仲秋の名月と重なる「バショさんの旅」

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昨日の敦賀市議会は、予算決算常任委員会(全体会)を開催。
 
補正予算議案(4件)ならびに決算議案(4件)に関し、各分科会長報告から討論、採決までを行いました、
 
その結果、全件について、補正予算議案は「原案のとおり認めるべきもの」、決算議案は「認定すべきもの」と決しました。
 
32日間と長丁場の9月定例会も、はや最終日を残すまで。
 
今定例会に提出された全議案の採決を行う本会議は10月9日(木)10時からとなりますので、討論準備などを整え臨むとともに、議会の模様はまた、議場傍聴やインターネット中継にてご覧いだだければ幸いです。
 
さて、日中の議会を終え、昨日楽しみにしていたのは「仲秋の名月」。
 

【iPhoneの露出調整により、初めて撮影に成功?した昨日の名月】
 
〜名月はつるがの湊にと旅立つ(おくのほそ道より)〜
 
今から336年前の元禄2(1689)年3月27日に江戸深川を旅立ち、関東、東北、北陸各地を約5ヶ月掛けて旅した物語「おくのほそ道」は、日本の古典の最高傑作の一つとして、広く読み継がれてきているのは誰もが知るところ。
 
その松尾芭蕉(以下、「バショさん」)が、旅の終わり同年9月27日に敦賀入りした目的とは、冒頭の句にあるとおり「敦賀で仲秋の名月を見るため」でした。
 
残念ながら、当日は雨で、楽しみにしていた名月を見れなかった訳ですが、その際に詠んだ句がこちら。
 
〜名月や北國日和定めなき〜
 
おくのほそ道は、がっかりの中にも興じる姿勢がいくつも垣間見え、例えば、雲で富士山が見えなくとも、見えてしまえば景色はひとつ、見えないことにより想像の中にいくつもの景色が浮かび上がるといった考えにより、さぞかし「がっかり」したであろう気持ちを詠んだ句と思いきや、実はそのことさえ楽しんでいるという「超ポジティブ」な発想と知れば、自然と気持ちも明るくなるというもの。
 
とはいえ、昨晩の見事な月は、336年前のバショさんに見せてあげたいくらいでしたが、そう思うこと自体、私たちの心の中にバショさんが生きている証拠。
 
なお、おくのほそ道は、また旅立つ場面で終わっています。
 
そのことと昨日の満月を重ねれば、336年経った今もまだ、「予(バショさん)」の旅は終わっていないのだと、敦賀に残した歴史ロマンに思いを馳せた次第です。
 

【参考まで。バショさんが敦賀で詠んだ10句をご紹介いたします(つるがバショさん会作成)】

フィールドワーク『関ヶ原古戦場をめぐる』

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9月14日、15日と、敦賀が誇る義の武将「大谷吉継」公のことをブログに記したところですが、それも今年は「吉継生誕460年」の年にあたることもあり。
 
自身が所属する市民歴史団体「気比史学会」においては、今期の市民歴史講座シリーズテーマのひとつを「大谷吉継生誕460年」(もうひとつは「戦後80年」)におき、講座を開催しているところ、昨日はその第3講として「フィールドワーク 関ヶ原古戦場をめぐる」と題し、合戦場の現地を歩いてまいりました。
 
市内外からの参加と役員を合わせ、計27名にお集まりいただき、小雨降る中ではありましたが、「いざ関ヶ原へ!」とバスにて出発。
 
関ヶ原到着後は、「岐阜関ヶ原古戦場記念館」、「不破関史料館」と屋内施設を観覧した後、そこからは徒歩にて旧中山道を進み、松尾山眺望地、大谷吉継陣跡、吉継墓、平塚為広墓(吉継とともに戦った武将)をめぐるという行程。
 
なお、関ヶ原の地は、古くは、日本武尊のゆかりの地であることや壬申の乱の戦場となるなど、日本史の重要な舞台であった訳ですが、なかでも「関ヶ原の戦い」は、全国の武将が東西両軍に分かれ、それぞれの忠誠、友情、策略、葛藤を抱えて激突した「天下分け目」の戦いであり、のちに260年以上続く天下太平への幕開けとなる大きな転換点となったことは誰もが知るところ。
 
慶長5(1600)年9月15日の「関ケ原の戦い」は、中山道、北国街道、伊勢街道が交差する交通の要衝として賑わい、東西の結節点であった関ヶ原には※日本三大関のひとつ「不破関(ふわのせき)」が置かれ、そういった地理的理由から「決戦の地」となった次第。
 
※日本三大関とは、有数の交通の要衝である①不破関(岐阜)、②鈴鹿関(三重)、③愛発関(福井県敦賀市)を指す。
 
私は事務局として、とりわけ吉継墓までの道のりは山道となることから、9月初旬に他の役員と一緒に「下見」を済ませて臨んだところ。
 
昨日もあらためて、古戦場記念館、不破関史料館に保存された資料、その見せ方は素晴らしいものと思いつつ、霧雨降る状況ではありましたが、現地のボランティアガイドさんにも確認した上で、フィールドワークを「決行」。
 
不破関資料館を出発し、約25分ほど旧中山道を進み、まずは大谷陣から小早川秀明陣を望む松尾山眺望地へ。
 
この日は霧がかっていたものの、ちょうど関ヶ原合戦当日も雨上がりの天候であり、さながら425年前の情景と重なるものと、雨天を憂うのではなく「ポジティブ」な会話を参加者同士で交わしつつ、次はそこから2分ほどの大谷吉継陣跡へ。
 

