おまつりは地域をつなぐ最大のコミュニティであり宝

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『敦賀に秋の訪れを告げる北陸随一の長まつり』
 
上手く表現しているこのタイトルは、敦賀まつり振興協議会のホームページ(HP)にあったもの。
 
HPでは続けて、「氣比神宮例祭」は、9月2日宵宮祭、3日神幸祭、4日例大祭、5日より10日まで後祭、15日の月次祭をもって終わる「氣比の長まつり」として有名とあり、例祭の前夜祭にあたる2日の宵宮祭は、宵山巡行がないと本祭りは始まらないと言われていること。
 
3日の御鳳輦(ごほうれん)は、氣比神宮の御神体である仲哀天皇を祀ったお神輿で、菊花の紋章入りの錦旗を先頭に、烏帽子(えぼし)、護衛の直垂の衛士(ひたたれのえじ)、甲冑をまとった武士の犬神人(つるめそ)、神馬に乗った神官の神職(しんしょく)、稚児、楽人を従えて、雅楽が奏でられるなか、氏子達と共に古式ゆかしく市内を巡行する例祭の本祭りであること。
 
4日の例大祭では、まつりのシンボルとして長い歴史を持つ6基の山車(やま)が揃い、敦賀の山車の特徴は等身大の人形に本物の能面や甲冑を飾り付け、戦国時代の合戦における武将の勇姿を表現していること。
 
と、コンパクトながら大変分かりやすく、「氣比神宮例祭」の内容を紹介しています。
 
また、9月2日の宵宮祭から4日例大祭までの期間を「敦賀まつり」と呼びます。
 
その「敦賀まつり」は昨日2日目を迎え、上記の御鳳輦巡幸や大人6基、子ども8基による神輿が市内一円に繰り出したことに加え、夕方からは「カーニバル大行進」が行われました。
 
市内小中高校による①マーチングの部、企業・団体による②パレードの部、③仮装・電飾パレードの部の3部で構成される「カーニバル大行進」に、今年は22チームが参加。
 
各チームは色とりどりの衣装を纏い、沿道の大勢の観衆の前で日頃の練習の成果を披露する姿はまさに、“市民総参加”と毎年感じるところ、これに私も参加。
 
パレードの部に出場する日本原子力発電(株)の一員として、今年も「ひょっとこ踊り」に参加してまいりました。
 

【センターステージでの日本原電の隊列(家族が録画してくれていた嶺南ケーブルネットワークのLIVE画像より)】
 
「踊り」といっても、私は獅子舞役(これで3年連続)につき、隊列の周りで賑やかしをするに過ぎない訳ですが、神楽通りから、途中センターステージでは「若狭牛マンボ」の曲に合わせて、最終の相生通りまで、社員の皆さんと一緒に気持ち良く踊り、行進した次第です。
 

【知人が撮影してくれた私の獅子舞姿】
 
なお、日本原電は全体の出場順10番目であり、その後も元気な、市内各企業や団体のパレードが続いたところ。
 
参加された皆様、ならびに沿道を盛り上げていただいた観客の皆様、そして安全な運営のため、裏方でサポートいただいた関係者の方々、大変お疲れ様でした。
 
一夜明け、本日は「敦賀まつり」最終日。
 
満を持して、6基の山車が巡行するほか、午後7時からは市内各地区から参加しての「民謡の夕べ」が行われます。
 
夕方以降のお天気が若干心配なところではありますが、皆の願いで雨雲を吹き飛ばし、元気に踊ってフィナーレを迎えられればと思います。
 
冒頭の敦賀まつり振興協議会HPでは、このおまつりをこのようにも表現しています。
 
「まつり期間中は、各商店街によるお祭り広場や、市民総参加のカーニバル大行進、民謡踊りの夕べなどが行われ、市内外から多くの人が敦賀に訪れます」
 
まさに、市民総ぐるみ、総参加のおまつりは、敦賀の歴史であり、地域をつなぐ最大のコミュニティ(宝)であります。

人道の港敦賀ムゼウム 企画展『万博と赤十字』に学ぶ

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月の変わり目は、気持ちも新たに。
 
特に8月から9月というのは、3学期制だった私たち世代からすると、夏休みから2学期のスタートであり、よりその気持ちが強いもの。
 
ちょうど昨日は、月始めと週始めが重なったため、朝は張り切って街頭にて活動してまいりました。
 
先週に引き続き、赤黄青と色とりどりのTシャツで通学する敦賀高校の生徒さんと挨拶を交わしましたが、昨日は学校祭だったようで、彼ら彼女らの笑顔から、まさに「青春」と感じた次第です。
 
また、街頭活動の後は、議会運営委員会出席のため議会へ。
 
9月8日に開会する令和7年第3回(9月)定例会の1週間前にあたる昨日は、告示日ということで、いわゆる「告示日議運」では、定例会の日程や運営方法、請願・陳情の取り扱いなどを協議。
 
