで、私自身もこうして充実した日々を送れていることに感謝するところですが、本日は公私ともにスケジュールが目白押し。
 
10時30分からは、自身が所属する「気比史学会」の『ミニ歴史講座』をちえなみき2階で開催。
 
13時30分からは、場所をプラザ萬象小ホールに移し、革新的原子炉推進協議会主催のシンポジウム「エネルギーの未来を考える」に参加した後、会議室に移動し、16時からは理事を務める「敦賀防衛懇話会」の定期総会、大ホールでの防衛講演会、新春防衛懇親会と流れるような予定となっています。
 
なお、このうち、防衛講演会ならびに新春防衛懇親会については、市議会議長の代理としても出席。
 
どれも優劣をつけられぬ大事なイベントばかりですが、『ミニ歴史講座』に関しては、自身がメインスピーカー役(決して講師ではなく)となって、「平安時代の敦賀」(松原客館の謎にも迫ります)についてお話しすることとしています。
 

 
こちらについては、どなたでも参加OK。
 
敦賀の地域史を“楽しく”一緒に学んでいきたいと思いますので、お気軽に参加いただけますようお願いいたします。
 
今日は穏やかな晴れ模様とのこと。
 
それでは、皆さま良い週末をお過ごしください。

祝!「敦賀のおぼろ昆布製造技術」が国登録無形民俗文化財に登録へ!    

ブログ 敦賀の歴史・文化

昨晩は、小浜市で開催された日本郵政グループ労組(JP労組)福井南部支部の「新春交歓会」にお招きいただき出席。
 
労組関係の「旗開き」や「新春の集い」の中で唯一、家族参加型で開催されているのがJP労組さんの交歓会であり、この日も小さなお子さんの声にアットホームな雰囲気を感じたところです。
 
一方、関係者のごあいさつや各テーブルでの歓談では、苦渋の郵便料金値上げや年賀状3割減の状況、ゆうちょ事業では「民業圧迫になるから」と上限規制がかかっているなど、郵政事業を巡る様々な課題をお伺いしました。
 
また、移動は最寄りの粟野駅からJR小浜線を利用。
 
行きは多くの高校生が乗車されにぎやかだったものの、帰り(終電)の乗客は5名ほど。
 
課題は聞いて、乗らねば分からぬことと実感した次第です。
 
さて、話題を変え、本日発行の「やまたけNEWS」では“文化財センター”のことを紹介するところ、一昨日は悠久の歴史と文化を有する敦賀にとって大変嬉しいニュースがありました。
 
そのニュースとは、「敦賀のおぼろ昆布製造技術」が国登録無形民俗文化財に登録されたこと。
 
1月24日(金)に国の文化審議会が開催され、同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、登録無形民俗文化財の登録について、文部科学大臣に答申。
 
今後、官報告示を経て登録されるとともに、福井県では初めての無形民俗文化財の登録となります。
 
なお、敦賀市HPに掲載されたページにある『登録の趣旨』は次のとおり。
 
<以下、記事引用>
 本件は、古くから日本海の海運の要衝であった敦賀において、交易品の昆布を用いた細工昆布の製造加工の技術として伝承されてきたものである。機械製造による昆布の加工・製造が進む中で、敦賀では、現在も手作業による伝統的な製法が維持されている。専用の刃物を用いて様々な厚みに削り分ける技術や、刃先の調整技術などが良好に継承されており、地域的特色のある昆布の製造技術として注目される。
 
 →敦賀市HP『「敦賀のおぼろ昆布製造技術」が国登録無形民俗文化財に登録されます』はこちらから
 
併せて、ぜひご覧いただきたいのが、同ページに掲載の『敦賀のおぼろ昆布加工技術調査報告』(2024 敦賀市教育委員会)。
 
敦賀市教育委員会 文化振興課の学芸員を中心に、龍谷大学との共同研究によって実施した調査報告書は、「令和4年度和食を支える「敦賀昆布ストーリー」創出・発信事業 敦賀おぼろ昆布加工技術概要報告書」(敦賀市教育委員会、2023 年3月)に令和5年度分の調査成果を踏まえて加筆修正を行ったもの。
 
