誇りある我が国「日本」に相応しき憲法に

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昭和から平成、そして令和へ。
神武天皇から続く万世一系により統治・継承される我が国の体は、今上天皇にて126代を数え、二千年もの間、権威と権力とを分離し、独自の文化を有し、祭祀王を持つ世界で唯一の国「日本」に生まれ育ったことを誇りに思う。
私は、二度の時代の移り変わりを経験することになった訳であるが、古から刻まれた歴史と先人たちの命と思いのもとに今があるとの認識に立てば、国民のひとりとして、次代に歴史を引き継ぐ一員として重い責任を感じざるを得ない。
 
そのような中、ある研修機関において課題図書レポート作成の機会を得た。
4つの指定テキストを眼の前にし、私は、国家の根幹であり道標となる「憲法」についての思考を整理すべく、迷うことなく「新しい日本の憲法像」を選択した。
 
以前に拝読した「国民の憲法」(産経新聞社)。
「歴史、伝統、文化を破壊された屈辱感、という一言に尽きる」との起草委員会委員長である田久保忠衛氏の言葉で始まる序文は衝撃的であった。
また、日本国憲法草案(GHQ案)提示の際には「我々はいま、原子エネルギーの暖を楽しんでいる」と被ばく地の悲惨ささえ嘲笑うかのような態度のうえで、「案を受け入れれば天皇の地位は安泰だ」など強迫的な説明を受けた、当時の吉田茂外相の無念を今の日本人は想像できるだろうかとの問いに、あるのは忸怩たる思いのもと平伏すしかなすすべなく受け入れたこの憲法を「いつか真に我が国のものにする」との思いしか浮かび得ない。
 

 
しかしながら、戦勝国であるGHQマッカーサーが「日本を骨抜き」にするため敗戦国に押し付けた「日本国憲法」という認識や背景など学校教育では到底教えられることもないことから、実際、「非戦」を誓った憲法9条の存在を「世界に誇る平和憲法」だと称賛し、改憲論議に触れることにさえ強烈なアレルギー反応を示す国民が多いことに背筋が凍る思いとともに、国家存亡の危機すら感じるところである。
 

そのような思いのもと読み進めた「新しい日本の憲法像」。
やはり、歴史の転換期から学ぶべく、「大日本帝国憲法(以下、明治憲法)」から読み解くことは、現憲法との違いを明確にするためにも大変有意義であった。
 
「国会開設の勅諭」から8年4ヶ月の長きに亘る調査検討を経て、アジアで初の近代的成文憲法が制定されたのは1889年2月。英国の「ザ・タイムス」が明治天皇を「東洋における最初の立憲国の君主」と称賛したように、明治日本の最も大きな事跡の一つが憲法の制定であったことは明白であり納得するところである。
 
これを表すかの如く、明治憲法の発布に際しては、帝国大学の教職員・学生が、国家の一大盛儀に際し、青山に行幸される明治天皇にお祝いの気持ちを表すために、「万歳」を皇居外苑で三唱したことが、我が国における「万歳三唱」の起源となったことや酒屋の小僧や八百屋の御用聞きまでもが事前にこれを知って、往来で盛んに唱えたとのエピソードは、この憲法に寄せる国民の期待や心情の高まりが目に浮かぶようであった。
 
三権分立こそ制度として十分なものでなかったにせよ、紛れもなき法治国家の体を成し、現憲法下の一次元的法体系とは異なり、憲法と皇室典範の二元法的体系であったことにより、国務と宮務が明確に区分されたことは、日本の伝統と歴史に則った自主独立性ある憲法であったものと理解する。
既に憲法政治を行なってきていた先進諸国からすれば、至らぬ懸念だらけであったかもしれないが、徹頭徹尾、日本人自身の手で作られた紛れもなき、近代日本の幕開けに相応しい憲法であったことを誇りに思うものである。
 
その後、わずか四半世紀足らずの間に、国家体制、産業育成、教育の普及、軍隊の建設など、近代国家として革命的な体制変更を成し遂げたことは、国民がこの憲法制定を時代の転換点と理解し、新たに進むべき「国家」としてのありようや覚悟なるものを抱いたからに他ならないものと考える。
 
