『太平記と敦賀 〜南朝の悲哀・金ヶ崎戦記〜』

ブログ 敦賀の歴史・文化

上着を脱ぎ捨て、結局、Tシャツ1枚で過ごした昨日。
 
季節を間違えたかと思うほど暑い一日となりましたが、敦賀の最高気温は28.6℃(15時41分)であったとのこと。
 
一方、本日は、春の最後の二十四節気「穀雨」。
 
晩春にあたる時季で、穀雨とは「春雨が降って百穀(ひゃっこく)を潤す」の意。
 
天気予報を見るに、この先の雨マークは少ないものの、この時季に降る雨はさまざまな穀物を育ててくれる「恵みの雨」として感謝したいと思います。
 
さて、昨日午前中は駅前の知育・啓発施設「ちえなみき」へ。
 
気比史学会が主催する「ミニ歴史講座」を10時30分より開催しました。
 
世代を問わず、より多くの市民の皆さんに敦賀の地域史を知っていただこうと、オープンスペースで始めたこの講座。
 
2月、3月は僭越ながら私から『平安時代の敦賀』を紹介いたしましたが、今月からは講師と時代を移し、昨日は当会役員の方から『太平記と敦賀』についてお話しいただきました。
 

【昨日の参加者は、私を入れて7名。前回に続き、京都から敦賀の歴史ファンにお越しいただきました。】
 
サブタイトルは『〜南朝の悲哀・金ヶ崎戦記〜』。
 
資料をもとに内容をご紹介いたしますと、まず「南北朝時代」とは、京都の朝廷(北朝)と大和国吉野の朝廷(南朝)の二つの朝廷が並立した時代であり、期間は、後醍醐天皇が吉野に遷幸した延元元(1336)年~明徳の和約がされた明徳3(1392)年までを言います。
 
なお、当会の糀谷好晃会長の著書「敦賀の歴史探訪」では、この時代を“上は大いなる統治の理想から、下は一反の土地の争奪まで、激しくぶつかり合った時期”と称するほど、激動騒乱の時代であったことが伺えます。
 
「金ケ崎合戦」に至る流れに関しては、複雑な背景があり、まず元弘3(1333)年の鎌倉幕府の滅亡により、後醍醐天皇による「建武の新政」がはじまったものの、建武2(1335)年には、北条時行が率いる北条氏の残党による大規模な反乱「中先代の乱」が勃発。
 
これに足利尊氏が出陣し、北条の残党を20日余りで壊滅したものの、この出兵は天皇の許可を得ていなかったことから、尊氏が朝敵に。
 
尊氏は絶望し(帝に背いたつもりは全くないため)、出家して寺に引きこもるも、世間の足利氏への期待は爆上がり。
 
その後、後醍醐天皇方対足利方の攻防が続き、楠木正成と戦った湊川の戦いに尊氏が勝利。
 
この敗北により、天皇方は窮地に陥り、後醍醐天皇方は比叡山へ逃亡。
 
後醍醐天皇は、新田義貞に対し、越前に向かって北国を平定し、大軍を起こして天下を支えよ、天子の位も皇太子(恒良親王)に譲るから連れて行けとの勅命を下す。
 
※新田が越前に向かってすぐに、帝は都に還幸していることから、新田が和睦の邪魔だったので、体よく越前に追い払ったのではないかとの説あり。
 
一方、新田勢は、建武3(1336)年10月13日に敦賀に到着。
 
その軍勢を、大宮司・気比弥三郎氏治以下300余騎が歓迎し、旗掲松に「気比大明神」の神旗を掲げたと伝わる(現在の旗掲松は二代目)。
 
ここから「金ケ崎合戦」となり、越前守護・斯波高経(足利方)が率いる2~3万騎に包囲されるも、脇屋義助(新田方)の奇策に城方が呼応し、奇襲が成功(新田方が勝利)。
 
これに激怒した尊氏は、諸国の軍勢をかき集め、都合4万余騎の攻城軍を再編成し、金ヶ崎を攻め(といっても長期戦を見据えた兵糧攻め)、陸地に加え、海上封鎖も行ったことから、城内は飢餓状態に陥り限界に。
 
金ヶ崎城は落城し、『太平記』によれば、飢餓状態は屍の肉を喰らうまでであり、最後は弓を引くことも、太刀を握ることも出来ないまで衰弱していたとのリアルな情景が記録されていました。
 
なお、落城の際、いわば「金ケ崎合戦の名場面」として紹介されたのが、次のスライド。
 

 
忠義を尽くす新田義顕と、部下を思う尊良親王の最後が描かれていました。
 
なお、その頃、後醍醐天皇は花山院(比叡山)を脱出して、大和国の吉野に逃れ、吉野を御所とすることを宣言。
 
皇位は金ケ崎にいる恒良親王に譲ったはずが、有耶無耶となり、京都の「光明天皇」と吉野の「後醍醐天皇」の二帝が並立する異常事態になったことも補足しておきます。
 
また、金ケ崎城籠城中の延元年(1336年)11月12日に書かれた「白河文書」によれば、恒良親王が天皇であったことは否定ができないことから、「幻の北陸朝」があったとも。
 

 
そして結びには、金ケ崎合戦からちょうど600年後の1936年につくられた「敦賀大行進曲」にある「〜昔思えば 涙がほろり」の意味は、先の金ケ崎城落城、義顕と尊良親王の姿を思い出してかと、歌詞に込められた意味合いに思いを馳せた次第です。
 

 
講師を務めた役員さんは、すべて『太平記』の原文にある内容をもとにスライドを作成され、途中、原文もご紹介いただいたことにより、大変理解が進むとともに、この時代の、いわゆる「裏事情」まで知ることができた次第です。
 
丹精込めて準備いただいたことに、心から感謝いたします。
 
最後にひとこと。
 
「敦賀の歴史はやっぱり面白い!」
 
次回の「ミニ歴史講座」は、5月18日(日)10時30分から開催しますので、関心のある方はもとより、ちょっと聞いてみようという方も大歓迎ですので、奮って参加いただければ幸いです。