まつりのフィナーレは「民謡踊りの夕べ」

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昨日は茨城県内の各地で激しい降雨に見舞われ、筑西市や東海村では計7軒が床下浸水したほか、県内JR各線の一部区間では、一時運転見合わせや徐行運転となったとのこと。
 
東海村は日本原電が事業所を置かせていただいている関係で多くの知人が住んでおり、茨城県と聞くとより心配な訳ですが、幸いけが人はいなかったとのことで安堵。
 
いずれにしましても、被害に遭われた方々にはお見舞い申し上げます。
 
一方、こちらは何とか天気がもった「敦賀まつり」。
 
3日目の昨日は、勇壮な敦賀の山車(やま)6基が登場。
 
氣比神宮前に集結したほか、神楽・相生通りを巡行し、多くの方がこの壮観な姿をご覧になられたようです。
 

【私は観に行けませんでしたので写真だけでも(敦賀市長の活動日誌Facebookより拝借)】
 
また、敦賀まつりのフィナーレは「民謡踊りの夕べ」。
 
市内各地から本町通りに集結した人数は、何と約2,000人。
 
私の住むひばりケ丘町からも25名が参加。
 
もちろん私も踊ってきました。
 
敦賀とてもすきすき、すてな踊り、大敦賀行進曲と敦賀の代表的な曲に合わせて進む、市民約2,000人の隊列は圧巻であるとともに、対向する列で踊る多くの知人と手を振り合ったりと、自然と一体感が生まれるもの。
 

【本町通りを進む踊りの隊列】
 
踊りは約1時間20分でしたが、私自身、大いに楽しませていただきました。
 
やはりまつりは「踊らにゃ損、損」ですね(笑)。
 
こうして3日間を通し、老若男女を問わず、市民総ぐるみで盛り上がった「敦賀まつり」。
 
この雰囲気こそ「敦賀っ子」の原点と感じた次第です。
 
最後に、4年ぶりのお祭りが大成功となったのは、企画から準備、運営に携わられた全ての関係者の皆様のご尽力あってのことであり、この場を借りて、心より感謝申し上げます。
 
(おまけ)これはポーズですが、私の踊り姿を披露いたします。

今日から「敦賀まつり」

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9月8日開会の敦賀市議会令和5年第4回(9月)定例会。
 
昨日は、開会1週間前の告示日ということで、議案が配布されるとともに、議会運営委員会が開催され、会議日程や運営等について確認しました。
 
敦賀市議会の場合は、9月定例会で決算審査を行うことから会期はやや長丁場。
 
10月11日までの34日間となりますが、従前同様、ひとつ一つ丁寧に審査・審議していきたいと思います。
 
さて、その前に開催されるのが、今日から始まる「敦賀まつり」(氣比神宮例祭)。
 
敦賀まつり振興協議会ホームページでは、この「敦賀まつり」を「敦賀に秋の訪れを告げる北陸随一の長まつり」と題し、9月2日宵宮祭、3日神幸祭、4日例大祭、5日より10日まで後祭、15日の月次祭をもって終わる「氣比の長まつり」として有名と紹介しています。
 

【令和5年度敦賀まつりのポスター】
 
2日宵山祭の宵山巡行では、「宵山」という山車(やま)の上で、子ども達が踊りを奉納し、笛や太鼓などの賑やかなお囃子と共に市内を巡行。
 
3日の御鳳輦(ごほうれん)は、氣比神宮の御神体である仲哀天皇を祀ったお神輿巡行、4日の例大祭では、まつりのシンボルとして長い歴史を持つ6基の山車が揃います。
 
また、まつり期間中は、各商店街によるお祭り広場や、カーニバル大行進、民謡踊りの夕べなどが行われるなど、まさに市民総参加の盛り上がりとなります。
 
私も3日のカーニバル、4日の民謡の夕べに参加を予定しておりますが、自身も輪の中に入ることで、まつりの雰囲気を楽しんできたいと思います。
 
なお、2日から4日のイベント内容など詳細を以下に掲載しますので、敦賀市内の方はもとより、市外にお住まいの方もぜひ、まつりの賑わいを楽しんでいただければ幸いです。
 

【まつりのプログラム】

新たな視点で「敦賀」継承 〜気比史学会と双蝶のギョーブ〜

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昨日の福井新聞に「敦賀の歴史」に関する嬉しい記事が2つ。
 