拝見するに、①調査の概要、②おぼろ昆布の加工技術の概要、③敦賀におけるおぼろ昆布加工の姿、④敦賀以外の地域におけるおぼろ昆布加工の概要、⑤おぼろ昆布加工職人の現状と今後の課題 に章立てされ、文献調査はもとより、丁寧に聞き取りをされたうえで、歴史を掘り起こしたことが伝わってくる内容となっています。
 
おぼろ昆布は、酢に漬けて柔らかくした昆布の表面を、職人が専用の包丁で帯状に削った昆布加工品である。機械生産のできるとろろ昆布とは異なり、機械化は困難で、職人の手によって一枚一枚削られる。敦賀市はおぼろ昆布の一大産地として知られている。(中略)またおぼろ昆布は、薄ければ薄いほどよいとされ、透けるように薄く、口に入れた瞬間に溶けるような食感が特徴である。実際、薄いものは口に入れたときにスーッと溶けるという。おぼろ昆布の厚みは一般的には 0.02mm から 0.05mm くらいだが、薄いものは0.01mm である
 
と、機械では削り出せない技術を紹介していたり、材料となる昆布の輸送に関しては、
 
昆布は北海道がその一大産地であり、北海道および一部三陸沿岸にのみ産出する。地元では採れない昆布の加工が敦賀で盛んになる背景には港町としての敦賀の歴史がある。敦賀は日本列島の日本海側のほぼ中央に位置する。若狭湾の東端にある敦賀湾は南北に深いリアス式の海岸を形成し、その奥に形成された小さな三角州に古代から港が形成されてきた。特に京の都までの地理的距離の近さと、琵琶湖のすぐ北という立地から、日本海側から畿内へ向かう際の玄関口として、また日本海海運と琵琶湖水運の結節点として重要な拠点となってきた
 
日本史上の昆布の初見資料は、『続日本紀』の霊亀元年(715)十月丁丑条で、蝦夷の朝貢あるい は交易によって古くから昆布が機内にもたらされていたことが伺える。(中略)敦賀と昆布については、狂言の古典『昆布売』(室町期成立か)のなかにみられる「若狭小浜の召しの昆布」 といった表現や、同じく室町後期までに成立した『庭訓往来』に「宇賀(現在の函館付近)の昆布」について、「越前ノ敦賀ニ着クト云ヘリ」とあるのが初現期の史料であり、14世紀ごろまでには敦賀湊を介した昆布の流通ルートが完成していたとみられる
 
などとあり、その後、北前船につながっていったことが分かります。
 
この報告書の巻頭には、前教育長の上野弘氏の言葉が記されていますが、そこにあったのは、「そうした中で今回その歴史と職人の技、それらを支える産業構造などを調査し、歴史的文化的価値を明らかにできたことは非常に意義があることと考えております。この調査が、今後この素晴らしい食文化を未来へと伝えていくための取り組みにつながる一助となるよう願います。」。
 
日本のダシ文化が注目されることと合わせ、「みなと町敦賀」を表す「おぼろ昆布」が、技術伝承などの課題を克服し、今後も日本、さらには世界へ発信されることを期待する次第です。
 

【Youtubeで公開されている「敦賀の昆布加工技術紹介動画」。ぜひこちらもご覧ください。】
 
 →敦賀市作成の上記YouTube動画はこちら

悠久の歴史を誇る「氣比神宮」

ブログ 敦賀の歴史・文化

昨年の能登半島地震の記憶が新しいだけに、何事も起こらず、元日を健やかに過ごせたことに安堵するところ。
 
テレビでは、大勢の初詣客で賑わう全国の寺院の様子が映し出されていましたが、歴史・伝統の重みを感じたのは伊勢神宮。
 
伊勢神宮では昨日、社殿を20年に1度建て替える令和15(2033)年の第63回式年遷宮に向けた準備や行事を行う「神宮式年造営庁」を、同市の神宮司庁内に設置したとのこと。
 
