2024年8月12日
オリンピック ブログ 人生観
17日間に亘り熱戦が繰り広げられたパリ五輪が昨日閉幕。
今大会での日本選手団の活躍は目覚ましく、獲得した金メダル数20個は海外開催では最多、メダル総数45個も同じく最多記録で、とりわけ金メダル獲得数は、米中(ともに40)に次ぎ第3位という成績を誇らしく思う次第です。
時差の関係から、決勝種目がほぼ夜中であったため、ハイライトで感激を味わうことが多かった訳ですが、それでも満面に広がる選手達の笑み、嬉し涙や悔し涙など、印象的なシーンがいくつも浮かぶところ。
私にとって、何と言っても印象に残るのは、2大会連続の兄弟金メダルを狙った女子柔道の阿部詩選手。
まさかの2回戦負けに、日本全体が落胆しましたが、畳を降りた後、泣き叫ぶかの如く号泣したことに対し、武道家として人前で泣くのはみっともないなどと非難、SNSなどでは誹謗中傷まで起きる騒ぎに。
私もこれまで、野球や陸上の大会で敗れ、嗚咽するほどの悔し涙を流した経験がありますが、そのことは自分が何かに一所懸命取り組んだことの裏返しであり、3年前に世界の頂上に立ち、連覇を達成するこの日のために、地獄のような練習に打ち込み続け、それが報われなかった詩選手の思いたるや、常人には計り知れないこと。
会場全体が「詩コール」で励ましのエールを送るなか、日本人が号泣したことを責めることに、私は理解できませんでした。
一方、勝者の笑みを挙げればキリがありませんが、史上初という観点から、陸上女子のフィールド競技で金メダルを奪った、やり投げの北口榛花選手。
圧倒的な力、そして明るい笑顔が持ち味の北口選手ですが、X(旧ツイッター)の五輪日本語公式アカウントが投稿した写真が「奇跡の一枚」と反響を呼んでいます。

【五輪日本語公式アカウントが投稿した北口選手の写真】
ご覧いただくよう、優勝を決めた北口選手が大きな日の丸を背に掲げたものですが、風になびいた日の丸が偶然、ハートマークのように写っており、この投稿は10時間で300万回近く表示(先ほど見ると430万回)されたとのこと。
日本の金メダルを契機に、どこか、世界中に幸せを届けているような気持ちになったところです。
また、メダルには届かずとも、納得の行く入賞を果たしたのは男女のマラソン。
男子では赤崎暁選手が、女子では鈴木優花選手がともに6位入賞を果たしました。
両選手とも、並みいる海外勢を相手に、しかもこれまでで最もタフと言われる「激坂」のコースで見せ場たっぷりの走りを見せ、ゴール後、赤崎選手は「人生で一番楽しいレースだった」、鈴木選手は「皆さんに感謝の気持ちを伝えたい。本当に楽しい五輪だった」と見せた笑顔は最高に輝いていました。
なお赤崎選手は、大学時代に箱根駅伝に出場するも最高順位は区間9位。
その時の「不完全燃焼」がここに至るまでの原動力とあり、挫折や悔しさが人を強く、成長させることを、赤崎選手の生き様から改めて感じた次第です。
思えば、無観客開催を強いられた「東京」から3年。
パリ五輪では満員のスタンドからの応援が選手の背中を押しました。
なお、閉会式を前に選手の入場を伝える、Xの五輪日本語公式アカウントにはこうありました。
「国境・競争を越えて友情を育み、素晴らしい努力、諦めない姿を通して、私たちにたくさんの感動を与えてくれた選手たちの入場です」
私の思いもまさに、この言葉に込められています。
パリ五輪に出場されたすべての選手の皆さん、そして大会を支えていただいた関係者、ボランティアの皆様、大変お疲れ様でした。
そして、多くの感動をいただいたことに感謝申し上げます。

【4年後はロスアンゼルスで(閉会式の様子を伝える五輪日本語公式アカウントのXより)】
2024年8月11日
ブログ 敦賀の自然
昨日のブログでは、関西敦賀交流人会、東京敦賀人会、東海敦賀人会「一斉帰郷歓迎行事」のことをご紹介しましたが、わが家の長女も同じく帰省。
この三連休とテレワーク、休暇を合わせ、約1週間の帰省となりますが、暫しゆったり過ごして欲しいと思います。
