自由と平和を愛する「文化の日」

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「スポーツの秋」とかけるには、いささか無理があるかもしれませんが、昨日行われた米大リーグのワールドシリーズ(WS)最終戦。
 
大谷翔平選手らを擁するロサンゼルス・ドジャースの相手は、大リーグで唯一、カナダに本拠を置くトロント・ブルージェイズであったため、WSはさながらアメリカvsカナダの国家間対決を彷彿させる緊張感と熱気。
 
試合は、9回2死までブルージェイズがリードしたものの、なんとここで起死回生。
 
9番ロハスのソロ本塁打で追いつくと、延長11回にはスミスのソロで勝ち越し、結果、5-4でドジャースが連覇を達成しました。
 
野球の醍醐味、面白さがすべて詰まった劇的な試合でしたが、圧巻は前日の第6戦で勝利投手となった山本由伸投手。
 
9回から6番手でマウンドに上がり、9回は1死満塁、延長11回は1死一、三塁の手に汗握るピンチをしのぎ、WS4勝のうち3勝を挙げたエースは、シリーズMVPを獲得しました。
 
私も同様「試合が終わるまで」と、テレビの前から離れられなくなった方も多かったかと思いますが、ドジャースの偉業達成をお祝いするとともに、大谷選手、佐々木選手らを含め、世界最高峰の舞台で大活躍した日本人選手を誇りに思う次第です。
 
さて、昨日のブログでは、秋の楽しみとして文化的な講座のご案内をしたところですが、今日は「文化の日」。
 
国民の祝日に関する法律によれば、文化の日の趣旨は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」とあります。
 
従前は「明治節」として、明治天皇の誕生日を祝う日であった11月3日を国民の祝日に制定するにあたっては、当時(昭和23年)の参議院本会議における説明で、立法の精神からすれば、日本国憲法が公布された日であり、新憲法において、世界の如何なる国も、未だかつて言われなかったところの戦争放棄という重大な宣言をしていること。
 
これは日本国民にとって忘れ難い日であるとともに、国際的にも文化的意義を持つ重要な日であることから、平和を図り、文化を進める意味で、この日を文化の日と名付けたとあります。
 
つまりは、枕言葉に“自由と平和を愛し”があることの意味合いを、今一度胸におくところであります。
 
祝日の説明が長くなりましたが、そうした趣旨、当時の議論に思いを馳せながら、市内で開催されている文化展などを巡りたいと考えていますが、併せて注目するのは敦賀市立博物館。
 
10月17日から始まっている特別展「つるがのみほとけ~海辺の祈り、山里の祈り~」では、市内でも比較的、戦争の被害が少なかった湊周縁や野坂山麓の地域には、歴史を秘めた仏像が大切に守られてきたことがわかり、こうしたみほとけの像をはじめ、優れた経典など、敦賀の歴史の中で伝えられてきた仏教文物を紹介しています。
 

【敦賀市立博物館ホームページより引用】
 
詳しくは、以下ページよりご覧ください。
 
 →敦賀市立博物館 特別展紹介ページはこちら
 
みほとけこそ、自由と平和を象徴すると思うところであり、私も心安らかに、本日「文化の日」に合わせて訪れてみようと思います。

ー戦後80年 昭和100年ー 世界の中の日本、そして敦賀

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気づけば、秋もグッと深まり、街中や山あいの木々にも紅葉がチラホラ。
 
同じく気温もグッと下がり、ご家庭内では暖房器具が必要な肌寒さとなってまいりましたので、皆様方におかれましては、風邪などひかれませぬよう、ご注意のうえお過ごしくださいませ。
 
また、秋といえば、食欲の秋、読書の秋、文化の秋と様々な楽しみが浮かぶところ。
 
10月28日のブログでは、「人道の港敦賀ムゼウム」において、11月3日のリニューアルオープン5周年を記念して開催中の「みる しる わかる ムゼウムDays!」と題したイベント(開催期間:11月1日〜3日)をご紹介しましたが、そのほか市内で催されている文化展などにもぜひ、足を運んでいただければと思う次第です。
 
さて、本日ご紹介しますのは、上記の「みる しる わかる ムゼウムDays!」と関連して開催する、気比史学会主催(敦賀市共催)の講演会について。
 
あらためまして、当会におきましては、昭和52(1977)年の設立以降、「過去に学び 未来に期待し 今日に生きる」の会是のもとに、豊富で悠久な敦賀の「地域史」をより多くの方に知っていただくべく活動を展開し、愚直ながらも変わらぬ志で今年、結成48年目を迎えています。
 
その上で、当会の中心的な活動であり、今年度41期を迎える「敦賀市民歴史講座」については、先の大戦から80年を迎え、改めて戦争の歴史に思いを馳せ、戦後の歩みを振り返り、平和の意義を胸に刻む1年にすること。
 
また、戦争体験者が減少し、次世代に引き継ぐ難しさが年々増している状況にあって、世界に戦火が絶えぬ中、過去の記憶を掘り起こし、いかに継承できるかが課題と捉え、今年度の年間テーマを「シリーズ戦後80年」に設定し、講座を開催するところ。
 
また、激動の渦中に在って、明日何が起きるのか、非常に不確定な時代に私たちは生きています。
 
かつては“歴史の必然性”を学んできましたが、今やこの歴史観では説明できないのが現実の世界であり、この不確定な時代をいかに生きるのかと言う問いに的確な解を求めていくべく、各国大使を歴任されたご経験から、広い世界観、見識をお持ちの小倉和夫様によるご講演を開催することとしています。
 