造営庁は、7部4室15課で構成され、8日には神宮司庁の職員など約600人に辞令が交付されるとあり、今後は遷宮に用いる1万本以上のヒノキ材の調達や、殿舎の建造、約1600点に上る装束や神宝の調製を進めるほか、33の祭事や行事を執り行うとありました。
 
なお、内宮、外宮の社殿をそれぞれ隣接する敷地に建て替え、神宝なども新調する式年遷宮は1300年の伝統があり、前回の遷宮は平成25年10月。
 
8年後に向けて、これだけ多くが動員されて行うことの重大さ然り、1300年もの間、連綿と行事が続いていることを尊く思う次第です。
 
さて、私も昨日は、家族4人揃って氣比神宮を参拝。
 
消防士の長男は、大みそかに発生した美浜町丹生での火災対応(人的被害はなし)により、元日朝までの予定であった勤務が、午後になって帰宅。
 
消防や警察に加え、インフラ産業に従事される皆様におかれては、まさに盆正月も関係なく献身的に対応いただいており、長男にも慰労の声を掛けたところですが、であるが故、こうして安全且つ安心して暮らせていることに感謝したところです。
 

【大勢の参拝客で賑わう氣比神宮大鳥居前】
 
この気比神宮。
 
これまでのブログで幾度もご紹介していますが、改めて、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)、仲哀天皇、神功皇后、日本武尊、応神天皇、玉姫命(神功皇后の妹)、武内宿禰命(すくねのみこと)の七神を祀る気比神宮は、文献上『日本書紀』に初見、『古事記』にも記載があるもの。
 
『敦賀の歴史』(敦賀市史編さん委員会)によれば、奈良時代になると氣比神の地位の上昇が目立ち、天平3年(731)には従三位という神階となりますが、その背景には、当時の国際情勢、即ち新羅との外交関係の緊迫に対し、ツヌガアラシトの笥飯浦への来着など、朝鮮半島との関係が深い氣比神の加護により、新羅との緊迫関係を乗り切ろうとしたことにあったとされます。
 
宝亀元年(770)には、伊勢神宮や能登国の気多神などと並んで、氣比神への奉幣が行われますが、これも唐の不安定な状況や、出羽国を中心とした蝦夷の反乱などと関わる措置であり、このように気比神は、日本海岸の守護神として国家的祭祀を受けるようになった。
 
その後、平安時代に入ると、先のNHK大河ドラマ『光る君へ』で登場した「松原客館」を監督していたのは氣比神宮司であったことにあるよう、貞観元年(859)には従一位となり、寛平5年(893)までには正一位勲一等になるなど、日本海側の中心的な航海安全の神として、最高位に達した気比神は、越前国一宮、さらには北陸道総鎮守といわれ、北陸道諸国の信仰を集めるようになったと『敦賀の歴史』は結んでいます。
 
また、『敦賀の歴史探訪』(糀谷好晃氏編著)には、「平成14年(2002)秋、祭神合祀1300年の式年を斎行しており、悠久の歴史を誇るその諸事蹟は誌面では尽くせないほど多事多彩である」と氣比神宮を表現しています。
 
「けいさん」或いは「けえさん」と市民から呼ばれる、敦賀の象徴であり、親しみと畏敬を込める「氣比神宮」。
 
古より、国際港を有する全国屈指の交通の要衝であった背景も誇りに、末永く継承されますよう願う次第です。

古より「氣比神宮」と「敦賀津」は敦賀のシンボル

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「勤労感謝の日」の昨日は、日本全国の神社で「新嘗祭」(にいなめさい)が執り行われました。
 
私は議会の立場で、氣比神宮の「新嘗祭」に参列いたしましたが、新嘗祭は「しんじょうさい」ともいい、「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくことを意味し、収穫された新穀を神に奉り、その恵みに感謝し、国家安泰、国民の繁栄をお祈りする祭典。
 
特に宮中では天皇陛下が自らお育てになった新穀を奉るとともに、御親らもその新穀をお召し上がりになりますが、収穫感謝のお祭りが11月下旬に行われるのは全国各地での収穫が終了する時期に、御親祭を行われたためと考えられています。
 