併せて、同日配布された市長提出議案の付託先(各常任委員会へ)の確認を行なったところです。
 
前年度決算審査を行う9月定例会は10月9日(木)まで、32日間の会期で開催されます。
 
トピックスについては都度、このブログでもご報告してまいりますので、皆様方におかれましては注視いただければ幸いに存じます。
 
 →「令和7年第3回(9月)敦賀市議会定例会」の会期日程はこちら
 
続いて、昨夕は「人道の港敦賀ムゼウム(以下、ムゼウム)」へ。
 
行こうと思って行けていなかった企画展『万博と赤十字』、『戦後80年展 敦賀空襲を伝えつなぐ』を、9月定例会での一般質問に向けた準備も兼ねて鑑賞してきました。
 

【ムゼウム入口の企画展看板】
 
企画展の内容に関しては、ムゼウムのホームページに以下のとおり掲載されています。
 
<以下、引用>
 
2025年、大阪関西万博が開催され、多くの来場者で賑わっています。
「万国博覧会」と「日本赤十字社の創立」には深い関係があり、かつて幕末から明治の時代にパリやウィーンで行われた万博に参加した日本人たちが、パビリオンの展示に感銘を受け、日本に赤十字をもたらすこととなります。
「人道」の精神を基本原則として長く活動し続けている日本赤十字社がどのように発祥したのか、その原点について、日本で万博が行われているこの2025年に、同じく「人道」の精神を重んじる敦賀ムゼウムにて展示を行います。
 
また、2025年は第二次世界大戦終戦から80年となります。
敦賀は1945年の7月12日に日本海沿岸都市として初めて空襲に遭いました。死者・負傷者あわせて300人以上、港を中心とする市街地の大半が焼け野原となった80年前の現実について、史料をご覧いただくことで実感いただくとともに、改めて平和の大切さに想いを馳せていただくため、戦後80年展を開催します。
 
<引用終わり>
 
ネタバレしてはいけませんので、展示パネルにあった印象に残る言葉のみご紹介しますと、それは赤十字の生みの親と言われるアンリー・デュナンの言葉。
 
「(戦争の)その際、本当の敵は、隣国ではなく、冷淡、悲惨、無知、習慣、迷信、偏見です。」
 
マザー・テレサの「愛の反対は憎しみではなく、無関心」との言葉と意味合いが重なるものと認識した訳ですが、非常に深い言葉と胸に留めたところです。
 
また、企画展に関するムゼウムの思いとしてあった、「私たちにとって、80年前の出来事は、今なお世界のどこかの現実となっています。どうして起こったのだろう。何でこうなったのだろう。私たちに出来ることは何だろう。戦後80年の節目に、敦賀と戦争に関する資料を展示します。」との言葉に至極共感。
 
遅ればせながらではありますが、ぜひ多くの方、特に敦賀市民の皆様にはご覧いただきたいと思います。
 
 →「人道の港敦賀ムゼウム」公式HPはこちらから
 
1920年代にはシベリアで家族を失ったポーランド孤児、1940年代にはナチスに追われたユダヤ難民が上陸した敦賀港。
 
先の大戦では、日本海側で初めての空襲を受け、中心市街地が焦土と化した敦賀。
 
そうしたまちだからこそ、その史実を広く世界に伝える役割があると再認識した次第です。

『私が出会った三人の昭和の偉人たち』

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昨日の福井新聞「越山若水」。
 
戦後80年の夏、犠牲者を追悼するいくつかを訪ね歩いたと書き出すコラムの結びにはこうありました。
 
忠霊碑、忠霊塔といった「慰霊の場」を世話にする人が減り、全国で維持が難しいと聞く。忘れてはいけない惨禍の教訓、それを形にして残し、伝え、気づかせようとした先人の意思が途絶えかねない。「寂しいけれど・・・」でよいのだろうか。
 
私自身、この節目の年に、戦没者戦災死没者を慰霊する場、戦争を「伝え、つなぐ」場に参列、参加してまいりましたが、そこで感じたのはは、「越山若水」にある、このままでは「途絶えかねない」との危機感でした。
 
現世を生きる人々が「大変だから」を理由に、先人が残した記憶を廃してしまっては、それこそ命と引き換えに国を護ろうとした英霊、犠牲になった方々は浮かばれないことから、ここ敦賀でも何をすべきか、しっかり考え、行動してまいる所存です。
 
さて、あらためてそうした思いをもって臨んだ敦賀市民歴史講座 シリーズI「戦後80年」第2講(主催:気比史学会)。
 
概要は、昨日ご紹介しましたとおり、「私が出会った三人の昭和の偉人たち」をテーマに、敦賀出身の元NHKプロデューサー山登義明氏にお話しいただくというもの。
 
昨日14時からの講座では、山登氏が「昭和の偉人」と称する「三人」。
 
戦後の日本文化の土台を築いた、向田邦子(作家、脚本家)、大江健三郎(作家、ノーベル文学賞受賞者)、河合隼雄(臨床心理学者、文化庁長官)の年譜をもとに、山登氏自身が制作した関連動画を交えながら、三人の生き方を見つめ直しました。
 

【配布した講座資料。左から、向田邦子氏、大江健三郎氏、河合隼雄氏】
 
プロデューサーとして山登氏が三人と関わる中で見せた、知られていない三人のエピソードなど交えてお話しいただき、向田邦子さんについては、森繁久弥さんとの出会いから、「週刊平凡」などで執筆を始め、その才能からすぐに頭角を表したこと。
 