【吉継陣跡に向かう道中。霧がかった雰囲気は、合戦の日さながらか。】
 
その後、山道を10分ほど歩き、昨日の目的である「吉継公のお墓」に到着。
 
厳荘な雰囲気のなか並ぶ、吉継と湯浅五助(合戦の地で、吉継の遺言を受け介錯した)のお墓に一礼のうえ、参加者ひとりづつ、線香を手向けることができました。
 
また、お墓の周りは綺麗に雑草が刈られ、墓前にもお花やお酒が供えられていたのは、この周辺の集落の方がお守りをしてくれているとのことであり、最後の敦賀城主である吉継公をこうして大切にしてくれていることに皆で感謝し、深く御礼をし、墓前を後にした次第。
 
その後は山道を下り、平塚為広のお墓をお参りし不破関資料館に戻りましたが、いわゆる「吉継コース」をめぐり感じたのは、関ケ原合戦では、多くの武将達が自らの利益のために参戦していたと言われるなか、“義”という目に見えない価値のために死を選んだ吉継の生き様。
 
また、行ってみて分かったよう、「大谷吉継陣跡」は、山中(やまなか)の「大谷吉継の墓」から少し下った場所にあり、大谷隊は、関ケ原の合戦が始まる十日程前に若宮八幡宮上の急斜面に陣を作り始め、空堀を左右に巡らせたもので、戦術に長け、官僚としても優秀であった吉継は、陣作りにも力を発揮した様子。
 
当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面のこの地に陣を定めたことは、優れた武将と評価される所以であると、自分の中でさらに、吉継公に対する誇りの念が高まった次第です。
 
フィールドワークを終えた後は、一路敦賀に戻りましたが、バスの車中でも行程を振り返る中で、「いざ関ヶ原へ!」とフィールドワークに参加された皆さんも同じ気持ちではなかったと。
 
なお、関ヶ原の戦いは、慶長5(1600)年9月15日ですが、旧暦と新暦の違いにより、本当の合戦の日は「10月21日」。
 
2週間後ということになりますが、あらためて吉継公の功績と生き様に思いを馳せるとともに、来年以降も定期的に墓前へのお参りを続けていきたいと思います。
 
結びに、参加いただいた皆様、至らぬ点が多々あったかとは思いますが、誠にありがとうございました。

子どもたちの心に芭蕉を

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敦賀市議会のほうは一般質問が終わり、この後は常任委員会に特別委員会、決算審査のための予算決算常任委員会と続くところ。
 
これに向けた準備と並行してではありますが、昨日は気比史学会主催の「ミニ歴史講座」を開催。
 
毎月この日と決めた定期開催ではないものの、知の拠点「ちえなみき」2階のオープンスペース セミナー&スタディをお借りし開催しているもの。
 
10時30分からの講座では、「つるがバショさん会」の皆様をお迎えし、『松尾芭蕉 おくのほそ道 〜敦賀の旅〜』と題した紙芝居を行なっていただきました。
 
※松尾芭蕉のことを、敦賀では親しみを込めて「バショさん」と呼び、キャラクターにもなっている。
 

【紙芝居の実物とスクリーンに投影された「おくのほそ道 〜敦賀の旅〜」】
 
「子どもたちの心に芭蕉を」との思いのもと結成された「バショさん会」は、上記の紙芝居を作成し、市内の小学校に寄贈したり、「おくのほそ道 敦賀編」のすごろくゲームなど、バショさんと俳句を楽しむ学ぶグッズを作成、配布したりと精力的に活動されてきた団体。
 
なお、こうした機材の作成には、取組に共感した敦賀ライオンズクラブが資金面でのサポートを行うなど、協力して実施することができたとのことでした。
 
講座の参加はどなたでもフリーということで、気比史学会の会員はもとより、一般の方、若い男女も参加されるなど盛況。
 
会の方からは、「バショさん会」の由縁や芭蕉の魅力をお話しいただいた上で、紙芝居を実践いただきました。
 
といっても、紙芝居は実物をご紹介していただくに留め、パワーポイント化したものをスクリーンに投影し、今時のスタイルで。
 
バショさんが敦賀で詠んだ句を、情景が浮かぶ見事な絵とともに紹介いただき、当時に思いを寄せた次第です。
 

【会場のセミナー&スタディの様子】
 
バショさんに関してはこれまでも、「名月や北國日和定めなき」の句によって、私がポジティブシンキングになったことを幾度かお伝えしてきたところですが、ブログを遡ると、「おくのほそ道」から330年の節目の年であった令和元(2019)年には、敦賀で様々な催しがあり、これに参加したことを次のように記録していました。
 
<令和元(2019)年9月17日ブログ>
 
敦賀市立博物館にて開催されている特別展「おくのほそ道 330年の旅」を鑑賞しました。
知る人ぞ知る松尾芭蕉の「おくのほそ道」ですが、今から330年前の元禄2(1689)年3月27日に江戸深川を旅立ち、関東、東北、北陸各地を約5ヶ月掛けて旅した物語は、日本の古典の最高傑作の一つとして、広く読み継がれてきています(特別展資料解説より)
 
芭蕉は、旅の終わり同年9月27日に敦賀入りし、気比神宮を参拝、色ヶ浜にて遊び、中秋の名月や秋の寂しさを感じ入るような句を詠んでいます。
 
また驚いたのは、敦賀を後にする際、宿泊していた出雲屋という宿に杖と笠を残していったと伝えられており、杖は今も敦賀に現存しているとのことで、博物館にも展示されていました。
330年前、しかも芭蕉のイメージにもある杖を眼前に見ることが出来、これだけでも本当見に来た甲斐がありました。
 
おくのほそ道は、また旅立つ場面で終わっていることから、330年経った今もまだ「予(芭蕉)」の旅は終わっていないかもしれず、多くの読者の心の中で芭蕉は永遠の旅人であるとの解説にダブルで歴史ロマンを感じた次第。
 