なお、伊勢神宮のホームページを見ると、
 
『春には祈年祭で豊作を祈り、秋には新嘗祭で収穫に感謝』
 
『日本書紀』に天照大御神が斎庭(ゆにわ)の稲穂を天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられたことが記され、そこに日本の始まりが位置づけられることは大きな意味を持ちます。春に豊作を祈り、秋の収穫に感謝する稲作を中心とした営みを、日本人は2000年以上繰り返して来ました。天皇陛下から国民に至るまで神を祀ることは日本の大切な文化です。
 
との由来と意味合いが記載されていました。
 
なお、春の耕作始めにあたり、五穀豊穣を祈るお祭り「祈年祭」は国家規模で執り行われ、平安時代の『延喜神名式』によると、神宮を始め全国2,861社の神々に幣帛(はいはく)が奉られていたとあり、この「新嘗祭」に至るまでを考えるとまさに、稲の育成周期が日本人の一年と感じたところです。
 
氣比神宮では、福井県内農協を通じ多くの農家より本年の新穀のご奉納を戴いたとあり、そのことと合わせ、感謝を込めて玉串拝礼いたしました。
 

【収穫への感謝と国家の繁栄を祈りました。】
 
また、夜はニューサンピア敦賀で開催された「「第35回北前船寄港地フォーラムin加賀・福井」のレセプションに出席。
 
「北前船寄港地フォーラム」とは、江戸時代に物流のネットワークと地域交流の役割を担っていた北前船の伝統を現代に生かし、関係自治体が連携してその魅力を発信し地方創成に寄与することを目的に平成19年(2007)から日本海側の北前船寄港地などで開催されているもので、今回で35回目。
 
11月21日・22日は加賀市にて、23日は福井県で、特に今年は能登半島地震からの北陸の復興支援および北陸新幹線の開業を契機として開催されました。
 
福井県産業会館で行われたお昼のフォーラムでは、「北前船がもたらした食文化」をテーマとしたスペシャルトークセッションに奥井隆 敦賀商工会議所会頭(株式会社奥井海生堂 代表取締役社長)が話し手として登壇されたそうで、まさに北前船と直結する昆布にまつわるお話しをされたとありました。
 
出席した夜のレセプションは敦賀市のほか、小浜市、美浜町の会場でも開催され、敦賀会場においては、県から中村保博副知事、岩倉南越前町長、米澤敦賀市長や行政関係者、一般社団法人 北前船交流拡大機構関係者、敦賀商工会議所の方々など多くが募り、大変盛り上がったレセプションとなりました。
 
ご来賓の挨拶では、「(北前船の)本丸ともいえる敦賀に来て、奥深い歴史や文化を感じた。」、「古くから国際港を有する敦賀のことをどんどん発信していきたい。」との言葉があり、嬉しく感じた次第ですが、先の氣比神宮と敦賀の津(のちに湊→港)は、古代から敦賀のシンボルであり、北陸はもとより日本の要衝であることを示すもの。
 
古より連綿と続くこの歴史と文化を誇りに、まさに気比史学会の会是『過去に学び 未来に期待し 今日に生きる』の理念のもと、引き続き、郷土発展のため汗をかいていく思いです。
 

【『引札 田中組(千石船)』敦賀市立博物館 所蔵品データより】
陸海物貨運輸所 金ケ崎停車場前にて。俵を満載した千石船と沖には蒸気船を描く。

『日本横断!運河計画 敦賀~琵琶湖運河計画と琵琶湖の新田開発』〜市民歴史講座(第5講)を開催〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

注目の兵庫県知事選挙は、斉藤元彦氏(前知事)が勝利。
 
パワーハラスメントなどに関し、SNSやYouTubeでFACT(真実)を探った有権者の皆さんの判断と報じられていますが、斉藤氏が戦っていたと言われる「既得権益」とは何だったのかまでは報じられないまま。
 