なお、敢えて「帰郷」と「帰省」を使い分けていますが、「帰郷」は文字通り「生まれ育った土地へ帰ること」、「帰省」は「夏期休暇などに、故郷に帰ること」、「故郷に帰り父母の安否を問うこと」と意味に違いがあり、帰る場所も「帰郷」は「故郷」であるのに対し、「帰省」は「父母兄弟などがいるところ」となっています。
ついては、ここではそれぞれの意味合いに応じ使用していますことご理解いただければと(こう書いてますが、実は勉強になりました)。
話しを戻し、昨日お昼前、敦賀駅前(まちなみ口)に行くと、帰省の親子連れやお迎え、観光客でかなりの人出。
テレビでも紹介されたお店には長蛇の列と、大変な賑わいと活気を感じたところ。
お盆の帰省で、初めて北陸新幹線を利用という方もいらっしゃるかと思いますが、まちの変化も感じていただきながら、ひとつでも多く、故郷で夏の思い出をつくっていただければ幸いです。
さて、お盆に合わせた帰郷や帰省とはまた意味合いが異なりますが、ちょうど時を同じくして敦賀に「寄港」したのが、練習帆船「海王丸」。
「海の貴婦人」と呼ばれる海王丸は、独立行政法人 海技教育機構(存在を初めて知りました)のホームページによれば、1989年、海王丸は59年間にわたって海の若人を育ててきた初代海王丸の代替船として建造。
初代海王丸は鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」の遭難を契機として、1930年に日本丸とともに建造され、当時の田中隆三文部大臣の「日本の海の王者にふさわしい船にしたい」という我が国の海運に寄せる期待を込めて「海王丸」と命名。
引退までの59年余りにわたって実習訓練を行い、正確な記録の残る昭和27年(1952年)4月1日以降でも189次の航海を行い、7,708名の実習生を育て、約146万kmの航海を完遂しました。
老朽化には勝てず、1974年以降は遠洋航海の規模を縮小するなどの応急的な航海を続けていましたが、船員教育訓練とあわせて「青少年のための海洋教室や体験航海」にも利用するものとして、国の補助金、財団法人日本船舶振興会(現・日本財団)補助金、一般からの寄付金及び銀行借入金とし、財団法人練習船教育後援会(現財団法人海技教育財団)が海王丸代船を建造したとありました。
9日(金)に敦賀港の川崎・松栄岸壁に寄港した「海王丸」ですが、ちょうど7日(水)朝、名子で辻立ちをしていると、既に湾内に佇む優雅な姿を発見し、感嘆の声を挙げたところ。

【名子のヨットハーバー前から見た「海王丸」】
本日10日は、午前9時から午前11時30分まで、午後1時から午後4時までに分けて、一般公開が行われます。
岸壁へ自家用車での直接の乗り入れや徒歩での来場はできず、受付会場の「敦賀市民文化センター」で受付を済ませた後、シャトルバスで受付会場から一般公開会場まで移動となることをご留意いただきたく存じますが、滅多とない機会ですので、足を運んでいただければと思います。
なお、詳細なご案内については、以下の敦賀市ホームページをご覧ください。
→練習帆船「海王丸」一般公開のお知らせはコチラから
「海の貴婦人」が、こうして夏の敦賀港に寄港されたことは大変嬉しいこと。
心より歓迎するとともに、今後の安全な航海と海の若人の育成に寄与されますことご祈念いたします。
2024年8月10日
ブログ 敦賀の歴史・文化 活動報告
「二足の草鞋(わらじ)を履く」とは、元々、江戸時代に博徒が十手を預かり、賭博などを取り締まる捕吏をも兼ねたことを言い、両立し得ないような二つの職業を同一人が兼ねることを意味するもの。
「両立し得ない」というとオーバーなのですが、昨日の私は気比史学会の事務局長と市議会副議長の「二足の草鞋」にて、関西敦賀交流人会、東京敦賀人会、東海敦賀人会の「一斉帰郷歓迎行事」に出席しました。
敦賀市では、敦賀にゆかりのある方々で構成された3つの会の皆さんが年に一度、日にちを合わせて「一斉帰郷」される行事を毎年続けられており、関係者であたたかくこれをお迎えしているところ。