浅学でこれ以上述べることは止めておきますが、興味のある方は是非市立博物館に足を運んでいただけたらと思います。
 
<令和元(2019)年9月21日>
 
きらめきみなと館で開催された気比史学会主催の敦賀市民歴史講座に参加しました。
先日(上記のブログ)、敦賀市立博物館で開催されている特別展「おくのほそ道330年の旅」をご紹介しましたが、その一環として「おくのほそ道を読み解く」と題し、和洋女子大学より佐藤勝明教授をお招きしての講座でした。
 
教授の「おくのほそ道の舞台である敦賀で講演出来ることに感激しています」との言葉から始まった講座ですが、浅はかな知識で参加した私にとっては、「ここまで深く読み取るのか」と驚くばかりの内容。
 
メモも取りましたが、ここでは紹介し切れませんので、特に印象に残った教授の言葉を2、3紹介します。
 
①氣比さん(氣比神宮)参宮の場面は、おくのほそ道の1・2を争う大事な場面である。
②北陸路に省筆が多い(句が少ない)が、省筆せずに記された「敦賀」の記述は、ここにひとつの大事なテーマ(無常の世の中でも伝わり続けられる「心」)があることが理解できる。
③おくのほそ道は、がっかりの中にも興じる姿勢。例えば、雲で富士山が見えなくとも、見えてしまえば景色はひとつ、見えないことにより想像の中にいくつもの景色が浮かび上がる。
 
私としては、上記の②に注目。
芭蕉が敦賀に「杖」を置いて行ったこと、省筆せずに句を詠んだ理由が敦賀で感じた「心」にあるとすれば、これは後の「人道の港」のエピソードにもつながるのでは無いかと感じた次第。
 
こうしてお話しを聞いたこの時から、「バショさんファン」になった私。
 
〜名月はつるがの湊にと旅立つ(おくのほそ道より)〜
 
今年の仲秋の名月は、10月6日だそう。
 
仲秋の名月を「敦賀で見よう」と楽しみに訪れたバショさんを重ねつつ、バショさんも見上げた前日5日の夜、氣比神宮にのぼる月を眺めてはいかがでしょうか。
 

【紙芝居にあった、氣比神宮にのぼる月。名月もこの絵もお見事。】

天下分け目の「関ケ原の戦い」と「大谷吉継」

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本日9月15日は、「敬老の日」。
 
先日ご紹介したとおり、私が住む町内では今月7日に、ひと足お先の「敬老会」を開催したところ。
 
祝日法に定める「敬老の日」の趣旨は、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことであり、あらためて、これまで国や地域をお支えいただいた諸先輩方への敬意と感謝、そして今後も健康でいきいきとした人生を送っていただくことを心より願う次第です。
 
また、昨日のブログの結びに書いたよう、今日は「※関ヶ原合戦」の日。
 
慶長5(1600)年9月15日、天下分け目の戦いとして名高い「関ケ原の戦い」は、中山道、北国街道、伊勢街道が交差する交通の要衝として賑わい、東西の結節点であった関ヶ原の地で行われました。
 
※後述
旧暦と新暦の違いにより、関ヶ原合戦の本当の日は「10月21日」。
 
この地は、古くは、日本武尊のゆかりの地であることや壬申の乱の戦場となるなど、日本史の重要な舞台であった訳ですが、なかでも「関ヶ原の戦い」は、全国の武将が東西両軍に分かれ、それぞれの忠誠、友情、策略、葛藤を抱えて激突した「天下分け目」の戦いであり、のちに260年以上続く天下太平への幕開けとなる大きな転換点となったことは誰もが知るところ。
 
「いざ関ヶ原へ!」と、名だたる武将が関ヶ原に集結するなか、敦賀から参戦した大谷吉継の人物像は、昨日ご紹介したとおりでありますが、関ヶ原合戦における吉継の評価として、「関ヶ原観光ガイド」に次のような記載がありました。
 
小早川を見張るため!?天才軍師の陣跡
「大谷吉継陣跡」は、山中(やまなか)の「大谷吉継の墓」から少し下った場所にあり、ひっそりと碑が建っています。大谷隊は、関ケ原の合戦が始まる十日程前に若宮八幡宮上の急斜面に陣を作り始めました。この陣は空堀を左右に巡らせたもので、山中城と呼ばれるほどの要害の地であり、合戦後は徳川家康も大谷陣を一夜の宿として使用したという話もあります。戦術に長け、官僚としても優秀であった吉継は、陣作りにも力を発揮しました。当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面のこの地に陣を定めたというのも驚きです。
 

【関ヶ原の地における吉継の陣跡(2025年9月 やまたけ撮影)】
 
また、吉継の人物像に関してはこのように。
 
壮絶なる「男の美学」
大谷吉継は、親友の石田三成に徳川家康との戦いを打ち明けられた時、無謀な戦いであることを説き続けました。しかし、三成の“義”を貫こうとする決意は固く、吉継は友である石田三成のためにも、病身でありながら合戦に参加します。関ケ原合戦では、多くの武将達が自らの利益のために参戦していたといわれています。そんな中、“義”という目に見えない価値のために死を選んだ吉継の生き様は、まさに男の美学といえるでしょう。
 
こうした評価がされる吉継には、全国に「ファン」(特に女性が多い)がおり、外岡先生の「吉継Cafe」や8月10日に敦賀市が開催した「吉継サミット」に500人もの参加者があったこと(歴史講座としては異例)、そして一昨日の市民歴史講座にも10名を超える県外参加者があったことが、それを証明するもの。
 