まさに民意を問う「選挙」でしたが、一連の流れと合わせ、大変考えさせられる「選挙」となりました。
 
さて、「FACT」に関連して歴史の世界。
 
『それは夢か欲望か…みんなの本気が海と湖を結び、日本を構断していった。』
 
これは、令和6年度敦賀市立博物館特別展「日本横断 運河計画」にあるサブタイトルですが、11月2日の市立博物館特別講座に続き、11月16日(土)には、博物館との協力関係のもと、気比史学会主催の市民歴史講座(第5講)『日本横断!運河計画 敦賀~琵琶湖運河計画と琵琶湖の新田開発』を開催しました。
 
講師には、大津市歴史博物館の杉江進館長をお招きし、各文献を基にした、史実に基づく貴重なお話しを拝聴しました。
 

【100名近くの方に参加いただいた市民歴史講座の様子】
 
はじめに、敦賀-琵琶湖運河計画ついて、
・誰が何を目的にしたか?
・資金はどこから調達しようとしたか?
・計画ルートはどこか?
の視点で考えていきたいとした上で、以下のお話しがありました。
 
<伝承の世界>
◉同運河計画は、平安時代の平清盛(が重盛に託した)、天正13年(1565)の敦賀城主の蜂屋頼隆、天正末期から慶長初期に大谷吉継らが計画したとあるが、近世の地誌等で確認されるものの、具体的計画を示す史料は残されず、伝承の世界から運河計画は始まっていると言える。
 
<京都商人の出願>
◉寛文9年(1669)頃からは、西廻航路の整備による京都への物資減少への対策。荷物輸送の便を図るとともに、琵琶湖の水位減少に伴う洪水対策・新田開発にも言及する。
◉元禄8年(1695)には、京都の商人連名による計画では、願書が幕府に取り上げられ、幕府役人の現地への派遣となるが、周辺の反対により頓挫。
◉元禄年間には、敦賀に残る伝聞情報もあり。
 
<運河構想から新田開発へ>
運河の開通による物資輸送で直接利益を得る者以外(江戸の商人、幕府の御用職人、幕府)が出願し、琵琶湖の水位を低下させることによる湖辺の新田開発計画が取り上げられる。
◉新田開発が第一の目的とされ、運河は二の次となる。新田の支配を目的とするか。
◉享保5年(1785)には、幕府の御用職人による出願。琵琶湖の水位を下げることによる新田開発計画があり、その範囲は、瀬田川下流、大坂までの範囲に及ぶ。徳川吉宗の享保改革による新田開発奨励策と関わるか。
◉天明5年(1785)には幕府自らの計画があるも、田沼意次政権による新田開発策の一環は、田沼の失期により頓挫。
 
<実現性のある運河計画>
琵琶湖と日本海を運河で結ぶことは技術的に不可能に近いが、一部に水路の開響や既存の河川を利用することで実現する。輸送の便を図ることを目的とするか。
◉文化12年(1815)幕府と小浜藩によって計画され、疋田一敦賀に舟川を開き、舟を通わす。但し、工期が4ヶ月と短いところから、既存の川を利用したのではないかと考えられる。疋田の町中に舟川の一部が残る。小浜藩主が老中であったという背景がある。20年利用され、その後廃止。
◉安政4年(1857)外国船の来航による日本海航路の不安から計画される。琵琶湖側で、塩津と大浦を起点とする2ルート。疋田舟川の一部を再利用して実現。彦根藩の反対。幕府内部における利害対立がからむ。
◉文久3年(1867)幕府の許可を得た金沢藩による計画と小沢一仙による計画。金沢藩は6ルート(敦賀一塩津、敦賀一大浦、敦賀一海津で各2ルート)の測量を行う。
 
<琵琶湖を巡る運河計画>
◉小浜ー今津運河、瀬田川通船(宇治川、淀川を経て大阪へ)、大津ー京都運河(明治に実現する琵琶湖疏水の先駆け)などあり、
◉天野川通船による「伊勢湾へのルート」について、慶長10年(1605)、京都嵯峨の角倉が、天野川の世継(琵琶湖岸の港)から能登瀬を経て醒ケ井に川船を就航させ、美濃・尾張からの荷物を運ばせるが、彦根藩の訴えにより停止。
文久3年(1863)には、彦根藩が天野川を利用して中山道の柏原宿まで通船し、そこから牧田川の湊である船まで水路を開し、揖斐川を経て伊勢湾に通じる。京都町奉行所の役人が検分に訪れ、江戸からも測量方が派遣される手はずであったが、実現せず。
 