なお、開催日時や小倉様のプロフィール等は、以下ご案内チラシをご覧ください。
 

【気比史学会作成の開催チラシ】
 
本講座は今年度講座の最終講になるとともに、「戦後80年」そして、激動の「昭和100年」の節目にどのようなご示唆をいただけるのか、大いに学ぶべく私自身大変楽しみにする一方、事務局の立場といたしましてもしっかりと準備にあたる次第です。
 
チラシのとおり、開催日時は、11月8日(土)14時から。
 
事前申込は不要ですので、ぜひとも多くの皆様にお越しいただけますようお願い申し上げます。

リニューアルオープン5周年記念「みる しる わかる ムゼウムDays!」

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昨日、来日したトランプ米大統領。
 
来日に先立つ26日には、マレーシアの首都クアラルンプールで開かれたタイとカンボジアの和平合意の調印式に参加し、停戦実現を自身の外交的成果としてアピール。
 
トランプ氏はタイとカンボジアを含めて「8つの戦争」を解決したと主張しており、8月には旧ソ連構成国アゼルバイジャンとアルメニアの和平に向けた共同宣言の署名式をホワイトハウスで開催したほか、今月13日にはパレスチナ自治区ガザの和平を巡りエジプトで国際会議を開催し、イスラエルとイスラム原理主義組織ハマスの停戦実現とガザの復興開始をアピールしています。
 
さらに、トランプ氏は30日までのアジア歴訪の期間中、核・ミサイル開発や日本人拉致問題を抱える北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党総書記との会談に意欲を示しており、今後、北朝鮮問題への取り組みを進める可能性があるとしています。
 
こうして、世界で起こる戦争や紛争の解決に向けた橋渡し役は、米大統領という立場だけではなく、もはやトランプ氏にしかできないのかもと思いつつ、氏自身は「平和の創造者」として、悲願であるノーベル平和賞獲得に向け実績づくりを進めていると思うと、これはこれで複雑な心境になるところ。
 
いずれにしても、世界の恒久平和は人類の願いでもあり、紛争や戦争で尊い命が失われる世の中から一日も早く脱することを希求する次第です。
 
こうした思いも込めつつ、先の9月定例会の一般質問では「戦争の惨禍と人道の心を伝え、つなぐことについて」をテーマに、とりわけ「人道」の点に関しては、「人道の港敦賀ムゼウム」が果たす役割、市民の皆さんとともに育んでいくことの大切さを意見し、今後の取り組みに期待すると発言したところ。
 
その「人道の港敦賀ムゼウム」においては、11月3日のリニューアルオープン5周年を記念して、「みる しる わかる ムゼウムDays!」と題し、様々なイベントが開催されます。
 
開催期間は、11月1日(土)〜3日(月・祝)。
 
内容は、以下2つのページどちらからでもご覧ください。
 
 →「人道の港敦賀ムゼウム」ホームページはこちら
 
 →敦賀市ホームページ「人道の港 敦賀ムゼウム リニューアルオープン5周年イベントを開催します!」はこちら
 
また、ムゼウム作成の開催チラシも添付しますので、併せてご覧ください。
 


 
駐日ポーランド共和国大使館、ポーランド広報文化センター、駐日リトアニア共和国大使館、駐日イスラエル大使館に後援いただいていることを見ても、ムゼウムの存在意義を感じるところですが、5年前の11月3日、澄み渡る青空のもとリニューアルオープンした時のことを思い返し、私も期間中にじっくり足を運びたいと思います。
 

 
なお、チラシの2枚目、右下に掲載の「小倉和夫氏」による講演会は気比史学会主催。
 
こちらは追って、あらためてご案内いたしますが、今期の敦賀市民歴史講座 シリーズI「戦後80年」の最終講として、戦後80年、昭和100年の節目としての講演会を開催いたします。
 
ムゼウムのイベントも、講演会もぜひ多くの皆様にお越しいただければ幸いです。

「鉄道と港のまち敦賀」のルーツをご案内

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気象庁の観測データによれば、昨日の敦賀の最大瞬間風速は18.1m/s(11時26分)。
 
強い風が吹く方向は南からでしたが、嬉しい来客は北の方から。
 
新幹線学と歴史の関係で以前に敦賀に来られ、意見交換したことのある青森大学付属総合研究所の方(客員研究員)が来敦。
 
事前にご連絡もいただき、昨日は朝からお昼過ぎまで、市内をご案内いたしました。
 
青森市では今年、青森港開港400年を迎え、あらためて「港(湊)」と絡めた歴史を辿るとともに、新幹線開業後の動向ということも踏まえ、ここ敦賀に調査にお越しになったとのことであり、その方のご希望も踏まえつつ、港とそれに通ずる鉄道のルーツをご案内した次第。
 
ご案内したのは、文化財センター建設予定地、向出山古墳(併せてホテル北国からの市内眺望)、敦賀港線跡地、(仮称)敦賀みなと公園予定地、金ヶ崎緑地、ずっと飛んで疋田舟川(愛発)、小刀根トンネル。
 
何が「港」に通ずるのか、ピンと来ない方もおられるかと思いますが、例えば、向出山古墳はその出土品から、平安時代より前の古墳時代から、敦賀が大陸と通ずる港を有していたことを証明するもの。
 
また、疋田舟川は、平清盛の時代から明治に至るまで、敦賀湾と琵琶湖を結ぶという壮大な計画があったこと、鉄道の関係は、そうした大陸に開けた国際港があったからこそ、明治政府が横浜や神戸と並び、いち早く敦賀と鉄道で結ぼうとしたことなど、そうした背景も踏まえながらご案内したところです。
 