また、その裏にいたのはNさん。
 
21歳で出会い、後に向田さんと交際する方で、結果的に彼のサポートにより彼女の才能が引き出されていったこと。
 
35歳の時にN氏が死去し、悲しみに打ちひしがれるものの、その後再起。
 
脚本家として名声を得、昭和50(1980)年の51歳の時には、小説を書いて2作目で「直木賞」を受賞するも、翌年、飛行機事故死。
 
N氏の死去から17年、52歳の若さで亡くなった向田氏は、「人に言えない悲しみがある」、「人生の悲しみに合うと死に近づく」とのメッセージを残したとありました。
 
続く、大江健三郎氏。
 
54歳で書いた著書「人生の親戚」にあるよう、人には切ろうと思っても切れない苦しみがある。
 
生涯小説家の大江さんは、自身が28歳の時に生まれた息子光(ひかる)が脳に障害を持っていることを知り、治療するか否かの究極の選択に迫られた際に、広島と出会う。
 
「被爆者に教えてもらった」との言葉どおり、これを機に光さんと生きていくことを決意した。
 
当時のことを大江さんは、「私と広島はジャストミートした。広島と出会うべくして出会った。」と語った。
 
1990年頃に初めて出会った山登さんに対し、大江さんが一番書きたいのは「こころ」と「魂」だと言い、その考えを貫いた結果、ノーベル賞受賞までに至った。
 
大江さんの生き様からは、「人生にはジャストミートする瞬間がある」ことを覚えておいてほしい。
 
最後の河井隼雄さんのテーマは、「コンステレーション」。
 
臨床心理学者の河合さんは、アメリカから持ち込んだ「箱庭療法」で一躍有有名に。
 
2002年に文化庁長官に就任した後に発生した※高松塚スキャンダルの対応に追われ、激務により倒れ、2007年に死去。
 
※1972年に発見された極彩色の壁画で知られる高松塚古墳が、発見後まもなく石室内部にカビが発生したことから始まった、文化財保護上の大問題
 
河合さんの研究テーマは最後まで「夢」であったが、晩年、「科学と宗教は近づいている」との言葉を残した。
 

【大江健三郎氏の生前最後の動画を前に熱弁される山登義明氏】
 
ポイントに過ぎませんが、以上が講座の概要。
 
三人の昭和の偉人が、その生き様から残した、それぞれのメッセージはまさに現世を見通しているかのようであり、とりわけ、大江さんがノーベル省の受賞式で発した言葉を踏まえた「曖昧さが重要な時代になってきている」との見方は、昨今のゼロか100かの、極めてデジタルな考え方、政治の世界も右傾、左傾双方が極端になってきているなど、私自身、そうしたリスクを胸に置いた次第です。
 
リアルな取材を通じて得た貴重なお話をいただいた山登さんには、気比史学会が節目で開催してきた、「戦後50年」、「戦後70年」の際にも登壇いただいたことを含め、重ねて感謝申し上げます。
 
結びに、昨日は約85名の方に参加いただきました。
 
大変暑いなか、足を運んでいただきましたこと、主催者の立場から厚く御礼申し上げます。
 
誠にありがとうございました。

【会場全景(講座開始前)。多くの皆様にお越しいただき感謝です。】

敦賀市民歴史講座 シリーズ「戦後80年」第2講を開催いたします

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自身が活動に参画する敦賀の市民歴史団体「気比史学会」。
 
昭和52(1977)年に会を設立後、昭和60(1985)年に開講したのが「敦賀市民歴史講座」であり、以来、体系的な年間テーマのもとに、歴史を学ぶ楽しさを市民と共有しながら連年開催をし、今年で第41期となります。
 
活動の中心を成す本講座においては、今期、二つのシリーズテーマ(各3講づつ)による全6講を企画。
 
一つは、日本海側で最初の“敦賀空襲”と、“太平洋戦争”終結80年に因む『戦後80年』シリーズ。
 
いま一つは、近世・近代における敦賀のまち形成の礎を築いたとされる最後の敦賀城主・大谷吉継にまつわる『大谷吉継生誕460年』シリーズ。
 
既に各1講目を終えたところですが、これら二つのテーマは、その時代と歴史的背景は大きく異なるものの、それぞれの分野における多彩な講師陣により展開される歴史ストーリーは、主催する側としても大変興味深く、多くの市民の方々に参加いただくことを期待するところです。
 

【再掲:昭和20(1945)年7月の敦賀空襲により、焼け野原となった敦賀市内】
 
さて、このように前置きをしたうえで、本日は14時より、シリーズ「戦後80年」の第2講を開催いたします。
 
テーマは『私が出会った三人の昭和の偉人たち』。
 
講師には、戦後50年、戦後70年の当会講座に続き、元NHKプロデューサーの山登義明(やまとよしあき)氏をお招きし、報道の立場、またジャーナリストとしての視点から戦後、そして「昭和」という時代についてお話しいただきます。
 
なお、山登氏は、敦賀のご出身。
 
簡単にプロフィールをご紹介しますと、1948年に敦賀市で生まれ、敦賀高校、金沢大学卒業後、1970年にNHK入社。
 
テレビディレクターとして大阪、東京、長崎で勤務し、プロデューサーとして広島、東京、NHKエンタープライズで、NHK特集「黒い雨 〜広島 長崎 原爆の謎〜」、ETV8「シリーズ・授業」など主にドキュメンタリー番組を制作。
 
親交が深い大江健三郎氏関係では、NHKスペシャル「響きあう父と子 −大江健三郎と息子光の30年」(1994年)は、国際エミー賞を受賞するなど大変高い評価を受け、その後も、ETV特集「大江健三郎・ノーベル賞の旅(1)・(2)」、他にも、「最後のひばり〜」や「冬のソナタ」の特番など、ジャンルを越えた幅広い社会派番組も数多く担当された方。
 
