悠久の歴史を誇る「氣比神宮」

ブログ 敦賀の歴史・文化

昨年の能登半島地震の記憶が新しいだけに、何事も起こらず、元日を健やかに過ごせたことに安堵するところ。
 
テレビでは、大勢の初詣客で賑わう全国の寺院の様子が映し出されていましたが、歴史・伝統の重みを感じたのは伊勢神宮。
 
伊勢神宮では昨日、社殿を20年に1度建て替える令和15(2033)年の第63回式年遷宮に向けた準備や行事を行う「神宮式年造営庁」を、同市の神宮司庁内に設置したとのこと。
 
造営庁は、7部4室15課で構成され、8日には神宮司庁の職員など約600人に辞令が交付されるとあり、今後は遷宮に用いる1万本以上のヒノキ材の調達や、殿舎の建造、約1600点に上る装束や神宝の調製を進めるほか、33の祭事や行事を執り行うとありました。
 
なお、内宮、外宮の社殿をそれぞれ隣接する敷地に建て替え、神宝なども新調する式年遷宮は1300年の伝統があり、前回の遷宮は平成25年10月。
 
8年後に向けて、これだけ多くが動員されて行うことの重大さ然り、1300年もの間、連綿と行事が続いていることを尊く思う次第です。
 
さて、私も昨日は、家族4人揃って氣比神宮を参拝。
 
消防士の長男は、大みそかに発生した美浜町丹生での火災対応(人的被害はなし)により、元日朝までの予定であった勤務が、午後になって帰宅。
 
消防や警察に加え、インフラ産業に従事される皆様におかれては、まさに盆正月も関係なく献身的に対応いただいており、長男にも慰労の声を掛けたところですが、であるが故、こうして安全且つ安心して暮らせていることに感謝したところです。
 

【大勢の参拝客で賑わう氣比神宮大鳥居前】
 
この気比神宮。
 
これまでのブログで幾度もご紹介していますが、改めて、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)、仲哀天皇、神功皇后、日本武尊、応神天皇、玉姫命(神功皇后の妹)、武内宿禰命(すくねのみこと)の七神を祀る気比神宮は、文献上『日本書紀』に初見、『古事記』にも記載があるもの。
 
『敦賀の歴史』(敦賀市史編さん委員会)によれば、奈良時代になると氣比神の地位の上昇が目立ち、天平3年(731)には従三位という神階となりますが、その背景には、当時の国際情勢、即ち新羅との外交関係の緊迫に対し、ツヌガアラシトの笥飯浦への来着など、朝鮮半島との関係が深い氣比神の加護により、新羅との緊迫関係を乗り切ろうとしたことにあったとされます。
 
宝亀元年(770)には、伊勢神宮や能登国の気多神などと並んで、氣比神への奉幣が行われますが、これも唐の不安定な状況や、出羽国を中心とした蝦夷の反乱などと関わる措置であり、このように気比神は、日本海岸の守護神として国家的祭祀を受けるようになった。
 
その後、平安時代に入ると、先のNHK大河ドラマ『光る君へ』で登場した「松原客館」を監督していたのは氣比神宮司であったことにあるよう、貞観元年(859)には従一位となり、寛平5年(893)までには正一位勲一等になるなど、日本海側の中心的な航海安全の神として、最高位に達した気比神は、越前国一宮、さらには北陸道総鎮守といわれ、北陸道諸国の信仰を集めるようになったと『敦賀の歴史』は結んでいます。
 
また、『敦賀の歴史探訪』(糀谷好晃氏編著)には、「平成14年(2002)秋、祭神合祀1300年の式年を斎行しており、悠久の歴史を誇るその諸事蹟は誌面では尽くせないほど多事多彩である」と氣比神宮を表現しています。
 
「けいさん」或いは「けえさん」と市民から呼ばれる、敦賀の象徴であり、親しみと畏敬を込める「氣比神宮」。
 
古より、国際港を有する全国屈指の交通の要衝であった背景も誇りに、末永く継承されますよう願う次第です。