なお、ご案内した場所のいくつかを以下にご紹介いたします。
 

【敦賀湾と琵琶湖を結ぶという壮大な計画が浮かぶ「疋田舟川」】

【現存する日本最古の鉄道トンネル「小刀根トンネル」。中を歩けば、蒸気機関車の時代にタイムスリップ。】
 
なお、昨日はグッドタイミングでクルーズ船「シーボーン・クエスト」が寄港。
 
しかも、金ヶ崎側の岸壁ということもあって、良きロケーションになったところです。
 

【金ヶ崎緑地からの眺め】

【人道の港敦賀ムゼウムとの風景は、さながら明治から昭和初期の情景が浮かぶもの】
 
なお、浮かぶ情景とはこちら(金ヶ崎桟橋と税関の絵葉書:敦賀市立博物館所蔵)。

 
ちなみに、(仮称)敦賀みなと公園のパース図もお見せしながら、この公園に来れば、上記のような情景が浮かぶ場所にしたいのだと、自身の考えをお伝えしたところ、その方からも大いに共感を得たところであり、やはり歴史的視点からも重要なことであると認識できた次第です。
 
途中、お昼を挟みながら、約4時間ご案内…というより、私の「自慢スポット」にお付き合いいただいた形になってしまった訳ですが、車中では青森市と敦賀市それぞれの歴史や、現在の状況や課題など多くの意見交換もでき、私自身、大変有意義な時間になった次第です。
 
最後は敦賀駅前ottaまでお送りし、お別れしましたが、今日まで敦賀に滞在され調査を続けた後、青森に戻り、最終年度となるレポートの取りまとめ、編集に入られるとのことでした。
 
こうして新幹線開業と港を通じてつながる、「人」と「まち」との関係。
 
今回ご案内してあらためて、古より海陸の要衝であることを意味する「鉄道と港のまち敦賀」の特徴であり、強みは、「つながり」を大切にしながら発展することと認識した次第です。
 
結びに、拙い知識の私を頼りに連絡をいただいたことに感謝するとともに、歴史を生かしたまちづくりにより、青森市が今後ますます発展されますこと祈念申し上げます。

心の中に生きる水戸天狗党の「清廉の義」

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「幕末の悲劇」とも称されている「水戸天狗党」。
 
元治元年(1864年)に藤田小四郎らを中心に筑波山で挙兵した後、京にいる一橋慶喜を頼り、朝廷に尊王攘夷を訴えようと約千名が行軍。
 
その年の12月、風雪の中、木ノ芽峠を越えて敦賀の新保村に着陣したものの幕府軍に捕らえられ、首領の武田耕雲斎、藤田ら天狗党は、ここ敦賀の地で処刑されるという幕末の歴史。
 
水戸天狗党の行動については賛否、是非がありますが、総大将の武田耕雲斎先生以下、烈士411柱の御霊を祀るのが敦賀の松原神社であり、当時から連綿と敦賀水戸烈士遺徳顕彰会や市民の皆様の手によって守られ、顕彰されてきていることに心から敬意と感謝を申し上げる次第です。
 
その松原神社では、毎年10月10日に例大祭が斎行されており、ちょうど一昨日、私も参列したところです。
 

【例大祭が斎行された松原神社】
 
この例大祭には、敦賀市長や教育長、県議会議員、敦賀市議会議員をはじめ、市内の関係者はもとより、市外からは水戸市、常陸太田市、潮来市よりそれぞれ市長、議長を始め多くの皆様がご列席のもと、厳粛な雰囲気のなか執り行われ、遺徳を偲ぶとともに、安らかに眠られんこと祈りを捧げた次第です。
 
なお、天狗党の関係から、水戸市と敦賀市は水戸烈士没後100年(1965)には姉妹都市となり、以降、相互交流が続けられているところですが、今年はそれから60年。
 
今後末永くの友好関係をお願いするとともに、両市の益々の発展を祈念するところであります。
 
また、例大祭を終えた後は、参列者一同で神社の向かいにある「武田耕雲斎等墓」(幕府が下した斬首刑により敦賀で命を落とした353名の名前が墓石に刻まれている)を参拝。
 
国を思う一心で行動を起こし、純粋な「誠」と「義」、まさに「散って燃ゆる」武士道を貫いた、耕雲斎先生らの墓前に静かに手を合わせました。
 

【参列者一同、耕雲斎先生らの墓前に線香を手向けました】
 
こうした水戸天狗党の遺徳・顕彰に関しては、挙兵160年の昨年開催した、気比史学会主催の敦賀市民歴史講座(第4講)において、中央大学資料館事務室(法と正義の資料館・大学史資料館)学芸員の岩立将史氏を講師にお迎えし、『水戸天狗党ーゆかりの地における慰霊・顕彰と評価一』をテーマにお話しいただきました。
 
そこでは、水戸天狗党ゆかりの地における慰霊・頭彰を概観したうえで、各地域で出版された書籍などの叙述から天狗党の評価をご教授いただいた訳ですが、水戸市、下仁田市(群馬県)、下諏訪町(長野県)、飯田市(長野県)、敦賀市のそれぞれが、墓標や留跡碑の建立、祭りの開催などの行事を行なっていること。
 
「ゆかりの地における『戦前』と『戦後』の天狗党の評価を分析する」では、「戦前」が表現は異なるものの、各地域において天狗党=勤王(国家功労者)と評価している点が共通していること、(皇国史観の影響か)、「戦後」が茨城県や長野県、福井県において、天狗党の行動が明治維新の契機となった旨が述べられている点が共通しているとし、戦前から戦後にかけて、天狗党は「勤王(国家功労者)」から「明治維新の契機となった人々」と評価が変化している(好意的に捉えている点は共通か)との結びがありました。
 