本日の講演で、山登氏が「昭和の偉人」と称する「三人」とは、向田邦子(作家、脚本家)、大江健三郎(作家、ノーベル文学賞受賞者)、河合隼雄(臨床心理学者、文化庁長官)。
 
三氏とも昭和ヒトケタ世代で、戦後の日本文化の土台を築いた人たちであり、敦賀との繋がりもあるとのことで、講演では、三人の生き方を見つめ、なぜ偉大なのかということを考えるほか、山登氏がロケする中で見せた各人の素顔のエピソードなどを映像も交えて面白く伝え、最後に、三人の死についても触れられるものと思います。
 
事前に山登氏と資料のやり取りをする中では、さすがプロデューサー。
 
三氏の素顔や生き方が浮かぶ動画も準備いただいており、どんなお話が聞けるのか、自分自身も楽しみが募るところです。
 
こうした内容で開催する市民歴史講座。
 
あらためまして、本日は14時より、敦賀市立図書館3階の研修室にて開催いたします。
 
まだまだ残暑厳しい折ではございますが、一人でも多くの皆様と一緒に、「戦後80年」を振り返り、そこから未来思考の何かをつかめれば幸いに存じます。

23万人を魅了した「第76回とうろう流しと大花火大会」

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敦賀にとって、夏のシンボル的行事といえば、毎年8月16日に開催される「とうろう流しと大花火大会」。
 
新型コロナウイルス禍や天候不順などが重なり、開催を見送ってきましたが、昨年は台風の影響を心配しつつも、6年ぶりの開催を果たしたところ、
 
一方、今年は真夏日の快晴。
 
天気の心配をすることなく迎えた「第76回」となる大花火大会に、敦賀市民はもとより、楽しみに訪れたお客さんの数は、今朝の福井新聞によれば約23万人(主催者発表)であったとのこと。
 
敦賀市の人口を約6万人とすると、その約4倍にあたる方が、敦賀の花火に期待し、訪れたことを大変嬉しく思った次第です。
 
敦賀観光協会ホームページの記載によれば、今年の大会テーマは、「かがやきのまち 敦賀」。
 
北陸新幹線開業1周年や大阪・関西万博開催を記念したプログラム、平和への想いや敦賀のシンボルを夜空一面に映し、敦賀の明るい未来を花火で描くとしています。
 
私は家族と、粟野地区にある「夢市場」の駐車場から眺めましたが、水面の仕掛け花火こそ見切れるものの、ヒュルヒュルと夜空を上る尺玉クラスは見事にその大輪を望むなど、約10,000発の花火を大いに楽しむことができました。
 

【大花火大会フィナーレのワンショット(やまたけ撮影)】
 
76回を数える歴史ある行事。
 
浜辺でご覧になった方はもちろんのこと、こうして市内の至るところ、それぞれの単位で花火を楽しめたことは本当に良かったと思うとともに、敦賀への愛着が一層深まった次第です。
 
なお、余談ですが、この日の日中は、次の日曜日に新聞折込する予定の「やまたけNEWS(25号)」を町内全戸にポスティング。
 
暑さもあり、配るのに3時間半を要しましたが、かいた汗の分、夜のビールと花火は格別であったことを付け加えておきます。
 

【ポスティング中のひとコマ。前回配っていなかった24号と2枚セットで配布しました。】
 
こうしてお盆も過ぎ、私の中では毎年、「とうろう流しと大花火大会」が終わるとひとつ、そして甲子園大会の決勝戦を終えた段階で、「夏の終わり」を感じる訳ですが、今朝は散歩していても、そよそよと吹く風はどこか秋の気配。
 
季節も気持ちもモードチェンジです。

明日は「大谷吉継サミット2025」

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今日は、長崎「原爆の日」。
 
80年前の昨日は、敦賀が「模擬原爆」による被害に遭った日でしたが、今日は長崎に原子爆弾が投下された日。
 
この原子爆弾により犠牲になられた方々の御霊に心から哀悼の誠を捧げます。
 
と同時に、犠牲者、ご遺族、被爆者の皆様の筆舌に尽くし難い苦しみを思えば、実現すべきは「核兵器のない世界」。
 
核不拡散条約(NPT)の再検討会議において、条約第6条にある「誠実に核軍縮を行う必要性・重要性」を強調し、日本が中心となって具体的な提言を行うことや「非核三原則」を堅持し、国際社会において主導的な役割を担うことが唯一の戦争被爆国としての責任であることは言うまでもないところ。
 
「長崎を最後の被爆地に」という痛切な願いの実現、恒久平和と核兵器根絶を目指して取り組む思いを、一層強くする次第です。
 
7月12日を皮切りに3度遭った敦賀空襲、8月6日の広島、そして今日の長崎と、「戦後80年」の節目として、史実に想像を張りめぐらせながら書き綴ってきたところですが、一方、敦賀にとっての周年といえば「大谷吉継」。
 
最後の敦賀城主「大谷吉継」は今年で「生誕460年」を迎えます。
 
以前にご案内のとおり、自身が所属します敦賀の市民歴史団体「気比史学会」においては、年間シリーズテーマを「戦後80年」と「大谷吉継 生誕460年」の2本立てで市民歴史講座を開催するところ。
 
吉継に関しては、「忠義と友情」に殉じた武将として揺るぎない評価を得てきた、その人となり、生涯など霧につつまれた等身大の姿を描き出すことによって、大谷吉継研究の現時点における到達点に迫るシリーズと位置付け、3講開催することとしていますが、うち第1講目は敦賀市立博物館主催の「大谷吉継サミット2025」に協力する形で参画するもの。
 
