関ヶ原合戦から425年 〜義の武将 大谷吉継公を偲ぶ〜

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プロ野球セ・リーグが面白い。
 
青木宣親選手の引退発表に奮起したかのヤクルトが、昨日は村上宗隆選手の特大ホームランなどで首位巨人に快勝。
 
また、阪神が広島にサヨナラ勝ちし、元々首位だった広島はこれで6連敗。
 
首位から3位まで4ゲーム、4位DeNAを含めても5ゲーム差と、残り20試合を切る中で激戦の様相を呈しており、ペナントレースを制する「天下分け目」の戦いがいつになるか、そしてできれば贔屓のチームが2年連続の「ARE」を決めてもらいたいと願う次第です。
 
さて、本題に結びつけるかの前置きで恐縮ですが、天下分け目の戦いといえば、1600年の「関ヶ原合戦」。
 
今日は、その合戦の日から425年にあたります。
 
敦賀と関ヶ原合戦の関係では、敦賀城主で「義の武将」と呼ばれる、我らが大谷吉継公。
 
吉継公は、幼少期から秀吉のもとで石田三成、加藤清正らと競い合いながら成長したと言われ、本能寺の変ののち、秀吉が天下人となると、吉継は優秀な実務官僚として豊臣政権を支えました。
 
1585(天正13)年に秀吉が関白となり、吉継公も刑部少輔(ぎょうぶのしょうゆう)に任じられたことが、「大谷刑部」と呼ばれる由縁ですが、敦賀城主として、1589(天正17)年に敦賀の領主となり、敦賀を「城のある港湾都市」に作り変えたことにより、敦賀は京都・大坂に物資を供給し、朝鮮出兵など戦争の折には兵粮、船、操船者を整える拠点としても機能することになります。
 
つまりは、江戸時代の敦賀湊の繁栄の基礎は吉継の時代に作られたといえます。
 
この後は、ご存知のとおり、秀吉が没すると、次第に徳川家康が政治の中心となり、これに抵抗した石田三成に、劣勢と知りつつも「義を貫き」、味方して戦った関ヶ原合戦(1600年/慶長5)で敗れ、吉継は自刃します。
 
なお、合戦で敗れた武将は数多かれど、戦地で自刃したのは吉継のみであったと言われており、最後の最後まで己の信念を貫いた生き様であったことが分かります。
 

【敦賀市立博物館所蔵「関ヶ原合戦図屏風」(せきがはらかっせんずびょうぶ) ※大谷吉継陣を示すため、やまたけにて一部加工】
 
(参考)合戦図の解説
安政元(1854)年 菊池容斎(狩野派)作。主に右隻は西軍、左隻は主に東軍の陣を配しているが、敦賀城主・大谷吉継は右隻中央に頭巾姿で表されている(黄色線の丸囲み)。金箔地に極彩色を施し、金砂子を蒔くなど、重厚で華麗な作品に仕上げられている。
 
敦賀市立博物館 所蔵品データベースでは、同図を拡大して見れますので、以下リンクよりご覧ください。
 
 →敦賀市立博物館 所蔵品データベース「関ヶ原合戦図屏風」はこちら
 
契りあれば 六つのちまたに 待てしばし
遅れ先だつ ことはありとも
 
実は昨年もこの日のブログで紹介したのですが、これは関ヶ原の合戦において、家臣 平塚為広が「お先に敵陣に突入します」と、大将大谷吉継に書き添えて送った死別の歌に対し、吉継公が使者に手渡した返歌。
 
いわば、吉継公の辞世の句ですが、句の大意は「為広殿は武勇も和歌も感じるに余りある御仁である。わしも早々にあの世で逢おうぞ」とあり、同じく吉継公も既に、死を覚悟していたことが分かります。
 
家康が天下を納めた後、敦賀城は1615(元和元)年の一国一城令で廃城となりますが、吉継公の義の心と、武士道の精神は今なお人々に受け継がれています。
 
関ヶ原合戦から425年。
 
敦賀城主 大谷吉継公が残した功績への感謝と誇らしき生き様を偲び、心より供養の念をお送りする次第です。