『大谷吉継 挫折からの復活と敦賀』

ブログ 敦賀の歴史・文化

今年度においては、NHKの大河ドラマ『豊臣兄弟!』の放映に合わせ、豊臣兄弟が生きた時代における越前・若狭地域の武将達の動向を通じて、地域の歴史的意義を再発見し、市民の歴史理解を深めることを目的とする講座を全4講にて開催している気比史学会の市民歴史講座。
 
いずれも興味深く、ここまで2講を開催してきたところ、昨日の第3講では、日本中・近世史に精通し、大谷吉継の研究等多岐にわたりご活躍されておられる、大手前大学国際日本学部講師の石畑匡基(こくはたまさき)氏にご登壇いただきました。
 
テーマは『大谷吉継 挫折からの復活と敦賀』。
 
なお、今年度の講座リーフレットに寄せていただいた石畑先生からの言葉(講座趣旨)は以下。
 
天正17(1589)年に、大谷吉継は敦賀城主となったことは、敦賀の人なら誰でも知っている事柄でしょう。豊臣秀吉に早くから仕えた吉継は、順風満帆な人生を歩み、城主に就任したと思われるかもしれません。しかしながら、その直前の吉継は、豊臣政豊臣政権から追放される危機に瀕していたことが、近年の研究によって明らかになってきました。
追放の危機という大きな挫折を味わった吉継は、豊臣秀吉から何を期待されて、敦賀城主として復活を遂げたのでしょうか。本講では、吉継の挫折と復活の物語を皆さんと紐解いていきたいと思います。
 
この趣旨を読むだけで、どんなお話が聞けるのかワクワクして昨日を迎えたところ。
 
主な論文に「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」(『日本歴史』772 号、2012年)、「大谷吉継発給文書の基礎的研究」(『織豊期研究』27号、2025年)などとあるよう、第一線の吉継研究者である石畑先生からは、講座の冒頭、①吉継の基礎研究、②九州出兵での挫折、③復活と敦賀入部 の3章構成となる旨説明。
 
また、ポイントとしては、①大谷吉継発給文書から判明する基礎事項、②敦賀配置前に吉継が置かれた立場を究明、③吉継が敦賀に配置された意味を再検討とありました。
 

【熱気あふれる講座会場(市立図書館3階)】
 
第1章では、発給文書や花押の変遷など、積み上げられた丁寧な基礎研究から得られたことのご紹介に続き、第2章では、「挫折」を味わうことになった九州出兵について。
 
天正14(1586)年、豊臣秀吉による九州出兵が開始され、吉継も同行するも、天正15年6月21日付の新庄直友書状によると、吉継に加え、木下吉隆・高山右近が国外追放の危機にあり、秀吉から折檻(ここでは、暴力ではなく刑罰・処罰との意味)を受けたその理由が「キリシタン」にあったと。
 
実際、高山右近は、天正15年6月19日付伴天連(バテレン)追放令に抵触し追放された一方、吉継と吉隆はそれに至っておらず、正真正銘のキリシタンであったのか、または、キリシタンに関する何らかの対応が原因で折檻を受けたのかは明らかになっていないものの、何らかの関連があったのではとありました。
 
なお、天正15年6月27日付山崎秀家書状によると、「吉継は秀吉から折檻を受けているが、きっと大坂で召し直される」という見通しが書かれていたことは、おそらく、秀吉が吉継の存在を大事にしていたことを表すものであり、大変興味深く思った次第です。
 
「挫折」から「復活」となった第3章では、秀吉から折檻を受けるも、赦免(刑罰などを免れるとの意味)された後は、天下統一から対外戦争へと向かう秀吉政権にとって、中国大陸に向き合う地であり、北国の敦賀が集散し京・大坂への供給拠点となっている敦賀を万全に掌握することが、きわめて重要と判断された結果(外岡慎一郎先生:2000)もあり、①出羽方面の諸勢力とのパイプ役を吉継に集約していく意図、②豊臣政権による天下統一と大名・国衆統制政策のためと、吉継が敦賀に入部(配置)された意義を学ぶことができました。
 
“最後の敦賀城主”となった吉継の活躍と、最後は関ヶ原の地で散ったことはご承知のとおり。
 
こうして膨大な基礎研究から一つひとつ丁寧に、明快な語り口でご教授いただいた石畑先生に心より感謝申し上げます。
 

【石畑先生、ありがとうございました!】
 
なお、昨日の参加者は、定員を超える103名。
 
県外からも多く、遠くは神奈川、静岡、愛知、岐阜、兵庫からもお越しいただきありがたい限り。
 
いつもより女性参加者の割合が高いことも特徴的で、このように全国からファンが集う吉継を羨ましくも、あらためて誇らしく思った次第です。
 
<参考>
先般行われた戎光祥出版における「戦国豊臣武将総選挙」で、なんと1位に輝いたのは「大谷吉継」!
序盤から優勢にあったともあり、ダブルで誇らしく思ったところです!