そして、いよいよそのサミットが明日10日、敦賀市民文化センターで開催されます。
 

【大谷吉継サミット2025」のポスター(敦賀市立博物館作成)】
 
ポスターにあるよう、“大谷吉継研究の最前線――”として、生誕460周年を記念して、吉継研究を振り返るシンポジウムを開催するもので、詳細は概要は以下のとおりとなっています。
 
◉日時:令和7年8月10日(日)13時30分~17時00分(開場13時00分)
◉会場:敦賀市民文化センター大ホール(敦賀市桜町7番1号)
◉参加費:無料
◉申し込み:不要
 
シンポジウムは2部制で構成され、1部は「研究報告」、2部は「パネルディスカッション」。
 
パネルディスカッションでは、研究報告もされる北村太智氏(敦賀市立博物館学芸員)が司会、石畑匡基氏(大手前大学講師)ならびに外岡慎一郎氏(元奈良大学教授)に加え、気比史学会副会長の杉原正英氏も登壇する予定となっています。
 
杉原副会長からは、地元敦賀ならではの視点、調査研究成果をお話しいただけると思います。
 
ここまでご紹介しながら、私自身は、同日開催される「敦賀港カッターレース」の運営にあたらねばならないことから、サミットに参加することができず…。
 
誠に残念無念ではありますが、多くの参加のもと、敦賀が誇る義の武将「大谷吉継」の魅力を広く知っていただける場になることを祈念する次第です。
 
このブログをご覧になられた方はぜひ、戦国時代に思いを馳せ、参加いただけますようお願い申し上げます。
 
結びに、先にご案内しました気比史学会の今年度「市民歴史講座」の内容を再掲いたします。
 
こちらもご覧いただき、ぜひ足を運んでいただければ幸いに存じます。
 


【気比史学会 第41期「市民歴史講座パンフレット」より抜粋】

敦賀に「模擬原爆」が投下されてから80年

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「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」
 
これは、6日に営まれた広島平和記念式典で石破首相が、あいさつの最後の方で2度繰り返した言葉。
 
引用元は、被爆者でもある歌人の正田篠枝さんの短歌。
 
この短歌は、式典会場近くに立つ「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれたもので、教師を頼りながら亡くなった児童と、助けられなかった教師の無念さをうたっており、首相は式典後の記者会見で、自らの原爆忌への思いが「あの歌に全て尽くされている」と述べ、「記憶を継承する努力を強めていかなければならない」と強調しました。
 
首相が仰るよう、短歌から浮かぶ悲惨な情景、この言葉に込められた作者の思いは痛いほど胸に刺さるものであり、一瞬にして罪なき民の命を奪った原子爆弾の恐ろしさを知るとともに、このような愚かな行為を二度と犯してはならなと心に刻むところであります。
 
こうして8月6日には広島、9日には長崎に投下された「原子爆弾」。
 
そして、決して忘れてならないのは、長崎への原爆投下前日の昭和20(1945)年8日8日にあった、敦賀への「模擬原爆」投下。
 
午前9時頃、アメリカ軍が原爆投下の訓練のため、敦賀市の東洋紡(当時は東洋紡績)に爆弾を投下し、動員されていた学生ら33人が犠牲となってから、今日で80年を迎えます。
 
あのB-29爆撃機が敦賀に投下したのは、長崎に投下した原子爆弾と同型の模擬爆弾(通称パンプキン)。
 
この投下の前に、同年7月12日、7月30日の空襲で甚大な被害のあった敦賀に三度目となる空襲の当時の状況は、「敦賀市史」通史編(下巻)第四節 三.敦賀大空襲に、次のように記録されています。
 
<以下、「敦賀市史」を引用>
 
(7月30日の空襲に)ついで、八月八日午前九時ごろ、空襲警報が発令され、市民は防空壕に退避した。まもなくB29が単機敦賀上空に現われ、一旋回して低空飛行の態勢で東洋紡績工場に爆弾を投下し、そのまま南方に飛び去った。この爆弾は、東洋紡の捲糸室に命中し、火災となった。また隣接していた紡糸室と事務所の一部とが爆風のために破壊された。この爆撃で、工員一五名、動員学徒一六名、引率教員二名の命が失われた。
 
こうしたなかで敦賀は、八月十五日の敗戦の日を迎えるのである。なおこの項の記述にあたっては、多く『敦賀市戦災復興史』の記述を利用させていただいた。
 
<引用終わり>
 

【模擬原爆の被害にあった東洋紡敦賀工場の様子(出典元調査中)】
 
私は以前に、東洋紡敦賀工場にお伺いし、保存されてる当時の資料を拝見させていただいたことがありますが、80年前にあった史実を目の当たりにし、突然若き命を奪われた方々の無念、そして長崎の予行演習とばかりに模擬爆弾を投下したその行為に怒りを覚えました。
 
「無念と怒り」
 
またもや、このようなことを二度と繰り返してはならないとの思いが沸々と湧いてきます。
 
本日は、犠牲者の位牌がある市内の永建寺にて、ご遺族や工場の関係者などが参列されての法要が営まれることと存じます。
 
若くして亡くなった犠牲者を悼み、空襲のあった午前9時には、私も同じ思いで静かに手を合わせることといたします。
 
こうしてなお、唯一の戦争被爆国として、核保有国と非保有国、あるいは世界平和の架け橋、橋渡し役ができるのは日本であり、まっすぐにその役割を果たしていかねばと、思いを強める次第です。

