コロナ禍を乗り越え、つなぐ「地域の宝」

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ここ最近は、300人前後で推移している福井県内の新型コロナウイルス新規感染者ですが、一昨日にはマスクの着用について政府の考え方が公表されました。
 
それによると、基本的な感染対策としての着用の位置づけは変更しないとしたうえで、2メートル以上を目安に、周りの人との距離が確保できる場面では、屋内で会話をする場合を除いて「着用の必要はない」とするほか、屋内で会話をする場合でも、十分な換気などの対策をとっていれば「外すこともできる」としています。
 
政府の公式見解が示されたことは歓迎するものの、現在の感染状況を見るに、正直「そうはいっても」という気持ちがある訳ですが、ここは基本的考え方を認識しつつ、熱中症などのリスクに応じ、自己判断していきたいと思います。
 
公表の際、後藤厚生労働大臣は記者団に「日常の経済活動や社会活動を正常化していくことと、基本的な感染対策としてのマスクの着用は両立し得る。今後とも感染状況などの変更によってマスクの着用やその他の対策についても、エビデンスベースで対応していく」と述べましたが、今回のように「エビデンスベース」で国民に説明していくことが非常に重要と考えることから、今後もその考えに沿った対応をお願いする次第です。
 
さて、そうした中、昨朝福井新聞を開くと、コロナ禍前に完全に戻ったかのような記事が飛び込んできました。
 
以前に開催決定と報じられていた北陸三大祭りの一つ「三国祭」が20日に中日を迎え、記事によれば、呼び物の人形山車(にんぎょうやま)7基が福井県坂井市三国町旧市街地を練り歩いたとあり、3年ぶりに当番区の山車が勢ぞろいし、港町は活気に満ちあふれたとのこと。
 
「山車を動かす男衆たちは熱気を帯び、ひき手の力強いかじ取りで路地を縫うように練り歩いた。曲がり角では大きな音を立て旋回。威勢良いかけ声や囃子方の子どもたちの太鼓の音は夜まで響き渡った。」との記事、そして掲載された写真からは、祭りのにぎわいや活気が伝わってきた訳ですが、新型コロナウイルスの影響で、2020年は人形山車展示のみ、21年は規模を大幅に縮小して静かに巡行するなど制限されたこの祭りをこうして復活させたことを契機に、県内の催事も徐々に再開されていくのではと感じた次第です。
 
ここ敦賀において注目されるのは、お盆時期の「とうろう流しと大花火大会」、9月初めの「敦賀まつり」になろうかと思いますが、一部、花火大会に関しては規模を縮小して開催する方向とも聞こえてくるところ。
 
「敦賀はどうするんや?」と聞かれることも次第に増えてきているところでありますが、私としましては、地元地域の皆さんを始め、各関係団体のご判断を尊重すべきと考えるところであり、「今暫しお待ちください」とお答えしているところです。
 
こうした「開催への期待」は、裏を返せば「地域行事の大切さ」を思う気持ちの表れと受け止める次第であり、コロナ禍の制限で一層、その気持ちを高めることになっているのかとも考える次第(ポジティブに考えればですが…)。
 
そのうえで、同じ港町敦賀には三国に負けない山車(やま)があります。
 
先日、「みなとつるが山車会館」にてその姿を拝見してきましたが、建物の中に保存されている山車は、どこか寂しげに映りました。
 
館内に掲示された写真や映像を見るに、やはり似合うのは、氣比神宮の大鳥居前に勇壮と並ぶ姿、子どもから大人まで元気の良い掛け声に合わせてひかれる姿。
 
元々、霊や疫神を町の外へ送り出そうとしたのが山車の祭りのはじまりだと考えられていますが、こうした意味を持ち、大切に保存されてきた山車は「地域の宝」。
 
このコロナ禍を乗り越え、「この宝」を継承していくことこそまさに、歴史をつなぎ、地域のコミュニティをつなぐことであり、私たち市民の役割だと改めて認識する次第です。
 

【山車会館で鑑賞した迫力ある山車。皆さんもぜひ足を運んでみてください。】
 
 →→→遠方の方はこちらから、「山車会館」のホームページ」をご覧ください

企画展「空のない星~ホロコーストの子供たち~」

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ゴールデンウィーク本番。
 
全国的に続く五月晴れの中、コロナ禍前に戻ったかのように賑わう観光地や高速道路渋滞のニュースを見る訳ですが、ここ敦賀も駅前や氣比神宮前、金ヶ崎緑地エリアには多くの人通りがあり、こうして目的地として訪れていただいたことを嬉しく感じるところ。
 
また、氣比神宮前交差点では整備した歩行空間にキッチンカー数台が並び、人の列があったほか、街を走っていて目に付くのは赤いシェアサイクル。
 
この季節は特にでしょうか、駅を降りた後の二次交通手段として手軽に利用されている方が多いようで、私自身の実感として、こうして官民連携での取り組みが功を奏していることを評価するところです。
 
さて、そのような気持ちの中、私が向かったのは「人道の港敦賀ムゼウム」。
 
こちらの施設の意味合いに関しては、これまで幾度となくブログにも取り上げているため、説明は割愛いたしますが、昨日の目的はムゼウムで開催されている企画展「空のない星~ホロコーストの子供たち~」を見に行くこと。
 
3月15日から開催されているこの企画展は、行こう行こうと思っていたものの一つで、ようやく実現したもの(やや大袈裟ですが)。
 
イスラエル大使館、人道の港敦賀ムゼウム主催、ヤド・ヴァシェム(世界ホロコースト記念センター)が企画・制作した企画展ですが、会場の2階企画展示室に行くと、10名程度であったでしょうか、熱心にパネルをご覧になっている姿が目に入りました。
 
「ホロコースト」とは、ナチス政権とその協力者による約600万人のユダヤ人の組織的、官僚的、国家的な迫害および殺戮を意味し、「焼かれたいけにえ」という意味のギリシャ語を語源とする言葉からも分かるよう、ユダヤ人を「劣った人種」であると見なしたゲルマン人の一方的な人権侵害であることはご承知置きのことかと思います。
 
この企画展は、そのホロコーストの中を過ごしたユダヤ人の子供たちにスポットを当てたもので、パンフレットには、「この展示は、当時の子供たちの絵や詩、手紙、おもちゃなどから、彼らの生活を垣間見る扉となるでしょう。そしてこの展示は、ホロコーストのような困難な状況においても、生命力や活力、創造性、想像力、そして楽観性を保った子供の能力を証明しています。」とありました。
 
ひとつ一つのパネルを順に読ませていただきましたが、家族や兄弟、勉強やおもちゃなど、様々な視点から、当時どのような心境で過ごしたのか、生き延びた子供たちの実際の証言と併せ表した内容は大変に重く、目を背けたくなるような史実が現実にあったことを胸に刻んだ次第です。
 