ただ残念なことは、敦賀の人が吉継のことをあまりご存知ないことであり、大谷吉継」のことを地元の人にこそ広く知っていただくことは、地元に対する愛着や誇り、さらには「義=人道」につながるものであることから、気比史学会の立場、一議員の立場としてそうしたことに取り組むことを胸に誓うところです。
 
なお、関ヶ原合戦に関しては、日本史上最大級の戦いである関ヶ原の戦いを、楽しく学び、体験できる施設として、「岐阜関ヶ原古戦場 記念館」なる素晴らしい施設があることや、ここを拠点に、この地で戦った各武将の史跡めぐりに出かけるなどにより、より深く、より想いを馳せることができます。
 

【岐阜関ヶ原古戦場 記念館(2025年9月 やまたけ撮影)】
 
結びに、気比史学会では、歴史の1ページを体感し、関ヶ原の地で逝った大谷吉継を偲び、10月5日は『関ヶ原古戦場をめぐる』と題したフィールドワークを開催することとしています。
 
第41期敦賀市民歴史講座 シリーズII「大谷吉継生誕460年」もこれで最終講。
 
参加者の皆さんとしっかりとめぐってまいります。
 

【『関ヶ原古戦場をめぐる』の開催チラシ。既に下見を終え、イメージは十分。】

『語り継がれる大谷吉継』 〜敦賀市民歴史講座 シリーズII「大谷吉継生誕460年」第2講より〜

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昨日は、気比史学会主催の第41期敦賀市民歴史講座 シリーズII「大谷吉継生誕460年」の第2講を開催。
 
テーマは『語り継ぐ大谷吉継』。
 
吉継研究の第一人者である外岡慎一郎氏をお招きし、深い吉継の魅力はもとより、歴史研究家としての信念ともいえるお考えを拝聴した次第です。
 

【会場には、10名を超える県外参加者を含め、85名の方にお集まりいただきました。多くの参加に感謝申し上げます。】
 
先生からはまず、大谷吉継が世間で知られるようになったのは、NHK大河ドラマ「真田丸」あたりから。
 
それまでは、関ヶ原合戦など限られた描かれ方をされてきたが、ここでは吉継の人物像が描かれたことによるとのお話から入り、以降は資料に沿って講義いただきました。
 
最後の敦賀城主「大谷吉継」だけに、すべてをお伝えしたいところですが、資料の内容を引用する形で、以下ポイントをご紹介いたします。
 
<はじめに>
◉2015年の敦賀市立博物館リニューアル記念特別展の「結語」は、軍記類(のみ)を素材に構築された吉継像と文書の「ことば」から垣間見える吉継像とが乖離しないということ。
◉2018年の吉継Cafe『大谷吉継英雄伝説』では、「史実」の領域(文書と軍記の情報)には、吉継の病や三成との「佐和山会談」、関ヶ原での戦死など、人々の想いと調和(こうあって欲しい)した部分と、例えば家康との協働(三成との疎遠)や吉継が大酒飲みであったなど、人々の想いと不調和(そうあって欲しくない)な部分とがある。
◉「英雄伝説」の領域には、三成との絆など、史料に疑義があるものの人々の想いと調和すること(語り継がれている)、よくある茶会の逸話(病の吉継の茶を三成が飲んだ?)では、本当に飲んだのは誰なのか史料が不在だが、合理性の中で人々の想いと調和するものがある。
◉これらのことから、「虚像と実像」という枠組みを排除した人物(吉継)研究が必要。
◉何が本当で何が偽物か、歴史を書く人はその証拠を添えて、これまで語り継がれてきたことを確認していくことが、本日の講座の趣旨。
  =吉継論の「定型」形成と継承の姿をとらえる試み
 
<「英雄伝説」の源流 〜近世軍記類の成立事情>
◉17世紀には『関ヶ原始末記』や『慶長見聞書』など多数、18世紀には『落穂集』、19世紀には『名将言行録』など、関係軍記類には年代的階層がある。
◉軍記類成立の画期は、17世紀後半(寛文・延宝期)であり、江戸幕府による政治秩序の完成期と重なる。
◉軍記類は、幕藩制が共有する「神話」的意義をもつ。
◉その時代時代を生きてきた人を見ていくことが重要であり、決して「できごと史」にしないこと。
◉事実が歴史になる瞬間がある。見ている事実は様々だが、歴史になる瞬間にはせめぎ合いがある(近代史でいえば、南京大虐殺など)。
 
<近世から近代へ>
◉「佐和山会談」(『慶長見聞書』)では、吉継が三成に、「自分が病身を押してはるばる会津まで下ろうとしているのも、ひたすら貴殿(三成)と家康との間で争うことのないよう取り計らうためだ。この(挙兵)計画は絶対に進めてはいけない。」と話したとある。
◉一方、『落穂集』『慶長見聞書』を素材に「佐和山会談」を紹介した「大谷吉継の去就」では、「吉継は三成のために口説き落とされた。憐れ好男児、彼は三成と情死す可く決心した。」とあり、三成の右手となって関ヶ原の大立物となり、様々な人が事をなさんとする輩中にあって、その独自一己の面目を発揮し得たのは、実にこの大谷吉継一人であったとある。
◉同じく「石田三成の活動」の項では、吉継が三成に加担したのは、三成にとって百万の援兵を得た心地があった。「彼(吉継)は、石田の挙が、百に一も成功なきを知っていた。然しも今更石田を見殺しにするに忍びず、その最善を噶(つく)した。」。
◉これらの相違は、関ヶ原合戦研究の研究史上の問題(吉継のみならず、個別武将の評伝を含め)。
◉概観的には、関ヶ原研究の現状における通説的理解に近い叙述であるが、軍記類に示された「定型」を継承し、独自の物語を創造していくことが重要。
 
