文化的、政治的、芸術的側面から、世界と日本をつないだ「敦賀」は特別な存在であり

ブログ 敦賀の歴史・文化

「人が一番の宝」
 
「自分で自分を知るということは意外に難しい」
 
講演会の冒頭にあった、小倉和夫氏からの二つのキーワード。
 
昨日14時より、きらめきみなと館小ホールにて、約90名の方にお集まりいただき、気比史学会主催(敦賀市共催)第41期敦賀市民歴史講座「シリーズ戦後80年」(最終講)を開催しました。
 
テーマは「ー戦後80年 昭和100年ー 世界の中の日本、そして敦賀」。
 
講師には、祖父母、母が敦賀にゆかりがあり、1938年に東京でお生まれ、東京大学法学部卒業後、外務省に入省。
 
外務省文化交流部長、経済局長、また各国大使、国際交流基金理事長を歴任され、現在は同基金顧問、日本財団パラスポーツサポートセンターパラリンピック研究会代表をお務めの小倉和夫氏。
 
長身で年齢を感じさせない、まさに紳士であり、重責を担ってこられたそのご経験から、質疑を含めて約2時間、ご講演をいただいた次第です。
 
講演では、こちらからのテーマ設定を、「人」に焦点を当て、『「敦賀の人」物語』のタイトルにてお話しいただきました。
 

【投影した資料の表紙】
 
また、歴史上、敦賀を発った人、敦賀を通った人、敦賀に来た人(敦賀を語った人)など、講演の構成は以下スライドのとおりであり、以下概略をご紹介いたします。
 

【資料より抜粋】
 
「敦賀を発った人」ではまず、与謝野晶子。
 
敦賀よりフランスに渡り、流行を追いながら、しかも流行の中から自分の趣味を標準にして、自分の容色に調和した色彩や形を選んで用い、一概に盲従して居ない、言わば「自分らしさや個性」を持つ、フランスの「婦人の姿」に感服した彼女は、一方で当時(明治期)の日本を次のように表現。
 
 堅苦しく、うはべの律義を喜ぶ国
 しかも、かるはずみなる移り気の国
 支那人などの根気なくて、浅く利己主義なる国
 阿米利加の富なくて阿米利加化する国
 疑惑と戦慄とを感ぜざる国
 男みな背を屈めて宿命論者となり行く国
 めでたく、うら安く万万歳の国
 
小倉氏からは、この状態というのは、100年以上経った今の日本も変わらないのではとの問い掛けがありました。
 
また、次に登場した林芙美子の同じくフランスヘの旅立ちは、下関から朝鮮半島、中国を経てウラジオに至り、シベリア鉄道でパリに赴いたもので、敦賀経由ではないものの、パリに芙美子が着いた終着駅「北駅」(ガールドノール)と敦賀を掛け、終着駅にはロマンがあり、敦賀は、現在その状態であることをむしろ思い切ってPRしてはどうか、加えて、駅をつなぐ連絡通路に絵を飾ってギャラリー(文化的なまち)にとのご示唆。
 
「敦賀を通った人」では、ロシアの音楽家プロコフィエフ。
 
プロコフィエフは、かくて1918年5月、ペトログラードを発ち、シベリア鉄道でウラジオストックに着き、そこから船で敦賀に上陸。
 
6月、東京へ赴いた訳ですが、現代的スタイルの音楽家として名をなすようになった彼は、「長唄 越後獅子」からヒントを得て、そのリズムを用いて「ピアノ協奏曲 第3番第3楽章」を作曲したこと。
 
「敦賀に来た人」ではまず、かの有名な建築家ブルノ・タウト。
 
ブルノ・タウトは、1933年5月、ウラジオストックから汽船で敦賀に乗陸して、日本に1936年10月まで滞在。
 
その間、桂離宮などの日本建築に心酔し、日本建築の美と精神を国際的に知らしめる役割を担いましたが、そのタウトが敦賀に入港する際、港の風景に触れて記したのが「気比の松原」。
 

【タウトが表現した「気比の松原」(資料スライドより抜粋】
 
ここでは、小倉氏より「タウトが称賛した気比の松原を世界に」の言葉がありました。
 
続いて、日本人では水上勉。
 
敦賀を訪れた水上が「思いのこもる故郷」として残したのは、これまた「気比の松原」。
 
<以下、水上勉の言葉>
 
何げない松並木でも、山の端道にも、海岸の砂浜にも、その人の心の歴史が落ちこぼれているからにほかならない。私は私で、あの気比の松原から、三松、勢の松原にいたる岸辺を、若い妻と、長くあずけていた子をつれて、さまようた日を懐しいと思う。とりわけ、敦賀の気比の松原は、私にとっては、永劫のものである。
(中略)
そこで走っていた子の耳と髪とワンピースに、松の落葉が、ふきこぼれていた風光も、牛が寝たように見えた立石岬も、糸をひいたようだった波荒い白い沖も、私だけのものだ。
 
小倉氏から特別な言葉はなかったものの、情景浮かぶ水上の文章から、気比の松原が特別な存在であることを感じた次第です。
 
その後は歴史を遡り、「渤海と敦賀」では、古から敦賀が大陸とつながる重要港であったこと、長屋王の例からは、伝統的に陸上交通の要地であったことを紹介。
 
一部、スライドを割愛されたものの、「歴史と人」の視点から、文化的、政治的、芸術的側面から、世界と日本をつないだのが「敦賀」であり、外国人にとっても日本人にとっても「敦賀」は特別な存在であったことを学んだ次第です。
 
ご講演は、その後、数件の質疑を受けた後、司会の私から、世界を俯瞰するお立場から、今後の敦賀に向けた貴重なご示唆をいただいたこと、歴史を大切にし、人は宝であることを再認識できたことに感謝申し上げました。
 
なお、冒頭にありました「自分で自分を知るということは意外に難しい」の意味とは、個に留まらず「自分たちの住むまちを自分たち自身が知るということ」と置き換えれば、こうして、連綿と継承される地域史を学び、知ることの重要性はもとより、「日本」に置き換えても然りと考えるところです。
 
こうして、戦後80年、激動の昭和100年の節目の最後にふさわしい講座になったと思うところであり、ご多忙のなかお越しいただいた小倉氏に感謝申し上げます。
 
そして、秋晴れの行楽日和にも関わらす、参加くださいました皆様にも心より感謝申し上げます。
 
今回お話しいただいたことと重なるのは、気比史学会設立以来の会是。
 
「過去に学び 未来に期待し 今日を生きる」
 
会是を胸に、また豊富で悠久の歴史を持つ郷土敦賀を誇りに、今後も活動してまいります。