<運河計画が実現しなかった理由>
①当時の技術では大規模な水路や隧道を掘削することは不可能に近く、また膨大な資金を誰が負担するかが課題であった。
②運河が通ることに対する、既存の交通ルートの従事者、琵琶湖の水位低下の影響をうける水運関係者、農業従事者、漁業従事者、大名等の反対があった。
③運河ルートの入り組んだ支配による、利書関係調整の困難さ。
④運河には船を通すための水量の確保が必要な一方、洪水によって運河が被害を蒙(こうむ)るという運河維持の困難さ。
⑤一部河川を利用した運河であっても敦賀から琵琶湖へ向かうルートは引船になり、一方通行の稼ぎにしかならず、引船で荷物を運ぶのであれば、従来の陸路を利用した方が効率が良い。
 
以上が、講座の概要となります。
 
こうして史料と付き合わせて確認すると、運河計画は途中、新田開発のため琵琶湖の水位を下げる(敦賀への水抜き水路)目的に変わり、その後、江戸末期になると外国船による西廻り航路の不安により再び、敦賀からの物資輸送ルートを確保しようという歴史背景まで浮かび上がるとともに、どの時代においても重要視されてきたで敦賀津(湊)を誇りに思ったところです。
 
いずれにしても、伝承の世界とはいえ、敦賀と琵琶湖をつなぐ計画が平安時代からあったこと、その後も敦賀城主や京都商人、さらには幕府までが入り込んで実現させようとしたことに加え、琵琶湖から小浜、京都、大阪、さらには伊勢湾へともつなぐという、まさに「日本横断」の壮大な計画がされていたことに、大いなるロマンを感じた次第です。
 
講座の最後に、「歴史とは史料に基づき紐解くもの」との言葉にありましたよう、正確な史実に基づき信念をもって語っていただいた杉江先生に心より感謝申し上げます。
 

【杉江先生ありがとうございました。】
 
「日本横断運河計画」に関する講座はこれで終わりとなりますが、ぜひご覧いただきたいのが、敦賀市立博物館で開催されている特別展。
 
開催期間はあと少し、11月24日(日)までとなっておりますので、悠久の歴史と壮大なロマンを感じに足を運んでみてはいかがでしょうか。
 

【市立博物館入口に掲げられた特別展のボード】

心をつなぐ 世代をつなぐ 文化のちから 〜第64回敦賀市文化祭〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

秋晴れに恵まれた「文化の日」。
 
国民の祝日に関する法律では、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」とあります。
 
ここまで大それた考えにまで及びませんでしたが、昨日は10月27日から開催されている「市民文化祭」(敦賀市文化協会・敦賀市教育委員会主催)に行ってまいりました。
 

【メイン会場のプラザ萬象】
 
足を運んだプラザ萬象 大ホールでは、ちょうど花展・呈茶が催されており、生花を鑑賞しつつ、お茶を一杯頂戴した次第です。
 

【お饅頭とお茶に「ほっと」癒されました】
 
また、多目的室(市民ギャラリー)で併設開催の、敦賀気比高校OBOGアート展「けひのわ」も鑑賞。
 
同校美術専攻科卒業生は、学んだ技術をベースにプロとして活躍されている方、趣味として続けられている方様々なれど、それぞれの道で磨き続けているアートはどれも力作揃いで、素人の私から見ても訴えるものがありました。
 
なお、「けひのわ」は残念ながら昨日で終わってしまいましたが、市民文化祭については、絵画・書道・写真・俳句短歌・手芸そして文化祭ポスター原画展が11月7日から展示となります。
 
敦賀市文化協会におかれましては、「心をつなぐ 世代をつなぐ 文化のちから」の基に伝統文化の継承と発展に取り組むことはもとより、新しい流れにも目を向けながら、文化でつながる親しみのある町へ会員一同取り組んでおられます。
 