今回は、「一斉帰郷」のイベントとして、気比史学会が「ミニ歴史講座」のオファーをいただき、糀谷好晃会長とともに対応するとともに、歓迎昼食会には敦賀市議会の正副議長がお招きいただき、これに出席した次第。
まずは、北陸新幹線が開業したことにより、東京からは「かがやき」、関西からは「サンダーバード」、東海からは「しらさぎ」と、三者三様のルートで結節点の敦賀に帰郷されたことに、改めて交通の要衝であることを感じつつ、遅延なく無事に到着されたことに安堵したところ。
到着後、プラザ萬象の会議室で開催した「ミニ歴史講座」では、5月のNHK大河ドラマ「光る君へ」(越前編)パブリックビューイングに併せて行った「平安時代の敦賀」をややアレンジ。
講師に糀谷会長、私はパソコン操作のアシスタント役で約40分間お話ししました。
大河ドラマにも登場した「松原客館」や「深坂古道」を中心に、敦賀の歴史をご紹介しましたが、皆さん熱心に聞いていただくとともに、終了後には「こんな歴史がある、すごいまちだと知れて良かった」との感想もいただき嬉しい限り。

【ミニ歴史講座の様子。講師は糀谷会長、前列右端が私。】
ご一行様はその後、氣比神宮を参拝され、歓迎昼食会場の「リラ・ポート」へ。
敦賀市からは、市長を始め副市長、教育長、議会からは正副議長、商工会議所会頭、各高校の校長先生に同窓会・OB会長までが参加をし、敦賀市内を一望できるロケーションのもと、「お帰りなさい」とテーブルを囲みました。
そして何と、偶然テーブルの対面に座った彼は、中学時代からの同級生。
何とも嬉しい再会に感激した次第です。

【歓迎昼食会場の様子。窓から見えるのは新幹線駅や敦賀湾。】
この歓迎昼食会。
お伺いするに、以前は常宮神社で敦賀市の職員さん達が自ら料理を奮っていたそうで、昨日も部長以下、総務部の多くの方々が対応される姿を拝見するに、各方面で活躍され、敦賀に対し応援やご支援をいただいている郷土出身の皆さんへの敬意、感謝の念が表れているものと感じた次第です。
議長と私は次の公務のため、後ろ髪を引かれる思いで途中退席しましたが、今日からの3連休に続き、来週はお盆。
暫し、郷土の空気をゆっくり味わっていただければ幸いに思います。
なお、公務のほうは、福井市役所で開催の「福井県市議会議長会 令和6年8月定期総会」。
議案として、それぞれの課題を踏まえた、各市からの要望事項を承認した後、県や中央要望活動について確認しました。

【福井市議会 全員協議会室で開催された「福井県市議会議長会」の様子】
各市の要望事項を拝見するに、まさに地域の課題解消、発展に向けたものばかり(当たり前ですが)。
敦賀市議会からは、「北陸新幹線の整備促進」と「原子力政策と原子力発電所立地地域の安全確保」の2件を挙げましたが、両件ともまさに「郷土の発展」に資するもの。
先の敦賀交流人会、敦賀人会の皆さんからあった「郷土に対する期待」も胸に置き、その実現に向け私も、微力ながら尽力する思いであります。
2024年8月9日
ブログ 敦賀の歴史・文化
広島に続き、長崎に原爆が投下されて今日で79年。
長崎市の平和公園では、「長崎を最後の被爆地に」という願いを込め、午前10時45分から平和祈念式典が行われ、この1年間に亡くなった被爆者など合わせて3200人の名前が書き加えられた19万8785人の原爆死没者名簿が「奉安箱」に納められるとともに、原爆が投下された午前11時2分には黙とうを捧げ、犠牲者を追悼します。
緊迫化する国際情勢に加え、核兵器の脅威が高まるなか、被爆地・長崎から国内外に「核兵器廃絶」と「恒久平和」を発信するとの一方、長崎市は、今年の平和祈念式典でイスラエルの駐日大使を招待せず、これに対し日本を除くG7各国の駐日大使らが式典への参加見合わせを表明する事態となっています。
まさに理想と現実を突き付けられている思いでありますが、8月6日にも述べたよう、世界で唯一の戦争被爆国として、核保有国と非保有国、あるいは世界平和の架け橋、橋渡し役ができるのは日本であり、まっすぐにその役割を果たしていかねばと、思いを強める次第です。