また、あるパネルにはこのような記載がありました。
 
「家族から無理やり引き離され、隠れ家や強制収容所に送られた子どもたちが両親なしで生き残るためには想像できないような困難が待ち受けていました。しかし、不可能と思える環境でもなお、子どもたちは遊び、物語を創作し、恐怖や希望を表す絵などを描きつつ生活していました。」
 
平和で平穏な世の中が当たり前にある世代からは想像出来ない「強さ」と「希望」を子供たちは持っていたことを改めて痛感し、企画展を後にした訳ですが、帰り掛けにムゼウムの職員さんと立ち話しをするに、コロナ禍ではありながらもここ最近は多い時で1日150人ほどの来館者があるそう。
 
皮肉にも、世界が「人道」とは何かを考える大きなきっかけとなったのが、ロシアのウクライナ侵略行為であることは言うに及びませんが、企画展で流れていたビデオ(ヤド・ヴァシェム制作)にもあったよう、こうした史実を一人でも多くの方に伝え、知って考えていただくことが大変重要なことであり、ここ敦賀ムゼウムにはその役割と使命があると改めて思った次第です。
 
結びになりますが、この企画展の開催は5月31日(火)までとなっています。
 
敦賀市民の皆さんはもとより、多くの方々にご覧になっていただければと思いますので、是非足を運んでいただければ幸いに存じます。
 

【ユダヤ難民を受け入れたこの場所だからこそ伝えられることがある】
 →→→「人道の港敦賀ムゼウム」のホームページも是非ご覧ください

人道の港「敦賀」〜ニューヨークから見えた希望〜

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ロシアによるウクライナ侵略開始から2ヶ月が経過をし、何の罪もないウクライナ国民が生命の危険に晒され祖国から避難せねばならない姿、美しき街が無惨にも破壊されていく現実を見るたびに胸が締め付けられるのは皆さんも同じかと思います。
 
一方、激しい戦闘が続く中にあって、地理的に近い中東欧諸国ではウクライナからの難民の受入れを続けており、とりわけウクライナの隣国ポーランド共和国では、既に250万人を超える避難民を献身的に受入れるなど、こちらは人間の尊厳や優しさを感じざるに得られないところであります。
 
こうした状況を踏まえ、先の3月定例会で私は、「人道支援」を第一のテーマに取り上げ代表質問した訳ですが、その背景にあるのはポーランド共和国と敦賀市が歴史的に深い関係にあるということ。
 
これは1920年2月に第1弾のシベリアに勾留されていたポーランド人孤児を敦賀港で受け入れられたという史実にある訳ですが、この深い関わりを表すのは、令和2年11月3日に開催された人道の港敦賀ムゼウムオープニングセレモニーに来訪された駐日ポーランド共和国パヴェウ・ミレフスキ特命全権大使が仰った「敦賀はポーランドの人にとって特別な場所」、また同日、リニューアルオープン記念シンポジウムの場であったポーランド広報文化センターのマリア・ジュラフスカ所長の「敦賀がなければシベリア孤児の話は知られていなかったかもしれない。受け入れてくれる港はここしかなかった。」との言葉かと認識する次第であります。
 
私は、この言葉を今までも胸に留めている訳でありますが、今なおこうして欧州を始め世界各国で避難民をあたたかく受け入れている姿に100年前の敦賀の姿を重ねてやみません。
 
そうした中、昨日は同じく、これからも胸にあり続けるであろうお言葉を拝聴する機会がありました。
 
それは、きらめきみなと館で開催された前ニューヨーク総領事・大使/次期駐カナダ特命全権大使の山野内勘二氏の講演であり、「人道の港「敦賀」〜ニューヨークから見えた希望〜」と題した世界を俯瞰した中での敦賀、そして人道に焦点を当てたお話しに大変感銘を受けた次第です。
 
ご講演のポイントだけ以下にご紹介します。
 
◉ロシアの軍事行動然り、世界は混迷を極めている。危険に満ちた世界の中で、わが国の平和と繁栄をいかに築いていくのか。
◉エネルギー自給率12%、食料自給率37%(カロリーベース)の日本は、信頼関係の中で世界とつながってでなければ平和と繁栄は築けない。
◉敦賀はポーランド孤児、ユダヤ難民の命を救った。敦賀で命を救われ、人のあたたかさを感じた人が世界中にいる。
◉孤児や難民受け入れの際に敦賀の皆さんがとった具体的な行動ひとつが残されていて、それが人道の港敦賀ムゼウムに保存されていることは「感動と感謝」につながっている。
◉本局の訓令に背いてまで「命のビザ」を発給した杉原千畝氏の行動は大変勇気のあることであったが、その後新しい発見として、建川美次駐ソ連大使がリスシエル・コトラー(17歳)に同じくビザを発給した事実も確認されている。
◉例えばアメリカでは州ごとにそれぞれ力を持っていて、色んな地方の独自性が強さであり、豊かさであり、美しさを生んでいる。こうした「ローカルの力」という観点で言えば、敦賀から世界に「困った人を助けた」人道を発信していくことで、信頼や多くの人に希望を与えることにつながるのではないか。
◉来週カナダに赴任するが、杉原サバイバーとのつながりを広げるとともに、カナダの人が敦賀に来てもらえるよう全力で呼び掛けていく。
◉平和の尊さや人道の大切さをどう伝えていくか。抽象的な言葉と違い、具体的なファクト(真実)は重い。何年何月何日にこの人がこういうことをしたと言えることは大変インパクトがあり、コンセプトと結びついた時に大きなパワーや発信力を生み出す。敦賀にはそれがある。
◉史実を顕微鏡で見るが如く、観察し保存することが大事。
 
走り書きのメモをもとに書き起こしたため、若干言い回しの違う部分もあろうかと思いますが、約1時間のご講演の中で話された思いや敦賀へのメッセージはこのようなことであったかと思います。
 
外交官として豊富な経験をお持ちで、ニューヨーク総領事・大使時代には渕上敦賀市長ら訪問団とユダヤの方々をつないでくれた山野内氏。
 
冒頭の市長挨拶でありました通り、お話しされる姿からは包容力とあたたかさ、そして敦賀に対する信頼と期待を強く感じた次第です。
 

【ご講演される山野内勘二氏。ひとつ一つの言葉を噛み締めるように話される姿に惹き込まれました。】
 
人道の港敦賀ムゼウムオープニングセレモニーの際にあったお二方の言葉、昨日の山野内氏の言葉から気付かされるのは「敦賀には世界に発信すべき史実があり、その役割がある」ということ。
 
今こうして世界が混迷を極める中でこそ、人道、つまりは人間が持つ本来のやさしさやあたたかさ、助け合う気持ちを感じ合うことは、世界中の人々に希望を与えることにつながる。
 
100年前、国際港を有した敦賀の人々がとった行動を思い返し、国際感覚をもって取り組むことこそ、現代を生きる敦賀人に課せられた使命ではないかと考えるところであり、自分自身もその役割を少しでも果たしていければと思います。