ひとつは、敦賀まつりの武将演舞に出演する地元のご当地ヒーロー「双蝶(そうちょう)のギョーブ」と、岐阜県関ケ原で活動する「古戦場おもてなし武将隊関ケ原組」の大谷吉継の武将キャラクターが8月28日、敦賀市役所に米澤光治市長を表敬訪問したとの記事。
 

【米澤市長を表敬訪問した「双蝶のギョーブ」(左)と大谷吉継の武将キャラクター(福井新聞WEBより引用)】
 
双蝶のギョーブは、敦賀城主大谷吉継をモチーフとした戦隊ヒーローで、吉継が「大谷刑部」とも呼ばれることから命名。
 
地元有志の皆さんが地域を盛り上げようとコスチュームを手作りして制作されたヒーローで、私、実は誕生の時からのファンで応援しているもの。
 

【ギョーブ誕生の際に撮っていただいたツーショット(2021年11月)】
 
2人の吉継は「歴史の転換期で戦った武将として、新幹線で転換期を迎える敦賀を盛り上げる」と意気込みを語ったとありましたが、まずはキャラクター姿での面会を受け入れていただいた米澤市長に敬意を表します。
 
これまでギョーブとお話しする中で、大谷吉継を始め、敦賀の歴史を大事にし、今回も、戦国時代の歴史でつながる北陸新幹線沿線の武将とともに開業を盛り上げようとの意気込みをヒシヒシと感じてきたところですが、こうして市長にその思いを伝えられたことは本当に良かったと嬉しく思った次第です。
 
その武将演舞「大谷吉継 大出陣」は、敦賀まつり(9月2~4日)の3日10時~13時に神楽町1丁目の神楽広場で開かれますので、皆さんぜひお越しいただければと思います。
 
もうひとつは、私が事務局を務める「気比史学会」に関する記事。
 
記事といっても、こちらは何と、「論説」に書いていただいたので、感激もひとしおな訳ですが、まずは以下のリンクより、本文をご覧いただきたく。
 
 →気比史学会ネクスト(2023年8月29日 福井新聞「論説」)はこちら
 
論説では、気比史学会がこれまで果たしてきた役割や活動を「郷土史のみならず考古、民俗、自然などを生きた社会学問として追求し、大きな功績を残した。」、今年度「ネクストステージ」として再スタートした「市民歴史講座」を「『懐古趣味の研究会ではいけない。歴史を街の創造に生かす』をモットーにしてきただけに、転換点を迎える今年の敦賀にふさわしいシリーズといえる。」と高く評価いただきました。
 
結びにあるよう、全国的にもこれだけ長く活動している市民歴史団体は稀有な存在であることに加え、これを支える原動力は、探求するにキリがないほど豊富な「伝えるべき深遠な歴史が敦賀に多くある」ということ。
 
地域史を楽しく学び、敦賀の「歴史ファン」を増やすことは、郷土への誇りや愛着につながり、ひいては敦賀の持続的発展に向けた源泉になると考えるもの。
 
そうした思いのもと、会の45年の歴史を振り返りながら、自分たち世代のやり方でしっかり活動していきたいと思います。
 
なお、気比史学会の活動に関しては、従来のFacebookに加え、インスタグラムやX(旧ツイッター)での発信を始めるとともに、YouTubeでの配信も検討を進めておりますので、ぜひそちらもご覧いただければ幸いです。

越前朝倉宗家をめぐるお家騒動 〜敦賀市民歴史講座(第2講)より〜

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昨朝は、4年ぶり開催された「敦賀野球フェスティバル2023」の開会式に出席し、野球場に集う小中高生球児たちの姿を嬉しく思うとともに、関係者の皆さんと一緒に激励の声をお掛けしました。
 
チームワーク良く、ひとり一人の全力プレーを期待することと合わせ、野球を通じて、ここ球都「敦賀」がさらに発展することを祈念する次第です。
 
その後は、自身が事務局を務める、気比史学会の敦賀市民歴史講座(第2講)へ。
 
講座の開講は14時ですが、12時前には生涯学習センター2階にある気比史学会の部屋に行き、機材や資料等の準備、会場の図書館3階への運搬、設営と、役員の皆さんと一緒に作業を済ませました。
 