また、決して忘れてならないのは、長崎への原爆投下前日の昭和20(1945)年8日8日午前9時頃、アメリカ軍が原爆投下の訓練のため、敦賀市の東洋紡(当時は東洋紡績)に爆弾を投下し、動員されていた学生ら33人が犠牲となってからも同じく79年を迎えたこと。
なお、B-29爆撃機が敦賀に投下したのは、長崎に投下した原子爆弾と同型の模擬爆弾(通称パンプキン)。
同年7月12日、7月30日の敦賀空襲に続いて被害のあったこの空襲に関し、「敦賀市史」通史編(下巻)第四節 三.敦賀大空襲では、当時の状況を以下のように記録しています。
<以下、「敦賀市史」を引用>
(7月30日の空襲に)ついで、八月八日午前九時ごろ、空襲警報が発令され、市民は防空壕に退避した。まもなくB29が単機敦賀上空に現われ、一旋回して低空飛行の態勢で東洋紡績工場に爆弾を投下し、そのまま南方に飛び去った。この爆弾は、東洋紡の捲糸室に命中し、火災となった。また隣接していた紡糸室と事務所の一部とが爆風のために破壊された。この爆撃で、工員一五名、動員学徒一六名、引率教員二名の命が失われた。
こうしたなかで敦賀は、八月十五日の敗戦の日を迎えるのである。なおこの項の記述にあたっては、多く『敦賀市戦災復興史』の記述を利用させていただいた。
(引用終わり)

【模擬原爆の被害にあった東洋紡工場の様子(NHK 福井放送局WEBより引用)】
昨日は、犠牲者の位牌がある市内の永建寺で法要が行われ、参列されたご遺族や工場の関係者など合わせて14人が、若くして亡くなった犠牲者を悼まれましたが、空襲のあった午前9時には、私も同じ思いで静かに手を合わせたところ。
なお、私は以前に、東洋紡敦賀工場にお伺いし、保存されてる当時の資料を拝見させていただきましたが、79年前にあった史実を目の当たりにするとともに、突然若き命を奪われた方々の無念、そして長崎の予行演習とばかりに模擬爆弾を投下したその行為に怒りを覚えました。
無念と怒り、このようなことを二度と繰り返してはならないとの思いが、恒久平和を希求することにつながるのだと思いますが、本日行われる長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に合わせ、哀悼とそうした願いも込めて、今日も静かに手を合わせたいと思います。
2024年8月8日
ブログ 敦賀の自然
今や死語になっているかもしれませんが、テレビの「ゴールデンタイム」とは、1日のうち特に視聴者の多い時間帯である「プライムタイム」と呼ばれる19~23時のうち、19~22時の時間帯の俗称。
視聴率を時間区分別に見る時に使われるテレビ広告用語だそうですが、ここ最近は只でさえ、パリ五輪にプロ野球とチャンネルが重なるところ、「夏の甲子園」まで重なることに。
今大会は暑熱対策として、試合を午前と夕方に分ける「朝夕2部制」を一部に導入。
1日3試合を行う第1日から第3日まで実施するとなったことによるものですが、こうなるとわが家の「ゴールデンタイム」の優先順位は「高校野球」に(ご心配なく、意見は妻と合致しています)。
ナイター時間帯に行われた智弁学園vs岐阜城北の試合がまさに、「THE高校野球」を感じる試合で、結果、延長11回タイブレークの末、9―6で智弁学園が競り勝った訳ですが、こうしてスポーツ観戦を楽しめるのは幸せなこと。
なお、昨日の甲子園開会式での選手宣誓で引用された、イチローさん(元メジャーリーガー)の言葉は、「努力したとしても報われるとは限らない。しかし、努力しなければ報われることはない」。
野球のみならず、あらゆることに通ずることであり、人生観として胸に刻んだ次第です。
こうして、高校野球が始まると「夏真っ盛り」と思うところですが、昨日は「立秋」を迎え、暦の上ではこれから晩夏、季節は秋へと向かいます。
私の朝のルーティーンは、このブログを書くことと、きゅう(わが家のワンちゃん)の散歩に行くことですが、散歩は暑さを避け、5時台に歩くと、スジ雲やウロコ雲が広がる空に爽やかな風、稲穂を垂れつつある田んぼ、びゅんびゅんと飛び交うトンボと秋の気配を感じることができます。