「健康管理」の秘訣は?と問われれば

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一昨日は選挙の開票対応で就寝が2時頃になった訳ですが、翌日「当選」の余韻から覚めてくると、どこか身体がすっきりしない自分に気づきました。
 
ぐっすり寝た今朝は絶好調に回復しておりますが、本日はこのことで思い返したことを述べたいと思います。
 
突然ですが、「健康第一」、「身体が資本」と良く言いますが、皆さんは何に一番気をつけてらっしゃるでしょうか。
 
食事や運動など、人それぞれの体調や体型、年齢によって様々かと思いますが、私が気をつけているのは「睡眠時間」と「ストレスを溜めない」ことです。
 
まず「睡眠時間」に関しては、以前に、三半規管の調子がおかしくなったのか、めまいと車酔いのような吐き気が突如起こり、堪らず救急外来で医療センター(前の国立病院)で診てもらったことがあり、その際は2時間ほど点滴を打って横になっていましたら、症状が嘘だったかのように治ったという経験があります。
 
その際、先生の勧めで、後日耳鼻科でも三半規管の検査をしてもらったのですが「異常なし」ということで、結果「疲れから来る一時的なもの」と診断され、大事には至らず安堵した訳ですが、「疲れ」に関して確実に思い当たるのが、症状が出た日も含め、3日間ほど睡眠時間3時間の生活を続けていたということ。
 
決して遊んでいて遅くなった訳ではないのですが、私の中では、これが原因で起こったに違いないとし、極力6時間以上の睡眠を確保出来るよう生活改善を図った次第です。
 
それからというもの、全くその症状は現れておらず、あの時自分の身体が「あんま無理させんといて」と教えてくれたものと、今ではそう思うようにしています。
 
次に「ストレスを溜めない」ことに関しては、よく「議員はストレスばかりで大変でしょ」と言われますが、自分では「自ら手を挙げてやらせてもらっているのに、辛いとか言ってはバチが当たる」と常々思っていることもあってか、幸いそういうことをあまり感じたことがないというのが実感としてあるところ。
 
いわゆる「能天気」な部類に入るのかも知れませんが、仮に稀にあった場合も、ひとつ助けられているのは自然と気持ちをリセット出来る場所があるということかと自分では思っています。
 
これも人それぞれにあろうかと思いますが、私にとってその場所とは、四季折々出会う、敦賀の素晴らしき風景です。
 
山に海、季節ごとに表情を変える風景を見ていると不思議と心が和むとともに、同時に郷土の歴史を感じれば自分の悩みなどちっぽけに思え、スッとクリアな気持ちに戻れるもの。
 
その代表格は、敦賀のシンボルマウンテン「野坂山」になろうかと思いますが、先日も麓を散歩しているとこのような風景に出会いました。
 

 
解説不要かと思いますが、この田植え前の「逆さ野坂」からは、雪が解け、春が訪れ、生命(稲)を吹き込む準備を整えていく。
 
そのように思え、その雄大さとともに、眺めていると「ヨシ頑張ろう!」との気持ちになるもの。
 
また、こうした景色を知ってもらおうとSNSにも投稿すると、ある方からこのようなコメントを頂戴したので紹介いたします。
 
「この雄大な自然景観を映す鏡は、人々が千年以上に亘る開墾、耕作によって沃野へと作り上げてきた優れた文化的景観ですね。素晴らしいショットです。」
 
こうして格の高い、ありがたきコメントを拝見するに、元来は砂礫が堆積する扇状地を、先人たちが千年以上を掛けて作り上げてこられたことを思えば、先人たちも同じようにこの「逆さ野坂」を眺めてきたのだろうなと感慨深い気持ちになった次第です。
 
話しがやや横道に逸れましたが、逸れてしまうくらい「ストレス」のことなど忘れてしまってましたね。
 
わが胸に郷土の風景があれば、いつでもどこでも頑張っていける気がする。
 
そのような気持ちにまでさせてくれる訳ですが、今後も「睡眠時間」に気をつけ、「郷土の風景」に癒され、助けられながら、「健康第一」で頑張る所存です。
 
言い忘れましたが、市民の皆さんは是非、野坂山の麓、夢街道沿いに映る、「季節限定」の「逆さ野坂」をご覧になってみてくださいね。
 
本日は、私の他愛のない話しにお付き合いいただきましたこと感謝申し上げます。

47年の歴史に幕。バトンは新庁舎へ。

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こうしてブログを書いていて「ありがたい」と感じるのは、お読みいただいた感想を頂戴することはもちろんのこと、ちょっとした誤字や文章の間違いを指摘いただけること。
 
昨日はその両方の声をいただき感謝。
 
エネルギー政策に対する感想に関しては複数頂戴をし、とりわけ九州管内の火力発電所においては、川内2号機(石油:出力50万kw)、豊前(石油:100万kw)、相浦(石油:85万kw)、新小倉(LNG:180万kwの内60万kw)など多くの発電所が廃止、あるいは廃止を決めており、時代背景やコストの観点からの判断をされていること、またその裏側には職場が無くなる寂しさを抱く現場の思いがあることを改めて認識し、共感した次第です。
 
また、カーボンニュートラルや市場原理による電力自由化を推進するあまり、原子力と同様、火力の技術者確保や技能の維持継承が課題となっていることも事実であり、失ってしまってからでは取り返しのつかない、日本の屋台骨を支える電力関連産業の「人材と技術」をいかにつないでいくかを重要視せねばと肝に銘じた次第です。
 
根底にあるのは、「人材も技術も」国産の比率を高めなければエネルギー安全保障は成り立たないこと。
 
中国製の太陽光パネルに席捲される現状に危機感をもって、私自身は引き続き、現実的なエネルギー政策について一人でも多くの理解者が増えるよう活動していく所存です。
 
さて、エネルギー分野の「継承」とは趣を変えますが、敦賀市役所に目を移すと、28日に現庁舎では「閉庁セレモニー」が行われ、47年間の歴史に幕を閉じました。
 
敦賀市ホームページの“まちかどスケッチ”にも掲載されていましたが、この日は市の幹部が見守る中、庁舎4階講堂にある市章の看板を、渕上市長と田中市議会議長の手で取り外しをされたとあり、その様子を見るに私もどこか感慨深い気持ちになった次第です。
 
市役所新庁舎は年明け、令和4年1月4日から供用開始となります。
 
ホームページには「末永く親しまれ、多くの方々が利用しやすい庁舎となりますよう、職員一丸となって努めてまいります。」との言葉がありました。
 
半世紀ぶりにバトンタッチする新旧庁舎。
 
旧庁舎で育まれた「人材や技術」が、バトンを受けた「新庁舎」でさらに進化、飛躍を遂げ、先の言葉通りの役割を果たされますよう、市議会議員の一人、敦賀市民の一人として大いに期待し、見守っていきたいと思います。
 