〜その上で、例えば、この論説をご覧ください(資料をそのまま引用)〜
 
尾崎秀樹・林富士馬『英雄の診断ー医学から見た日本史』1965年 人物往来社
(「天刑病とifの日本史」の章、合戦直前に吉継が小早川秀秋を説得したことに触れ)この最後の説得が成功しなかった陰に、吉継の業病が大きく作用したということは考えられないだろうか。(中略)かつて紀之介といったところ、彼は美童とうわさされたほど眉目秀麗であったという。もし吉継がそのままの姿で成人し、颯爽とした武者ぶりで秀秋の陣へ乗り込んで行ったとしたらどうだろうか。(中略)(関ヶ原の戦いは)たしかに東軍に勝つ要素が多く、西軍には敗北にいたる条件が多い。その数多い条件のうちでも、最大のものは、大谷刑部小輔のハンセン氏病であったと考えられる。「もし」智将大谷吉継が五体満足な状態にあったら、あるいは西軍が勝利をおさめることも可能ではなかったか。関ヶ原の戦の跡をふり返ってみて、私はどうしてもそう思えてならない。
 
◉これは、吉継の「if」を書いてくれたことで、「人々の想い」に応えてくれたとも言える。
 
<おわりに>
◉近年の研究成果として、秀吉死後の豊臣政権論(家康を排除した政権を樹立するため?に三成・吉継が仕掛けた「政変」)や関係史料の収集・分析や系図研究、考古学的知見などによる大谷吉継研究の進展がある。
◉吉継に関しては、近年の、今後の研究成果もこれからの「語り継ぎ」の一部であり、「人々の想い」(ifなど)を動機とする新たな研究視角を構築していく。
 
以上が講座のご紹介となります。
 
“吉継論の「定型」形成と継承の姿をとらえる試み”
 
私自身、講座の目的にあったこの言葉の意味を理解するとともに、外岡先生の歴史研究者としての信念、吉継を語り継ぐ強い思いを感じたところであり、本市民歴史講座通算34回目の登壇をいただいた先生に心より感謝申し上げる次第です。
 

【様々な思いを込めてご講義いただいた外岡慎一郎先生】
 
そして、これまでの「定型」として存在する大谷吉継が、今後の研究によってさらに、誇り高き「義の武将」として語り継がれることを祈念するとともに、「智将大谷吉継が五体満足な状態にあったら、あるいは西軍が勝利をおさめることも可能ではなかったか。」との「if」にあるよう、日本の歴史を変えたかもしれない人物が、ここ敦賀の武将であることを、こちらも心より誇りに思います。
 
ちょうど明日は、天下分け目の関ヶ原合戦の日。
 
参戦した武将の中で唯一、関ヶ原の地で自刃した吉継を偲び、静かに手を合わせる日にいたします。

おまつりは地域をつなぐ最大のコミュニティであり宝

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『敦賀に秋の訪れを告げる北陸随一の長まつり』
 
上手く表現しているこのタイトルは、敦賀まつり振興協議会のホームページ(HP)にあったもの。
 
HPでは続けて、「氣比神宮例祭」は、9月2日宵宮祭、3日神幸祭、4日例大祭、5日より10日まで後祭、15日の月次祭をもって終わる「氣比の長まつり」として有名とあり、例祭の前夜祭にあたる2日の宵宮祭は、宵山巡行がないと本祭りは始まらないと言われていること。
 
3日の御鳳輦(ごほうれん)は、氣比神宮の御神体である仲哀天皇を祀ったお神輿で、菊花の紋章入りの錦旗を先頭に、烏帽子(えぼし)、護衛の直垂の衛士(ひたたれのえじ)、甲冑をまとった武士の犬神人(つるめそ)、神馬に乗った神官の神職(しんしょく)、稚児、楽人を従えて、雅楽が奏でられるなか、氏子達と共に古式ゆかしく市内を巡行する例祭の本祭りであること。
 
4日の例大祭では、まつりのシンボルとして長い歴史を持つ6基の山車(やま)が揃い、敦賀の山車の特徴は等身大の人形に本物の能面や甲冑を飾り付け、戦国時代の合戦における武将の勇姿を表現していること。
 
と、コンパクトながら大変分かりやすく、「氣比神宮例祭」の内容を紹介しています。
 
また、9月2日の宵宮祭から4日例大祭までの期間を「敦賀まつり」と呼びます。
 
その「敦賀まつり」は昨日2日目を迎え、上記の御鳳輦巡幸や大人6基、子ども8基による神輿が市内一円に繰り出したことに加え、夕方からは「カーニバル大行進」が行われました。
 
市内小中高校による①マーチングの部、企業・団体による②パレードの部、③仮装・電飾パレードの部の3部で構成される「カーニバル大行進」に、今年は22チームが参加。
 
各チームは色とりどりの衣装を纏い、沿道の大勢の観衆の前で日頃の練習の成果を披露する姿はまさに、“市民総参加”と毎年感じるところ、これに私も参加。
 
パレードの部に出場する日本原子力発電(株)の一員として、今年も「ひょっとこ踊り」に参加してまいりました。
 

【センターステージでの日本原電の隊列(家族が録画してくれていた嶺南ケーブルネットワークのLIVE画像より)】
 
「踊り」といっても、私は獅子舞役(これで3年連続)につき、隊列の周りで賑やかしをするに過ぎない訳ですが、神楽通りから、途中センターステージでは「若狭牛マンボ」の曲に合わせて、最終の相生通りまで、社員の皆さんと一緒に気持ち良く踊り、行進した次第です。
 