【どこか秋の兆しを感じる、朝の散歩コース】
水曜日の昨日は名子での辻立ちのため、散歩の後は急ぎ支度をし、7時には家を出ましたが、このように肌感覚で暦(季節)を感じることはどこか風情があるもの。
今朝もそうしてルーティーンを終えましたが、「立秋」を境に暑さの表現は「残暑」に切り替わります。
日本特有の文化「暑中見舞い」も「残暑見舞い」に。
過ぎゆく夏というには早いのかもしれませんが、16日に行われる「とうろう流しと大花火大会」など、敦賀の夏の風物詩を味わいつつ、夏の余韻、移り行く季節を感じたいと思います。

【辻立ちの服装は「残暑」バージョン。体調管理に留意し、オールシーズン継続あるのみです。】
2024年8月7日
ブログ 政治
「静謐(セイヒツ)」とは、静かで落ち着いていること、世の中が穏やかに治まっていることを意味します。
昨日の広島平和記念式典ではまさに、この「静謐」の環境を望み執り行われたところ、こども代表の二人が堂々と、まっすぐ前を見つめ「平和の誓い」を述べた後、聞こえてきたのは拡声器(シュプレヒコール)の音。
式典前日の夜から原爆ドーム前で座り込みを続けてきたメンバーが、広島市職員が午前5時前から公園外への移動を要請しても拒否。
腕を組みながら「集会弾圧を許さないぞ」「帰れ、帰れ」などとシュプレヒコールし、公園内には怒号が響き渡り続けたとのことで、聞こえてきた音は彼等が発していたもの。
反戦や核兵器廃絶を日本から世界に強く訴えたいのであれば、それは騒音ではなく、この世のものとは思えないくらいの静寂こそ強いメッセージになると言った方がいましたが、まさにその通り。
式典を台無しにするかのこうした行為は、本当に腹立たしくも残念であり、来年こそは静寂から生まれる静謐の中で、式典が開催されることを希求するものであります。
さて、話しは変わり、静謐とは逆に、まるでジェットコースターの如く乱高下する日経平均株価。
一昨日、前日の4451円安という、ブラックマンデーを上回る過去最大の大暴落から、一夜明けた6日は過去最大の上げ幅で、歴史的な急伸となりました。
これに関しては、ちょうど1年前に、財務官僚出身でもある国民民主党の玉木雄一郎代表が、「賃金デフレ脱却を最優先にせよ。その前に増税も引き締めはダメ。」と言っていましたが、日銀の利上げで想定通りの結果になったことを踏まえ、5日には、「言いたいことはこれ。ずっと同じことを言っています。(利上げは)もう少し待つべきでした。」と指摘しています。
もちろん私は専門家ではないので、自論を展開するまでもありませんが、玉木代表は昨日、続けてX(旧Twitter)に次のように投稿しています。
<以下、玉木代表のXポスト引用>
昨日は、まさにブラックマンデー(アゲイン)でした。
ただ、株価収益率(PER)を見ても、かつてのバブル期とは比べ物にならないくらい低い(割高感はない)ので、今日あたりは、さすがに反発する可能性も高く、推移を見守る必要があります。
ポイントは金利や株価の変動が、実体経済、とりわけ弱ぶくんでいる消費や、まだ浸透が弱い中小企業の賃上げにどのような悪影響を及ぼすか慎重に見極めることです。
ゼロゼロ融資の返済や最賃(最低賃金のこと)の引き上げに、追加の金利上昇や景気後退が加われば、中小企業の賃上げは無理です。
政府・日銀は、30年ぶりに生まれた賃上げのモメンタムを失わせるような政策ではなく、後押しする政策を徹底すべきです。デフレ(マインド)はしつこいので、政策的にも、ある意味「忍耐」が必要です。
ここで失敗すると「失われた30年」が、「失われた半世紀」になってしまいます。
米国経済の減速と利下げ観測でドル円はドル安(円高)に修正されていくでしょうから、金融政策が過度に為替を意識する必要はありませんし、そもそも為替の変動を目的に金融政策をやるべきではありません。
