10月29日(日)は「絵語り『鉄道誕生物語』」にお越しください

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国民民主党の玉木雄一郎代表は24日、立憲民主党の泉健太代表による臨時国会の開会に合わせたあいさつ回りを拒否。
 
泉代表が共産党の志位委員長との会談で、次期衆院選に向けて連携を協議した経緯を踏まえてやめたとのこと。
 
共産党とは一切協力しない立場の国民民主党は、再三にわたり「共産党と連携する政党と組むことはない」と明言しており、その筋を通し、拒否した対応を支持するところです。
 
その玉木代表ですが、本日の衆議院本会議において、岸田総理の所信表明演説に対する代表質問に立つことになっています。
 
時間は16:00頃(15分間)になろうかと思いますので、ぜひご覧いただければ幸いです(NHK中継もあります)。
 
 →「衆議院インターネット中継」はこちら
 
さて、話しはまったく変わりますが、秋と言えば「読書の秋」。
 
これに合わせ、敦賀市立図書館では、この週末28日(土)から11月5日(日)に掛けて「2023 敦図(とんと)フェスタ」が開催されます。
 
市立図書館のホームページによれば、開館30年を機に開催した「2021 図書館フェス」から「2022 敦図フェスタ」となり、3年目となる今年は開催期間を延長し、より多くの皆様にご来館いただきたいとの思いのもと開催するもの。
 
また、今年は図書館前にキッチンカーも来る予定とのこと。
 
「敦図フェスタ」では、日ごとに様々な企画が行われますが、そのひとつに自身が事務局を務める「気比史学会」も協力させていただいており、敦賀の歴史を楽しく、分かりやすく知っていただこうと、以下の企画を予定しています。
 
◉日 時:10月29日(日)14時から(1時間程度)
◉内 容:絵語り「鉄道誕生物語」
◉語り師:歴史絵語りの会 丸山 誠氏
◉場 所:市立図書館3階 研修室
 
“絵語り”とはあまり聞きなれないかもしれませんが、実は私、9月16日に永賞寺(敦賀市栄新町)で行われた敦賀城主 大谷吉継公の「遺徳を偲ぶ会」にて初めて、丸山さんの絵語り「大谷吉継 関ヶ原に死す」を拝見し、改めて「義の武将 吉継公」の生き様は、敦賀の誇りと胸に留めるほど感銘を受けた次第。
 
 →「敦賀城主 大谷吉継公遺徳を偲ぶ会」(2023年9月17日ブログ)はこちら
 
“紙芝居”とはスケールと深さが異なるものとご理解いただければと存じますが、今回は、来年の北陸新幹線敦賀開業を前に、ぜひとも「敦賀と鉄道の歴史」を知っていただこうと、丸山さんとも相談し、このテーマを選択したもの。
 
ちなみに、絵語りシリーズは、この他にも「水戸天狗党」など6作品あるとのこと。
 
内容は、小学生のお子さん以上であれば十分分かるかと思いますので、皆様方におかれましては、奮ってご参加いただければ嬉しく思います(事前申込みは不要です)。
 

【絵語り「鉄道誕生物語」のチラシ(気比史学会作成)】
 
自分が関係する企画の「推し」が強くなってしまいましたが、「2023 敦図フェスタ」では他にも趣向を凝らしたイベントが開催されますので、そちらにもぜひ足を運んでいただければと思います。
 
詳しくは、添付しますポスターをご覧ください。
 
本に関してはすっかり「積読(つんどく)」状態になっている私ですが、こうした機会に触れつつ、この秋は「読書の秋」にしたいと思います。
 
<「2023 敦図フェスタ」の全体スケジュールはこちら>

令和5年度 松原神社例大祭 〜武士道ここにあり〜

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三連休明けの昨日は、街頭活動からスタート。
 
いつもは一人の街頭活動ですが、昨朝は何と、原電労組の仲間が応援に駆けつけてくれるというサプライズ。
 
30分間ではありましたが、のぼり旗を持ち、活動をともにする仲間の存在は心強く、自然とマイクを持つ手にも力が入る朝となりました。
 

【普段は自撮りのところ、写真まで撮っていただき感謝】
 
活動の後は、昨日ご紹介した「令和5年度 松原神社例大祭」に参列のため松原神社へ。
 
武田耕雲斎先生ら水戸烈士諸公の御霊を鎮魂する「松原神社例大祭」は、コロナ禍もあって、4年ぶりに水戸市、常陸太田市、潮来市よりそれぞれ市長、議長を始め多くの関係者の皆様が参列のもと、厳粛な雰囲気のなか執り行われました。
 