なお、敦賀においては、元治2(1865)年2月に処刑された際に形成された「五塚」を、慶應2(1866)年頃には一所に集めて八間四方「墳塋」(ふんえい)したうえ、明治元(1868)年には、12間四面の方塚となり、墓石を建立しています。
 
さらに、明治2(1869)年7月、敦賀の真言宗行寿院峻山は水戸藩を通して太政官に天狗党の祭祀の許可を出願。
 
明治8年1月、松原神社創建と天狗党の祭祀が許可され、明治11年10月10日、祭粢料500円が滋賀県(当時の敦賀は滋賀県)に下賜されており、以降、先に述べたよう、例祭日である10月10日に連綿と「例大祭」を執り行ってきています。
 
このように、昨年の講座を思い返し、敦賀の人々が、水戸天狗党を「勤王」の「有為の士」、「義士」として敬意をもって祀ってこられたことをあらためて認識した次第。
 
結びに、例大祭で常陸太田市長の祭文にあった、水戸天狗党を表する言葉は「清廉の義」。
 
心が清らかで私欲なく、正しいと思った道を進むこと。
 
激動の幕末に貫いたその「義」は、混沌とする現世においても深く、自身の心の中に生きるものであります。
 
<参考>
水戸天狗党を取り上げた、過去の「やまたけブログ」(5件)をご紹介いたしますので、関心のある方は以下リンクよりご覧ください。
 
 →①天狗党の志士に思いを馳せる(2019年11月3日ブログ)
 →②幕末の悲劇「天狗党」〜武田耕雲斎からの手紙〜(2021年7月10日ブログ)
 →③水戸「弘道館」で幕末の歴史に思いを馳せる(2023年8月7日ブログ)
 →④筑波山での挙兵から160年〜松原神社例大祭にて水戸烈士の遺徳を偲ぶ〜(2024年10月11日ブログ)
 →⑤『水戸天狗党ーゆかりの地における慰霊・顕彰と評価一』〜敦賀市民歴史講座(第4講)〜(2024年10月13日ブログ)

仲秋の名月と重なる「バショさんの旅」

ブログ 敦賀の歴史・文化 敦賀市議会

昨日の敦賀市議会は、予算決算常任委員会(全体会)を開催。
 
補正予算議案(4件)ならびに決算議案(4件)に関し、各分科会長報告から討論、採決までを行いました、
 
その結果、全件について、補正予算議案は「原案のとおり認めるべきもの」、決算議案は「認定すべきもの」と決しました。
 
32日間と長丁場の9月定例会も、はや最終日を残すまで。
 
今定例会に提出された全議案の採決を行う本会議は10月9日(木)10時からとなりますので、討論準備などを整え臨むとともに、議会の模様はまた、議場傍聴やインターネット中継にてご覧いだだければ幸いです。
 
さて、日中の議会を終え、昨日楽しみにしていたのは「仲秋の名月」。
 

【iPhoneの露出調整により、初めて撮影に成功?した昨日の名月】
 
〜名月はつるがの湊にと旅立つ(おくのほそ道より)〜
 
今から336年前の元禄2(1689)年3月27日に江戸深川を旅立ち、関東、東北、北陸各地を約5ヶ月掛けて旅した物語「おくのほそ道」は、日本の古典の最高傑作の一つとして、広く読み継がれてきているのは誰もが知るところ。
 
その松尾芭蕉(以下、「バショさん」)が、旅の終わり同年9月27日に敦賀入りした目的とは、冒頭の句にあるとおり「敦賀で仲秋の名月を見るため」でした。
 
残念ながら、当日は雨で、楽しみにしていた名月を見れなかった訳ですが、その際に詠んだ句がこちら。
 
〜名月や北國日和定めなき〜
 
おくのほそ道は、がっかりの中にも興じる姿勢がいくつも垣間見え、例えば、雲で富士山が見えなくとも、見えてしまえば景色はひとつ、見えないことにより想像の中にいくつもの景色が浮かび上がるといった考えにより、さぞかし「がっかり」したであろう気持ちを詠んだ句と思いきや、実はそのことさえ楽しんでいるという「超ポジティブ」な発想と知れば、自然と気持ちも明るくなるというもの。
 
とはいえ、昨晩の見事な月は、336年前のバショさんに見せてあげたいくらいでしたが、そう思うこと自体、私たちの心の中にバショさんが生きている証拠。
 
なお、おくのほそ道は、また旅立つ場面で終わっています。
 
そのことと昨日の満月を重ねれば、336年経った今もまだ、「予(バショさん)」の旅は終わっていないのだと、敦賀に残した歴史ロマンに思いを馳せた次第です。
 

【参考まで。バショさんが敦賀で詠んだ10句をご紹介いたします(つるがバショさん会作成)】

フィールドワーク『関ヶ原古戦場をめぐる』

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9月14日、15日と、敦賀が誇る義の武将「大谷吉継」公のことをブログに記したところですが、それも今年は「吉継生誕460年」の年にあたることもあり。
 
自身が所属する市民歴史団体「気比史学会」においては、今期の市民歴史講座シリーズテーマのひとつを「大谷吉継生誕460年」(もうひとつは「戦後80年」)におき、講座を開催しているところ、昨日はその第3講として「フィールドワーク 関ヶ原古戦場をめぐる」と題し、合戦場の現地を歩いてまいりました。
 