植田総裁がかつて強調したように、賃上げの動向、特に、中小企業の賃上げ動向に着目した金融政策に立ち戻ることを期待します。
その意味で、今回の利上げは早過ぎたし、特に、会見で出した金利を「上げ続ける」とのメッセージは過度にタカ派的過ぎました。
<引用終わり>
また、この後のポストでは、
「結局、問題は賃金なのです。今は物価を無理に下げるデフレ政策より、とにかく名目賃金が伸びる政策を全てやり尽くして、実質賃金が安定的にプラスになる状態を作り出すことが最優先。賃金デフレの反転こそが日本経済の最大の課題であり、追加の利上げはもう少し待つべき。」
とも。
厚生労働省「毎月勤労統計調査」で、今年6月の働く人1人当たりの基本給やボーナスなどを合わせた現金給与の総額は、前の年の同じ月と比べて4.5%増加し、およそ27年ぶりの高い伸び率となり、物価を反映した実質賃金も27か月ぶりにプラスに転じました。

【NHK NEWS WEBより引用】
玉木代表が言うよう、ここは「忍耐」、ガマンの時。
持続的な実質賃金上昇に支えられてこそ「真のデフレ脱却」と思い、今後の金融・経済政策に注視する所存です。
なお、2年前に国民民主党が「給料が上がる経済の実現」を唱えた際、他党の皆さんは、「給料のことは労使の問題だ」と鼻で笑っていましたが、今はどうでしょう。
政府も躍起になって「賃上げ、賃上げ」と叫ぶ姿に、日本の政策をリードしているのが実は、国民民主党であることをお分かりいただけるのではないでしょうか。
2024年8月6日
ブログ 原子力 政治
ここ最近は、敦賀発電所2号機(以下、敦賀2号)の話題を続けていますが、関連して投稿した自身のX(旧Twitter)には「日本のために頑張れ」とのコメントなど、日本原電を応援する声、あるいは原子力規制の在り方に疑問を呈す意見などをいただき、思いを共感いただいている方が多くいることを心強く思う限り。
その日本原電ですが、先週、原子力規制委員会が敦賀2号の再稼働に向けた審査を不合格とする手続きを進める判断を示したことについて、福井県と敦賀市に対し、正式に不合格となったとしても、追加の調査などを行って再稼働を目指す方針を伝えました。
5日、日本原電の坂井毅志敦賀事業本部長が県庁を訪れ、県の坂本裕一郎防災安全部長に審査状況などを説明。
坂井本部長は、「結果は非常に残念だが、引き続き稼働に向けて追加調査やデータの拡充などに取り組んでいく」と述べ、再稼働を目指す姿勢に変わりはないことを伝えるとともに、記者団から、審査が正式に不合格となった際は規制委員会に再び審査の申請を行うのか問われると、「規制委員会の判断が出たあとは再申請しか道はなくなるので、再申請を行って稼働を目指していく」と述べ、廃炉の考えはないことを重ねて示しました。
この後、敦賀市の池澤俊之副市長にも同様の考えを説明したとありましたが、敦賀2号の再稼働は、色々な意味で「日本のために」必要不可欠なこと。
「絶対に諦めることなく」再稼働に向け、自身の範囲で出来ることに最大限尽力する所存です。
さて、先の大戦後、「原子力の平和利用」の考えのもと進めてきたのが原子力発電ですが、一方、これとは真逆に、核兵器の恐ろしさ、悲惨さを決して忘れることのない、世界唯一の戦争被爆国となった「原爆の日」。
79年前の今日、大量破壊兵器である原子爆弾が、人類史上初めて広島に投下され、おびただしい命が一瞬にして失われました。
犠牲になられた皆様に心から哀悼の誠を捧げるとともに、今も癒える事のない苦しみを背負い続けられているご遺族の皆様、筆舌に尽くし難い苦悩の中を生きてこられた被爆者の皆様に、心からお見舞いを申し上げます。
核兵器のない世界を希求することは言うまでもないことでありますが、混沌とする世界にあって、ロシアによるウクライナへの侵略は2年半にも及び、イスラエルとイスラム原理主義組織ハマスの戦闘もやむ気配はなく、とりわけプーチン露大統領は、戦術核兵器の使用をちらつかせて恫喝を繰り返しています。
また、中国や北朝鮮は核・ミサイル戦力の強化に走っており、日本や世界は核の脅威にさらされている状況にあると言っても過言ではありません。
