敦賀に「模擬原爆」が投下されてから80年

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「太き骨は先生ならむ そのそばに ちいさきあたまの骨 あつまれり」
 
これは、6日に営まれた広島平和記念式典で石破首相が、あいさつの最後の方で2度繰り返した言葉。
 
引用元は、被爆者でもある歌人の正田篠枝さんの短歌。
 
この短歌は、式典会場近くに立つ「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれたもので、教師を頼りながら亡くなった児童と、助けられなかった教師の無念さをうたっており、首相は式典後の記者会見で、自らの原爆忌への思いが「あの歌に全て尽くされている」と述べ、「記憶を継承する努力を強めていかなければならない」と強調しました。
 
首相が仰るよう、短歌から浮かぶ悲惨な情景、この言葉に込められた作者の思いは痛いほど胸に刺さるものであり、一瞬にして罪なき民の命を奪った原子爆弾の恐ろしさを知るとともに、このような愚かな行為を二度と犯してはならなと心に刻むところであります。
 
こうして8月6日には広島、9日には長崎に投下された「原子爆弾」。
 
そして、決して忘れてならないのは、長崎への原爆投下前日の昭和20(1945)年8日8日にあった、敦賀への「模擬原爆」投下。
 
午前9時頃、アメリカ軍が原爆投下の訓練のため、敦賀市の東洋紡(当時は東洋紡績)に爆弾を投下し、動員されていた学生ら33人が犠牲となってから、今日で80年を迎えます。
 
あのB-29爆撃機が敦賀に投下したのは、長崎に投下した原子爆弾と同型の模擬爆弾(通称パンプキン)。
 
この投下の前に、同年7月12日、7月30日の空襲で甚大な被害のあった敦賀に三度目となる空襲の当時の状況は、「敦賀市史」通史編(下巻)第四節 三.敦賀大空襲に、次のように記録されています。
 
<以下、「敦賀市史」を引用>
 
(7月30日の空襲に)ついで、八月八日午前九時ごろ、空襲警報が発令され、市民は防空壕に退避した。まもなくB29が単機敦賀上空に現われ、一旋回して低空飛行の態勢で東洋紡績工場に爆弾を投下し、そのまま南方に飛び去った。この爆弾は、東洋紡の捲糸室に命中し、火災となった。また隣接していた紡糸室と事務所の一部とが爆風のために破壊された。この爆撃で、工員一五名、動員学徒一六名、引率教員二名の命が失われた。
 
こうしたなかで敦賀は、八月十五日の敗戦の日を迎えるのである。なおこの項の記述にあたっては、多く『敦賀市戦災復興史』の記述を利用させていただいた。
 
<引用終わり>
 

【模擬原爆の被害にあった東洋紡敦賀工場の様子(出典元調査中)】
 
私は以前に、東洋紡敦賀工場にお伺いし、保存されてる当時の資料を拝見させていただいたことがありますが、80年前にあった史実を目の当たりにし、突然若き命を奪われた方々の無念、そして長崎の予行演習とばかりに模擬爆弾を投下したその行為に怒りを覚えました。
 
「無念と怒り」
 
またもや、このようなことを二度と繰り返してはならないとの思いが沸々と湧いてきます。
 
本日は、犠牲者の位牌がある市内の永建寺にて、ご遺族や工場の関係者などが参列されての法要が営まれることと存じます。
 
若くして亡くなった犠牲者を悼み、空襲のあった午前9時には、私も同じ思いで静かに手を合わせることといたします。
 
こうしてなお、唯一の戦争被爆国として、核保有国と非保有国、あるいは世界平和の架け橋、橋渡し役ができるのは日本であり、まっすぐにその役割を果たしていかねばと、思いを強める次第です。