【“まちかどスナップ”に掲載されていた昭和49年当時の敦賀市庁舎。周りの風景と合わせ歴史を感じます。】

市民歴史講座第4講「氣比神宮と朝倉宗滴」

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先日の「地域共生社会推進全国サミットプレセミナー」から一昨日の「小さな親切運動 市民のつどい」と、ここ最近は大変貴重な「心の気づき」に出会う機会が続いています。
 
こうした機会に恵まれることに感謝するとともに、人生を豊かにするのは、こうした気づきや学びにより心が満たされることにあることを身をもって感じる今日この頃ですが、昨日は「学び」の場に参加。
 
これまでも毎回楽しみに参加してきています気比史学会が主催する市民歴史講座は、これまた新たな発見とヒントに「出会う」場となりました。
 
今年度第4講となる今回は、福井県立博物館学芸員の有馬香織様をお招きし、「氣比神宮と朝倉宗滴 〜天文十年造営・運営事業を中心に〜」をテーマにご講演いただいた訳ですが、「一乗谷」のイメージが強い朝倉家は、ここ敦賀、とりわけ「北陸の海の総鎮守」である越前国一宮の氣比神宮を取り込むことで、要所である敦賀地域を味方につけるとともに、天文十年の氣比神宮造営は、北陸七ヶ国の神をも巻き込んだ朝倉氏の権力拡張を狙った壮大なプロジェクトであったことを知りました。
 
講師の方が結びに仰ったのは、朝倉家のスーパースターとも言える宗滴(教景)の存在をもっと広めていくとともに、北陸新幹線で今後より一層つながる福井県を朝倉家の歴史で盛り上げていけるのではなどの貴重なご意見もいただいた次第。
 
まさに昨日は、気比史学会結成時からの会是でもある言葉、「過去に学び、未来に期待し、今日に生きる」にふさわしい一日となりました。
 
毎回恐縮ですが、学んだことを私ごとに留めておくのはもったいありませんので、会場でのリアルメモ、資料の抜粋などをまとめたものを以下に掲載いたします。
 
関心のある方は是非、この後も読み進めていただければ幸いに存じます。
 
【以下、やまたけのまとめメモ】
 
令和3年度 市民歴史講座(第4講)
氣比神宮と朝倉宗滴 〜天文十年造営・運営事業を中心に〜
 
1.日 時 :令和3年11月27日(土)14時〜16時10分
2.講 師 :福井県立博物館 学芸員 有馬 香織 氏
3.内 容 :
(1)はじめに
◉敦賀に鎮座する氣比神宮の存在は、越前朝倉氏の勢力進展の要であった。
◉敦賀郡司であり軍奉行であった朝倉宗滴(教景)は「戦わずして勝つ」戦略であったが、宗滴亡き後は続かなかった。
 
(2)氣比神宮
◉越前国一宮の氣比神宮は「北陸の海の総鎮守」。 
◉北陸の海の総鎮守であったことから、敦賀だけではなく広大な(加賀から越後や佐渡、あるいは近江まで)影響力を持っていた。
◉越前朝倉氏は敦賀郡司を置いていたが、①港の権利(通行税の徴収権利など)と②敦賀湾浦々の地域の中心職の任命権だけは氣比神宮から奪えなかった。
◉度重なる造営があったが、これには敦賀湊の関銭(1%課税)が充てられた(延暦寺や奈良の西大寺も敦賀湊関銭が充てられる)。
 
(3)朝倉宗滴(教景)
◉文亀3年(1503)朝倉景豊が貞景に対して謀反を企てた時、教景(宗滴)は寺に入って一乗谷の貞景にその企てを直訴した。その後、貞景は敦賀を侵略し、その際教景の功績を認めて教景を敦賀郡司とした。
◉敦賀郡司の居城は金ヶ崎城。敦賀での館は法泉寺周辺(今の本町あたり)とされる。
◉宗滴の逸話や大絶賛の評判が「朝倉始末記」や「朝倉宗滴和記」などに記されている(悪い話は皆目ない)。
◉近江の浅井氏を始め、上杉家からは大鷹一連と鳥屋を拝領するなど、他国からの評判も良く、交友も広かった。
◉天文24年(1555)9月8日、79歳で死去(内臓の病気による)。
◉死去3日前には、一乗谷外にいた朝倉氏に代々仕える薬師を呼び寄せて治療に当たらせる旨の命令も出されていた。
 
(4)氣比神宮と朝倉家の関係
◉朝倉孝景(宗滴)が敦賀郡司の頃は、氣比神宮は「支配」ではなく「気遣い」による関係であった。
◉宗滴の時代には、氣比神宮の社家に朝倉氏の一字(冬や景)を名前に賜った人が増えてきていることから、朝倉氏が社家を取り込んでいるように伺える。
◉敦賀湊浦々の氣比神宮が有する権利に関わる人にも朝倉家から一字を賜った人になってきていて、じわりと氣比神宮が持つ権利を取り込んでいったことが「氣比神宮社記」により分かる。
 
(5)朝倉家による天文十年(1541)の氣比神宮再建事業
①朝倉家による造営の意図
◉氣比神宮造営と御遷宮の儀については、従来、北陸道七カ国で費用を出していたが、この時は「越前一国だけで行う」ことを申し出ている。つまり、朝倉家が北陸道七カ国の鎮守を守る立場の頂点にいることを内外に知らしめる効果を期待したもので、周到な政治的計画であった。
◉越前一宮を大掛かりに取り込めば(要所の敦賀を味方につける)、北陸道七カ国への神をも巻き込んだ朝倉氏の権力拡張となり、朝倉家にとって壮大なプロジェクトであったとも言える。
 
②「氣比神宮古図」(敦賀市指定文化財)を読み解く
◉「氣比神宮古図」に関し、氣比社遷宮条々の中にある「当国」、「社絵図之事」とあり、つまりは越前側から出した条々で朝倉氏が作成したものと考えられる。
◉「氣比神宮古図」は、大鳥居の位置と神宮寺の存在が特徴的とされてきたが、本来「西側」にあるべき大鳥居が「東側」に書かれているのはいかにも不自然であり、懐疑的に見れば、大鳥居は「朝倉側」を向いているように思える。
◉通常の絵図にはない「礎石」が書かれていて、設計図かのように何間(距離)かが分かるように描いているのは朝倉氏の建築物への拘りではないか(礎石まで書かれた絵図は見たことがない)。
◉その他にも塀の「押さえ」が朝倉氏の時代に見られる方法であることや防御のためと考えられるような外の塀があるのは、氣比神宮が戦場になることを想定していたのではないか。→その後、実際戦場となった。
◉造営するための御材木の手配は敦賀に基盤のある宗滴に権限があり、一乗谷の裁決を覆したほか、近江からの材木は敦賀郡司が守ると述べ、敦賀郡が主体となっていた。
◉天文十年の造営は朝倉家にとって大きな意義があるものであったと言える。
 

