「Fukushima50」と原子力発電所の裁判

ブログ 原子力

つい先日、月9ドラマ「朝顔」を観て「琴線に触れた」ことを書きましたが、昨晩は金曜ロードショーで放映された「Fukushima50」。
 
ブログを辿ると、ほぼ一年前の2020年3月14日にも映画館で「Fukushima50」を観て、どうにも堪えられない思いが込み上げ嗚咽して泣いたことを思い出す訳ですが、昨晩も全く同じ状態になってしまいました。
 

 
(約1年前のブログは以下のリンクより)
 →→→原子の灯から半世紀、Fukushima50に思う(2020年3月15日のブログ)
 
その感情は、発電所への愛情や育ててもらった感謝の思い、家族を置き命を張って最後まで発電所を守る覚悟など。
 
そして何と言っても、東京電力福島第一原子力発電所1号機と日本原電の敦賀発電所1号機が同型炉であることからなお、画面に映る光景が我がことのようにも思え感情移入してしまうもの。
 
福島第一原子力発電所の事故を美化することは決してしませんが、事実としてあった、こうしたことだけはお知り置きいただければと思います。
 
さて、そんな昨日は、もうひとつ原子力関係で大きな出来事。
 
九州電力玄海原子力発電所3、4号機の設置許可取り消しなど2件の訴えを退けた佐賀地裁判決は、原子力規制委員会の内規「地震動審査ガイド」に記載されている「地震規模のばらつきへの考慮」だけを過度に取り上げることなく、九州電力が総合的に地震への安全性を考慮していた点を踏まえ、それに基づく原子力規制委員会の判断を「妥当」と結論付けました。
 
2つの訴訟の主な争点の一つは、原子力発電所の耐震設計を決める上で安全性の目安となる揺れの大きさ「基準地震動」の算出にあたり、過去の地震規模の平均値だけでなく、平均を大きく上回る規模(ばらつき)も上乗せして考慮する必要があるかどうか。
 
また、まさに同じ争点で争われている関西電力大飯発電所3、4号機の設置許可取り消しを求めた住民訴訟では、大阪地裁が昨年12月、関西電力が上乗せを考慮しないまま基準地震動を策定したのは地震動審査ガイドにある「地震規模のばらつきへの考慮」との記載に反すると指摘。
 
これを認めた原子力規制委員会の判断に「看過しがたい過誤がある」として許可を取り消しています。
 
一方、佐賀地裁の裁判長は、地震動審査ガイドの記載について、住民側が主張する「平均値への上乗せが必要なのではない」と指摘。
 
平均値を求める際に「原子力発電所が立地する地域の特性や、過去のデータのばらつきなどを確認する必要性を示したものであると解釈した」とあります。
 
そのうえで、九州電力が別の手法を用いて地震規模のばらつきなどを考慮していることから、新規制基準に沿った九州電力の耐震計画や原子力規制委員会の安全審査は「合理性がある」と結論づけた模様。
 
裁判を見るに、大飯の地裁判決とは「相反するズレ」が生じていることが露呈した訳であり、次の大飯裁判にも当然、共通の考えとして参考にされるべきと考えるところです。
 
冒頭の「Fukushima50」では、当時の菅(カン)直人首相が、にわか知識を振りかざし現場に介入してくるシーンがあり、吉田所長が「素人が言うんじゃねぇ」とばかりの表情を浮かべるシーンがありますが、一連の原子力発電所の規制基準審査に関する裁判に関しても、似通った案件なのに、裁判官によってコロコロと真逆の判決がされていることを踏まえれば、そこにはやはり司法の場においても一貫した技術的基準や専門性が必要なのではと考えるところ。
 
こうして判決で左右されることを「司法リスク」と呼んでいる訳でありますが、この点に関しては、より専門性と科学的基準をもって判断できる「日本版原子力裁判所」を作っても良いのではというのが私の考え。
 
東日本大震災発生から10年を迎えた翌日に放映されたことの意味合い、映画にもあったように、現在はさらにあらゆるリスク想定と備えを最大限に高め、「想定外を想定内」にする安全性を高めた取り組みと厳格な審査が行われているのも事実。
 
来週18日には、四国電力の伊方発電所、日本原電の東海第二発電所の判決がされることとなっておりますので、この点に関しても注視をするとともに、判断基準をしかと確認していきたいと考えます。