【知人が撮影してくれた私の獅子舞姿】
 
なお、日本原電は全体の出場順10番目であり、その後も元気な、市内各企業や団体のパレードが続いたところ。
 
参加された皆様、ならびに沿道を盛り上げていただいた観客の皆様、そして安全な運営のため、裏方でサポートいただいた関係者の方々、大変お疲れ様でした。
 
一夜明け、本日は「敦賀まつり」最終日。
 
満を持して、6基の山車が巡行するほか、午後7時からは市内各地区から参加しての「民謡の夕べ」が行われます。
 
夕方以降のお天気が若干心配なところではありますが、皆の願いで雨雲を吹き飛ばし、元気に踊ってフィナーレを迎えられればと思います。
 
冒頭の敦賀まつり振興協議会HPでは、このおまつりをこのようにも表現しています。
 
「まつり期間中は、各商店街によるお祭り広場や、市民総参加のカーニバル大行進、民謡踊りの夕べなどが行われ、市内外から多くの人が敦賀に訪れます」
 
まさに、市民総ぐるみ、総参加のおまつりは、敦賀の歴史であり、地域をつなぐ最大のコミュニティ(宝)であります。

人道の港敦賀ムゼウム 企画展『万博と赤十字』に学ぶ

ブログ 敦賀の歴史・文化

月の変わり目は、気持ちも新たに。
 
特に8月から9月というのは、3学期制だった私たち世代からすると、夏休みから2学期のスタートであり、よりその気持ちが強いもの。
 
ちょうど昨日は、月始めと週始めが重なったため、朝は張り切って街頭にて活動してまいりました。
 
先週に引き続き、赤黄青と色とりどりのTシャツで通学する敦賀高校の生徒さんと挨拶を交わしましたが、昨日は学校祭だったようで、彼ら彼女らの笑顔から、まさに「青春」と感じた次第です。
 
また、街頭活動の後は、議会運営委員会出席のため議会へ。
 
9月8日に開会する令和7年第3回(9月)定例会の1週間前にあたる昨日は、告示日ということで、いわゆる「告示日議運」では、定例会の日程や運営方法、請願・陳情の取り扱いなどを協議。
 
併せて、同日配布された市長提出議案の付託先(各常任委員会へ)の確認を行なったところです。
 
前年度決算審査を行う9月定例会は10月9日(木)まで、32日間の会期で開催されます。
 
トピックスについては都度、このブログでもご報告してまいりますので、皆様方におかれましては注視いただければ幸いに存じます。
 
 →「令和7年第3回(9月)敦賀市議会定例会」の会期日程はこちら
 
続いて、昨夕は「人道の港敦賀ムゼウム(以下、ムゼウム)」へ。
 
行こうと思って行けていなかった企画展『万博と赤十字』、『戦後80年展 敦賀空襲を伝えつなぐ』を、9月定例会での一般質問に向けた準備も兼ねて鑑賞してきました。
 

【ムゼウム入口の企画展看板】
 
企画展の内容に関しては、ムゼウムのホームページに以下のとおり掲載されています。
 
<以下、引用>
 
2025年、大阪関西万博が開催され、多くの来場者で賑わっています。
「万国博覧会」と「日本赤十字社の創立」には深い関係があり、かつて幕末から明治の時代にパリやウィーンで行われた万博に参加した日本人たちが、パビリオンの展示に感銘を受け、日本に赤十字をもたらすこととなります。
「人道」の精神を基本原則として長く活動し続けている日本赤十字社がどのように発祥したのか、その原点について、日本で万博が行われているこの2025年に、同じく「人道」の精神を重んじる敦賀ムゼウムにて展示を行います。
 
また、2025年は第二次世界大戦終戦から80年となります。
敦賀は1945年の7月12日に日本海沿岸都市として初めて空襲に遭いました。死者・負傷者あわせて300人以上、港を中心とする市街地の大半が焼け野原となった80年前の現実について、史料をご覧いただくことで実感いただくとともに、改めて平和の大切さに想いを馳せていただくため、戦後80年展を開催します。
 
<引用終わり>
 
ネタバレしてはいけませんので、展示パネルにあった印象に残る言葉のみご紹介しますと、それは赤十字の生みの親と言われるアンリー・デュナンの言葉。
 
「(戦争の)その際、本当の敵は、隣国ではなく、冷淡、悲惨、無知、習慣、迷信、偏見です。」
 
マザー・テレサの「愛の反対は憎しみではなく、無関心」との言葉と意味合いが重なるものと認識した訳ですが、非常に深い言葉と胸に留めたところです。
 
また、企画展に関するムゼウムの思いとしてあった、「私たちにとって、80年前の出来事は、今なお世界のどこかの現実となっています。どうして起こったのだろう。何でこうなったのだろう。私たちに出来ることは何だろう。戦後80年の節目に、敦賀と戦争に関する資料を展示します。」との言葉に至極共感。
 
遅ればせながらではありますが、ぜひ多くの方、特に敦賀市民の皆様にはご覧いただきたいと思います。
 
 →「人道の港敦賀ムゼウム」公式HPはこちらから
 
1920年代にはシベリアで家族を失ったポーランド孤児、1940年代にはナチスに追われたユダヤ難民が上陸した敦賀港。
 
先の大戦では、日本海側で初めての空襲を受け、中心市街地が焦土と化した敦賀。
 
そうしたまちだからこそ、その史実を広く世界に伝える役割があると再認識した次第です。

『私が出会った三人の昭和の偉人たち』

ブログ 敦賀の歴史・文化

昨日の福井新聞「越山若水」。
 
戦後80年の夏、犠牲者を追悼するいくつかを訪ね歩いたと書き出すコラムの結びにはこうありました。
 
忠霊碑、忠霊塔といった「慰霊の場」を世話にする人が減り、全国で維持が難しいと聞く。忘れてはいけない惨禍の教訓、それを形にして残し、伝え、気づかせようとした先人の意思が途絶えかねない。「寂しいけれど・・・」でよいのだろうか。
 