【「氣比神宮古図」・・・左下(西側)にあるべき大鳥居が右上(東側)に描かれているなど見れば見るほど朝倉家の意図が透けて見えるとのこと。】
 
(6)宗滴亡き後の敦賀、氣比神宮と朝倉義景
◉文亀元年春に織田信長のために氣比神宮が戦場となる。
◉手筒山城が落城した理由は、朝倉義景と氣比神宮の社家には「万事相談するな、裏表が分からない」と命じていたことに対し、社家が憤り、お互いの不信感が講じたことにあると言われる。
◉天正元年の刀根坂の戦い前には、朝倉義景の陣中に氣比神宮の御使があり、氣比大明神が出陣せぬよう仰っている旨伝えるが、義景は聞かず出陣し敗れ、一乗谷は三日三晩焼かれ朝倉家は滅亡した。氣比神宮は最後まで朝倉家のことを心配していたことが分かる(朝倉始末記)。
 
(7)さいごに
 宗滴の頃から、戦わずして氣比神宮社人を取り込み、越前国だけで氣比神宮再興を成し遂げたことは、この時朝倉氏最盛期であり、越前国一宮まで取り込む野心まで想定できるが、その努力は宗滴亡き後には続かなかった。
 
以 上

人道の港敦賀ムゼウム企画展「生と死の間」

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文化勲章を受章した作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが99歳でご逝去との報。
 
「源氏物語」の現代語訳を達成し「平成の源氏ブーム」の火付け役となったことは有名で、その後晩年まで創作意欲は衰えず、愛と人間の業を描いた小説や心に寄り添う法話で著名な寂聴さんは、1988年から計4年間、旧・敦賀女子短期大学の2代目学長を務められた方でもあり、ここ敦賀とも深い縁がある方。
 
以前には、関西電力大飯原子力発電所の運転再開に反対するハンガーストライキや安全保障関連法に反対する国会前のデモに参加するなどの社会的活動に参加されたこともあるものの、作家としての執筆活動の一方、30年以上に亘って各地で法話を続け、多くの人々の悩みや苦しみに耳を傾けてこられるなど、生前のこうしたご貢献に対し敬意を表するとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。
 
さて、寂聴さんが生涯を通じて語り続けた「愛」に関して。
 
「愛の反対は憎しみではない 無関心だ」との言葉を残したのは、かのマザー・テレサでありますが、これは「無関心」であること、苦しむ者に関わりを持たずに「傍観者」であることが愛の対極にあるとの意を指します。
 
ここに通ずるのかも知れませんが、昨日は「人道の港敦賀ムゼウム」で開催されている企画展「生と死の間」を鑑賞し、改めてそのことを痛感した次第です。
 

【鑑賞終了後、ムゼウム前にて】
 
この企画展は、European Network Remembrance and Solidarity(記憶と連帯の欧州ネットワーク)との共催、公益財団法人大阪国際平和センター(ピースおおさか)の協力を得て開催されたもので、サブタイトルは「ホロコーストとユダヤ人救済の物語」。
 
第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツによる迫害で多くのユダヤ人が犠牲となりましたが、この迫害の中で、危険を冒してでもユダヤ人に手を差し伸べた人々がいて、そのお陰で生き延びることができたユダヤ人がいたのも歴史上の事実でありますが、この企画展では、12ヶ国のヨーロッパの国々におけるユダヤ人救済の物語を紹介する、まさに見つかれば殺される「生と死の狭間で人々が選んだ道」に焦点を当てたもの。
 
ちょうど鑑賞していた時間帯、企画展ルームには私ひとりだったこともあり、展示パネルひとつ一つをじっくりと拝見することができました。
 
「命のビザ」で有名な杉原千畝氏の功績を讃えるビデオも流れていた訳ですが、パネルにある史実は、自分の命をかえりみずユダヤ人を自宅に招き入れたことなどの証言、反対にそうした方に助けられ命をつなぎ、感謝してもしきれないとのユダヤ人の言葉など、そこには想像を絶する現実がありました。
 
また、ホロコーストからユダヤ人を守った非ユダヤ人の人々を表す称号で正義の異邦人とも呼ばれる「諸国民の中の正義の人」が残した言葉も記されており、
 
助けを必要としている人と、それに力を貸す人の運命はつながっているのです。
 
との、諸国民の中の正義の人の一人、ギゼラ・チェルタンさんが残した言葉が強く心に残りました。
 
現に助けを受け入れた非ユダヤ人が、心を許したユダヤ人をナチスに密告し引き渡したこともあったことからすれば、チェルタンさんが残した通り、そこには理屈でない運命というものがあったのだと共感した次第です。
 
こうして展示を全て見終え、目を背けたり忘れてはいけないホロコーストの事実、そしてユダヤ人救済のため、まさに命懸けで行動された人々がいて、残された言葉があることを胸に留めると同時に、今なお世界各地である人種差別や迫害は、決して繰り返してはいけない許されざることであること、そして傍観者ではなく、自分ごととして捉えるべき問題であることを改めて考えさせられる時間となりました。
 
そして最後に「人道の港敦賀ムゼウム」について。
 
リニューアルオープンから1年が経過し、とかく来館者数が計画に達していないことなどの状況であることは事実でありますが、オープン式典の際に各国大使が述べられたのは「ムゼウムは敦賀の宝」であるということであり、その言葉に照らせば、コロナ禍にあっても校外学習などで市内外の児童生徒が訪れているほか、最近ではポーランド広報文化センターのウルシュラ・オスミツカ所長と敦賀高校「創作部」の生徒さんとの座談会や、その後も「創作部」の皆さんは精力的に館内ガイドをされるなど、次代を担う地元の子たちが学び、感じる場となっていることは大変素晴らしいことと、私は評価するところです。
 
ムゼウムは市直営での運営であり、民間であれば簡単にできることも一筋縄ではいかない面も多々あろうかと思いますが、逆に市直営であったからこそできていることもあるのだと思います。
 
上記のような地元に密着した取組みがまさにそれであり、こうした積み重ねは必ずや大きな意味での成果(歴史や史実から人道の大切さを学び、そこから生まれる個々の成長やシビックプライド)につながるものであると、こちらも私は期待するところであります。
 
これまで色々な方とお話しさせていただくと、悲しいかな「ムゼウムなんて」という方に限って「まだ行ったことがない」という割合が多いのが実態としてあります。
 
冒頭述べた、マザー・テレサの言葉は「愛の反対は無関心」です。
 
まだ行かれたことのない方は是非ムゼウムに足を運んでいただき、そこで心で感じること、それが即ちムゼウムの「価値」だと思いますので、またご感想などお聞かせいただければ幸いに思います。