市内外からの参加と役員を合わせ、計27名にお集まりいただき、小雨降る中ではありましたが、「いざ関ヶ原へ!」とバスにて出発。
 
関ヶ原到着後は、「岐阜関ヶ原古戦場記念館」、「不破関史料館」と屋内施設を観覧した後、そこからは徒歩にて旧中山道を進み、松尾山眺望地、大谷吉継陣跡、吉継墓、平塚為広墓(吉継とともに戦った武将)をめぐるという行程。
 
なお、関ヶ原の地は、古くは、日本武尊のゆかりの地であることや壬申の乱の戦場となるなど、日本史の重要な舞台であった訳ですが、なかでも「関ヶ原の戦い」は、全国の武将が東西両軍に分かれ、それぞれの忠誠、友情、策略、葛藤を抱えて激突した「天下分け目」の戦いであり、のちに260年以上続く天下太平への幕開けとなる大きな転換点となったことは誰もが知るところ。
 
慶長5(1600)年9月15日の「関ケ原の戦い」は、中山道、北国街道、伊勢街道が交差する交通の要衝として賑わい、東西の結節点であった関ヶ原には※日本三大関のひとつ「不破関(ふわのせき)」が置かれ、そういった地理的理由から「決戦の地」となった次第。
 
※日本三大関とは、有数の交通の要衝である①不破関(岐阜)、②鈴鹿関(三重)、③愛発関(福井県敦賀市)を指す。
 
私は事務局として、とりわけ吉継墓までの道のりは山道となることから、9月初旬に他の役員と一緒に「下見」を済ませて臨んだところ。
 
昨日もあらためて、古戦場記念館、不破関史料館に保存された資料、その見せ方は素晴らしいものと思いつつ、霧雨降る状況ではありましたが、現地のボランティアガイドさんにも確認した上で、フィールドワークを「決行」。
 
不破関資料館を出発し、約25分ほど旧中山道を進み、まずは大谷陣から小早川秀明陣を望む松尾山眺望地へ。
 
この日は霧がかっていたものの、ちょうど関ヶ原合戦当日も雨上がりの天候であり、さながら425年前の情景と重なるものと、雨天を憂うのではなく「ポジティブ」な会話を参加者同士で交わしつつ、次はそこから2分ほどの大谷吉継陣跡へ。
 

【吉継陣跡に向かう道中。霧がかった雰囲気は、合戦の日さながらか。】
 
その後、山道を10分ほど歩き、昨日の目的である「吉継公のお墓」に到着。
 
厳荘な雰囲気のなか並ぶ、吉継と湯浅五助(合戦の地で、吉継の遺言を受け介錯した)のお墓に一礼のうえ、参加者ひとりづつ、線香を手向けることができました。
 
また、お墓の周りは綺麗に雑草が刈られ、墓前にもお花やお酒が供えられていたのは、この周辺の集落の方がお守りをしてくれているとのことであり、最後の敦賀城主である吉継公をこうして大切にしてくれていることに皆で感謝し、深く御礼をし、墓前を後にした次第。
 
その後は山道を下り、平塚為広のお墓をお参りし不破関資料館に戻りましたが、いわゆる「吉継コース」をめぐり感じたのは、関ケ原合戦では、多くの武将達が自らの利益のために参戦していたと言われるなか、“義”という目に見えない価値のために死を選んだ吉継の生き様。
 
また、行ってみて分かったよう、「大谷吉継陣跡」は、山中(やまなか)の「大谷吉継の墓」から少し下った場所にあり、大谷隊は、関ケ原の合戦が始まる十日程前に若宮八幡宮上の急斜面に陣を作り始め、空堀を左右に巡らせたもので、戦術に長け、官僚としても優秀であった吉継は、陣作りにも力を発揮した様子。
 
当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面のこの地に陣を定めたことは、優れた武将と評価される所以であると、自分の中でさらに、吉継公に対する誇りの念が高まった次第です。
 
フィールドワークを終えた後は、一路敦賀に戻りましたが、バスの車中でも行程を振り返る中で、「いざ関ヶ原へ!」とフィールドワークに参加された皆さんも同じ気持ちではなかったと。
 
なお、関ヶ原の戦いは、慶長5(1600)年9月15日ですが、旧暦と新暦の違いにより、本当の合戦の日は「10月21日」。
 
2週間後ということになりますが、あらためて吉継公の功績と生き様に思いを馳せるとともに、来年以降も定期的に墓前へのお参りを続けていきたいと思います。
 
結びに、参加いただいた皆様、至らぬ点が多々あったかとは思いますが、誠にありがとうございました。

子どもたちの心に芭蕉を

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敦賀市議会のほうは一般質問が終わり、この後は常任委員会に特別委員会、決算審査のための予算決算常任委員会と続くところ。
 
これに向けた準備と並行してではありますが、昨日は気比史学会主催の「ミニ歴史講座」を開催。
 
毎月この日と決めた定期開催ではないものの、知の拠点「ちえなみき」2階のオープンスペース セミナー&スタディをお借りし開催しているもの。
 
10時30分からの講座では、「つるがバショさん会」の皆様をお迎えし、『松尾芭蕉 おくのほそ道 〜敦賀の旅〜』と題した紙芝居を行なっていただきました。
 
※松尾芭蕉のことを、敦賀では親しみを込めて「バショさん」と呼び、キャラクターにもなっている。
 

【紙芝居の実物とスクリーンに投影された「おくのほそ道 〜敦賀の旅〜」】
 
「子どもたちの心に芭蕉を」との思いのもと結成された「バショさん会」は、上記の紙芝居を作成し、市内の小学校に寄贈したり、「おくのほそ道 敦賀編」のすごろくゲームなど、バショさんと俳句を楽しむ学ぶグッズを作成、配布したりと精力的に活動されてきた団体。
 