この暑さのなかですので、どれだけ足を運んでいただけるか若干心配しておりましたが、何のその。
 
定員100名に対し、約80名の方にお越しいただき感謝した次第です。
 

【多くの皆さんにお集まりいただいた会場の様子】
 
今年度第2講となる講座では、朝倉氏研究の第一人者である、元福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館長の水野和雄先生をお招きし、「越前朝倉宗家をめぐるお家騒動」と題しご講義いただきました。
 
講義では冒頭、水野先生ご自身の活動紹介や人生観などについての思いをお伺いした後、以下の構成にて順次お話しを進められました。
 
・はじめに(歴史を学ぶ楽しさ、前回の復習)
  ※以前に「元亀争乱」をテーマにお話しいただいている。
・朝倉宗家をめぐるお家騒動
・朝倉4代孝景落髪
・朝倉義景と従兄弟景鏡の確執
・朝倉宗滴と古渓宗陳
 
事前に、史学会の糀谷会長からは「朝倉氏と敦賀の関係をお話し願いたい」とのリクエストがあったことも紹介され、「はじめに」の部分では、「玄蕃尾(内中尾山)城跡は、朝倉義景が永禄12年(1569)信長に対峙するため椿坂に構えた城で、その後柴田勝家も天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦でここに本陣を置いたという確信を持つことが出来た」ことに触れられ、興味深く拝聴した次第です。
 
講座のタイトルにもある「お家騒動」に関しては、
 ①和田合戦
 ②景総事件
 ③景豊の乱
 ④景高没落
 ⑤堀江景忠の乱
 ⑥朝倉景鏡の謀叛
の6つの出来事について、詳しく説明があり、③では、文亀3年(1503)4月、敦賀郡司朝倉景冬の子景豊(妻は元景の娘)が、朝倉元景や孝景の末子教景(宗滴。妻は景豊の妹)等と連合して朝倉3代貞景に謀叛を企てたものの、教景は、妻の兄である景豊の謀叛の誘いに悩んだ末、福井市八幡の本郷竜興寺に入寺し宗滴沙弥と号し景豊の謀叛を一乗谷の朝倉貞景のもとに密告。貞景は、数千騎を率いてただちに敦賀の前坡山に陣を置き、大将の宗滴は敦賀城を包囲し景豊を滅ぼしたこと。
 
⑥では、朝倉5代義景と従兄弟の関係にある大野郡司朝倉景鏡は、朝倉景高を父、烏丸冬光の娘を母として誕生しており、朝倉宗家に最も近い立場にあり、永禄7年(1564)頃から謀叛の兆しが窺えたとあり、元亀元年(1570)4月の織田信長との天筒・金ケ崎城の戦いでは府中まで出馬したものの一乗に帰陣し、そのため手筒・金ケ崎城主朝倉景恒(朝倉景紀の次男)は、信長軍に城を開け渡し永平寺に逃げ込んで遁世したことなど、ここでも朝倉氏と敦賀の関係を意識したお話しを伺うことができました。
 
なお、講座の「まとめ」については、資料にあったそのままを以下、引用いたします。
 
朝倉宗家を揺るがしかねない戦いや謀叛、内乱は、初期にあっては、
 ①朝倉一族が相分れて宗家存続を賭けた骨肉相食む戦いがあり、次いで
 ②宗家の上席争い、
 ③宗家に取って代わろうとする謀叛、さらには
 ④後継者問題での景高没落、
 ⑤足利義昭による朝倉家臣の懐柔、
 ⑥朝倉景鏡の謀叛の兆候等々が見られた。
しかし、朝倉宗家は権力の座を揺らがすことなく、織田信長によって滅ぼされるまで大国越前の領国経営を5世代にわたって安泰に支配し続けた名門中の名門であったと言えるであろう。(終)
 
先の大河ドラマなどにもあったよう、どこか優柔不断で頼りなさげな印象のある越前朝倉氏ですが、最後の一文に、それを払拭せしめんとする水野先生の並々ならぬ気概を感じたところであり、戦国の世にあって、天下統一を左右する一目を置かれる存在であったことを、改めて認識する機会となりました。
 