「浮世絵」の世界を楽しく学ぶ

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新たなジャンルの知識を得ることは、実に楽しいこと。
 
先日来ご案内しておりました、気比史学会のミニ歴史講座を昨日開催しました。
 
会場の「ちえなみき」ホームページ、気比史学会のXやインスタグラム、Facebookそれぞれのアカウントでの告知をご覧いただき、日曜の午前中にも関わらず10名の皆さんにお集まりいただき感謝。
 
テーマは「超入門!浮世絵の楽しみ方」。
 
ナビゲーター(講師)に、福井県地域おこし協力隊 歴史観光マネージャーの加治まやさんをお迎えし、まさに「楽しく歴史を学ぶ」ひと時となりました。
 
「浮世絵」に関しては、現在放映中のNHK大河ドラマ「べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜」をご覧になっておられる方も多いかと思いますが、人気俳優 横浜流星さん演じる「蔦重」こと蔦屋重三郎は、かの有名な浮世絵師、喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出した、今で言うところの出版プロデューサー。
 
NHKの言葉を借りると“日本のメディア産業、ポップカルチャーの礎を築き、時にお上(かみ)に目を付けられても面白さを追求し続けた人物”とのことであり、人気を博しているところ。
 
そうした話題とも連動するかの如く設けられたこのテーマですが、冒頭、加治さんからは、浮世絵の「浮世」とは「憂き世」と掛けられており、それが転じて現世である。
 
江戸の人や社会、流行の風俗が描かれたものが成り立ちであること。
 
一方、西洋の風俗画といえば、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」(1658頃)、ピーター・プリューゲルの「野外での婚礼の踊り」(1656年頃)がありますが、そうしたものと「浮世絵」とはまた一線を画すものとのご紹介がありました。
 
その後、浮世絵には、菱川師宣の「見返り美人図」などで有名な、筆で描かれた「肉筆浮世絵」(江戸時代初期からあり)と、「浮世絵版画」(1670年頃〜)があること。
 
「浮世絵版画」は、
 ①下絵:絵師(例えば、葛飾北斎)が描く
 ②彫り:職人が彫る
 ③摺り:摺師が摺る(狂いなく何回も重ね摺りする作業は「見当をつける」の語源となっている)
の工程で、類まれな技術を用いて制作されていたこと。
 


【色の種類ごとに、何度も重ね摺りされて浮世絵が生まれる】
 
浮世絵の種類には、美人画、役者絵、武者絵、名所絵、風刺絵、寄せ絵に遊び絵などの種類があり、多くの画像をもとに、加治さんから特徴的な作品や技法を説明いただくことで、私自身、浮世絵の魅力を大いに感じることができました。
 

【本物の歌舞伎役者と比べた「役者絵」。見事な再現もさることながら、その伝統が今も変わらず続いていることにも驚き。】
 
なお、「美人画」は、文字どおり綺麗な女性を描いた絵ですが、庶民の娘さんだったり、遊女だったりで、著名な作品に描かれた娘さんや働く茶屋などが大人気になったこと。
 

【蚊帳の中にいる女性を描いたものですが、この蚊帳の網目はどうやって彫ったのか?】
 
「名所絵」は、江戸時代に庶民が旅を楽しむようになり、今で言うポストカードの感覚で作られ、買われていたのではとの紹介もあり、福井に縁のある浮世絵も紹介いただきました。
 
下図の1枚目は福井の九十九橋、2枚目は敦賀の気比の松原。
 


 
地元敦賀の風景に、参加者間で、あそこが二村?あれは夫婦岩では?と盛り上がりましたが、こうして浮世絵1枚を研究していくことは郷土研究にもつながるきっかけにもなると思った次第です。
 
こうして、浮世絵1枚1枚の細部を丁寧に説明いただいたほか、例えば、庶民の娘や遊女の着物をファッションとして捉えるなど、まさに「楽しみ方」を教えていただいた、ナビゲーターの加治まやさん。
 
誠にありがとうございました
 

【やさしい語り口でお話しいただいた加治まやさん】
 
今回のミニ歴史講座は、開催趣旨のとおり「歴史を楽しく学んだ」ところでありますが、単に「学ぶ」に留まらず、浮世絵に表れるよう、江戸時代とは「滑稽(こっけい)」を楽しむ文化。
 
何かと型にはめられた、世知辛い現世となっている感がありますが、そうした気持ちの余裕をもって、過ごしていければと思った次第です。
 

【会場のちえなみき2階 セミナー&スタディの様子。参加いただいた皆さん、誠にありがとうございました。】

未曾有の惨禍「敦賀空襲」を忘れない日

ブログ 敦賀の歴史・文化

これだけ暑い日が続くと、「まだだったの?」と言われそうなのが「海開き」。
 
敦賀のシンボリックなもののひとつであり、自慢でもある「気比の松原海水浴場」の「海開き式」が昨日10時から行われ、私は産経建設常任委員会の一員として出席。
 
米澤光治敦賀市長、川端耕一敦賀市議会副議長らとともに、海開きを祝うとともに水難事故等なく、安全に海水浴をお楽しみいただけるよう祈願した次第です。
 
同時に、こうして国指定の名勝でありながら、海水浴場として開設されるのは珍しいことと認識していますが、これぞ敦賀ユニークなものであり、多くの皆さんにお越しいただくことを期待するものであります。
 
