建国記念の日。明治新政府の覚悟にも思い馳せ。

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今日は「建国記念の日」。
 
初代天皇である神武天皇が即位したとされる。
 
この日の制定にあたっては、元を辿れば明治6年3月7日太政官布告第91号「神武天皇御即位日ヲ紀元節ト称ス」によって、それまで旧暦1月1日(1月29日)を「神武天皇即位日」としていたものを「紀元節」に改称。
 
同年7月20日太政官布告第258号によって、紀元節の日付を2月11日に改めたところから始まります。
 
東京大学名誉教授である小堀圭一郎氏によれば、この紀元節祭の前、明治5年に太陽暦採用が施行(明治6年1月以降、国民生活の時間的区分を規定することになった)されている点も注目すべきであり、開国の宣言の後、激動の時代にあってか、新暦採用を宣する詔書には「国際標準に合わせる」との主旨は一言もなく、改暦の理由としては唯太陽暦の精密に対して太陰暦には不便が多過ぎるとのみ述べているとのこと。
 
国際慣例に従っていこうとする中においても国家意思の自主性を明示したい明治政府の矜持をそこに読み取ることができるとあります。
 
そうした改暦によって、従来の五節句の祭儀は、民族伝統としての意義は十分に認められはするものの、太陰暦を廃止する以上、国家的祭儀として保持するのは不適当と思われるとのことから、「諸事神武創業の始に原(もとづ)き」との王政復古の大号令の趣旨に合わせて、当代の国家的祭儀としては皇祖神武天皇の御即位記念日と現に国家元首たる今上天皇の御誕辰(生誕日)がそれに相応しいと考えられました。
 
これにより、(明治)天皇の御誕辰を嘉永5年9月22日を新暦に換算するとともに、神武天皇の即位は「日本書紀」によれば、西暦紀元前660年辛酉の年庚辰朔とされていますが、これを太陽暦の元日と見ただけでは毎年異同が生じることから、皇紀元年の元日を太陽暦に換算して「2月11日」と固定させ、先に述べたよう明治6年にこの日を「紀元節」として定め、故に第1回の紀元節祭は明治7年のこの日となったということであります。
 
また、建国記念日(紀元節祭)制定の動機は、維新政府の首脳達の国家意識の成熟とその意識を広く民間に涵養したいとの要請でもあったとされています。
 
それは、当時の政府の眼には先進国と見えていた欧米列強に対して、独立主権国家としての面目を備え、諸外国からの侮りを受けることなく万民を保全していくという、国是としての要求を満たすための努力の一端であった。
 
外に向かって国家の存在の意義を宣揚し得るためには、外形の善美より以前に、国民の内面に自国の正当性の根拠についての認識が無くてはならぬとの判断のうえ、正当性を問うのは正しい歴史認識であり、それが広く他者からも認めらるためには、その認識が普遍妥当性を有する、つまり「理」に即したものでなければならない。
 
明治新政府の人々は、対外関係強化の核としての国民統合の実を築くにあたって、それを普遍的な理に基づかせる事に最新の注意を払った。
 
二千年余に亘り伝承される皇祖の即位記念日の制定の経過を辿るに、暦学上の精密な計算結果以外の政治的な注釈を付加することを抑えて簡潔な布告に留めたとあります。
 
建国神話とされる見方はありますが、激動の時代の幕開けにあってこそ、明治新政府がこうして「理」を携え期日を定めたことに大きな意義があると改めて感じる次第であります。
 
新型コロナウイルスの収束はなお見通せませんが、そんな時だからこそ、国の成り立ちに思いを馳せつつ、幕末の列強国からの外圧にも、先の大戦の敗戦という国難にも耐え、再びゆたかな国を築いてくれた先人への敬意、そしてそんな素晴らしき日本に生きることを誇りに思う一日にしたいと考えます。
 
今日の意味合い、持つべきものは、外形の善美より以前に、国民の内面に持つ自国の正当性の根拠について認識することにある訳ですから。