同じ福井県でも、敦賀以西の方にとって朝倉家は「嶺北の人」とのイメージがありますが、手筒・金ケ崎の戦いを始め、当時既に要衝であった敦賀とも大いに関わりがあったことを念頭に、今後はそうしたことも周りにお伝えしていければと思います。
 
結びに、朝倉氏への思いを込めてご講義いただきました水野先生に心より感謝申し上げるとともに、先生が冒頭に仰ったご自身の人生観「ひとかけらの人生、楽しく生きよう」との言葉を紹介し、本日のブログを閉じたいと思います。
 

【水野先生、ありがとうございました】

台風一過と「とうろう流し」

ブログ 敦賀の歴史・文化 防犯/防災

台風7号が日本海側に抜けました。
 
この台風での被害を受け、鳥取県は鳥取市に災害救助法の適用を決定。
 
兵庫県は香美町に、京都府は舞鶴市など3市に適用を決定しており、改めて被災に遭われた方に対し、心よりお見舞い申し上げます。
 
敦賀においては、市が昨日8時30分に「災害対策連絡室」を設置のうえ、会議では、市内公共交通機関の運休や気比の松原海水浴場の全面閉鎖、全市民を対象とした自主避難所を2箇所開設(その後、追加で2箇所開設)するなどの対応が確認されました。
 
夕方以降は、強い雨風となり、大雨で最も心配される「笙の川」は、同21時55分に福井県土木部砂防防災課と福井地方気象台が「警戒レベル4相当情報[洪水]」を共同で発表。
 
氾濫危険水位(2.10m)に到達し、氾濫の恐れありとされました。
 
これは、避難指示の発令の目安ともなる訳ですが、結果して、市は避難指示を出すことなく、その後水位は低下し、難を流れた次第。
 
この際の雨量情報としては、多いところで1時間に30ミリの雨が降っており、当分この状態が続くとしつつ、呉竹水位観測所における笙の川水位予測は、
 ・発表時(21:55)水位2.16m レベル4
 ・1時間後    水位2.12m レベル4
 ・2時間後    水位2.06m レベル3
 ・3時間後    水位2.02m レベル3
と、次第に低下するとされていたことから採られた判断と推察いたします。
 
以前に議会の一般質問で、まさに同じような対応(レベル4で避難指示を出さなかった)をされたことの考えを確認した際、「あらゆる情報をもとに水位予測をし判断する」旨の回答があり、「レベル4=即避難指示」ではないことを理解した訳ですが、今回もそうした判断のもと、結果、混乱等もなく今を迎えていることに安堵するところです。
 
さて、台風は過ぎたとはいえ、今日は台風が日本海を少し速度を上げながら北上、台風に向かって南からは湿った空気が流れ込むため、西日本から東日本の太平洋側は雨雲が発生しやすくなる見込みとあります。
 
幸い、日本海側はその影響は小さいようであり、「大花火」は中止となったものの、実施予定の「とうろう流し」では、お盆で帰ってこられていた御霊を厳かにお送りできればと思います。
 
台風襲来により、「動」と「騒」の漢字が浮かぶ、今年のお盆となりましたが、最後は「静」と「穏」で、ご先祖様に思いを寄せる一日になればと思います。
 

【気比の松原の海が幻想的な雰囲気になる「とうろう流し」。静かに御霊をお送りできればと。(ベストワンバスツアーHPより引用)】

「第74回とうろう流しと大花火大会」は中止

ブログ 敦賀の歴史・文化

八丈島の南を進む強い台風7号。
 
福井地方気象台によると、今後、日本の南海上を北西に進み、15日から16日にかけて福井県にかなり接近し、通過する可能性があるとされ、台風の進路や発達の程度によっては、15日は暴風や警報級の大雨となる可能性が高い見込み。
 
また、同日に警報級の高潮、16日は暴風や警報級の大雨、高潮となる可能性があるとし、同気象台は、暴風や土砂災害、低い土地の浸水や河川の増水、氾濫などに注意・警戒するよう呼び掛けています。
 
昨日のブログと重複しますが、お盆時期に直撃する台風に対しては、ある程度「予測」ができることから、各自においてリスクを回避した計画や行動のもと、「備える」ことが肝要と考えるところです。
 