【「浪人まつり」の旗が立つ松原神社】
 
途中、地面を弾くほどの強い雨が降ったと思えば、陽が差したりと、目まぐるしく変化する天気でしたが、激動の幕末において、国を憂い、尊王攘夷を掲げ京に向かった水戸天狗党が志半ばで散った姿と、この天気が重なった次第です。
 
例大祭を終え、参列者一同で神社の向かいにある「武田耕雲斎等墓」(幕府が下した斬首刑により敦賀で命を落とした353名の名前が墓石に刻まれている)を参拝。
 
武田耕雲斎は那珂湊(茨城)での戦争の際、「大いなる紅葉二三を縫った白の陣羽織」を着用していましたが、この陣羽織には、水戸藩主 徳川斉昭が急進的な幕政改革を幕府に咎められたことにより、致仕・謹慎を命じられ、これに連座して謹慎となった時に耕雲斎が詠んだ歌「木かくれて常には見えぬ紅葉の散りてこそ知れ赤き心を」の思いが込められています。
 
まさに「散って燃ゆる」は陣羽織のみならず、純粋な「誠」と「義」、武士道を貫いた、耕雲斎先生の生き様自体を表したものであると、改めて心打たれた次第です。
 

【墳墓のそばに建つ武田耕雲斎先生の銅像。命を賭して貫いた武士道ここにあり。】
 
結びになりますが、「幕末の悲劇」と呼ばれる水戸天狗党の歴史を紡ぎ、こうして例大祭を挙行いただきました敦賀水戸烈士遺徳顕正会の皆様に心より感謝申し上げます。

「水戸天狗党」の歴史でつながる4市

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「幕末の悲劇」とも称されている「水戸天狗党」。
 
元治元年(1864年)に藤田小四郎らを中心に筑波山で挙兵した後、京にいる一橋慶喜を頼り、朝廷に尊王攘夷を訴えようと約千名が行軍。
 
その年の12月、風雪の中、木ノ芽峠を越えて敦賀の新保村に着陣したものの、そこで幕府軍に捕らえられ首領の武田耕雲斎、藤田ら天狗党は、そこで処刑されるとの幕末の歴史。
 
水戸天狗党の行動については賛否、是非がありますが、武田耕雲斎ら水戸烈士が最後を遂げ、その御霊を祀るのが敦賀。
 
そうした関係から、水戸市と敦賀市は水戸烈士没後100年(1965)には姉妹都市となり、以降、相互交流が続けられており、その一環として、8月5日には、私も「水戸黄門まつり」に派遣いただいたところ。
 
コロナもあって、4年ぶりに開催されたお祭りの熱気もさることながら、併せて訪れた「弘道館」が果たした役割などを知り、水戸の学風に触れつつ、幕末の水戸にあった「諸生派」と「天狗党」の歴史に思いを馳せるとともに、改めて両市の深い関係を認識した次第です。
 

【「弘道館」の正庁諸役会所にあった、迫力ある「尊攘」の文字。水戸烈士の魂が宿っているかのようでした。】
 
前置きが長くなりましたが、本日10月10日は、その武田耕雲斎ら水戸烈士諸公の霊を鎮魂する例大祭が松原神社で執り行われるにあたり、水戸市を始め、常陸太田市、潮来市の市長並びに議会の皆様が敦賀にお越しになられ、昨晩は懇親会が開催されました。
 
私は、先の水戸黄門まつりに派遣いただいた関係から出席させていただきましたが、その際お会いした水戸市議会議員の皆様との再会、さらには常陸太田市、潮来市の皆様ともお話しすることができ、大変有意義な時間を過ごすことができました。
 
今から159年前の歴史をもとにつながっている4市。
 
こうした関係は本当に大事なことであり、先輩方が脈々とつないでこられた関係を我々世代、さらには次代へつないでいかねばと胸に誓った次第です。
 
本日の例大祭は9時30分より執り行われます。
 
国を思う一心で行動を起こした水戸烈士に思いを馳せ、静かに手を合わせてまいる所存です。
 
<参考>
水戸天狗党を取り上げた、過去の「やまたけブログ」(3件)をご紹介いたしますので、以下リンクよりご覧ください。
 →①天狗党の志士に思いを馳せる(2019年11月3日ブログ)
 →②幕末の悲劇「天狗党」〜武田耕雲斎からの手紙〜(2021年7月10日ブログ)
 →③水戸「弘道館」で幕末の歴史に思いを馳せる(2023年8月7日ブログ)

