敦賀の山車を探る 〜つるがの山車総合調査から〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

昨日は中秋の名月。
 
敦賀の夜空は厚い雲が流れる中ではありましたが、その隙間から何度か満月を観ることが出来ました。
 
暫しベランダに出て、月見酒も楽しませていただいた次第ですが、名月を観て思うはやはり「松尾芭蕉」先生。
 
かの有名な「おくのほそ道」では、ここ敦賀で中秋の名月を観るとのターゲットのもと工程を進め、実際、1689年(元禄2年)旧暦の8月14日に敦賀を訪れています。
 
名月の句を詠むに、数ある名所の中からここ敦賀が選択されたことだけでも誇らしく思えるところですが、敦賀での道中では大変趣のあるエピソードが残されています。
 
芭蕉さんは夕方、快晴の敦賀に入り、宿の旅籠「出雲屋」の主人に明日も晴れるかどうかを問います。
 
出雲屋の主人は、北陸の天気は変わりやすく明日(中秋の名月の日)は晴れるか分からないので、月見なら今晩のうちにと伝えます。
 
芭蕉さんはその夜「氣比神宮」に参拝し、月明かりに照らされた神前の白砂とその由来に感動し、次のように詠みました。
 
「月清し遊行のもてる砂の上」
 
また、道中楽しみにしていた肝心の「中秋の名月」の日は、主人の言う通り天候が悪く、名月を望むことが出来なかった訳ですが、その時の心境を
 
「名月や北国日和定めなき」
 
と詠み、残念がるどころか、逆に観れなかったことを楽しむかのような句を残しています。
 
普通なら「嘆き」の思いを馳せるところ、現代風で言えば「超ポジティブシンキング」であったことを想像するに、私は芭蕉さんが大好きになり、また「名月や北国…」の句からは、「思い通りにならないことは悔やまない」ことを教わった次第です。
 
このように、名月ひとつとってもエピソード満載の敦賀であり、言い換えれば、地域史を再発見していくに事欠かない、豊富な歴史・文化を持つのが敦賀ということになる訳ですが、昨日も気比史学会と敦賀市立博物館共催の「市民歴史講座」にて、新たな学びがありました。
 
令和4年度第4講となる、今回のテーマは「敦賀の山車を探る 〜つるがの山車総合調査から〜」。
 
敦賀市立博物館館長補佐の高早恵美氏を講師にお招きし、約2時間の講座を拝聴させていただきました。
 

【きらめきみなと館小ホールで行われた講座の様子】
 
敦賀の祭りといえば「山車(やま)」と言っても過言でないくらいですが、平成30年から始めた山車の総合調査から分かったこと、そこから推敲される山車の歴史を知ることが出来ました。
 
すべてをご紹介することは控えますが、いくつかポイントだけお伝えいたします(マニアックな内容を含みますが、その点ご容赦を)。
 
<敦賀の山車の現在>
・敦賀の山車は等身大の武者人形に拘っている。顔は能面、鎧兜は人間用の本物を使用している。馬具も実は本物。
・欄干の周囲に飾っている水引幕は復元新調のもの。
・御所、金ヶ辻、唐仁橋(それぞれ山を持つ町の名前)は、比較的古いパーツが使われている。
・東町、観世屋町、鵜飼ヶ辻子は、平成6年に再興している。
・足回りには、芯棒、台輪、車軸、車軸つなぎのパーツがある。
 
<敦賀の山車の発生と近世の祭り>
・江戸時代の山車の文献から紐解く。
・「寛文雑記」(寛文5年6月27日:1665→一次資料ではない)が一番古い記録。御所辻子山車には、これより以前より恵比寿神を乗せていたとある。そのためか、山車の順番はくじで決めるが、御所辻子山車は「くじ取らず」(くじ無しで一番)であったとも。
・「気比宮社記」を読むと山番町は東西6町ずつ。組合町は東2、西1の3町。合計15町であったと読める。時代によっては、そうでなかったこともあるよう。
・「祭礼覚」(寛文雑記:天和3年(1683)年頃)によると、8月3日の練物は例年通りとしつつ、作り花や飾りに金箔等は一切用いない、地車、かきたな(担ぐ棚)は二、三を残して止める、三つ物(田楽の鳴り物か?)一つは減らすなど、小浜藩から祭りの豪華さを制限された。
・とにかく豪華になっていた。個人持ちの小山や宵山はまだなかった。
・宵山が登場していた(山町以外の参加)。練物の他に多彩な棚など、趣向も色々。3日の練物には小山があったはず。北前船の影響などから、経済的な賑わいも伺える。
・江戸時代の中でも様々な変遷があったものと認識。
・「敦賀志」(嘉永3年(1850)年までに成立した気比社の神職、石塚資元が編纂した地誌)によると、(祭りの)2日目には、個人持ちの山車を含め、多い年で40〜50、少ない年でも20〜30出ていた。
・明治に大山は廃止になった。
 
<敦賀湊の山車の祭り>
・気比神宮の祭礼の神幸祭(8月3日)に伴う練物の祭りとして始まる。
・天文10年の気比神宮造影に伴い、変化が生じたと考えられる。
・元亀4年の戦災で神幸祭が失われる(江戸初期には再興を目指すか)。
・江戸時代初期、次第に豪華に、練物に新たな趣向が登場(江戸時代半ば頃)。
・江戸時代中期、練物が賑わい。山町以外も宵宮などに出し物を出す。
・3日には小型の山車が登場(18世紀後半以降)。
・幕末頃、3日の山車が増え、祭りの中心に。大山は大きさを競い、飾りは雑に。
・明治初期、大山は廃止。小山を町の山車に。開催日が、9月2〜4日に変更。3日の練物は廃止、御鳳輦が始まる。
 
以上、私が記録に留める意味も含め、ご紹介させていただきました。
 
盛り上がりすぎて、小浜藩から叱られた?との話には、思わず笑ってしまいましたが、聞けば聞くほど、奥が深く、歴史ある「敦賀の山車」。
 
「水引幕」は、北陸新幹線敦賀駅コンコースの柱部分に掲載されることとなっており、全国の皆さんにお披露目出来ることを嬉しく思うところですが、何と言っても山車の迫力や美しさは「リアル」で。
 
講師の高早さんも最後に仰っていた通り、願いは「来年こそ」6基の山車が氣比神宮大鳥居の前に勢揃いすること。
 
敦賀市民はもとより、多くの観光客の皆さんに、その荘厳な姿を見せてくれることを切に期待いたします。