そうしたなか、8月16日開催予定の「第74回とうろう流しと大花火大会」について、台風7号の影響により中止とする旨、主催者の敦賀観光協会が昨日発表しました。
 
同協会はホームページで、「事前準備が不可能なことと十分な安全確保が困難なことから中止とさせていただきます」と理由を説明のうえ、「尚、順延はございません。楽しみにしてくださっていた皆様には大変申し訳ございませんがご理解の程よろしくお願いいたします。」との言葉が記されていました。
 

【SNSにて公表された花火大会中止のお知らせ(敦賀びー旅<敦賀観光協会公式>のinstagramより引用)】
 
振り返れば、この花火大会は、2019年は台風接近、2020年と21年は新型コロナウイルスの影響で、昨22年は直前の雷雨(雷警報発報)により中止となっており、今年は5年ぶりの開催となる予定でした。
 
こうした経過を辿る「夏の風物詩」だけに、敦賀市民をはじめ、多くの方が開催に期待を寄せ、楽しみにしていたことは言うまでもありませんが、台風が準備の日に合わせて襲来するとあっては致し方ないもの。
 
私自身も誠に残念ではありますが、安全と混乱回避を最優先に判断し、早めの公表をされた主催者の対応を支持いたします。
 
なお、灯ろう流しに関しては、販売は15日は行わないものの、16日の13時~19時半に松原公園入口で行われ、18時半からの読経は関係者と来場者の安全を考慮しながら実施するとしていますので、お伝えしておきます。
 
楽しみにしていたことが、天気に左右され叶わなかった時こそ、まさに思うのが「芭蕉(ばしょ)さん」が敦賀で詠んだこの句。
 
「名月や北国日和定めなき」
 
残念な気持ちをポジティブ思考で前向きにチェンジし、来年こそは、「6年ぶり」となる約11,000発の大花火を打ち上げられればと願う次第。
 
敦賀市民の悲願達成は1年先に持ち越しとなりましたが、来春には北陸新幹線が敦賀開業となります。
 
より多くの方に「敦賀の花火」を知っていただき、沿線にお住まいの皆様もぜひ、夏の敦賀にお越しいただければ幸いです。

水戸「弘道館」で幕末の歴史に思いを馳せる

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昨日は、米軍による原爆投下から78年となる「原爆の日」。
 
広島市の平和記念公園では、「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、原爆投下の午前8時15分に合わせ、私もホテルの一室にて黙禱を捧げました。
 
平和記念式典では、松井一実市長による平和宣言、岸田首相からの挨拶などに続き、「子ども代表」の広島市の小学生男女2人による「平和への誓い」では、堂々とまっすぐに前を見詰め、力強く朗読する姿に感動。
 
「核なき世界」の実現と「恒久平和」を人類全ての願いとし、とりわけ世界唯一の戦争被爆国であるわが国は「核保有国」と「非保有国」との橋渡し役となって、現実的な解決に向けて取り組まねばならないと、次代を担う彼ら彼女らの姿と重ね、改めて誓う時間となりました。
 
さて、水戸滞在2日目は休日にも関わらず、水戸市議会事務局ならびに水戸市職員の皆様にお世話になり、まず7月2日にオープンした「水戸市民会館」をご案内いただきました。
 
県内最大2,000人収容の大ホール、市民の日常使いにと配置された小中ホールや各種サイズの会議室、バンド演奏や調理ができるスタジオなどがあり、この日も大人から子どもまで、多くの利用者で賑わっていました。
 
以前、市役所隣にあった市民会館ですが、東日本大震災で被災し、建替えることになった際に中心市街地へ移転を決定。
 
市民とのワークショップなどを重ねながら設計を進めたとあり、住民の皆さんのニーズを踏まえた公的施設のあり方を学ぶことができました。
 
その後は、水戸藩第9代目藩主 徳川斉昭が天保12年(1841)に開設した藩校「弘道館」へ。
 

【戦禍を逃れ残る、国の重要文化財「弘道館」】
 
敦賀にも3度ほど来られたことがあるという水戸観光協会の歴史アドバイザーの方には大変ご丁寧に、知る人ぞ知るエピソードなども絡めながらご案内いただきました。
 
「弘道館」の目的や果たした役割などを知り、水戸の学風に触れつつも、正庁諸役会所にあった「尊攘」の迫力ある文字には、幕末の水戸にあった「諸生派」と「天狗党」の歴史に思いを馳せました。
 