一方、この日「7月12日」は、敦賀の歴史上、大変大きな出来事があった日。
 
これまで幾度もお伝えしているよう、昭和20(1945)年7月12日は、先の大戦において、日本海側で初めての空襲を敦賀が受けた日。
 
この空襲によって、敦賀は市街地の大半が焦土と化したほか、7月30日、8月8日※にも続けて戦火に見舞われ、これら3回の空襲によって、225柱もの尊い命が失われました。
 
※同年8月8日午前9時頃、B-29が敦賀に投下したのは長崎に投下した原子爆弾と同型の模擬爆弾(通称パンプキン)
 
なお、12日にあった敦賀空襲の詳しくは、以下の過去ブログよりご覧ください。
 
 →2025年7月6日 ブログ『敦賀空襲を伝え つなぐ』はこちら
 

【昭和20(1945)年7月12日の空襲により、中心市街地が焦土と化した敦賀】
 
敦賀市では、12日(土)10時に、市内にある屋外スピーカー(防災情報伝達システム)を使用してサイレンを鳴らし、戦没者戦災死没者のご冥福を祈るとともに、世界の恒久平和を願い、ご家庭や事業所等において、黙とうを捧げていただくことをホームページ上でお願いしており、こうした取り組みが、この空襲を、そして戦争の恐ろしさや悲惨さを忘れないことにつながるものと認識するところ。
 
また、前述のブログの中でもご紹介しております、桃井泰人氏が住職をお務めの、元町にある本勝寺様では、この空襲による犠牲者を追悼する法要が行われ、ご遺族などが祈りを捧げたところです。
 
さらに、この日の福井新聞「論説」で取り上げられたタイトルは『敦賀の遺族会統合 市民へ戦争伝える契機に』。
 
太平洋戦争の戦没者の妻子らでつくる敦賀市遺族連合会と、戦没者の孫やひ孫世代らでつくる市遺族次世代の会が統合し、「戦没者追悼敦賀市民の会」が発足した。従来の会員に加え、市民誰もが入会資格を持つ組織となった。市民が戦争の悲惨さや平和の尊さを改めて考えるきっかけにしたい。
 
との書き出しから、敦賀空襲の概要や「戦没者追悼敦賀市民の会」が発足するまでの経過、ちょうど1週間前に敦賀の市民歴史団体「気比史学会」が開催した歴史講座などを紹介。
 
「敦賀市民の会」奥野治樹副会長の言葉にあった、“その頃に悲惨な敦賀空襲の話を父から聞き、自らも語り部として「敦賀の人たちに身近なところで戦争があったことを伝えたい」と思うようになったという。”とのフレーズに共感した次第です。
 
そして論説の結びには、「時を経る中で、戦争体験者は減り続ける。地域史を読んだり、両親や祖父母から戦争の話を聞いたりした人はどれくらいいるのだろうか。市民の会によって若い世代が戦争を知り、平和への思いが広まることを期待したい。」
 
 →2025年7月12日 福井新聞 論説『敦賀の遺族会統合 市民へ戦争伝える契機に』(全文)はこちらをご覧ください
 
思えば、戦争末期の80年前は、のんびり海水浴をしている時代ではなかったでしょう。
 
今年もこうして、海水浴客を迎え入れる「海開き式」ができたことを平和の証と思うとともに、あらためて未曾有の惨禍となった「敦賀空襲」の実相を記憶、継承することが、現世を生きる私たちの役割と使命であることを強く心に誓う一日となりました。

『敦賀空襲を伝え つなぐ』

ブログ 敦賀の歴史・文化

それは、日本海側で最初の空襲であり、敦賀の歴史上、未曾有の惨禍であった。
 
そして、アジア・太平洋戦争終結。・・・あれから80年。
 
<以下、「敦賀市史」通史編(下巻)第四節 三.敦賀大空襲引用>
 
昭和二十年(一九四五)七月十二日の夜、数賀市は大空襲に見舞われた。日本海治岸都市としては最初の空裏であった。十二日夜九時四〇分ごろ熊野港から侵入したB20約一〇〇機は三波に分かれ、その一部は、奈良・三重県境を北上して琵琶湖の南部を経て福井県に入った。
 
この編隊は、駄口上空を通過し、道口より山麓に沿って東に転じ、東郷村井川において第一弾を投下した。この爆撃で、咸新小学校・新善光寺・高福寺、民家七軒が延焼した。ついで深山寺(民家四戸全焼)、高野(民家一戸全焼)、田尻(松岸寺全焼)など一帯に投弾し、東浦村に至り、田尻(民家五戸全焼)、赤崎(赤崎小学校、民家二戸全焼、一戸半焼)、五幡(二戸全焼、一戸半焼)上空で旋回し、福浦湾に面する磐城セメント工場に投弾して、天筒山上空より、市街地に侵入した。
 
天筒山山麓より攻撃が開始され、火は入船・常盤・天満と逐次拡大し、川東地区はほとんど火の海と化した。さらに火は川中地区に拡がり、桜・御手洗・橘・富貴・大島・神楽・北津内と延焼し、晴明・大和田銀行より元の朝市場を経て、大黒・高徳寺にいたる線においてようやくとどまった。
 
その被災面積は、約二一万五〇〇〇坪にわたり、本市街の八割を占め、失家屋は四一一九戸(復興事務所調では四二七三戸)、被災世帯は五〇五七世帯(市厚生課調では四〇九九世帯)、被災人員は一万九三〇〇人(市厚生課調では一万六一五人人)の多きに達し、死者も一〇九人に上った。
 