私自身、この節目の年に、戦没者戦災死没者を慰霊する場、戦争を「伝え、つなぐ」場に参列、参加してまいりましたが、そこで感じたのはは、「越山若水」にある、このままでは「途絶えかねない」との危機感でした。
 
現世を生きる人々が「大変だから」を理由に、先人が残した記憶を廃してしまっては、それこそ命と引き換えに国を護ろうとした英霊、犠牲になった方々は浮かばれないことから、ここ敦賀でも何をすべきか、しっかり考え、行動してまいる所存です。
 
さて、あらためてそうした思いをもって臨んだ敦賀市民歴史講座 シリーズI「戦後80年」第2講(主催:気比史学会)。
 
概要は、昨日ご紹介しましたとおり、「私が出会った三人の昭和の偉人たち」をテーマに、敦賀出身の元NHKプロデューサー山登義明氏にお話しいただくというもの。
 
昨日14時からの講座では、山登氏が「昭和の偉人」と称する「三人」。
 
戦後の日本文化の土台を築いた、向田邦子(作家、脚本家)、大江健三郎(作家、ノーベル文学賞受賞者)、河合隼雄(臨床心理学者、文化庁長官)の年譜をもとに、山登氏自身が制作した関連動画を交えながら、三人の生き方を見つめ直しました。
 

【配布した講座資料。左から、向田邦子氏、大江健三郎氏、河合隼雄氏】
 
プロデューサーとして山登氏が三人と関わる中で見せた、知られていない三人のエピソードなど交えてお話しいただき、向田邦子さんについては、森繁久弥さんとの出会いから、「週刊平凡」などで執筆を始め、その才能からすぐに頭角を表したこと。
 
また、その裏にいたのはNさん。
 
21歳で出会い、後に向田さんと交際する方で、結果的に彼のサポートにより彼女の才能が引き出されていったこと。
 
35歳の時にN氏が死去し、悲しみに打ちひしがれるものの、その後再起。
 
脚本家として名声を得、昭和50(1980)年の51歳の時には、小説を書いて2作目で「直木賞」を受賞するも、翌年、飛行機事故死。
 
N氏の死去から17年、52歳の若さで亡くなった向田氏は、「人に言えない悲しみがある」、「人生の悲しみに合うと死に近づく」とのメッセージを残したとありました。
 
続く、大江健三郎氏。
 
54歳で書いた著書「人生の親戚」にあるよう、人には切ろうと思っても切れない苦しみがある。
 
生涯小説家の大江さんは、自身が28歳の時に生まれた息子光(ひかる)が脳に障害を持っていることを知り、治療するか否かの究極の選択に迫られた際に、広島と出会う。
 
「被爆者に教えてもらった」との言葉どおり、これを機に光さんと生きていくことを決意した。
 
当時のことを大江さんは、「私と広島はジャストミートした。広島と出会うべくして出会った。」と語った。
 
1990年頃に初めて出会った山登さんに対し、大江さんが一番書きたいのは「こころ」と「魂」だと言い、その考えを貫いた結果、ノーベル賞受賞までに至った。
 
大江さんの生き様からは、「人生にはジャストミートする瞬間がある」ことを覚えておいてほしい。
 
最後の河井隼雄さんのテーマは、「コンステレーション」。
 
臨床心理学者の河合さんは、アメリカから持ち込んだ「箱庭療法」で一躍有有名に。
 
2002年に文化庁長官に就任した後に発生した※高松塚スキャンダルの対応に追われ、激務により倒れ、2007年に死去。
 
※1972年に発見された極彩色の壁画で知られる高松塚古墳が、発見後まもなく石室内部にカビが発生したことから始まった、文化財保護上の大問題
 
河合さんの研究テーマは最後まで「夢」であったが、晩年、「科学と宗教は近づいている」との言葉を残した。
 

【大江健三郎氏の生前最後の動画を前に熱弁される山登義明氏】
 
ポイントに過ぎませんが、以上が講座の概要。
 
三人の昭和の偉人が、その生き様から残した、それぞれのメッセージはまさに現世を見通しているかのようであり、とりわけ、大江さんがノーベル省の受賞式で発した言葉を踏まえた「曖昧さが重要な時代になってきている」との見方は、昨今のゼロか100かの、極めてデジタルな考え方、政治の世界も右傾、左傾双方が極端になってきているなど、私自身、そうしたリスクを胸に置いた次第です。
 
リアルな取材を通じて得た貴重なお話をいただいた山登さんには、気比史学会が節目で開催してきた、「戦後50年」、「戦後70年」の際にも登壇いただいたことを含め、重ねて感謝申し上げます。
 
結びに、昨日は約85名の方に参加いただきました。
 
大変暑いなか、足を運んでいただきましたこと、主催者の立場から厚く御礼申し上げます。
 
誠にありがとうございました。

【会場全景(講座開始前)。多くの皆様にお越しいただき感謝です。】

敦賀市民歴史講座 シリーズ「戦後80年」第2講を開催いたします

ブログ 敦賀の歴史・文化

自身が活動に参画する敦賀の市民歴史団体「気比史学会」。
 
昭和52(1977)年に会を設立後、昭和60(1985)年に開講したのが「敦賀市民歴史講座」であり、以来、体系的な年間テーマのもとに、歴史を学ぶ楽しさを市民と共有しながら連年開催をし、今年で第41期となります。
 