【「尊攘」の文字。幕末の歴史に思いを馳せました。】
 
なお、「幕末の悲劇」と言われる水戸天狗党の行動については賛否、是非がありますが、武田耕雲斎ら水戸烈士が最後を遂げ、その御霊を祀るのが敦賀。
 
水戸烈士没後100年(1965)には、その関係から水戸市と敦賀市は姉妹都市となる訳ですが、今回水戸に来れたことで、改めてこうした歴史を振り返るとともに、両市の深い関係を認識することが出来ました。
 
この後は、お昼過ぎに水戸を立ち、帰路につきましたが、このような機会を頂戴したことに感謝するとともに、学んだこと、感じたことを今後の活動に生かしてまいります。
 
最後に、2日間大変お世話になりました水戸市議会、議会事務局の皆様、本当にありがとうございました。
 
今度は敦賀にお越しになることを楽しみに、お待ちしています。

古墳時代の敦賀 〜市民歴史講座(第1講)より〜

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1970年7月29日は、関西電力の美浜発電所1号機が原子炉臨界に到達した日ですが、昨日午前中はちょうど「第54回 関電労組美浜支部定時大会」にお招きいただき出席。
 
美浜町生涯学習センター「なびあす」で開催された大会では、北川博規・福井県議会議員に続きご挨拶の機会を頂戴しましたが、53年前にあった記念すべき日に、皆さんの前でお話しさせていただくことを光栄に思うとともに、現在の原子力発電を取り巻く環境、とりわけ次世代革新炉の動向などについて、自身の考えを含めお伝えしました。
 
同じく1970年3月に運転を開始した日本原電敦賀発電所とともに、わが国の原子力黎明期から発電を続ける美浜発電所。
 
私にとっては「兄弟」であり「同志」でもある発電所ですが、今後はともに次代に進むべく、職場の皆さんとの連携を一層深め活動あたること、またこの大会を機に、さらに団結力を高め、美浜支部が発展されることを祈念申し上げた次第です。
 
大会の後は、気比史学会が主催する「敦賀市民歴史講座」のため、敦賀市立図書館へ。
 
これまでご紹介しているよう、新たな役員体制で迎えた今期、私は事務局長の任を務めることもあり、他の役員の皆さんとともに、ここに至るまでの企画・準備を進めてきたところですが、いよいよ第1講スタートとあって身の引き締まるところ。
 
事前に準備した資料や講座開催時のグッズを会場にてセッティングしたうえで、参加者を待ちましたが、結果、70名の聴講者にお集まりいただきました。
 
まずは、この暑さのなか、こうして足を運んでいただいた皆さんに感謝した次第です。
 

【70名の聴講者にお越しいただき開催した市民歴史講座】
 
14時に開会した講座では、元敦賀市立博物館長の川村俊彦氏を講師にお迎えし、「古墳時代の敦賀 ー『中郷古墳群』史跡指定35周年ー」と題し、冒頭、前期(4世紀)から中期(5世紀)、後期/終末期(6世紀〜7世紀初期)までの敦賀の古墳時代のアウトライン、現在の敦賀市内・敦賀半島における主要な古墳分布をご説明いただきました。
 
その後は、主要な「史跡 中郷古墳群」として、向出山(むかいでやま)古墳群、明神山古墳群、また、立洞(たてぼら)2号古墳群や穴地蔵古墳群などについて、発掘調査にて確認された副葬品などから言えることについて、詳しい解説がありました。
 
昭和55年(1980)〜58年(83)には、トンネル温泉造成事業の開始によって、存続の危機にあった向出山古墳を守るべく、気比史学会による保存運動が展開され、2号墳こそ緊急調査のうえ、埋立消滅したものの、1号墳については、公有地化、墳丘整備がされた歴史を改めてお伺いし、当時の並々ならぬ文化財保護に対する思いと行動力に敬服した次第です。
 

【保存運動の末、守られた向出山1号墳(川村先生の講座資料より引用)】
 
とりわけ、中郷古墳群は、古代における内外交通の要衝であった敦賀の地に、前期から後期までの様々な形式の特色あふれる古墳が築かれ、わが国の古墳時代を解明するうえで貴重な首長摹群であること、また古墳時代の終わりには、敦賀半島(西浦や櫛川まで)を中心に製塩集団の下で古墳が作られていると推察されるなど、勢力分布や当時の情景が浮かぶ時間となりました。
 
