コロナ「5類移行」の日に思うこと

ブログ 新型コロナウイルス

終日雨が降り続いたゴールデンウィーク最終日。
 
4日から帰省していた長女を夕方駅まで送ると、改札口は同じく、Uターンされる方、見送りされる方で混み合っていました。
 
「とにかく健康に気をつけて、また頑張れな」と声掛けし別れましたが、改札をくぐり、最後に振り向いて手を振る娘の姿を見るとやはり、寂しい気持ちになるもの。
 
それでも、回を追うごとに、その姿は頼もしくなっているとも感じた次第であり、親として出来るのは、都会暮らしで揉まれる娘の心の拠り所として応援することと思った次第であります。
 
さて、ゴールデンウィークも終わり、本格的な活動開始といったところですが、本日8日は、ある種歴史的とも言える、新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけが、季節性インフルエンザ並みの「5類」に引き下げられる日であります。
 
思えば、国内で感染が確認されて以降、これまで感染者数のピークは第8波まで、「緊急事態宣言」など、患者に対する入院措置や勧告、外出自粛要請など感染症法に基づく制限は約3年3ヶ月に及びましたが、今後は個々人の判断による対応が基本となります。
 
また、5類移行に伴い、公費が適用されていた治療・検査費などに自己負担が生じることになります。
 
外来の自己負担はインフルエンザ並みになる見通しですが、高額な新型コロナ治療薬や入院費には軽減措置を設けたものの、時限的な扱いとしていることも認識しておかねばなりません。
 
もちろん、感染症法上の位置づけが変わったとて、ウイルスの感染リスクが変わる訳ではなく、現に昨日も福井県では新たに88人のコロナ感染者が確認されていることも念頭に、感染症においても「ゼロリスク」はないとの認識のもと、これからは主体的な感染対策が問われるものと受け止める次第です。
 
コロナ感染初期を思い返すと、正体不明のウイルスの脅威に、人々は恐れ慄き、言われなき風評に人間関係や地域までもを分断してしまう。
 
身体への影響はもとより、それが「感染症」の本当の恐ろしさであったように思います。
 
同じく感染初期には、何か考えの拠り所をと、感染症に関する文献や小説なども読みあさりましたが、痛烈に印象に残っているのがアルベール・カミュ著の「ペスト」(1947発刊)。
 
5類移行を前に、昨夜は本棚から引っ張り出し、ページをめくりましたが、小説のラストにはこうありました。
 
(以下、小説引用)
ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古(ほご)のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。
 
「ペスト」が発刊されたのは今から76年前。
 
節目の今日という日を歓迎しつつも手放しで喜ぶのではなく、人類はこうした歴史のもとにあることを思い返さねばならないのかと。
 

【変異を遂げてきたコロナウイルス。生き延びるため、この先も変異は続く。】