「氣比神宮」が「日本百名月」に認定登録される

ブログ 敦賀の歴史・文化

コロナ禍で一気に広まったのは「オンライン」ですが、やはりコミュニケーションは「フェイスtoフェイス」に勝るものなし。
 
昨晩は、若狭町レピアにて開催された連合福井嶺南地域協議会並びにF-TOP21敦美支部主催の議会報告会に出席し、敦賀から高浜までの組合役員が集う中、久しぶりに対面で、皆さんの表情を拝見しながらお話しさせていただくことが出来ました。
 
タイムスケジュールの関係上、私の持ち時間は5分少々でしたのでコンパクトにせざるを得ませんでしたが、限られた時間の中で9月定例会での質問内容や市政のトピックスを報告させていただきました。
 
今回は、広い会場で人数も絞っての開催ということで、まだまだコロナ対策に留意をしながらとなりますが、いずれにしても「活動の原点は職場の声にあり」をモットーに「オンライン」と「フェイスtoフェイス」のハイブリッド型で自身の活動も進めていきたいと思います。
 
そうしたことあり、大変前向きに過ごせた一日でしたが、ここ敦賀ではもうひとつ明るいニュースがありました。
 
夕刻、スマホに「日本百名月に氣比神宮、福井県内で初の認定」とのタイトルで福井新聞の速報メールが届き、メールを開くと「日本百名月に敦賀市の氣比神宮が15日、登録された。61号目で、福井県内からは初の認定となる。登録名は”氣比神宮にのぼる月”」とありました。
 
何やら喜ばしいことであることは分かるのですが、そもそも「日本百名月」とは何かさえ知りませんでしたのでネットで調べると、一般社団法人 夜景観光コンベンション・ビューローが認定する「日本百名月」とは、近年、「夜景観光」の発展に伴い、中秋の名月にちなんだ観光目的の観月イベントも増え続け、月の魅力を伝える書籍やメディア等でも扱いも増加し注目される一方で、関係する事業者は各々でプロモーションを行う等と広がりがなく、観光集客に直結するコンテンツとしても発展途上という課題があったことから、そこで、特に後世に残したい名月を、一定基準のもとに「日本百名月」として認定・登録し、スケールメリットを生かすことはもちろん、名月観光に従事する事業者連携より新たなる価値の創造を目指すこととなったとのことでした。
 
なお、認定・登録された「百名月」は、昨日現在で「68」。
 
位置付けを理解したうえで、敦賀で月といえば、以前から度々ご紹介している「名月や北国日和定めなき」で、松尾芭蕉が元禄2年(1689年)旧暦8月、「おくのほそ道」の道中で詠んだ句が有名ですが、残念ながらこの月は、楽しみにしていた中秋の名月が「見れなかった」ことを詠んだ句。
 
一方、同じく敦賀で詠んだ「月清し遊行のもてる砂の上」は、実際に「月を見た」句で、敦賀の地を訪れた芭蕉が、宿屋の主人に「明日(中秋の明月の日)も晴れるか」と問うと、主人は「北陸の天気は変わりやすいので、月見なら今晩のうちに」と伝え、芭蕉はその夜に氣比神宮に参拝。
 
月明かりに照らされた神前の白砂が、遊行上人二世の他阿が参詣往来の妨げを防ぐために沼地を埋めた功績と知り、詠んだ句であり、「おくのほそ道」では「けいの明神(氣比神宮境内)に夜参す」と記されています。
 
このように、氣比神宮は俳人・松尾芭蕉ゆかりの地としても知られており、中鳥居正面には芭蕉像と句碑が建立されてもいる訳ですが、敦賀の方以外のために、この氣比神宮については、大宝2年(702年)に建立され、ご祭神は伊奢沙別命、仲哀天皇、神功皇后、日本武尊など7柱。
 
明治時代には官幣大社となり、高さ約11メートルの大鳥居は奈良県・春日大社、広島県・厳島神社と並ぶ「日本三大木造鳥居」の一つで、国の重要文化財に指定されています
 
境内には、神宮造営中に湧き出た1300年の歴史ある水をたたえる「長命水」や、南北朝争乱時代に南朝後醍醐天皇を奉じ、氣比大明神の神旗を掲げたという「旗掲松」など、見どころも多数あり、地元の人々からは親しみを込めて「けひさん」と呼ばれています。
 
その「氣比神宮にのぼる月」が、単に景色の美しさのみならず、こうした歴史的エピソードも添えて「日本百名月」に選ばれたことは、改めて大変喜ばしいことであり、年間130万人が訪れる(コロナ以前)この氣比神宮の魅力をさらに高めるものとしてアピールしていければと思うところです。
 
芭蕉さんのように、氣比神宮で月を見るため敦賀に来られ、そのまま飲食、宿泊へと経済効果も高めていけるといいですね。
 
仕事柄、ついついそう結びつけてしまうのでは、「風情がない」と芭蕉さんに叱られるかもしれませんが…。
 
最後に、夜景観光コンベンション・ビューローのサイトでは、氣比神宮のページをこう結んでいました。
 
「月光により神々しく照らされる氣比神宮。松尾芭蕉も眺めたであろう景色を今に伝えている。」
 
澄み渡る、秋の夜空に輝く月。
 
332年前にこの地で詠んだ芭蕉さんに思いを馳せ、たまには夜の氣比神宮に参ってこようかと思います。
 

【認定登録第61号「氣比神宮にのぼる月」(日本百名月HPより)】

海陸交通の要衝「敦賀」は、芸術への関心も高かった

ブログ 敦賀の歴史・文化

胸が澄くような秋晴れが続いた敦賀ですが、今日は残念ながら雨模様。
 
気になる台風16号はフィリピンの東を進み、27日には一番上のランクの「猛烈な」勢力となる予想とのこと。
 
今日からは南西諸島や西日本・東日本の沿岸部では、次第に影響が出始めるとありますが、今後の進路には十分留意しておきたいと思います。
 
さて、様々な楽しみのある「秋」ですが、昨日は令和3年度第3講となる気比史学会主催の市民歴史講座に参加し、「敦賀の芸術」に触れることが出来ました。
 
「地域史を掘る」と題し、全5講で行われる今年度の講座ですが、昨日のテーマは「敦賀コレクションの魅力と敦賀ゆかりの絵師たち」。
 
郷土ゆかりの画家はもちろん、江戸時代から近代にかけて京都で活躍した画家たちの作品を豊富に集めた「敦賀コレクション(敦賀市立博物館館蔵絵画)」について知り、学ぶことが出来ました。
 
正直、この分野の知識は皆目ありませんでしたが、講義のまとめにあったよう、敦賀は海陸交通の要衝であり、町人文化の発展、芸術への関心の高さから「町絵師」への支援につながったこと、みなとまちであったことの影響は間違いないが、人もモノも集まる敦賀であったからこそ、今のコレクションがある。
 