詳しくお知りになりたい方は、資料などお渡ししますので、ぜひ私までお声掛けいただきたいと思いますが、私自身、今回も大変興味深く、太古のロマンあふれるお話しを聞くことができ、本当に有意義な時間であったと感じた次第です。
 
なお、講座終了後に行った講師を囲んでの座談会では、参加された方から、「埋蔵文化財は、苦難の時代」、「観光客が来る来ないが、文化財を整備、手入れするしないの基準になっている」などとの声を伺うことができました。
 
全国的に見てもそうなのかと思いますが、特に豊富な文化的資源を有する敦賀にあって、こうしたことにならないよう、文化財行政に対しても確認、意見していく必要がある旨、強く念頭に置いた次第。
 
一部、音響機器の不具合があったものの、何とか無事に終了した「第1講」。
 
次回、第2講は8月19日(土)14時から、元一乗谷朝倉氏遺跡資料館長の水野和雄氏をお招きし、「越前朝倉宗家をめぐるお家騒動」と題し講義をいただきます。
 
開催場所は同じ市立図書館3階 研修室。
 
タイトルからして、面白いお話しが聞けること間違いありませんので、興味のある方はぜひお気軽に、足を運んでいただければ幸いに存じます。

気比史学会「意気盛ん」 若手加え活動継続

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昨日午前中は広報広聴委員会。
 
前期の後半2年は委員長を務めた委員会ですが、今期は委員として所属。
 
メンバーも8名中、4名が1期目の委員、女性は3名ということで、また違った雰囲気で議論できるのが楽しいところ。
 
誤解なきよう、「楽しい」というのは、和気あいあいという意味ではなく、メンバーが変わったことによって、同じことを行うにもまた新たな、多角的な視点で物事を捉えることができるという意味であり、昨日の委員会はまさにそのことを感じるものとなりました。
 
協議したのは、8月に発行する「議会だより」や今年度も開催する「議会報告会」に関してでしたが、小さなことでも構わないので、回を追うごとに改善を続け、市民の皆様にとって「分かりやすく」、「議会を身近に」感じてもらえるような議会広報・広聴活動となるよう、引き続き、自身も尽力してまいります。
 
さて、メンバーが変わったといえば、45年続く、敦賀の市民歴史団体「気比史学会」。
 
昭和52(1977)年、敦賀市史の刊行をきっかけに市内の歴史愛好家らが結成した「気比史学会」ですが、設立当初から会を中心的に支え、会長として活動を牽引いただいてきた糀谷好晃会長以外、今年度からは、副会長以下の役員を刷新し、活動をリスタートさせたところ。
 
私自身、一時あった解散の危機(役員の高齢化が理由)を只々「もったいない」と思う一心で、我々世代で引き継がせてもらえないかと進言をした立場ですが、何とかその危機を乗り越え、活動を継承することとなった次第。
 
このことは、以前のブログでも述べたところですが、先般、これに関心をもった中日新聞の記者さんが、当会の三役に対して、あるいは役員会に足を運んでいただき取材、継承までの経過を記事にしていただきました。
 
記事は、昨日の「日刊県民福井」朝刊、しかも地方版ではなく、いわゆる3面の社会記事欄に大きく掲載いただき驚いたところですが、皆様には同新聞社のウェブ版にて記事をご覧いただければと存じます。
※新聞記事の転載は禁じられているため、ご容赦を。
 
 →7月25日 日刊県民福井の記事はこちら
 

【記事に掲載いただいた写真。撮影時に記者さんが「糀谷会長が一番いい表情です!」と言ってましたが、その意味が分かりました(笑)】
 
こうして大きく取り上げていただけるのは大変ありがたいことであり、記者さんにもお礼の電話を差し上げた次第ですが、記事にあった通り、今後さらに、次代への継承も視野に続けていかねばと、思いを強める次第です。
 