こうして核兵器使用の懸念が高まっていることはまさに脅威であり、非人道的な核兵器の惨禍を二度と繰り返してはなりません。
本日は、広島の地にて平和記念式典が執り行われますが、本年3月末時点の被爆者健康手帳を持つ被爆者の平均年齢は85.58歳になったとのこと。
この式典が、外乱なく厳粛に行われることはもとより、唯一の戦争被爆国として、高齢化が進む被爆者の体験や思い、核の惨禍を語り継ぎ、世界に「核兵器のない世界」を呼び掛ける場となることを切に望む次第です。
と同時に、核保有国と非保有国の橋渡し役をできるのは、世界で唯一「日本」であり、その役割をどのように果たしていくのか。
平和を希求するのみならず、現実的な解決手段を国民ひとり一人が考える。
「原爆の日」はそういった日でもあるべきと考える次第です。

【以前に訪れた「原爆ドーム」。象徴的なこの遺産から何を学び、何を感じるか。】
2024年8月5日
ブログ
水戸から敦賀まで、昨日は常磐線、東海道新幹線、北陸線と乗り継ぎ帰ってきましたが、最も暑く感じたのは東京駅のホーム。
強い日差しとコンクリートの蓄熱、そして何といっても夏休みの日曜日とあって、ホーム狭しとごった返す人の熱気がそう感じさせた訳ですが、連日「熱中症警戒アラート」が発表される中にあっても、賑わい変わらずの状況に驚いたところです。
そうしたなか、敦賀では今朝ほど雨がひと降り。
とりわけ、草木にとっては「恵みの雨」といったところで、雨露に濡れる花々が嬉しそうに映りましたが、まだまだ続く暑さにつき、こまめな水分補給と食事・睡眠時間の確保など熱中症対策に留意して、今週も頑張ってまいりましょう。
さて、暑い夏の風物詩の代名詞といえば、言わずと知れた「甲子園」。
8月7日に開幕を迎える第106回全国高校野球選手権大会は、既に組み合わせ抽選会が4日に行われ、2年連続5度目の出場となる北陸(福井)は大会6日目(12日)第4試合の2回戦で関東第一(東東京)と対戦することが決まりました。
出場ならなかった地元敦賀勢の分も、福井を代表する北陸高校の快進撃を期待するところですが、今年は試合時間を夕方以降に変更するなど、暑さ対策の試行も行われるとのこと。
夢舞台「甲子園」に立つ球児の皆さんにおかれましては、こちらも熱中症対策に留意されつつ、悔いなき熱き戦いを繰り広げていただきたくことを期待いたします。
また、今年は阪神甲子園球場が誕生から100周年を迎えるメモリアルイヤーとなっています。
新聞などでも100年前の甲子園球場の様子が掲載されていましたが、朝日新聞DIGITALでは、「3Dでよみがえる100年前の甲子園球場」と題し、甲子園球場にまつわるエピソードや、関連ニュースを紹介しています。

【「3Dでよみがえる100年前の甲子園球場」のページ(朝日新聞DIGITALより)】
私も早速見てみましたが、3Dは、1924年の建設当時の阪神甲子園球場を再現したCGモデルで、100年前のグラウンドに立つ感覚を体験できるとともに、当時の熱狂を物語る「球場トリビア」も掲載しており、思わず「ヘ〜」とトリビアを感じた(懐かしいですね)ところ。
ネタをいくつかご紹介しますと、
◉甲子園球場が建設された1924(大正13)年が「十干」と「十二支」の最初である「甲」と「子」が合わさる縁起のよい年だったため、球場付近一帯は「甲子園」、野球場は「甲子園大運動場」と命名された。
◉甲子園の完成時、外壁はコンクリートむきだしだった。それを手っ取り早く装飾できるとの理由で1924年冬ごろ、繁殖力の強いツタが植えられた。ツタは球場の外壁を覆い、甲子園球場のシンボルとなった。
◉甲子園球場の設計を担当したのは当時28歳、阪神電鉄入社2年目の技師、野田誠三だった。
などなど。
→「3Dでよみがえる100年前の甲子園球場」はこちらから
1世紀も存在する球場というだけで物凄いことと思いますが、こうして歴史と伝統を重ね、高校野球はもとよりプロ野球の開催を通じ、「甲子園球場」に詰まっているのは、汗と涙、感動とドラマ。