つまりは、「敦賀コレクション」は、みなとまち敦賀の文化、歴史の豊かさを語るものだということを知り、ますます敦賀というまちの奥深さを感じた次第です。
 
先週の「鉄道カフェ」に続き恐縮でありますが、この市民歴史講座の内容も私だけの知識に留めておくにはもったいないことから、概略メモを掲載させていただき、皆さんへのご紹介と情報共有に変えたいと存じます。
 
以下に、私が書き留めたメモを記載しますので、宜しければご覧ください。
 
【敦賀コレクションの魅力と敦賀ゆかりの絵師たち】
 
1.日 時 : 令和3年9月25日(土)14時〜16時
2.講 師 : 敦賀市立博物館 学芸員 加藤 敦子氏
3.内 容 :
(1)はじめに
・敦賀コレクション(敦賀市立博物館館蔵絵画)は、1978年8月の市立歴史民俗資料館開館の翌年の1979年に絵画作品の第1号を購入。
・1983年より絵画収集を本格化し、312点を収集。
・コレクション収集にあたっては、調査研究員・美術購入選考委員会の故田邊昌平氏が多大な貢献をされた。
・コロナ禍で開催した「ふつうの系譜おかえり展」には3,817人が来館。市内外の来館者の多くからは「癒しになった」との声を頂戴した。
 
(参考)敦賀市立博物館の江戸絵画の一部は、府中市美術館の「春の江戸絵画まつり」でもたびたび展示され、「やまと絵や円山四条派など、ひたすら美を追求した画家たちの作品によって、ひたすら美しい「非奇想」の世界に浸っていただきます」と紹介されている。
 
(2)コレクションの構成
・収集方針
 ①第1項 郷土ゆかりの作家の作品
 ②第2項 前項の師弟関係にあたる作家の作品
 ③第3項 郷土作家に影響を与えたと考えられる作家の作品
 ④第4項 前1〜3に掲げた以外の郷土との人縁・地縁で結ばれる作品
・コレクションを構成する主な流派のうち、弟子が千人居たと言われるくらい人気であった「丸山応挙」、応挙の影響を受けた「呉春」らを総称する円山四条派は、バラエティーに富んだ画風を築いた。 
・狩野派や土佐派は、世襲により流派の画風を重んじた。
・コレクションの流派別では、円山四条派が32%、狩野派が12%を占める。
・絵師の活動エリア別では、京都が55%、東京25%、敦賀は6%。
・活動時期では、江戸時代中期が51%で大半を占める。
 

【円山応挙 《狗子図》 安永7年(1778年) 敦賀市立博物館】
 
(3)江戸時代の敦賀の文化情勢について
(江戸時代前期)
・敦賀の経済は、幕藩体制の下、上方と北前をつなぐ港が栄え、かの井原西鶴は「敦賀は北国の都」と呼んだ。
・敦賀の絵師、橋本長兵衛(初代)は現在の相生町に住み、権力者に重宝されたほか、学雄、中村幽甫、橋本仙桂らがいた。
 
(江戸時代中期・後期)
・国全体が活気付き、町人が台頭。絵師たちの活躍の場も広がり、画壇でも新しいものへのニーズの高騰から個性化、人々の好奇心、知識欲の高まりから「真写」の動きとなった。
・敦賀の経済は、西回り航路が開発されたため、入船数が以前より減少したものの、近江商人の松前物の荷役が増加。
・敦賀の絵師、内海元孝は円山応挙に学んだのは確実と言われ、スケッチが八幡神社に残されている。
・今村公龍の作品は貴重で氣比神宮に保存されていたが消失。市立敦賀病院のロビーに掛かっている敦賀湾の絵は、公龍のものである。
 
(近代)
・近代国家体制の中で「美術」の概念や制度化が進められる。
・フェノロサらによる日本画の近代化。京都画壇の近代化も進められ、流派は消滅し、美術学校や美術団体が設立、展覧会などで競い合う時代に。
・東京や京都と違い、敦賀はおおらかな雰囲気の中で、上方絵師の来敦により、京都画壇の影響が広まる。
・豪商、財界人らが学問的な教養として、芸術分野への関心を高める。
・敦賀出身の内海吉堂は、南画家として活躍し、鯉の絵が有名。
 
(4)地域を超えた人的交流
・敦賀に来た絵師は、狩野永敬、円山応挙、山口素絢、横山華山など著名人が多数。
・こうした環境から、敦賀の商人も絵師の襖絵などを所有していた。
敦賀では、多岐に亘る寺子屋や私塾での教育が発達していたこともあり、絵や芸術に対する関心や教養が高かった。
・寺子屋以外でも「文化サロン」があり、大和田荘兵衛が立ち上げた「揮毫会」は、後に「文殊会」として地域を超えた文化交流がされた。
 
(5)まとめ
・敦賀は海陸交通の要衝であり、町人文化の発展、芸術への関心の高さから「町絵師」への支援につながった。
・みなとまちであったことの影響は間違いないが、人もモノも集まる敦賀であったからこそ、今のコレクションがある。
・つまり、敦賀コレクションは、みなとまち敦賀の文化、歴史の豊かさを語る。
・こうした土壌があって、全国でも有数のコレクションとなっている。
・当時の人々が愛した「美しさ」が伝わるコレクションから「美」を感じる心は昔も今も同じである。

 
講師の加藤さんが説明いただいたパワーポイントのスライドをお見せ出来ないのが残念ですが、江戸時代からの絵師の作品を始め、ゆかりのあるエピソードの紹介などから、当時の敦賀の賑わいや一歩先を行く芸術文化に触れる風土があった情景を浮かべることが出来た次第です。
 
こうして、私にとっては未知の角度から敦賀のことをより知ることが出来たことは貴重な財産でしたが、より多くの市民の方に知っていただきたいとの思いとなるのも事実。
 
次回の市民歴史講座(4講)のテーマは、「氣比神宮と朝倉宗滴 〜天文十年造営・遷宮事業を中心に〜」(講師:福井県立歴史博物館主任 有馬香織氏)となります。
 
11月27日(土)14時より、敦賀市立図書館3階にて開催されますので、興味のある方は是非お気軽に参加いただければと思います。

「知っとるけ?小浜線ものがたり」から得た大切なこと

ブログ 敦賀の歴史・文化

今朝は「台風一過」の晴天を期待しカーテンを開けましたが、見事に期待を裏切る“どんより曇り空”
 
予報によるとこの後は晴れマークとなっていますので、予報的中に期待しつつ、三連休の中日、貴重な今日一日を有意義に過ごしたいと思うところです。
 
さて、これまでもこのブログにおいて、気比史学会主催の市民歴史講座などを通じ、敦賀の歴史や文化の深さ、学ぶ楽しさ、そこから得られる「今ある資源を生かしながら保存する」ことの大切さを記載してきているところですが、昨日はつるが観光ボランティアガイド主催の「鉄道カフェ」にて、改めてそのことを感じました。
 