なお、こうした機材の作成には、取組に共感した敦賀ライオンズクラブが資金面でのサポートを行うなど、協力して実施することができたとのことでした。
 
講座の参加はどなたでもフリーということで、気比史学会の会員はもとより、一般の方、若い男女も参加されるなど盛況。
 
会の方からは、「バショさん会」の由縁や芭蕉の魅力をお話しいただいた上で、紙芝居を実践いただきました。
 
といっても、紙芝居は実物をご紹介していただくに留め、パワーポイント化したものをスクリーンに投影し、今時のスタイルで。
 
バショさんが敦賀で詠んだ句を、情景が浮かぶ見事な絵とともに紹介いただき、当時に思いを寄せた次第です。
 

【会場のセミナー&スタディの様子】
 
バショさんに関してはこれまでも、「名月や北國日和定めなき」の句によって、私がポジティブシンキングになったことを幾度かお伝えしてきたところですが、ブログを遡ると、「おくのほそ道」から330年の節目の年であった令和元(2019)年には、敦賀で様々な催しがあり、これに参加したことを次のように記録していました。
 
<令和元(2019)年9月17日ブログ>
 
敦賀市立博物館にて開催されている特別展「おくのほそ道 330年の旅」を鑑賞しました。
知る人ぞ知る松尾芭蕉の「おくのほそ道」ですが、今から330年前の元禄2(1689)年3月27日に江戸深川を旅立ち、関東、東北、北陸各地を約5ヶ月掛けて旅した物語は、日本の古典の最高傑作の一つとして、広く読み継がれてきています(特別展資料解説より)
 
芭蕉は、旅の終わり同年9月27日に敦賀入りし、気比神宮を参拝、色ヶ浜にて遊び、中秋の名月や秋の寂しさを感じ入るような句を詠んでいます。
 
また驚いたのは、敦賀を後にする際、宿泊していた出雲屋という宿に杖と笠を残していったと伝えられており、杖は今も敦賀に現存しているとのことで、博物館にも展示されていました。
330年前、しかも芭蕉のイメージにもある杖を眼前に見ることが出来、これだけでも本当見に来た甲斐がありました。
 
おくのほそ道は、また旅立つ場面で終わっていることから、330年経った今もまだ「予(芭蕉)」の旅は終わっていないかもしれず、多くの読者の心の中で芭蕉は永遠の旅人であるとの解説にダブルで歴史ロマンを感じた次第。
 
浅学でこれ以上述べることは止めておきますが、興味のある方は是非市立博物館に足を運んでいただけたらと思います。
 
<令和元(2019)年9月21日>
 
きらめきみなと館で開催された気比史学会主催の敦賀市民歴史講座に参加しました。
先日(上記のブログ)、敦賀市立博物館で開催されている特別展「おくのほそ道330年の旅」をご紹介しましたが、その一環として「おくのほそ道を読み解く」と題し、和洋女子大学より佐藤勝明教授をお招きしての講座でした。
 
教授の「おくのほそ道の舞台である敦賀で講演出来ることに感激しています」との言葉から始まった講座ですが、浅はかな知識で参加した私にとっては、「ここまで深く読み取るのか」と驚くばかりの内容。
 
メモも取りましたが、ここでは紹介し切れませんので、特に印象に残った教授の言葉を2、3紹介します。
 
①氣比さん(氣比神宮)参宮の場面は、おくのほそ道の1・2を争う大事な場面である。
②北陸路に省筆が多い(句が少ない)が、省筆せずに記された「敦賀」の記述は、ここにひとつの大事なテーマ(無常の世の中でも伝わり続けられる「心」)があることが理解できる。
③おくのほそ道は、がっかりの中にも興じる姿勢。例えば、雲で富士山が見えなくとも、見えてしまえば景色はひとつ、見えないことにより想像の中にいくつもの景色が浮かび上がる。
 
私としては、上記の②に注目。
芭蕉が敦賀に「杖」を置いて行ったこと、省筆せずに句を詠んだ理由が敦賀で感じた「心」にあるとすれば、これは後の「人道の港」のエピソードにもつながるのでは無いかと感じた次第。
 
こうしてお話しを聞いたこの時から、「バショさんファン」になった私。
 
〜名月はつるがの湊にと旅立つ(おくのほそ道より)〜
 
今年の仲秋の名月は、10月6日だそう。
 
仲秋の名月を「敦賀で見よう」と楽しみに訪れたバショさんを重ねつつ、バショさんも見上げた前日5日の夜、氣比神宮にのぼる月を眺めてはいかがでしょうか。
 

【紙芝居にあった、氣比神宮にのぼる月。名月もこの絵もお見事。】

天下分け目の「関ケ原の戦い」と「大谷吉継」

ブログ 敦賀の歴史・文化

本日9月15日は、「敬老の日」。
 
先日ご紹介したとおり、私が住む町内では今月7日に、ひと足お先の「敬老会」を開催したところ。
 
祝日法に定める「敬老の日」の趣旨は、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことであり、あらためて、これまで国や地域をお支えいただいた諸先輩方への敬意と感謝、そして今後も健康でいきいきとした人生を送っていただくことを心より願う次第です。
 
また、昨日のブログの結びに書いたよう、今日は「※関ヶ原合戦」の日。
 
慶長5(1600)年9月15日、天下分け目の戦いとして名高い「関ケ原の戦い」は、中山道、北国街道、伊勢街道が交差する交通の要衝として賑わい、東西の結節点であった関ヶ原の地で行われました。
 