「過去に学び 未来に期待し 今日に生きる」
 
これは設立以来の気比史学会の「会是」ですが、私の人生訓、座右の銘とも言えるものであり、常日頃から物事を判断するうえで念頭に置いている言葉。
 
「地域史」を自ら楽しく学ぶという、発足当時にあった歴史愛好家のマインドを再び起こし、さらにはもうひとつの目的である、市民の皆様に敦賀の「地域史」を広く知っていただけるよう、引き続き活動してまいります。
 
なお、今週土曜日(7月29日)の14時からは、今年度「ネクストステージ」と名を打った「市民歴史講座(第39期)」の第1講が、市立図書館3階の研修室にて開催されます。
 
詳しくは、年間プログラムを再掲しますが、もちろんどなたでも参加可能ですので、ぜひ足を運んでいただけますようお願いいたします。
 
※第39期「市民歴史講座」ネクストステージのプログラムは以下↓

「気比史学会」はネクストステージへ

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昨朝はホームグラウンドの名子での辻立ち。
 
天気予報ではその時間、雨マークが出ていましたが、何とか降られることなく終了。
 
最近は車中より笑顔(失笑?)を送ってくれる方が増えたように感じますが、これは胸ポケットの「こくみんうさぎ」効果か。
 
いずれにしても、街頭に立っている存在を認めてもらえたこと自体嬉しいことであり、引き続き「継続は力なり」の思いで頑張る所存です。
 
さて、「継続は力なり」と言えば、設立から46年目に入った敦賀の市民歴史団体「気比史学会」。
 
役員の高齢化を理由とする解散の危機を乗り越え、新たなメンバーで継承することとしたことは、以前のブログでもご紹介した通りですが、昨晩は、今年度第1講の「敦賀市民歴史講座」に向けた役員会を開催しました。
 
残っていただいた糀谷会長以外、副会長以下は34歳から50代中盤までの役員(7名)となり、会議の雰囲気も一変。
 
私は事務局長として、会議の進行をさせていただきました。
 

【新たに作成した気比史学会の名刺。最上段には、この会に入れ込むキッカケとなった会是を入れました。】
 
協議事項のメインは、7月29日(土)に開催する「敦賀市民歴史講座(第1講)」の進め方や役割分担などでしたが、役員の方からは、ファシリテーター役を輪番制にして、能動的に参加する仕組みづくりをとの意見や、次世代を始め、より多くの方に聞いてもらえるよう「YouTube」配信をしてはなど、積極的且つ前向きなご意見を頂戴しました。
 
こうして会を継承したからには、何かひとつでも新たな試みを取り入れていこうとの姿勢に、私もハッと姿勢を正したところですが、長く続く組織であるためには、ミッションやビジョンを共有し、各人の専門性や特性を発揮できること、そして「変化を恐れない」ことにあるのではと考えるところ。
 
大袈裟に言えば、進化論で有名なダーウィンの「生き残るのは、最も強い種でも、最も賢い種でもなく、環境の変化に最も敏感に対応できる種である」との言葉にも通ずることかとも感じた次第ですが、大事なのは、これまでの固定観念にとらわれず、新たな発想を取り込み、組織や活動を「活性化」させること。
 
今後の組織運営は、このような考えも念頭に、気比史学会の「ネクストステージ」を築き上げていきたいと思います。
 
なお、昭和52(1977)年当時、自らが「地域史」を学び、得たことを市民に広げていこうとの思いをもって集った有志で作られたのが「気比史学会」。
 
そう思えば、原動力となったのは、貪欲なまでに敦賀の地域史を掘り起こそうとする「好奇心」にあったのだと思います。
 
ダーウィンに続き、偉人の名言にアインシュタインの「重要なのは、疑問を持ち続けること。知的好奇心は、それ自体に存在意義があるものだ。」との言葉があります。
 
まさにこの考えが、これまでも、そしてこれからも本会を支える原動力ではないかと思うところ。
 
他の市町が羨むほどの豊富な歴史、文化資源を有する敦賀。
 
まさに、敦賀の「悠久の歴史を掘る」との言葉通り、運営する我々自身が好奇心、探究心をもって次代へと歴史をつないでいきたいと思います。
 
最後に、39期を迎える今年度の敦賀市民歴史講座のプログラムを掲載いたします。
 
もちろん、どなたでも参加できますので、ぜひお越しいただけますようお願いいたします。
 


【第1講は来週末、7月29日(土)14時から。会場にてお待ちしています。】

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