人生50、功なきを愧ず

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10日の福井新聞に掲載されていた、ふくい日曜エッセー「時の風」。
 
週ごとに筆者を替えて寄稿されるこのコーナーですが、この日の寄稿者は気比史学会会長の糀谷好晃氏。
 
糀谷先生といえば、敦賀市選出の福井県議会議員として3期お務めになられたほか、何と言ってもご自身がライフワークと称する地域史の再発掘や歴史を次代に語り継ぐ活動を長きに亘り続けておられる方であり、私自身、以前よりお付き合いさせていただいている大先輩であります。
 
そんな糀谷先生が、この紙面でも笑顔の写真付きで掲載されており、80歳を超えても変わらぬ、お元気な姿を嬉しく思った次第です。
 
「時の風」では、「人生100年時代」を主題、「幸せは定年後の生き方に」のサブタイトルで、世界一の長寿国となった日本において、現役を退いて(いわゆる定年)からの20数年以上もある寿命を、その多くが長い第二の幼児期(人の世話になるとの意)を迎えていることに焦点を当て、それが幸せといえるのか、答えに窮する問いであるとしつつ、傘寿を過ぎたご自身は「人生は一回きり」と常に意識しつつライフワークを楽しめることは幸せなことと結んでおられました。
 
また、前段ではさすが地域史の第一人者、敦賀の金崎宮一帯が軍事文学「太平記」に登場する哀史の舞台であるとし、この戦記の登場人物である※細川頼之が残した「人生50、功なきを愧ず(はず)」との後世に知られる言辞を引用されていました。
 
※細川頼之:室町幕府3代将軍の足利義満を補した管領(現代でいう首相)を務めた人物。彼の登場で太平記は巻を閉じる。
 
この言辞は、当時の寿命50歳になるも世に功績を残し得なかった己を恥じるとの意味だそうですが、とても凡庸な人間が発する語句ではあるまいと述べています。
 
また、織田信長も50歳を意識した人物であるとし、「人間50年…夢幻の如くなり」と歌い、舞った信長は13歳で元服、49歳で死んだことも紹介されていました。
 
長らく人命は50年という時間の限定があったことの裏付けを序文で表現された訳ですが、翻って現代。
 
長寿命化によって「人生100年時代」とも称されることに、頼之や信長が生きた時代からは倍の時間を生きることになったのだと思うと同時に、ちょうど50歳を迎えた私は戦国時代なら寿命を全うしていたのだと、どこかタイムスリップしたかの感覚に襲われた次第です。
 
歴史上の人物はこの短き寿命を、糀谷先生は第二の幼児期を迎える長寿命をどう生きるかと視点は僅かに違えども、与えられた寿命、その時間を精一杯全うするとの意味においては同じと理解するところです。
 
寄稿を拝読し、ちょうど50歳を迎えた自身の寿命と人生について振り返った日の翌日。
 
入社年度は私のほうが先ながら、同い年の会社の同僚が亡くなったとの悲報に接しました。
 
発電所の保修業務で同じ部所で勤務したこともある彼は、明るく朗らかな人間性、頭脳明晰な素晴らしき人物。
 
病気療養が長く続き心配していましたが、まさかの悲報が届き、今はただただ無念と驚きの念が込み上げるばかりですが、50年を精一杯生きた彼のご冥福をお祈りする次第です。
 
寿命が50年であろうと、100年に延びようと、今こうして生きていることは決して当たり前のことではない。
 
同年代の彼の死に直面し、生前の彼の顔を思い浮かべ思うは「今日死んでも悔いのない生き方」をする。
 
この一点に尽きます。
 
「人生は一回きり」であると同時に、自分の生は何のためにあるのか、そして何を成すべきか。
 
そのような自問自答を続けつつ、明日行われるお通夜では、彼と最後のお別れをするとともに、彼の前でその決意と誓いをしてまいりたいと思います。
 

【散り始めた市内の桜。花びらではなく、花のまま散った桜はどこか彼の姿と重なりました。】