※後述
旧暦と新暦の違いにより、関ヶ原合戦の本当の日は「10月21日」。
 
この地は、古くは、日本武尊のゆかりの地であることや壬申の乱の戦場となるなど、日本史の重要な舞台であった訳ですが、なかでも「関ヶ原の戦い」は、全国の武将が東西両軍に分かれ、それぞれの忠誠、友情、策略、葛藤を抱えて激突した「天下分け目」の戦いであり、のちに260年以上続く天下太平への幕開けとなる大きな転換点となったことは誰もが知るところ。
 
「いざ関ヶ原へ!」と、名だたる武将が関ヶ原に集結するなか、敦賀から参戦した大谷吉継の人物像は、昨日ご紹介したとおりでありますが、関ヶ原合戦における吉継の評価として、「関ヶ原観光ガイド」に次のような記載がありました。
 
小早川を見張るため!?天才軍師の陣跡
「大谷吉継陣跡」は、山中(やまなか)の「大谷吉継の墓」から少し下った場所にあり、ひっそりと碑が建っています。大谷隊は、関ケ原の合戦が始まる十日程前に若宮八幡宮上の急斜面に陣を作り始めました。この陣は空堀を左右に巡らせたもので、山中城と呼ばれるほどの要害の地であり、合戦後は徳川家康も大谷陣を一夜の宿として使用したという話もあります。戦術に長け、官僚としても優秀であった吉継は、陣作りにも力を発揮しました。当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面のこの地に陣を定めたというのも驚きです。
 

【関ヶ原の地における吉継の陣跡(2025年9月 やまたけ撮影)】
 
また、吉継の人物像に関してはこのように。
 
壮絶なる「男の美学」
大谷吉継は、親友の石田三成に徳川家康との戦いを打ち明けられた時、無謀な戦いであることを説き続けました。しかし、三成の“義”を貫こうとする決意は固く、吉継は友である石田三成のためにも、病身でありながら合戦に参加します。関ケ原合戦では、多くの武将達が自らの利益のために参戦していたといわれています。そんな中、“義”という目に見えない価値のために死を選んだ吉継の生き様は、まさに男の美学といえるでしょう。
 
こうした評価がされる吉継には、全国に「ファン」(特に女性が多い)がおり、外岡先生の「吉継Cafe」や8月10日に敦賀市が開催した「吉継サミット」に500人もの参加者があったこと(歴史講座としては異例)、そして一昨日の市民歴史講座にも10名を超える県外参加者があったことが、それを証明するもの。
 
ただ残念なことは、敦賀の人が吉継のことをあまりご存知ないことであり、大谷吉継」のことを地元の人にこそ広く知っていただくことは、地元に対する愛着や誇り、さらには「義=人道」につながるものであることから、気比史学会の立場、一議員の立場としてそうしたことに取り組むことを胸に誓うところです。
 
なお、関ヶ原合戦に関しては、日本史上最大級の戦いである関ヶ原の戦いを、楽しく学び、体験できる施設として、「岐阜関ヶ原古戦場 記念館」なる素晴らしい施設があることや、ここを拠点に、この地で戦った各武将の史跡めぐりに出かけるなどにより、より深く、より想いを馳せることができます。
 

【岐阜関ヶ原古戦場 記念館(2025年9月 やまたけ撮影)】
 
結びに、気比史学会では、歴史の1ページを体感し、関ヶ原の地で逝った大谷吉継を偲び、10月5日は『関ヶ原古戦場をめぐる』と題したフィールドワークを開催することとしています。
 
第41期敦賀市民歴史講座 シリーズII「大谷吉継生誕460年」もこれで最終講。
 
参加者の皆さんとしっかりとめぐってまいります。
 

【『関ヶ原古戦場をめぐる』の開催チラシ。既に下見を終え、イメージは十分。】

『語り継がれる大谷吉継』 〜敦賀市民歴史講座 シリーズII「大谷吉継生誕460年」第2講より〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

昨日は、気比史学会主催の第41期敦賀市民歴史講座 シリーズII「大谷吉継生誕460年」の第2講を開催。
 
テーマは『語り継ぐ大谷吉継』。
 
吉継研究の第一人者である外岡慎一郎氏をお招きし、深い吉継の魅力はもとより、歴史研究家としての信念ともいえるお考えを拝聴した次第です。
 

【会場には、10名を超える県外参加者を含め、85名の方にお集まりいただきました。多くの参加に感謝申し上げます。】
 
先生からはまず、大谷吉継が世間で知られるようになったのは、NHK大河ドラマ「真田丸」あたりから。
 
それまでは、関ヶ原合戦など限られた描かれ方をされてきたが、ここでは吉継の人物像が描かれたことによるとのお話から入り、以降は資料に沿って講義いただきました。
 
最後の敦賀城主「大谷吉継」だけに、すべてをお伝えしたいところですが、資料の内容を引用する形で、以下ポイントをご紹介いたします。
 
<はじめに>
◉2015年の敦賀市立博物館リニューアル記念特別展の「結語」は、軍記類(のみ)を素材に構築された吉継像と文書の「ことば」から垣間見える吉継像とが乖離しないということ。
◉2018年の吉継Cafe『大谷吉継英雄伝説』では、「史実」の領域(文書と軍記の情報)には、吉継の病や三成との「佐和山会談」、関ヶ原での戦死など、人々の想いと調和(こうあって欲しい)した部分と、例えば家康との協働(三成との疎遠)や吉継が大酒飲みであったなど、人々の想いと不調和(そうあって欲しくない)な部分とがある。
◉「英雄伝説」の領域には、三成との絆など、史料に疑義があるものの人々の想いと調和すること(語り継がれている)、よくある茶会の逸話(病の吉継の茶を三成が飲んだ?)では、本当に飲んだのは誰なのか史料が不在だが、合理性の中で人々の想いと調和するものがある。
◉これらのことから、「虚像と実像」という枠組みを排除した人物(吉継)研究が必要。
◉何が本当で何が偽物か、歴史を書く人はその証拠を添えて、これまで語り継がれてきたことを確認していくことが、本日の講座の趣旨。
  =吉継論の「定型」形成と継承の姿をとらえる試み
 