文化祭は、11月10日(日)が最終日となりますので、ぜひ足を運んでいただければと存じます。
 
その後は、敦賀市立博物館へ。
 
本来、こちらの企画展で予習をした上で、昨日ご紹介した2日の記念講演会を聞くべきでしたが、「日本横断!運河計画」の展示をじっくり鑑賞してきました。
 

【敦賀市立博物館にて開催の企画展「日本横断!運河計画」】
 
講演会にあった「加賀藩」に関しては、徳川幕府から明治新政府に転換するちょっと前の、大きな社会の変革期に政治的駆け引きによって、またもや本気で運河計画が検討されはじめ、西廻り航路(大阪廻り)が危うくなり、再び荷物を上方へ運ぶ中継点として注目されるようになった敦賀は、京都への糧道として、そして北前船の寄港地としても重要な役割を果たし、その商圏は日本全国に及んだこと。
 
それは「交通の要衝・敦賀」である以上、仕方のないことであり、江戸初期以来の、港の賑わいが戻りはじめた敦賀に、高度な技術を持った測量集団が、加賀藩の命を受けて敦賀にやってきたとのエピローグのもと、数々の展示がされていました。
 
また、愛発の「疋田舟川」については、部分的ではあるものの、平安時代からいえば数百年を経て初めて実現した運河計画として文化13年(1816)に完成。
 
その後、天保5年(1834)に廃止され、再び安政4年(1857)に使われるようになりますが、彦根藩主・井伊直弼が領内の宿駅が衰退することや大津にある米の価格が下がるなどを理由に執拗に反対していたことも紹介されており、当時の政情を思い浮かべた次第です。
 
これ以上の紹介は「ネタバレ」となるため控えますが、驚きと学び満載の企画展となっていますので、こちらもぜひご覧いただきたく存じます。
 
改めて、こうして継承される「歴史と文化」は、先人たちが生きた生業そのもの。
 
今もこれからも大切にしていきたいと思います。

ー敦賀から琵琶湖を結ぶー 加賀藩の大運河計画

ブログ 敦賀の歴史・文化

夕方まで強い雨が降り続いた昨日。
 
私の方は、元々予定をしていました敦賀市立博物館主催の記念講演会「ー敦賀から琵琶湖を結ぶー 加賀藩の大運河計画」を拝聴してまいりました。
 
この講演会は、現在、市立博物館で開催している特別展「日本横断!運河計画」の関連イベントのひとつ。
 
自身が所属する気比史学会も協力開催ということで、会場設営や受付などのお手伝いも兼ねて参加した次第です。
 

【特別展「日本横断!運河計画」のチラシ(裏面)】
 
足元の悪い中にも関わらず、会場の市立図書館3階 研修室には熱心な参加者にお集まりいただき、一般財団法人高樹会 代表理事の島崎毅氏よりご講義いただきました。
 

【会場の様子】
 
まず、敦賀ー琵琶湖運河計画を語る上で欠かせないのが「高樹文庫」。
 
江戸時代後期、射水郡高木村(現在の富山県射水市)に生まれた和算家・測量家の石黒信由(1760~1836)以下4代の和算・西洋数学・測量術・絵図作製・航海術等の学問・技術等に関する史料群12,000点余は、大正9年地元有志により設立された高樹会(こうじゅかい)に移され、平成10年新湊市博物館(現射水市新湊博物館)の建設に伴い同館に寄託されたもの。
 
この史料群は、江戸時代後期の学問・技術の水準の高さを示す資料として学術的価値が高く、昭和59年6月6日には2,051点の資料が国の重要文化財に指定された後、追加指定により、現在は6,390点が国指定重要文化財となっており、先の運河計画を紐解く資料もここにあります。
 
その上で、敦賀と琵琶湖をつなぐ運河計画の歴史は古く、平安時代には平重盛(平清盛の息子)、戦国時代には蜂屋頼隆や大谷吉継、江戸に入ると京都商人や田沼意次(幕府)などが事業者となって計画するも「幻」に終わっている訳ですが、講座のテーマである「加賀藩」が敦賀ー琵琶湖間のみならず、日本海ー京都までの「大運河計画」を策定しようとした時代背景には、以下のようなポイントがあったとのこと。
 