「古き良きもの」と「新しきもの」が重なる歴史的な日

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2023年10月1日は、敦賀市にとって歴史的な日となりました。
 
まずは、地元粟野地区はもとより、敦賀を代表する貴重な文化財のひとつ「柴田氏庭園」。
 
市ホームページの紹介では、
 
近世敦賀の有力農民であった柴田権右衛門(ごんえもん)が築いた屋敷です。敦賀一の名峰野坂山を借景とする美しい池泉庭園(ちせんていえん)と武家調の屋敷構えや書院が特徴で、甘棠館(かんとうかん)と称されています。往時には小浜藩主の休憩所になっていました。
昭和7年に庭園と書院が、平成19年には屋敷地全体が国の名勝に指定されているほか、市指定記念物ともなっており、芸術的・歴史的価値を高く評価された貴重な文化財です。
 
とあります。
 
その「国指定 名勝柴田氏庭園」は、平成22年までに崩壊の危険があった土蔵と通用門の緊急修復を完了して以降、策定された保存管理計画に基づき、平成27年からは大規模な保存・修復が行われ、8年もの月日を掛けた作業が完了。
 
昨日リニューアルオープンしました。
 
オープンに合わせ10時からは記念式典が行われ、幸いなことに私は、市議会の文教厚生常任委員長としてお招きいただき、出席する機会に恵まれました。
 

【オープンを祝し、甘棠館前にてテープカット】

【参考:修復工事中の甘棠館(同館展示室にて)】
 
式典の後は、市の学芸員さんに甘棠館内や庭園をご案内いただきましたが、柴田氏庭園の特徴は何と言っても「借景」。
 
借景とは、「庭外の風景を景観として利用すること」とありますが、度々私の投稿に登場する、敦賀のシンボルマウンテン「野坂山」と庭園が見事に調和し、当時に思いを馳せることができました。
 

【蘇った見事な野坂山の借景】

【庭園側から見た風景。池への映り込みが美しい。】
 
その後、12時30分からは柴田氏音頭の披露、そして13時には一般開放され、行列ができるほど多くの方が訪れ、リニューアルオープンを祝い、価値観を同じくできたことを大変嬉しく感じた次第です。
 
平成24年3月に敦賀市教育委員会が策定した「国指定名勝 柴田氏庭園 保存管理計画書」の序文には、「敦賀の宝である柴田氏庭園を将来にわたって維持継承していくための基本的な方針を定めたものです。」としたうえで、次のように記載されています。
 
「今後は、この計画を基本として管理を徹底していくとともに、整備事業を推進してまいります。課題はまだまだ山積しておりますが、庭園や建物の修復、周辺環境の整備を通じて柴田氏庭園が末永く美しく保たれ、そして敦賀を代表する名勝地として、市民の皆さま、そして敦賀を訪れる多くの皆さまに親しんでいただけるよう努めていく所存です。」
 
この言葉の通り、文化財は敦賀の宝。
 
「柴田氏庭園」を地元の誇りに、次代に継承していかねばと。
 
なお、10月1日からの入館、施設利用などの詳細は、以下のページをご覧ください。
 
 →敦賀市HP 柴田氏庭園(甘棠館)はこちら
 
そして、もう一つの出来事は、北陸新幹線。
 
9月23日から始まった走行試験は、新幹線電気・軌道総合検測車「イーストアイ」の運行から始まり、同26日には営業車両「W7系」が初めて県内区間を走行したところですが、昨日は午前1時50分に白山総合車両所(石川県白山市)を出発。
 
福井県内の芦原温泉、福井、越前たけふ、敦賀の4駅にて、それぞれ県民から熱烈な歓迎を受けました。
 
ここ敦賀駅は16時より「北陸新幹線W7系 敦賀駅入線歓迎セレモニー」が行われ、抽選により選ばれた、敦賀市民を始め嶺南地域にお住まいの500人の皆さん、並びに期成同盟会、関係者の方々が新幹線敦賀駅ホームに集い、興奮のなかW7系の入線を迎えました。
 