ちなみに「鉄道カフェ」とは「港と鉄道のまち敦賀」を広く市民の皆さまに知っていただくことを目的とし、平成26年度から開催しており、今回で第22回目となるとのこと。
 
令和3年第1回の開催となる昨日は、事前申込みをしたうえで参加。
 
松原公民館を会場とし、新型コロナ対策もあって定員を40名に絞っての開催でしたが、開始時間にはほぼ定員どおりの参集があり、敦賀の鉄道歴史ファンの関心の高さを感じた次第です。
 
そして、今回のテーマは、「小浜線ものがたり 〜小浜線の今昔〜」
 
講師に小浜線鉄道遺産を守る会代表の桝郷三好氏をお招きし、今から100年前に建てられた蒸気機関車用の給水塔(小浜駅に現存)を始めとする鉄道遺産の保存や「知っとるけ?小浜線ものがたり」の発刊などを通じ、小浜線のことを広く知っていただく活動をされているお話しを拝聴し、大変多くの学びと大切な気づきがありました。
 
せっかく学んだこと、しかも身近にある小浜線の歴史ということとあっては、参加者だけのものにしておくのは勿体ないということで、市民歴史講座と同様、本日は概要メモを記載しますのでご覧いただければと思います。
 

【小浜線鉄道遺産を守る会編集の「知っとるけ?小浜線ものがたり」と大正10年当時の写真】
 
【小浜線ものがたり 〜小浜線の今昔〜】
 
(1)はじめに
◉鉄道に縁もゆかりもないところから、小浜線の鉄道遺産を守る活動に携わることになり、手探りで模索する中、県立図書館で見つけた一冊の記録「小浜線建設工事概要」が契機となった。鉄道建設工事の鉄道省敦賀建設事務所が記録した大正時代、約100年前の記録を読み解くことから活動が始まった。
◉小浜駅にある給水塔(蒸気機関車時代から使用)は現存するものの中でも貴重な鉄道遺産なのに、市民にすら知られていないことが残念であり、小浜線の歴史を含め、市民の方に知っていただくために「知っとるけ?小浜線ものがたり」を作成、2,000部発行し、市民や公民館に配布した。
 
(2)小浜線の歴史
◉明治25年に鉄道敷設法「京都府殿田附近ヨリ福井県小浜に至ル鉄道」が規定。
◉明治28年には、同法に「舞鶴ヨリ福井県小浜ヲ経テ敦賀に至ル鉄道」が追加。
・若狭地方選出の小畑岩次郎衆議院議員が帝国議会で北陸線の改正を提案。
・当初は「敦鶴線」と呼ばれていた。
◉明治35年「敦鶴線」は北陸と山陰を結ぶ日本海側のバイパス路線としての期待もあり、早期着工すべき「第一期線」に昇格。
◉明治39年、地元では敦鶴鉄道規制同盟会が設立される
◉大正4年5月、敦賀側から暫次建設開始。
◉大正6年に敦賀〜十村間開業。
◉大正11年には若狭高浜〜新舞鶴館開業により全線開通。
・小浜出身の山口嘉七代議士が「小浜線と名付けるべし」と断固主張し、その名が決まった。
・敦賀・小浜間、小浜・新舞鶴間にそれぞれ6往復の列車が運転され、そのうち2本は京都への直通列車で、京阪地方へは一日で往復できるようになった。
・停車場は、既設の敦賀・舞鶴を除いて12箇所を新設。うち、十村と小浜の停車場に給水の設備を設けた(小浜の給水塔は国内で現存する20基あまりの中でも良好なもの)。
・なお、現在、敦賀〜東舞鶴まで24の駅があり、うち11の駅が無人となっている。
◉昭和43年には、名古屋〜小浜〜東舞鶴間で臨時急行「エメラルド」の運転がスタート。京都、大阪からは「おばまビーチ」、「わかさビーチ」といった海水浴臨時列車が運行されて、賑わいを見せた時期もあった。
◉昭和46年に蒸気機関車廃止、ディーゼルエンジン機関車導入
◉平成15年に電化開業
◉平成29年に敦賀〜十村間開業100周年
◉平成30年に十村〜小浜間開業100周年
 
(3)給水塔の保存活動、小浜線を知ってもらう取組みについて
◉毎月1回、会では保存に関するトータル的な議論を続けている。
◉まずは子ども達に小浜線の歴史を知ってもらうことと、駅のプラットホームで給水塔の写生大会を実施した(夏休みの恒例行事)。
◉絵は市役所のロビーや公共施設などに掲示。
◉蒸気機関車も子ども達に描いてもらった。
◉地元の鉄道を身近に感じてもらうためには、話しをするだけでなく、小浜線に乗ってもらうことが重要と、小浜から西は東舞鶴、東は十村までの往復ツアーを行ったほか、敦賀〜長浜間130年記念の行事にも参加した。
 
(4)さいごに
◉国鉄にお勤めされていた方からの小浜線への思いを綴った「小浜線の思い出」も作成、発刊した。
◉小浜線の写真パネルは後日、都賀の鉄道資料館に展示される予定。
 
そして最後に、「知っとるけ?小浜線ものがたり」の編集協力人であり、枡郷さんの娘さんでもある岩崎春美さんが書かれた「あとがき」にホロリときてしまいましたので、併せて掲載させていただきます。
 
【あとがき】
父が小浜駅にある給水塔の保存活動に取り組んでいることを知ったのは、最近のことです。そこには、利害とは無関係なところで一生懸命、活動に取り組んでいる姿がありました。地元、小浜を何とか盛り上げたという熱い思いを感じ取り、私も小浜に生まれ育ったひとりとして、この度微力ながら冊子作成に協力させていただきました。
海あり、山あり、田園風景あり、そして夕日のきれいな小浜線からの眺めは、本当に気持ちが落ち着きます。いにしえの人たちがずっと見守り、静かにたたずむ給水塔。小浜のシンボルとして、これからも皆で大切にしていきましょう。
この冊子を通して、皆さまが地元の文化財の存在を知り、愛着を感じるきっかけになれば幸いです。(編集協力・岩瀬春美)
 
大正6年の敦賀〜十村間(現若狭町)開業からは今年で104年、大正11年の新舞鶴までの全線開業からは99年の歴史を持つ小浜線。
 
知れば知るほど興味が湧く路線な訳ですが、旧北陸本線同様、この歴史ある鉄道遺産をどう生かし保存していくか。
 
これは、今後の北陸新幹線延伸と並行しての大きな課題でありますが、一方こうして嶺南一円に広がる魅力と捉えれば、まだまだ秘めたポテンシャルありとの気づきも得た次第。
 
これまで学んだこと、そして昨日新たに得た気づきをしかと胸に置き、引き続き、先人達が残した歴史や文化を大切にし、今ある資源を最大限生かすよう尽力していきたいと思います。
 
【会場ホールの壁面には、小浜線の貴重なパネルが掲載されていましたので、いくつか紹介させていただきます】
 




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