関ヶ原の合戦の日に吉継公を思う。

ブログ 敦賀の歴史・文化

少しくどくて恐縮なのですが、昨日記載しました日本共産党の「いわゆる『敵の出方論』」について、今度はテレビ局ではなく、加藤官房長官が14日の記者会見で「政府としては日本共産党のいわゆる『敵の出方論』に立った暴力革命の方針に変更はないものと認識している」と述べました。
 
これは、共産党が8日の中央委員会総会で、権力側の出方によっては非平和的手段に訴える「敵の出方論」との表現を今後は使用しないと決定したことに関する質問に答えたもので、志位委員長は同総会で、「敵の出方論」について「どんな場合でも平和的、合法的に社会変革の事業を進めるという共産党の一貫した立場を説明したものにほかならない」と述べたとのことですが、官房長官は「志位氏の発言によって政府の認識は何ら変更するものではない」とも語ったとのこと。
 
よって、私自身も今一度、この認識を正式なものとして留めておきたいと思います。
 
そして、何故このことに拘るかと言えば、即ち、次期衆議院選挙を、共産党と手を取り合って野党4党連携で戦うとすることの意味合いに直結するからであり、仮に立憲民主党が「こうした方針は別物」だと仰るのであれば、理念や信念なき、選挙のためのご都合主義と批判されて当然と思うところです。
 
さて、話しは変わり、今日9月15日は、天下分け目の「関ヶ原の戦い」の日です。
 
「関ヶ原の戦い」を説明するのは野暮というものですが、ここ敦賀との関係と言えば「病と闘いながらも友情に殉じた名将」敦賀城主「大谷吉継」の命日にあたります。
 
吉継公を祀る永賞寺では、コロナ禍を踏まえ一般の方が参加しての法要は行わないとのことでありますが、智勇兼備でとにかく人望が厚かった吉継公に改めて思いを馳せる次第です。
 
大阪城で開かれた茶会で、当時皮膚病(ハンセン病と言われる)を患っていた吉継公が口をつけた茶碗を誰もが敬遠するところ、石田三成だけは普段と変わりなくその茶を飲み干したことに感激をし、以後2人は友と呼び合う仲となり、この関ヶ原においても、劣勢を知りながらその信義を貫き、三成側の西軍で戦い、最後まで裏切ることなく戦い抜いたとの話しは、まさに吉継公の人柄、生き様を表す有名なエピソードとして語り継がれています。
 
吉継公はこうした人柄もさることながら、賤ヶ岳・九州・小田原戦役などで活躍しましたが、あの秀吉をもってして「百万の兵を与えてみたい」と言わせた軍才と奉行としての手腕も持ち合わせていました。
 
決戦の日は、既に盲目となり、病気で崩れた顔を隠すため絹の布をすっぽりと被り、輿に乗って自らの軍を指揮し、島津勢が「比類なき様子に候」と語ったよう、目覚ましい戦いぶりを見せた吉継勢でしたが、徐々に防戦一方となり壊滅。
 
吉継公は、自ら脇差で腹を突き、家臣に介錯させ自刃。享年42歳。
 
なお、敗れた西軍の一万石以上の大名で、関ヶ原の戦いの地で死を選んだのは大谷吉継ただ一人であったと言われています。
 

【関ヶ原の合戦絵図と大谷吉継公(インターネットサイトより引用)】
 
重い病気で、明日をも知れぬ命とは言いつつ、いつか果てるなら豊臣家再興と盟友三成のためと、恩義と忠義を全うしたその生き様たるや、敦賀の誇りであり、決して真似は出来ぬとも、一度しかない人生において吉継公から学ぶことの大きさを改めて感じる次第です。
 
敦賀の方にとっては釈迦に説法のような話しであったかもしれませんが、今日は「関ヶ原の戦い」に掛け「大谷吉継公」を紹介させていただきました。
 
同じ戦いでも総裁選や衆議院選、ここでは吉継公のような恩義や忠義、信念を貫く姿は見れるのか。
 
人のことは置いておいて、私自身は「信念なくば信頼なし」の言葉、吉継公から学ぶこととを胸に活動を続けてまいります。