<幕末の加賀藩と国際情勢>
① 下関砲撃事件(1864年)により、機能停止となった西廻り航路
② 押し寄せる「黒船」と急がれる海防
③ 経済的に困窮していた幕府と加賀藩
 
こうした背景から、加賀藩の運河開削計画の第一期工事(敦賀~琵琶湖)として、慶応2年(1866)に幕府へ申請、同年12月に認可。
 
運河開削に向けての現地測量と絵図作製は、入手し得る過去の記録、古地図など様々なデータの収集、慶応3年2月2日からは測量を開始(6つのルート)し、実質1ヶ月足らずで測量(高木村への帰村は4月14日)を終えたとありました。
 
さらに驚くのは測量の精度。
 
上記「越前近江糧道測量絵図」の6つのルートと現在の国土地理院地形図とがほぼ一致しているほか、各集落(旧・村落)高札場における標高データの精度や敦賀〜塩津の直線距離(直径)データは、9,996間(約18.2km)における誤差は極めて小さく、石黒家をはじめとする当時の測量技術の高さを伺い知った次第です。
 
また、平面図のみならず、明治以前には前例のない、高低をわかりやすく表現した断面図「直高図」などをもとに、琵琶湖湖面と同じ高さで塩津から敦賀に向かい、沓掛の北側まで露天掘り、唯一の難所、深坂峠にトンネル(JR深坂トンネルと平行の位置)を掘削し、疋田からは 0.67%の勾配(文化年間の舟川の勾配は0.9%)の運河で、敦賀市街地の笙の川に合流させるなど、具体的な計画までがされました。
 

【敦賀・琵琶湖間運河計画図(射水市新湊博物館『石黒信由関係資料 絵図』より引用)】
 
 →拡大してご覧になりたい方は、こちらのリンクへ
 
一方、琵琶湖から京都をつなぐ、加賀藩の運河開削計画の第二期工事に関しても同様、「京都新規通船見取絵図」をもとに説明があり、ここで示されたルートと明治23年に「琵琶湖第一疏水」として実現した運河のルートがほぼ合致しているともありました。
 
こうして、敦賀ー琵琶湖、琵琶湖ー京都をつなぐ「壮大な計画」の歴史を伺い、結びに先生からは、加賀藩の大運河計画が語るものとして、
 
◉明治以前の加賀藩(石黒一門)の科学技術のレベルとその広がり
 ① 十分な実現の可能性を示唆する精度の高い測量技術
 ② 石黒一門の若き門人たちの実力
◉高樹文庫資料の現代社会における存在意義
 ① 明治以前の科学技術と学問の広がり
 
とありました。
 
加賀藩の測量技術と精度はまさに驚異的であり、幕末の加賀藩の高い水準の学問、科学技術の広がりに敬意を表すること、「幻」に終わったものの、琵琶湖から京都までの距離は、敦賀から琵琶湖までの半分であり、経済効果や物流を考えても京都までつなげなければ意味がないこと。
 
そして最後に、明治維新は西洋化であり、これらに頼らずとも日本の技術は高いものがあったと語る先生からは、日本人としてのプライドなるものを感じた次第です。
 
平安時代から「敦賀と琵琶湖をつなぐ」ことにチャレンジし続けてきたことは、いかに敦賀港が国家にとって重要であることを意味するもの。
 
学問としての歴史のみならず、こうしたマインドの部分も含めご教授いただいた島崎先生に感謝申し上げます。
 

 
なお、市立博物館で開催されている特別展「日本横断!運河計画」では、高樹文庫資料の一部が展示されている(必見です)ほか、次の関連イベントは、当気比史学会主催の市民歴史講座。
 
11月16日(土)14時より、「日本横断!運河計画 一敦賀~琵琶湖運河計画と琵琶湖の新田開発一」と題し、今度は滋賀県側から見た運河計画についてお話しいただきますので、こちらもぜひ足を運んでいただければ幸いです。

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