市内中学生らで構成する吹奏楽団が演奏する「銀河鉄道999」の曲がまたいい味を出しており、いよいよ敦賀にやってきた新幹線に感動した次第。
 
その感動は、言葉で表現するより動画を見ていただいた方が良いと思いますので、以下ご覧ください。
 


【W7系が敦賀駅ホームに入線した歴史的瞬間】
 
私が生まれた1972年に期成同盟会が発足し、翌年に敦賀までの整備新幹線計画が策定されてからちょうど半世紀を経て、こうして入線したことに、これまでご尽力いただいた関係者の皆様に心より敬意と感謝を申し上げる次第です。
 

【記念に私も1枚】
 
こうして昨日は、古き良きもの「柴田氏庭園」のリニューアルオープン、そして新しきもの「北陸新幹線」のふたつが重なる日でしたが、それぞれ歴史的な出来事であるとともに、いずれも敦賀市民の誇りとして、今後は次代、未来に向かって継承していくもの。
 
敦賀の「宝」を守り、活かし続けていくのは、現世を生きる私たちの使命と役割であると、深く胸に刻む一日となりました。
 

【柴田氏庭園 甘棠館前にて気比史学会 糀谷好晃会長と。横に並ぶと、歴史をつなぐ気概、継承する重みを感じました。】

敦賀城主 大谷吉継公遺徳を偲ぶ会

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契りあれば 六つのちまたに 待てしばし
遅れ先だつ ことはありとも
 
これは、関ヶ原の合戦において、家臣 平塚為広が「お先に敵陣に突入します」と、大将大谷吉継に書き添えて送った死別の歌に対し、吉継公が使者に手渡した返歌。
 
いわば、吉継公の辞世の句ですが、句の大意は「為広殿は武勇も和歌も感じるに余りある御仁である。わしも早々にあの世で逢おうぞ」とあり、同じく吉継公も既に、死を覚悟していたことが分かります。
 
9月15日は関ヶ原合戦の日ですが、昨晩は戦いで自害した敦賀城主 大谷吉継公の菩提寺である永賞寺(敦賀市栄新町)にて「遺徳を偲ぶ会」が営まれ、私も参列してまいりました。
 
会では、読経、供養奉納吟に続き、絵語り「大谷吉継 関ヶ原に死す」が催され、改めて「義の武将 吉継公」の生き様は、敦賀の誇りと胸に留めた次第です。
 

【偲ぶ会が営まれた永賞寺】

【丸山誠氏の「絵語り」には聞き入ってしまいました】
 
ここで吉継公をあまりご存知ない方のために、簡単に紹介しますと、大谷吉継は1565年(永禄8)の生まれ。
 
母親は豊臣秀吉の妻(お祢、高台院)の侍女で、東殿(ひがしどの)と呼ばれた女性(父親は判明していない)。
 
幼少期から、秀吉のもとで石田三成、加藤清正らと競い合いながら成長したと言われ、本能寺の変ののち、秀吉が天下人となると、吉継は優秀な実務官僚として豊臣政権を支えました。
 
1585年(天正13)、秀吉は関白になり、吉継も刑部少輔(ぎょうぶのしょうゆう)に任じられます。
 
吉継公が「大谷刑部」と呼ばれるのは、これに由来します。
 
敦賀城主として、1589年(天正17)に敦賀の領主となり、敦賀を「城のある港湾都市」に作り変えたことにより、敦賀は京都・大坂に物資を供給し、朝鮮出兵など戦争の折には兵粮、船、操船者を整える拠点としても機能することになります。
 
江戸時代の敦賀湊の繁栄の基礎は吉継の時代に作られたといえます。
 
この後は、ご存知のとおり、秀吉が没すると、次第に徳川家康が政治の中心となり、これに抵抗した石田三成に、劣勢と知りつつも「義を貫き」、味方して戦った関ヶ原合戦(1600年/慶長5)で敗れ、吉継は自刃します。
 
敦賀城も、1615年(元和元)の一国一城令で廃城となりました。
 
これが、吉継公の生涯ということになりますが、吉継自らの菩提寺である永賞寺の境内には没後9年後、1609年に造立された慰霊の九重塔(石造・敦賀市指定文化財)が残っているほか、毎年9月にはこうして、地元有志らによる「遺徳を偲ぶ会」(供養祭)も行われ、県外からも吉継ファンが足を運んでいます。
 