活動の中心を成す本講座においては、今期、二つのシリーズテーマ(各3講づつ)による全6講を企画。
 
一つは、日本海側で最初の“敦賀空襲”と、“太平洋戦争”終結80年に因む『戦後80年』シリーズ。
 
いま一つは、近世・近代における敦賀のまち形成の礎を築いたとされる最後の敦賀城主・大谷吉継にまつわる『大谷吉継生誕460年』シリーズ。
 
既に各1講目を終えたところですが、これら二つのテーマは、その時代と歴史的背景は大きく異なるものの、それぞれの分野における多彩な講師陣により展開される歴史ストーリーは、主催する側としても大変興味深く、多くの市民の方々に参加いただくことを期待するところです。
 

【再掲:昭和20(1945)年7月の敦賀空襲により、焼け野原となった敦賀市内】
 
さて、このように前置きをしたうえで、本日は14時より、シリーズ「戦後80年」の第2講を開催いたします。
 
テーマは『私が出会った三人の昭和の偉人たち』。
 
講師には、戦後50年、戦後70年の当会講座に続き、元NHKプロデューサーの山登義明(やまとよしあき)氏をお招きし、報道の立場、またジャーナリストとしての視点から戦後、そして「昭和」という時代についてお話しいただきます。
 
なお、山登氏は、敦賀のご出身。
 
簡単にプロフィールをご紹介しますと、1948年に敦賀市で生まれ、敦賀高校、金沢大学卒業後、1970年にNHK入社。
 
テレビディレクターとして大阪、東京、長崎で勤務し、プロデューサーとして広島、東京、NHKエンタープライズで、NHK特集「黒い雨 〜広島 長崎 原爆の謎〜」、ETV8「シリーズ・授業」など主にドキュメンタリー番組を制作。
 
親交が深い大江健三郎氏関係では、NHKスペシャル「響きあう父と子 −大江健三郎と息子光の30年」(1994年)は、国際エミー賞を受賞するなど大変高い評価を受け、その後も、ETV特集「大江健三郎・ノーベル賞の旅(1)・(2)」、他にも、「最後のひばり〜」や「冬のソナタ」の特番など、ジャンルを越えた幅広い社会派番組も数多く担当された方。
 
本日の講演で、山登氏が「昭和の偉人」と称する「三人」とは、向田邦子(作家、脚本家)、大江健三郎(作家、ノーベル文学賞受賞者)、河合隼雄(臨床心理学者、文化庁長官)。
 
三氏とも昭和ヒトケタ世代で、戦後の日本文化の土台を築いた人たちであり、敦賀との繋がりもあるとのことで、講演では、三人の生き方を見つめ、なぜ偉大なのかということを考えるほか、山登氏がロケする中で見せた各人の素顔のエピソードなどを映像も交えて面白く伝え、最後に、三人の死についても触れられるものと思います。
 
事前に山登氏と資料のやり取りをする中では、さすがプロデューサー。
 
三氏の素顔や生き方が浮かぶ動画も準備いただいており、どんなお話が聞けるのか、自分自身も楽しみが募るところです。
 
こうした内容で開催する市民歴史講座。
 
あらためまして、本日は14時より、敦賀市立図書館3階の研修室にて開催いたします。
 
まだまだ残暑厳しい折ではございますが、一人でも多くの皆様と一緒に、「戦後80年」を振り返り、そこから未来思考の何かをつかめれば幸いに存じます。

23万人を魅了した「第76回とうろう流しと大花火大会」

ブログ 敦賀の歴史・文化

敦賀にとって、夏のシンボル的行事といえば、毎年8月16日に開催される「とうろう流しと大花火大会」。
 
新型コロナウイルス禍や天候不順などが重なり、開催を見送ってきましたが、昨年は台風の影響を心配しつつも、6年ぶりの開催を果たしたところ、
 
一方、今年は真夏日の快晴。
 
天気の心配をすることなく迎えた「第76回」となる大花火大会に、敦賀市民はもとより、楽しみに訪れたお客さんの数は、今朝の福井新聞によれば約23万人(主催者発表)であったとのこと。
 
敦賀市の人口を約6万人とすると、その約4倍にあたる方が、敦賀の花火に期待し、訪れたことを大変嬉しく思った次第です。
 
敦賀観光協会ホームページの記載によれば、今年の大会テーマは、「かがやきのまち 敦賀」。
 
北陸新幹線開業1周年や大阪・関西万博開催を記念したプログラム、平和への想いや敦賀のシンボルを夜空一面に映し、敦賀の明るい未来を花火で描くとしています。
 
私は家族と、粟野地区にある「夢市場」の駐車場から眺めましたが、水面の仕掛け花火こそ見切れるものの、ヒュルヒュルと夜空を上る尺玉クラスは見事にその大輪を望むなど、約10,000発の花火を大いに楽しむことができました。
 

【大花火大会フィナーレのワンショット(やまたけ撮影)】
 
76回を数える歴史ある行事。
 
浜辺でご覧になった方はもちろんのこと、こうして市内の至るところ、それぞれの単位で花火を楽しめたことは本当に良かったと思うとともに、敦賀への愛着が一層深まった次第です。
 
なお、余談ですが、この日の日中は、次の日曜日に新聞折込する予定の「やまたけNEWS(25号)」を町内全戸にポスティング。
 
暑さもあり、配るのに3時間半を要しましたが、かいた汗の分、夜のビールと花火は格別であったことを付け加えておきます。
 

【ポスティング中のひとコマ。前回配っていなかった24号と2枚セットで配布しました。】
 
こうしてお盆も過ぎ、私の中では毎年、「とうろう流しと大花火大会」が終わるとひとつ、そして甲子園大会の決勝戦を終えた段階で、「夏の終わり」を感じる訳ですが、今朝は散歩していても、そよそよと吹く風はどこか秋の気配。
 
季節も気持ちもモードチェンジです。

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