2025年9月15日
天下分け目の「関ケ原の戦い」と「大谷吉継」
本日9月15日は、「敬老の日」。
先日ご紹介したとおり、私が住む町内では今月7日に、ひと足お先の「敬老会」を開催したところ。
祝日法に定める「敬老の日」の趣旨は、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことであり、あらためて、これまで国や地域をお支えいただいた諸先輩方への敬意と感謝、そして今後も健康でいきいきとした人生を送っていただくことを心より願う次第です。
また、昨日のブログの結びに書いたよう、今日は「※関ヶ原合戦」の日。
慶長5(1600)年9月15日、天下分け目の戦いとして名高い「関ケ原の戦い」は、中山道、北国街道、伊勢街道が交差する交通の要衝として賑わい、東西の結節点であった関ヶ原の地で行われました。
※後述
旧暦と新暦の違いにより、関ヶ原合戦の本当の日は「10月21日」。
この地は、古くは、日本武尊のゆかりの地であることや壬申の乱の戦場となるなど、日本史の重要な舞台であった訳ですが、なかでも「関ヶ原の戦い」は、全国の武将が東西両軍に分かれ、それぞれの忠誠、友情、策略、葛藤を抱えて激突した「天下分け目」の戦いであり、のちに260年以上続く天下太平への幕開けとなる大きな転換点となったことは誰もが知るところ。
「いざ関ヶ原へ!」と、名だたる武将が関ヶ原に集結するなか、敦賀から参戦した大谷吉継の人物像は、昨日ご紹介したとおりでありますが、関ヶ原合戦における吉継の評価として、「関ヶ原観光ガイド」に次のような記載がありました。
小早川を見張るため!?天才軍師の陣跡
「大谷吉継陣跡」は、山中(やまなか)の「大谷吉継の墓」から少し下った場所にあり、ひっそりと碑が建っています。大谷隊は、関ケ原の合戦が始まる十日程前に若宮八幡宮上の急斜面に陣を作り始めました。この陣は空堀を左右に巡らせたもので、山中城と呼ばれるほどの要害の地であり、合戦後は徳川家康も大谷陣を一夜の宿として使用したという話もあります。戦術に長け、官僚としても優秀であった吉継は、陣作りにも力を発揮しました。当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面のこの地に陣を定めたというのも驚きです。

【関ヶ原の地における吉継の陣跡(2025年9月 やまたけ撮影)】
また、吉継の人物像に関してはこのように。
壮絶なる「男の美学」
大谷吉継は、親友の石田三成に徳川家康との戦いを打ち明けられた時、無謀な戦いであることを説き続けました。しかし、三成の“義”を貫こうとする決意は固く、吉継は友である石田三成のためにも、病身でありながら合戦に参加します。関ケ原合戦では、多くの武将達が自らの利益のために参戦していたといわれています。そんな中、“義”という目に見えない価値のために死を選んだ吉継の生き様は、まさに男の美学といえるでしょう。
こうした評価がされる吉継には、全国に「ファン」(特に女性が多い)がおり、外岡先生の「吉継Cafe」や8月10日に敦賀市が開催した「吉継サミット」に500人もの参加者があったこと(歴史講座としては異例)、そして一昨日の市民歴史講座にも10名を超える県外参加者があったことが、それを証明するもの。
ただ残念なことは、敦賀の人が吉継のことをあまりご存知ないことであり、大谷吉継」のことを地元の人にこそ広く知っていただくことは、地元に対する愛着や誇り、さらには「義=人道」につながるものであることから、気比史学会の立場、一議員の立場としてそうしたことに取り組むことを胸に誓うところです。
なお、関ヶ原合戦に関しては、日本史上最大級の戦いである関ヶ原の戦いを、楽しく学び、体験できる施設として、「岐阜関ヶ原古戦場 記念館」なる素晴らしい施設があることや、ここを拠点に、この地で戦った各武将の史跡めぐりに出かけるなどにより、より深く、より想いを馳せることができます。

【岐阜関ヶ原古戦場 記念館(2025年9月 やまたけ撮影)】
結びに、気比史学会では、歴史の1ページを体感し、関ヶ原の地で逝った大谷吉継を偲び、10月5日は『関ヶ原古戦場をめぐる』と題したフィールドワークを開催することとしています。
第41期敦賀市民歴史講座 シリーズII「大谷吉継生誕460年」もこれで最終講。
参加者の皆さんとしっかりとめぐってまいります。

【『関ヶ原古戦場をめぐる』の開催チラシ。既に下見を終え、イメージは十分。】