昨夜も県外からお二人が参列されていましたが、死を覚悟で三成への義を通した吉継公は、特に女性からの人気が高く、あの芦田愛菜さんも一番好きな武将は吉継公だとか。
 
改めて、今日の敦賀の礎を築かれ、発展に尽くすとともに、まさに武士道を貫いた吉継公の生き方に感銘を受けるとともに、また来年もこの会に参列し、供養の念をお送りすると誓った次第です。
 
最後に、会の詩吟で詠われた和歌に、「関ヶ原軍記を読む」と題した、かの西郷隆盛公の句がありましたのでご紹介いたします。
 
東西一決関ヶ原に戦う 嗔髪冠を衝く烈士の憤り
成敗存亡君説くことなかれ 水藩先哲公論あり
 
<大意>
東西に分かれ雌雄を決する天下分け目の戦いが関ヶ原で行われた。従軍の列士の憤は髪の毛が冠を衝き破るほどだった。成功、失敗を議論する必要はない。家康に大義名分がないということを水戸藩の先哲(水戸光圀)が大日本史で公正に論じている。
 
壮絶な天下分け目の戦いとは何だったのか考えさせられるとともに、合戦の地関ヶ原に、近いうちに足を運ぼうと思った次第です。
 

【大谷吉継公に「合掌」】

当時に思いを馳せる「SL公園」

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「鉄道のまち」敦賀には、それを感じることのできる様々な鉄道遺産がありますが、本町第3公園に保存されている蒸気機関車「C58-212」(昭和15年製造)もそのひとつ。
 
市民からは「SL公園」と呼ばれるほどでありますが、昨日は、「敦賀・鉄道と港まちづくり実行委員会」が主催する「SLを磨こう!(SL清掃活動)」に参加してきました。
 
きっかけは、私が所属する気比史学会が同実行委員会の会員になっていることから、ご案内いただいたことにありますが、願ってもないチャンスとばかりにSL公園に向かった次第。
 
この機関車は昭和46年9月まで、実際に小浜線で活躍していた機関車ですが、小浜線の無煙化に伴い引退になったことを機に、国鉄当局のご厚意により敦賀市に貸与され、子ども達の生きた教材として展示されることになったもの。
 
清掃活動には、会に所属する各団体やスポーツ少年団の子どもたち、JR西日本の現役社員さんらが集い、約1時間半、高圧洗浄機を用いて埃を洗い流し、細かな部分は雑巾で拭きあげるなど、それぞれが汗を流しました。
 


【清掃活動の様子。取材の方も多く来られていました。】
 
また、活動に参加されていた国鉄OBの方とお話しすると何と、その方はSL(C57とD51)を運転していたという経歴の持ち主。
 
曰く、「SLを運転してたもんは、もう敦賀でワシしかおらんやろ」とのことでしたが、蒸気機関車の構造や仕組み、さらには機関室にまで同行いただき、当時の情景さながら、前が見にくい恐ろしさやスピードコントロールの難しさなど、大変貴重なお話しも伺うことができました。
 
最後に、機関士の士は、武士の「士」だと仰っていたことに、70℃にも上る機関室内で、まさに命懸けで運転に臨んでいた心意気を感じた次第です。
 


【当時を懐かしみながら、機関室内を説明いただいた国鉄OBの方と機関室内全景】
 
OBの方とはまた再会を誓いましたが、こうして皆さんとともに磨いた「C58」は敦賀の「宝」。
 
これからも大切に保存しつつ、さらなる活用方法は無いものかと考える、まさに「鉄道のまち敦賀」に思いを馳せるひと時となりました。
 
皆様におかれましてはぜひ、お時間があれば「SL公園」に足を運んでいただければ嬉しく思います。
 

【久しぶりに行きましたが、何ともタイムスリップしたような、素敵な「SL公園」でした】

まつりのフィナーレは「民謡踊りの夕べ」

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昨日は茨城県内の各地で激しい降雨に見舞われ、筑西市や東海村では計7軒が床下浸水したほか、県内JR各線の一部区間では、一時運転見合わせや徐行運転となったとのこと。
 
