失ってはいけない感情コントロール機能

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心配した雪は、降ったり止んだりを夜半まで繰り返し、今日は雨模様に変わるとのことで一旦安堵。
 
リスク対応の基本は「悲観的に準備する」ことにありますが、準備をしておいて予想が良い方に外れるのであれば、それはそれで良し。
 
自然災害と交通事故に関しては、自分で備え、警戒しておくことで身を守れる確率はグンと上がることから、引き続きそうした意識を持って過ごしていきたいと思います。
 

【昨日20時頃の風景。この後降り続くことはなかったようです。】
 
一方、注意しようのないのが、一昨日発生した大阪市北新地のビル火災のような事案。
 
大阪府警は61歳の男性を放火や殺人の容疑者と特定したと発表しましたが、この男にいかなる理由があろうと、罪のない24人もの命を奪った行為は自分勝手も甚だしく、断じて許されまじとの感情が高まると同時に、防ぎようにも防げない環境であったことに忸怩たる思いが募る次第であります。
 
また、この一件がそうであるよう、最近の社会事件を見ていると極端な事件が多くなったとも感じるところ。
 
自分が気にいらないから、思い通りにならないからと身内や友人を殺す、家に火をつける、無謀な煽り運転などもその部類に属するのだと思いますが、ここまで感情が制御できなくなるのは何故なのでしょうか。
 
その要因は、人それぞれの生きてきた環境に加え、新自由主義の名の下に広がった格差社会など、現代の社会背景がそうさせているのではとも考える訳であり、突き詰めればそうした制御不能の人間を作り出しているのは「政治」なのではないかとの考えに行き着く次第。
 
考え過ぎなのかも知れませんが、政治の世界に関わるものの一人として、そのことは強く胸に留めておかねばと思うところです。
 
また、別の見方では、デジタル社会が叫ばれる中にあって、コンピューターはコンピューター内の制御に留まるのに対し、人間はその制御回路の仕方が分からなくなっている、そんなふうにも見えます。
 
デジタルの基本は0と1で、言い換えればそこにはYESかNOかが明白に存在する訳ですが、それだけに以前は人間の思考回路にある「あいまいさ」を表現するのが難しかったとされていました。
 
その後、確か流行語にもなった「ファジー理論」によって、1990年に日本の家電メーカーがこぞって「ファジー機能付き炊飯器」を売り出したのを覚えている方もいらっしゃると思いますが、「始めチョロチョロ、中パッパ」と表現されるきめ細かい温度設定をファジー制御で生み出したことは当時画期的で、さらに改良に改良が加えられた今の家電製品を始め、デジタル機器の機能たるや「痒いところに手が届く」の表現が当てはまるレベルかと思うところです。
 
話しが横道に逸れましたが、デジタルトランスフォーメーション(DX)やIT化が叫ばれる中にあっても、人間そのものまで「0と1」かでデジタル化される訳ではありません。
 
社会背景は背景であれども、世の中の秩序が保たれているのは、人間本来が持つこの「ファジー制御」と「制御機能」で成り立っているものであり、特に日本人はその制御機能(感情コントロール機能)レベルが高いものと認識しています。
 
一昔前に「欧米か!(欧米化)」のギャグが流行りましたが、世の流れやグローバル化の言葉に流され、日本人が古から脈々と受け継いできた大切なものまで失われつつあるような気がしてならない昨今。
 
まずは自分自身の正常な制御機能を保ち、先ほどあった社会背景を少しでも良き方向に改善していけるよう、今後も微力ながら尽力していきたいと思います。
 
本日は、いつも以上に脈絡のないブログとなりましたこと、ご容赦いただければ幸いに存じます。