都怒我・角鹿・敦賀の地名の謎に迫る

ブログ 敦賀の歴史・文化

今朝の福井新聞にはやや残念な記事。
 
毎年1月の第3日曜に開催される、敦賀の冬の風物詩で国指定重要無形民俗文化財となっている「夷子(えびす)大黒綱引き」について、運営団体の「敦賀西町の綱引き伝承協議会」は来年の開催見送りを決めたとのこと。
 
夷子大黒綱引きは相生町内の「西町」で400年以上続く伝統行事で、漁業関係者の「夷子方」と農業関係者の「大黒方」に加えて見物客も綱を引き合い、夷子方が勝てば豊漁、大黒方が勝てば豊作とされ、当日は多くの観客も集まり賑わうところ。
 
見送りの理由は、大綱作りや運営に必要な協賛金集めに当たる人手の確保が困難なためとありましたが、伝承協議会の事務局長さんからは無念とお詫びの言葉に続き、「貴重な敦賀の文化財を守りたいという気持ちは我々としては強いので、地元西町の皆さんはじめ関係者とともに継承の仕方や運営体制を考えていきたい」とありました。
 
敦賀のこうした伝統行事を守っていただいていることに感謝申し上げた上で、地元や協議会にすべてを委ねるのではなく、地域を問わず市民皆でつないでいくことが必要な時代になっていることから、自らが協力することも踏まえつつ、再来年の再開を切に願う次第です。
 
さて、文化や歴史に関する話題を続けますが、自身が所属する気比史学会では、基本月1回、知育・啓発施設「ちえなみき」の2階をお借りしての「ミニ歴史講座」を開催しています。
 
直近では、11月30日(日)に開催しており、その際はテーマを『記紀の世界と敦賀』、『都怒我(つぬが)・角鹿(つのが)・敦賀(つるが)の地名の謎に迫る』をサブタイトルに学んだところです。
 

【ちえなみき2階のディスプレイに表示した当日の資料表紙。写真は、敦賀駅前に立つ“都怒我阿羅斯等像”】
 
まず、敦賀の地名の由来については、敦賀市ホームページに掲載の「市の紹介(あゆみ)」にこう書かれています。
 
“敦賀の地名の由来にはいくつかありますが、『日本書紀』には、崇神天皇の時代に朝鮮半島から「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」がこの地に渡来したことにちなんで「角鹿」と呼ばれるようになったとあります。必ずしも史実かどうかはわかりませんが、古くからの大陸との関わりを思わせる、興味深い説話です。”
 
なお、「敦賀」という字に改められたのは和銅6(713)年。
 
“必ずしも史実かどうかはわかりませんが”とあるのがポイントであり、講座では、役員でもある発表者より、古事記や日本書紀、敦賀市史などを丁寧に読み解いた上で、〝都怒我阿羅斯等は個人名ではなく称号であることから、地名の由来としては不自然”と指摘(実は、敦賀市史にも同様の趣旨の指摘があります)。
 
「角鹿」の由来について、古事記にある異説や別の地形説(敦賀半島が角のように見える)もご紹介されつつ、ご自身の見解として「新説」を述べられるなど、大変興味深くも探究心高まるお話をお伺いすることができました。
 
※「新説」は説得力のあるものであり発表したいところですが、ご本人の了承を得ていないのでここでは差し控えます。
 
他の参加者と一緒に、私も興味津々で拝聴した訳ですが、古事記には、「(要約)気比大神が皇子(応神天皇)に与えたイルカの血が臭かったので血浦(ちぬら)と名づけ、それが角鹿になったとの記述もある」とのこと。
 
こうして地名ひとつとっても奥が深く、諸説あるところを探究していくことがまた、地域史の再発見、深掘りになった次第であり、今後も楽しみながら学んでいければと思います。
 
なお、講座の概要は、気比史学会のFacebookにも投稿されていましたが、多仁照廣先生からは次のようなコメントがありました。
 
(以下、多仁先生コメント)
敦賀の地名についての検討視覚で欠けているのが「鶴賀」です。鶴を獲って朝廷に献上する場所から鶴賀といわれ、美称にするのに敦賀としたと考えることも必要です。ラクーン(潟)が広がりそこには丹頂鶴が飛来していたことが考えられます。舞鶴市の鶴賀はそうです。醍醐寺文書に敦賀から鶴が献上された文書があります。もっとも文書名は忘れましたが。
 
これに別の方からは、「敦賀の地名語源に丹頂鶴は関係ないでしょう。語源説にもなりません。」などと反論のコメントあり。
 
専門家でも意見の分かれる「敦賀の地名の由来」。
 
多説あったほうが面白いと思うのは、私のような素人の考えか。
 
いずれにしても、次の「敦賀市史」改定の際には、大議論になりそうです。
 

【会場の「ちえなみき」。冬に暖色カラーであたたかみを感じました。】