東海村は日本原電が事業所を置かせていただいている関係で多くの知人が住んでおり、茨城県と聞くとより心配な訳ですが、幸いけが人はいなかったとのことで安堵。
 
いずれにしましても、被害に遭われた方々にはお見舞い申し上げます。
 
一方、こちらは何とか天気がもった「敦賀まつり」。
 
3日目の昨日は、勇壮な敦賀の山車(やま)6基が登場。
 
氣比神宮前に集結したほか、神楽・相生通りを巡行し、多くの方がこの壮観な姿をご覧になられたようです。
 

【私は観に行けませんでしたので写真だけでも(敦賀市長の活動日誌Facebookより拝借)】
 
また、敦賀まつりのフィナーレは「民謡踊りの夕べ」。
 
市内各地から本町通りに集結した人数は、何と約2,000人。
 
私の住むひばりケ丘町からも25名が参加。
 
もちろん私も踊ってきました。
 
敦賀とてもすきすき、すてな踊り、大敦賀行進曲と敦賀の代表的な曲に合わせて進む、市民約2,000人の隊列は圧巻であるとともに、対向する列で踊る多くの知人と手を振り合ったりと、自然と一体感が生まれるもの。
 

【本町通りを進む踊りの隊列】
 
踊りは約1時間20分でしたが、私自身、大いに楽しませていただきました。
 
やはりまつりは「踊らにゃ損、損」ですね(笑)。
 
こうして3日間を通し、老若男女を問わず、市民総ぐるみで盛り上がった「敦賀まつり」。
 
この雰囲気こそ「敦賀っ子」の原点と感じた次第です。
 
最後に、4年ぶりのお祭りが大成功となったのは、企画から準備、運営に携わられた全ての関係者の皆様のご尽力あってのことであり、この場を借りて、心より感謝申し上げます。
 
(おまけ)これはポーズですが、私の踊り姿を披露いたします。

今日から「敦賀まつり」

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9月8日開会の敦賀市議会令和5年第4回(9月)定例会。
 
昨日は、開会1週間前の告示日ということで、議案が配布されるとともに、議会運営委員会が開催され、会議日程や運営等について確認しました。
 
敦賀市議会の場合は、9月定例会で決算審査を行うことから会期はやや長丁場。
 
10月11日までの34日間となりますが、従前同様、ひとつ一つ丁寧に審査・審議していきたいと思います。
 
さて、その前に開催されるのが、今日から始まる「敦賀まつり」(氣比神宮例祭)。
 
敦賀まつり振興協議会ホームページでは、この「敦賀まつり」を「敦賀に秋の訪れを告げる北陸随一の長まつり」と題し、9月2日宵宮祭、3日神幸祭、4日例大祭、5日より10日まで後祭、15日の月次祭をもって終わる「氣比の長まつり」として有名と紹介しています。
 

【令和5年度敦賀まつりのポスター】
 
2日宵山祭の宵山巡行では、「宵山」という山車(やま)の上で、子ども達が踊りを奉納し、笛や太鼓などの賑やかなお囃子と共に市内を巡行。
 
3日の御鳳輦(ごほうれん)は、氣比神宮の御神体である仲哀天皇を祀ったお神輿巡行、4日の例大祭では、まつりのシンボルとして長い歴史を持つ6基の山車が揃います。
 
また、まつり期間中は、各商店街によるお祭り広場や、カーニバル大行進、民謡踊りの夕べなどが行われるなど、まさに市民総参加の盛り上がりとなります。
 
私も3日のカーニバル、4日の民謡の夕べに参加を予定しておりますが、自身も輪の中に入ることで、まつりの雰囲気を楽しんできたいと思います。
 
なお、2日から4日のイベント内容など詳細を以下に掲載しますので、敦賀市内の方はもとより、市外にお住まいの方もぜひ、まつりの賑わいを楽しんでいただければ幸いです。
 

【まつりのプログラム】

新たな視点で「敦賀」継承 〜気比史学会と双蝶のギョーブ〜

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昨日の福井新聞に「敦賀の歴史」に関する嬉しい記事が2つ。
 
ひとつは、敦賀まつりの武将演舞に出演する地元のご当地ヒーロー「双蝶(そうちょう)のギョーブ」と、岐阜県関ケ原で活動する「古戦場おもてなし武将隊関ケ原組」の大谷吉継の武将キャラクターが8月28日、敦賀市役所に米澤光治市長を表敬訪問したとの記事。
 