焼失した主な建物は、気比神宮・敦賀駅・敦賀高等女学校・敦賀中学校など表1に挙げたよう多数に上るが、空襲から逃れた建物には、市役所・敦賀商業学校・大和田銀行(現在の敦賀市歴史民俗資料館)・敦賀病院・敦賀郵便局・敦賀区裁判所などがあった。
 
<引用終わり>
 
これが、昭和20(1945)年7月12日にあった、「敦賀空襲」の記録。
 
この空襲によって、敦賀は市街地の大半が焦土と化したほか、7月30日、8月8日※にも続けて戦火に見舞われ、これら3回の空襲によって、225柱もの尊い命が失われました。
 
※8月8日午前9時頃、B-29が敦賀に投下したのは長崎に投下した原子爆弾と同型の模擬爆弾(通称パンプキン)
 
敦賀市では昨日、3回の空襲によって失われた尊い命225柱、そして、日清戦争から太平洋戦争にかけて、戦地などで亡くなった敦賀市出身者1,764人の計1,989柱の戦没者と戦災死没者を追悼するため、ご遺族を始め多くの関係者が参列のもと、厳かな雰囲気のもと「敦賀市戦没者戦災死没者追悼式」が挙行されました。
 
私は議員の立場としてお招きいただき、献花により、心よりご冥福をお祈り申し上げた次第です。
 

【1,989の御霊に心よりご冥福をお祈りいたします。】
 
また、昨日午後は、自身が事務局を務める気比史学会主催の第41期「敦賀市民歴史講座」を開催。
 
テーマは、「戦後80年」シリーズ(第1講)『敦賀空襲を伝え つなぐ』。
 
本講座は、先の大戦終結から80年を迎える節目の年にあたり、国民の大半が戦争を知らない世代となって久しい昨今、過去と現在、未来は地続きであり、検証を怠れば同じ惨禍が繰り返される。
 
時空を超えて、空襲の実相と戦後の歩みを記憶・継承することに努め、内外ともに重要な局面にある今こそ、歴史に向き合い学ぶことによって、将来に備えたいとの思いを込めて企画したものです(この日の講座は、敦賀市共催)。
 
会場のプラザ萬象小ホールに用意したお席200がほぼ満席。
 
多くの報道機関の皆様にもお越しいただき、関心高くお集まりいただいたことに、主催者として嬉しく、また感謝申し上げた次第です。
 

【多くの聴講者、報道機関にお集まりいただいた会場(講演者は、高崎三蔵氏)】
 
講座『敦賀空襲を伝え つなぐ』は、以下の3部構成で進行。
 
◉基調講演「敦賀空襲の概要」
  講師:元県立敦賀高等学校教諭 木戸 聡氏
 
◉トークセッション
(1)証言「敦賀空襲」:高崎 三蔵氏
(2)『花の氷柱 〜いくさと青春〜』(故 真田正子氏著):朗読 人村 朱美氏(舞台俳優)
 

【言葉は不要。心で感じた人村さんの朗読。】
 
◉パネルディスカッション 『敦賀空襲を伝え つなぐ』
<パネラー>
 ・田代 章子氏(つるが女性史の会代表)
 ・桃井 泰人氏(日照山本勝寺住職)
 ・奥野 治樹氏(戦没者追悼敦賀市民の会 副会長)
 ・木戸 聡氏、高崎 三蔵氏、人村 朱美氏
 ・糀谷 好晃(気比史学会 会長)
<司会> 高早 恵美氏(敦賀市立博物館副館長)
 

【パネルディスカッションの様子】

【貴重なお話をいただいた6名のパネラーの皆さん】
 
木戸さんからは、研究から得た資料やデータをもとにした敦賀に関わる戦争の惨禍について、戦争を実体験された高崎さん、田代さんからは、リアルな戦争体験と敦賀空襲の実相を、人村さんからは朗読から浮かぶ戦争の悲惨さ、桃井さんと奥野さんからは、まさに今日のテーマである、次代へどう継承していくかの視点から、それぞれ貴重なお話を伺った次第です。
 
※気比史学会では、本講座を記録化した冊子を作成する予定です。
 
なお、奥野さんが副会長を務める「戦没者追悼敦賀市民の会」は、太平洋戦争の戦没者の妻子らでつくる「敦賀市遺族連合会」と戦没者の孫やひ孫世代、一般市民でつくる「敦賀市遺族次世代の会」とが組織統合し、名称を変えたもの。
 
従来の会員に加え、市民の誰でも入会資格を持つ団体として、戦争の悲惨さや平和の尊さを語り継いでいくとしています。
 
こうして、午前中の追悼式、そして午後の講座を終えあらためて、戦争の悲惨さと敦賀空襲の実相を思い返すとともに、今の私たちがこうして平和に暮らしていることは決して当たり前ではないことを深く胸に刻んだところです。
 
先の大戦終結から80年を迎える現在では、戦争を知らない割合が9割を超えたそう。
 
平和を希求することは簡単なことですが、戦争の悲惨さや恐ろしさを忘れてはならないことはもちろんのこと、国を守るため犠牲となった英霊の存在があって、この平和があることを忘れてはなりません。
 
そうした意味からも、貴重な機会に触れた者の使命は、これらを風化させぬよう伝えていくことにあると思い、本日ご紹介した次第。
 
皆様におかれましてもぜひ、今一度、80年前にあった出来事を思い返していただけますようお願いいたします。

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