これに較べ、冒頭述べた先人たちの「屈辱」の思いのもとに存在する「日本国憲法」。
現憲法は昭和22年の施行から75年を迎え、施行以来、一度も改正されていない世界で「最も古い」憲法となっている。
「世界に誇る平和憲法の改憲は許さない」として、とりわけ九条に関しては「憲法を改正して戦争できる国にしようとしている」などとし、憲法改正自体が「悪」、死守すべきものは「平和と命」と掲げ、必死な勢力もあるが、一体国民はどう見ているのだろうか。
 
憲法像にはこうある。
我が国の憲法第三章は「国民の権利及び義務」について規定しているものの、そのほとんどは権利に関するものである。義務は教育、勤労、納税だけであり、あまりにも権利過剰、義務軽視と言わねばならない。
他国の憲法で規定している国家への忠誠義務、兵役の義務はない。ちなみに、人民の諸権利保証を強調したルソーでさえ、「市民は、主権者が求めれば、彼が国家になし得る限りの奉仕を、直ちにする義務がある」「すべての人は、必要とあれば祖国のために戦わなくてはならない」と強調している。
即ち、自分の国は自分たちで守るとする「個別自衛権」は、憲法に記載があるなし以前の問題で、国家に属するものとして当然のこと。そのうえであるのが「集団的自衛権」であり、ルソーの言葉にあるように「祖国のために戦う気持ち」無くして、国家は成り立つはずもない。
ましてや、米ソ冷戦下の時代にあっては、両大国が緊張の中にあったことにより、東西それぞれに監視の目が行き届く「世界の警察」的役割をしていた恩恵を受けていられたかもしれないが、冷戦が終焉を迎えて以降の内外情勢の大きな変化の中にあって、日本はいつまでも、有事に守ってくれるかの保証もない米国の傘の下に安堵していて良いのだろうか。
 
昨今の自衛隊空自のスクランブル発進回数の増加に示される通り、北から南まで日本列島周辺はロシア・中国軍機に舐めまわされていることを始め、実効支配されつつある尖閣諸島、竹島の問題、不安定な朝鮮半島、中東情勢の緊迫など、緊張感こそ増せど安堵できる状況はひと時たりともないと認識すべきである。
このような我が国を取り巻く安全保障情勢にあって「憲法九条があれば平和は維持できる」などと「お花畑」の主張をしていては、真に現憲法を絶対視したままで時代の荒波を乗り切っていけることが出来るのかを、主権者である国民が憲法のあり方について判断していくことが求められていると考える。
 
九条に代表される改憲論であるが、最も重要なのは、冒頭に述べた万世一系で続く天皇制の問題。
本著によれば、天皇が対外的にも国内的にも元首であることは疑うべきもないとしているにも関わらず、「天皇は元首である」との明文の規定がないことに対し、早急に条文の改正を講ずるべきとしている。
令和の時代に入ってからの皇位継承に関する即位の礼など、厳かな雰囲気の中、各国の要人が集っての一連の儀式を見るに、天皇の存在を国民は尊厳の念をもってあたたかく祝福していると受け止められる。
聖徳太子の時代から一貫して用いられる「天皇」の存在を今一度明確にし、国事行為や皇室関係法令の不備を一つづつ丁寧に見直していくことが大変重要であると考える。
 
本著に記されているよう、国家と宗教、統治機構の問題などに関しては、時代を経て変化する構造的な部分を反映していく必要がある。
 
新たな時代に入り、先の大戦の惨禍と自虐史観から脱却しつつ、過去の歴史とこれからの未来を重ね合わせ、まずは日本人らしさとは何なのかを今一度見つめ直すこと、世界の大国となった「日本」、他文化や宗教を受け入れられる寛容な心を持った「日本」が、これから国際的に何をどう貢献していくのか、世界の中でどのような役割を果たしていくのかの視点のもと、「日本人であることに誇りを持って」憲法改憲に向けた国民議論が巻き起ることこそが、戦後75年を経て真に新たな歩みを踏み出す一歩になるものと考える。
 
当然、制定から初の改憲は政党間、国民の間でも議論が別れ、ぶつかり合うことは必至であり、当然のこと。大日本帝国憲法により近代日本の礎が築かれ、目覚ましい国家の発展を遂げたことを思い出し、この改憲論議が、閉塞する日本社会の将来に光を見出す機会となるよう、私自身もその覚悟と信念のもと、真正面から論戦できるだけの考えを持ち、議論に参画していきたい。