【米澤市長を表敬訪問した「双蝶のギョーブ」(左)と大谷吉継の武将キャラクター(福井新聞WEBより引用)】
 
双蝶のギョーブは、敦賀城主大谷吉継をモチーフとした戦隊ヒーローで、吉継が「大谷刑部」とも呼ばれることから命名。
 
地元有志の皆さんが地域を盛り上げようとコスチュームを手作りして制作されたヒーローで、私、実は誕生の時からのファンで応援しているもの。
 

【ギョーブ誕生の際に撮っていただいたツーショット(2021年11月)】
 
2人の吉継は「歴史の転換期で戦った武将として、新幹線で転換期を迎える敦賀を盛り上げる」と意気込みを語ったとありましたが、まずはキャラクター姿での面会を受け入れていただいた米澤市長に敬意を表します。
 
これまでギョーブとお話しする中で、大谷吉継を始め、敦賀の歴史を大事にし、今回も、戦国時代の歴史でつながる北陸新幹線沿線の武将とともに開業を盛り上げようとの意気込みをヒシヒシと感じてきたところですが、こうして市長にその思いを伝えられたことは本当に良かったと嬉しく思った次第です。
 
その武将演舞「大谷吉継 大出陣」は、敦賀まつり(9月2~4日)の3日10時~13時に神楽町1丁目の神楽広場で開かれますので、皆さんぜひお越しいただければと思います。
 
もうひとつは、私が事務局を務める「気比史学会」に関する記事。
 
記事といっても、こちらは何と、「論説」に書いていただいたので、感激もひとしおな訳ですが、まずは以下のリンクより、本文をご覧いただきたく。
 
 →気比史学会ネクスト(2023年8月29日 福井新聞「論説」)はこちら
 
論説では、気比史学会がこれまで果たしてきた役割や活動を「郷土史のみならず考古、民俗、自然などを生きた社会学問として追求し、大きな功績を残した。」、今年度「ネクストステージ」として再スタートした「市民歴史講座」を「『懐古趣味の研究会ではいけない。歴史を街の創造に生かす』をモットーにしてきただけに、転換点を迎える今年の敦賀にふさわしいシリーズといえる。」と高く評価いただきました。
 
結びにあるよう、全国的にもこれだけ長く活動している市民歴史団体は稀有な存在であることに加え、これを支える原動力は、探求するにキリがないほど豊富な「伝えるべき深遠な歴史が敦賀に多くある」ということ。
 
地域史を楽しく学び、敦賀の「歴史ファン」を増やすことは、郷土への誇りや愛着につながり、ひいては敦賀の持続的発展に向けた源泉になると考えるもの。
 
そうした思いのもと、会の45年の歴史を振り返りながら、自分たち世代のやり方でしっかり活動していきたいと思います。
 
なお、気比史学会の活動に関しては、従来のFacebookに加え、インスタグラムやX(旧ツイッター)での発信を始めるとともに、YouTubeでの配信も検討を進めておりますので、ぜひそちらもご覧いただければ幸いです。

越前朝倉宗家をめぐるお家騒動 〜敦賀市民歴史講座(第2講)より〜

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昨朝は、4年ぶり開催された「敦賀野球フェスティバル2023」の開会式に出席し、野球場に集う小中高生球児たちの姿を嬉しく思うとともに、関係者の皆さんと一緒に激励の声をお掛けしました。
 
チームワーク良く、ひとり一人の全力プレーを期待することと合わせ、野球を通じて、ここ球都「敦賀」がさらに発展することを祈念する次第です。
 
その後は、自身が事務局を務める、気比史学会の敦賀市民歴史講座(第2講)へ。
 
講座の開講は14時ですが、12時前には生涯学習センター2階にある気比史学会の部屋に行き、機材や資料等の準備、会場の図書館3階への運搬、設営と、役員の皆さんと一緒に作業を済ませました。
 
この暑さのなかですので、どれだけ足を運んでいただけるか若干心配しておりましたが、何のその。
 
定員100名に対し、約80名の方にお越しいただき感謝した次第です。
 

【多くの皆さんにお集まりいただいた会場の様子】
 
今年度第2講となる講座では、朝倉氏研究の第一人者である、元福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館長の水野和雄先生をお招きし、「越前朝倉宗家をめぐるお家騒動」と題しご講義いただきました。
 