<「英雄伝説」の源流 〜近世軍記類の成立事情>
◉17世紀には『関ヶ原始末記』や『慶長見聞書』など多数、18世紀には『落穂集』、19世紀には『名将言行録』など、関係軍記類には年代的階層がある。
◉軍記類成立の画期は、17世紀後半(寛文・延宝期)であり、江戸幕府による政治秩序の完成期と重なる。
◉軍記類は、幕藩制が共有する「神話」的意義をもつ。
◉その時代時代を生きてきた人を見ていくことが重要であり、決して「できごと史」にしないこと。
◉事実が歴史になる瞬間がある。見ている事実は様々だが、歴史になる瞬間にはせめぎ合いがある(近代史でいえば、南京大虐殺など)。
 
<近世から近代へ>
◉「佐和山会談」(『慶長見聞書』)では、吉継が三成に、「自分が病身を押してはるばる会津まで下ろうとしているのも、ひたすら貴殿(三成)と家康との間で争うことのないよう取り計らうためだ。この(挙兵)計画は絶対に進めてはいけない。」と話したとある。
◉一方、『落穂集』『慶長見聞書』を素材に「佐和山会談」を紹介した「大谷吉継の去就」では、「吉継は三成のために口説き落とされた。憐れ好男児、彼は三成と情死す可く決心した。」とあり、三成の右手となって関ヶ原の大立物となり、様々な人が事をなさんとする輩中にあって、その独自一己の面目を発揮し得たのは、実にこの大谷吉継一人であったとある。
◉同じく「石田三成の活動」の項では、吉継が三成に加担したのは、三成にとって百万の援兵を得た心地があった。「彼(吉継)は、石田の挙が、百に一も成功なきを知っていた。然しも今更石田を見殺しにするに忍びず、その最善を噶(つく)した。」。
◉これらの相違は、関ヶ原合戦研究の研究史上の問題(吉継のみならず、個別武将の評伝を含め)。
◉概観的には、関ヶ原研究の現状における通説的理解に近い叙述であるが、軍記類に示された「定型」を継承し、独自の物語を創造していくことが重要。
 
〜その上で、例えば、この論説をご覧ください(資料をそのまま引用)〜
 
尾崎秀樹・林富士馬『英雄の診断ー医学から見た日本史』1965年 人物往来社
(「天刑病とifの日本史」の章、合戦直前に吉継が小早川秀秋を説得したことに触れ)この最後の説得が成功しなかった陰に、吉継の業病が大きく作用したということは考えられないだろうか。(中略)かつて紀之介といったところ、彼は美童とうわさされたほど眉目秀麗であったという。もし吉継がそのままの姿で成人し、颯爽とした武者ぶりで秀秋の陣へ乗り込んで行ったとしたらどうだろうか。(中略)(関ヶ原の戦いは)たしかに東軍に勝つ要素が多く、西軍には敗北にいたる条件が多い。その数多い条件のうちでも、最大のものは、大谷刑部小輔のハンセン氏病であったと考えられる。「もし」智将大谷吉継が五体満足な状態にあったら、あるいは西軍が勝利をおさめることも可能ではなかったか。関ヶ原の戦の跡をふり返ってみて、私はどうしてもそう思えてならない。
 
◉これは、吉継の「if」を書いてくれたことで、「人々の想い」に応えてくれたとも言える。
 
<おわりに>
◉近年の研究成果として、秀吉死後の豊臣政権論(家康を排除した政権を樹立するため?に三成・吉継が仕掛けた「政変」)や関係史料の収集・分析や系図研究、考古学的知見などによる大谷吉継研究の進展がある。
◉吉継に関しては、近年の、今後の研究成果もこれからの「語り継ぎ」の一部であり、「人々の想い」(ifなど)を動機とする新たな研究視角を構築していく。
 
以上が講座のご紹介となります。
 
“吉継論の「定型」形成と継承の姿をとらえる試み”
 
私自身、講座の目的にあったこの言葉の意味を理解するとともに、外岡先生の歴史研究者としての信念、吉継を語り継ぐ強い思いを感じたところであり、本市民歴史講座通算34回目の登壇をいただいた先生に心より感謝申し上げる次第です。
 

【様々な思いを込めてご講義いただいた外岡慎一郎先生】
 
そして、これまでの「定型」として存在する大谷吉継が、今後の研究によってさらに、誇り高き「義の武将」として語り継がれることを祈念するとともに、「智将大谷吉継が五体満足な状態にあったら、あるいは西軍が勝利をおさめることも可能ではなかったか。」との「if」にあるよう、日本の歴史を変えたかもしれない人物が、ここ敦賀の武将であることを、こちらも心より誇りに思います。
 
ちょうど明日は、天下分け目の関ヶ原合戦の日。
 
参戦した武将の中で唯一、関ヶ原の地で自刃した吉継を偲び、静かに手を合わせる日にいたします。

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