文化と歴史をつなぐ大切さ 〜今年度の市民歴史講座を終えて〜

ブログ 敦賀の歴史・文化

「愛発の関、松原客館、金ヶ崎城など、日本史を動かした敦賀の史跡は歴史的魅力である」との講師のお言葉から始まった、昨日の市民歴史講座。
 
昨日は、今年度最後の市民歴史講座が市立図書館研修ホールにて開催され、受講してまいりました。
 
この日は、講師に元福井県埋蔵文化財調査センター所長の山口充先生をお招きし、「元亀争乱から450年 〜元亀争乱と越前朝倉攻め〜」をテーマに、南北朝、戦国時代の戦いの舞台「金ヶ崎城」を巡る史実、最後は朝倉義景軍vs織田信長軍の戦い「元亀争乱」により陥落したことなど興味深く聴講。
 
新型コロナ対策により、通常100人定員を半分の50人に減員しての開催となりましたが、早々に定員を満たした会場の皆さんも熱心に聞かれていました。
 

 
この市民歴史講座については、これまでも概略メモ形式にて書き留めてきていることから、今回も以下に少々書き置かせていただきます。
 
【山口先生のお話しから】
◉敦賀の歴史的魅力は、愛発関、松原客館、金ヶ崎城など日本史を動かした敦賀の史跡。
◉愛発の関は、都を守るために北陸道、東海道、東山道から都に入る位置に置かれた古代の三関で、不破の関、鈴鹿の関とともに敦賀の愛発に置かれた(愛発の関は発見されていない)。
◉松原客館は、渤海国から入国した渤海使を滞在させる迎賓館で、敦賀が古代から国際貿易港であった証(松原客館も発見されていない)。
◉金ヶ崎城は、元亀争乱の始まりで全国制覇の舞台となった城。
◉「城」の始まりは「戦」。弥生時代中頃、共同体の大規模集落を見守ることを目的とした。
◉外国からの侵攻にも備えた城。朝鮮式山城、中国式山城、水城など。天智天皇664年「大堤を築きて水を貯へしむ」などの記述が残っている。
◉兵法家は江戸時代に入ると仕事がなくなり、軍学者と呼ばれる職業にて講義などで稼いだ。この時代に分類される城は、平城、平山城(敦賀城はこれにあたる)、山城。
◉金ヶ崎城は、源平の合戦で源義仲に敗れた平通盛が敦賀城に依ったことや南北朝の合戦では、南朝方の恒良親王、尊良親王、新田勢、気比社勢が籠った。また、戦国時代は敦賀郡司の城であり、最後は元亀争乱で陥落。
◉南北朝時代も戦国時代も、金ヶ崎を攻める戦略は手筒山からであった(つまり、手筒を落とせば、金ヶ崎は手に入る)。
◉元亀争乱の際、朝倉景恒が1日で降参、開城してしまったのは、歴史の経験から実は戦っても無理だと知っていたからではないか。
◉金ヶ崎城落城後に築城された敦賀城(現在の西小学校辺り)は、後に破却されたとあるが、実際はされていない。
 
私の理解において、講義のポイントはこのような内容であったかと思います。
 
こうして今年度は「元亀争乱」をテーマに4講シリーズで開催された歴史講座をすべて聴講してきた訳ですが、第1講の朝倉家側から見た元亀争乱に始まり、2講は若狭国、3講は近江国それぞれの視点から、そして最終4講は、元亀争乱の始まりで全国制覇の舞台となった「金ヶ崎城」と、何かフルストーリーが完結した気持ちとなりました。
 
また、冒頭にありました山口先生からの「日本史を動かした敦賀の史跡は歴史的魅力である」とのお言葉を聞き、改めて我がまちを誇らしく思った次第です。
 
閉講のご挨拶をされた気比史学会の糀谷好晃会長の言葉によれば、講師の山口先生とは40年以上のお付き合いとのこと。
 
当時、高度成長期にあって、この敦賀の地も北陸自動車道や国道8号バイパスなどの建設のため「開発と破壊」、即ち開発から埋蔵文化財を保護するための戦いでもあったことも振り返られ、今こうして山口先生始め、文化財保護に関わる専門家や気比史学会など民間団体が力を合わせ、敦賀の財産を守ってきてくれたことに改めて敬意を表するところであります。
 
また、こうした時代も含め、先人たちが守り、つないできた文化財や歴史を守り、これからも世代をつなぎ、文化として発信していくことは、私たち世代の責務、まさにまちの根幹に関わる重要なことであり、そうした意味において、毎年テーマを変え、36年もの間「市民歴史講座」を継続されている気比史学会の皆さんには心より感謝いたします。
 
私も今定例会の一般質問で、まさに「文化財行政」を取り上げ、体系立てて「文化と歴史をつなぐ」ことを提言したところでありますが、今後少しでも役割を果たせるよう、自ら行動し尽力していきたいと思います。