講義では冒頭、水野先生ご自身の活動紹介や人生観などについての思いをお伺いした後、以下の構成にて順次お話しを進められました。
 
・はじめに(歴史を学ぶ楽しさ、前回の復習)
  ※以前に「元亀争乱」をテーマにお話しいただいている。
・朝倉宗家をめぐるお家騒動
・朝倉4代孝景落髪
・朝倉義景と従兄弟景鏡の確執
・朝倉宗滴と古渓宗陳
 
事前に、史学会の糀谷会長からは「朝倉氏と敦賀の関係をお話し願いたい」とのリクエストがあったことも紹介され、「はじめに」の部分では、「玄蕃尾(内中尾山)城跡は、朝倉義景が永禄12年(1569)信長に対峙するため椿坂に構えた城で、その後柴田勝家も天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦でここに本陣を置いたという確信を持つことが出来た」ことに触れられ、興味深く拝聴した次第です。
 
講座のタイトルにもある「お家騒動」に関しては、
 ①和田合戦
 ②景総事件
 ③景豊の乱
 ④景高没落
 ⑤堀江景忠の乱
 ⑥朝倉景鏡の謀叛
の6つの出来事について、詳しく説明があり、③では、文亀3年(1503)4月、敦賀郡司朝倉景冬の子景豊(妻は元景の娘)が、朝倉元景や孝景の末子教景(宗滴。妻は景豊の妹)等と連合して朝倉3代貞景に謀叛を企てたものの、教景は、妻の兄である景豊の謀叛の誘いに悩んだ末、福井市八幡の本郷竜興寺に入寺し宗滴沙弥と号し景豊の謀叛を一乗谷の朝倉貞景のもとに密告。貞景は、数千騎を率いてただちに敦賀の前坡山に陣を置き、大将の宗滴は敦賀城を包囲し景豊を滅ぼしたこと。
 
⑥では、朝倉5代義景と従兄弟の関係にある大野郡司朝倉景鏡は、朝倉景高を父、烏丸冬光の娘を母として誕生しており、朝倉宗家に最も近い立場にあり、永禄7年(1564)頃から謀叛の兆しが窺えたとあり、元亀元年(1570)4月の織田信長との天筒・金ケ崎城の戦いでは府中まで出馬したものの一乗に帰陣し、そのため手筒・金ケ崎城主朝倉景恒(朝倉景紀の次男)は、信長軍に城を開け渡し永平寺に逃げ込んで遁世したことなど、ここでも朝倉氏と敦賀の関係を意識したお話しを伺うことができました。
 
なお、講座の「まとめ」については、資料にあったそのままを以下、引用いたします。
 
朝倉宗家を揺るがしかねない戦いや謀叛、内乱は、初期にあっては、
 ①朝倉一族が相分れて宗家存続を賭けた骨肉相食む戦いがあり、次いで
 ②宗家の上席争い、
 ③宗家に取って代わろうとする謀叛、さらには
 ④後継者問題での景高没落、
 ⑤足利義昭による朝倉家臣の懐柔、
 ⑥朝倉景鏡の謀叛の兆候等々が見られた。
しかし、朝倉宗家は権力の座を揺らがすことなく、織田信長によって滅ぼされるまで大国越前の領国経営を5世代にわたって安泰に支配し続けた名門中の名門であったと言えるであろう。(終)
 
先の大河ドラマなどにもあったよう、どこか優柔不断で頼りなさげな印象のある越前朝倉氏ですが、最後の一文に、それを払拭せしめんとする水野先生の並々ならぬ気概を感じたところであり、戦国の世にあって、天下統一を左右する一目を置かれる存在であったことを、改めて認識する機会となりました。
 
同じ福井県でも、敦賀以西の方にとって朝倉家は「嶺北の人」とのイメージがありますが、手筒・金ケ崎の戦いを始め、当時既に要衝であった敦賀とも大いに関わりがあったことを念頭に、今後はそうしたことも周りにお伝えしていければと思います。
 
結びに、朝倉氏への思いを込めてご講義いただきました水野先生に心より感謝申し上げるとともに、先生が冒頭に仰ったご自身の人生観「ひとかけらの人生、楽しく生きよう」との言葉を紹介し、本日のブログを閉じたいと思います。
 

【水野先生、ありがとうございました】

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