今年の高校野球は、こうした100年の歴史に思い馳せ、歴史の1ページを飾る好ゲーム、そして甲子園を通じて成長し、躍動する球児の姿を応援したいと思います。
2024年8月3日
ブログ 原子力
熱狂のパリ五輪では、栄光を勝ち奪った日本人選手がいる一方、惜しくも涙を飲んだ選手も。
とりわけ、柔道男子60キロ級の永山選手を始め、いわゆる「疑惑の判定」で敗れた選手の無念たるや想像に耐え難いものがある訳ですが、今の私の心境もこれに比するもの。
原子力規制委員会(以下、規制委)は2日、日本原子力発電(以下、日本原電)が再稼働をめざす敦賀発電所2号機(以下、敦賀2号)について、原子力発電所の安全基準を定めた新規制基準に適合せず、審査不合格とする結果をまとめた審査書案の作成を事務局の原子力規制庁に指示しました。
これに先立ち行われた「臨時会議」の場で、日本原電の村松社長からは、K断層の活動性及び連続性に係る基準適合性の確認結果を精査し、社外の技術者も加えた専門チームを交えて検討している追加調査内容について説明するとともに、具体的な追加調査の計画がまとまり次第、あらためて説明のうえ、昨年8月末に提出した敦賀2号の原子炉設置変更許可申請の補正書の「再補正」をしたい旨、意見。
また、具体的な追加調査計画については、今後2ヶ月程度を目途に正式に示したい、これらの追加調査に必要な期間については、1年以上必要と推察していることも明らかにしたものの、規制委側はこれらを受け入れることなく。
その後開かれた規制委にて、前述の方針を示した形となりました。
7月31日の規制委の会見で山中委員長は、「立論の方法を変更しなければ当然、我々審査チームの否定を覆すことはできないというふうに考えておりますし。その期間が極めて短いものであるならば、(再補正の)可能性としてはないことはございませんけれども(以降省略)」との考えを示していましたが、①立論の方法を変更してもダメ、②期間を示してもダメな結果となり、一体この「臨時会議」(日本原電社長との意見交換)の意味は何だったのかと忸怩たる思いが募った次第です。
この結果を受け、日本原電はコメントを発出しており、「審査書案を取り纏めることが指示されたことは、大変残念であります。」としつつ、「当社としては、敦賀2号の稼働に向けて、追加調査やデータの拡充等に取り組むとともに、今後の対応について検討してまいります。」としています。
→日本原電プレスリリース「敦賀発電所2号機の新規制基準適合性審査に係る原子力規制委員会の方針について」はこちら
労働組合側も会社側の考えを踏まえつつ、「敦賀2号は、電力の安定供給や温暖化対策などの観点で、必要不可欠な電源であるとの認識にいささかも変わりはなく、引き続き働く者の立場で安全性確保を前提に再稼働を目指すべく、諸活動に取り組んでまいります。」とのスタンスを示しています。
冒頭の五輪で、「疑惑」であろうが「不可解」であろうが、判定は判定として受け入れ、4年後に向け「この経験を次に生かす」と力を込める永山選手の姿がありましたが、日本原電においても同様、「可能性を否定できない」、「不確かさがある」との判定を、誰がどう見ても納得する「一本」で、覆していただくことを切に切に期待する次第です。
結びに、「臨時会議」である委員が事業者に対して言った「勝算はあるのか」との言葉。
「ある」と言っても答えは変わらないばかりか、そもそも審査の場で「勝算」(勝ち負けなのか)との言葉を使うこと、さらには当然、事業者は認可をもらうために申請(再補正含む)、審査に臨んでいる訳であり、認可する側の規制委が被規制側の事業者に対して絶対に言ってはならないことだと私は思います。
この言葉にも表れるかの、一連の敦賀2号審査に対する数々の思い。
絶対に忘れません。

【愛するマイプラント「敦賀2号」。時間が掛かろうと、原子力発電で社会に貢献するとの思いは不変。】
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