『語り継がれる大谷吉継』 〜敦賀市民歴史講座 シリーズII「大谷吉継生誕460年」第2講より〜

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昨日は、気比史学会主催の第41期敦賀市民歴史講座 シリーズII「大谷吉継生誕460年」の第2講を開催。
 
テーマは『語り継ぐ大谷吉継』。
 
吉継研究の第一人者である外岡慎一郎氏をお招きし、深い吉継の魅力はもとより、歴史研究家としての信念ともいえるお考えを拝聴した次第です。
 

【会場には、10名を超える県外参加者を含め、85名の方にお集まりいただきました。多くの参加に感謝申し上げます。】
 
先生からはまず、大谷吉継が世間で知られるようになったのは、NHK大河ドラマ「真田丸」あたりから。
 
それまでは、関ヶ原合戦など限られた描かれ方をされてきたが、ここでは吉継の人物像が描かれたことによるとのお話から入り、以降は資料に沿って講義いただきました。
 
最後の敦賀城主「大谷吉継」だけに、すべてをお伝えしたいところですが、資料の内容を引用する形で、以下ポイントをご紹介いたします。
 
<はじめに>
◉2015年の敦賀市立博物館リニューアル記念特別展の「結語」は、軍記類(のみ)を素材に構築された吉継像と文書の「ことば」から垣間見える吉継像とが乖離しないということ。
◉2018年の吉継Cafe『大谷吉継英雄伝説』では、「史実」の領域(文書と軍記の情報)には、吉継の病や三成との「佐和山会談」、関ヶ原での戦死など、人々の想いと調和(こうあって欲しい)した部分と、例えば家康との協働(三成との疎遠)や吉継が大酒飲みであったなど、人々の想いと不調和(そうあって欲しくない)な部分とがある。
◉「英雄伝説」の領域には、三成との絆など、史料に疑義があるものの人々の想いと調和すること(語り継がれている)、よくある茶会の逸話(病の吉継の茶を三成が飲んだ?)では、本当に飲んだのは誰なのか史料が不在だが、合理性の中で人々の想いと調和するものがある。
◉これらのことから、「虚像と実像」という枠組みを排除した人物(吉継)研究が必要。
◉何が本当で何が偽物か、歴史を書く人はその証拠を添えて、これまで語り継がれてきたことを確認していくことが、本日の講座の趣旨。
  =吉継論の「定型」形成と継承の姿をとらえる試み
 
<「英雄伝説」の源流 〜近世軍記類の成立事情>
◉17世紀には『関ヶ原始末記』や『慶長見聞書』など多数、18世紀には『落穂集』、19世紀には『名将言行録』など、関係軍記類には年代的階層がある。
◉軍記類成立の画期は、17世紀後半(寛文・延宝期)であり、江戸幕府による政治秩序の完成期と重なる。
◉軍記類は、幕藩制が共有する「神話」的意義をもつ。
◉その時代時代を生きてきた人を見ていくことが重要であり、決して「できごと史」にしないこと。
◉事実が歴史になる瞬間がある。見ている事実は様々だが、歴史になる瞬間にはせめぎ合いがある(近代史でいえば、南京大虐殺など)。
 
<近世から近代へ>
◉「佐和山会談」(『慶長見聞書』)では、吉継が三成に、「自分が病身を押してはるばる会津まで下ろうとしているのも、ひたすら貴殿(三成)と家康との間で争うことのないよう取り計らうためだ。この(挙兵)計画は絶対に進めてはいけない。」と話したとある。
◉一方、『落穂集』『慶長見聞書』を素材に「佐和山会談」を紹介した「大谷吉継の去就」では、「吉継は三成のために口説き落とされた。憐れ好男児、彼は三成と情死す可く決心した。」とあり、三成の右手となって関ヶ原の大立物となり、様々な人が事をなさんとする輩中にあって、その独自一己の面目を発揮し得たのは、実にこの大谷吉継一人であったとある。
◉同じく「石田三成の活動」の項では、吉継が三成に加担したのは、三成にとって百万の援兵を得た心地があった。「彼(吉継)は、石田の挙が、百に一も成功なきを知っていた。然しも今更石田を見殺しにするに忍びず、その最善を噶(つく)した。」。
◉これらの相違は、関ヶ原合戦研究の研究史上の問題(吉継のみならず、個別武将の評伝を含め)。
◉概観的には、関ヶ原研究の現状における通説的理解に近い叙述であるが、軍記類に示された「定型」を継承し、独自の物語を創造していくことが重要。
 
〜その上で、例えば、この論説をご覧ください(資料をそのまま引用)〜
 
尾崎秀樹・林富士馬『英雄の診断ー医学から見た日本史』1965年 人物往来社
(「天刑病とifの日本史」の章、合戦直前に吉継が小早川秀秋を説得したことに触れ)この最後の説得が成功しなかった陰に、吉継の業病が大きく作用したということは考えられないだろうか。(中略)かつて紀之介といったところ、彼は美童とうわさされたほど眉目秀麗であったという。もし吉継がそのままの姿で成人し、颯爽とした武者ぶりで秀秋の陣へ乗り込んで行ったとしたらどうだろうか。(中略)(関ヶ原の戦いは)たしかに東軍に勝つ要素が多く、西軍には敗北にいたる条件が多い。その数多い条件のうちでも、最大のものは、大谷刑部小輔のハンセン氏病であったと考えられる。「もし」智将大谷吉継が五体満足な状態にあったら、あるいは西軍が勝利をおさめることも可能ではなかったか。関ヶ原の戦の跡をふり返ってみて、私はどうしてもそう思えてならない。
 
◉これは、吉継の「if」を書いてくれたことで、「人々の想い」に応えてくれたとも言える。
 
<おわりに>
◉近年の研究成果として、秀吉死後の豊臣政権論(家康を排除した政権を樹立するため?に三成・吉継が仕掛けた「政変」)や関係史料の収集・分析や系図研究、考古学的知見などによる大谷吉継研究の進展がある。
◉吉継に関しては、近年の、今後の研究成果もこれからの「語り継ぎ」の一部であり、「人々の想い」(ifなど)を動機とする新たな研究視角を構築していく。
 
以上が講座のご紹介となります。
 
“吉継論の「定型」形成と継承の姿をとらえる試み”
 
私自身、講座の目的にあったこの言葉の意味を理解するとともに、外岡先生の歴史研究者としての信念、吉継を語り継ぐ強い思いを感じたところであり、本市民歴史講座通算34回目の登壇をいただいた先生に心より感謝申し上げる次第です。
 

【様々な思いを込めてご講義いただいた外岡慎一郎先生】
 
そして、これまでの「定型」として存在する大谷吉継が、今後の研究によってさらに、誇り高き「義の武将」として語り継がれることを祈念するとともに、「智将大谷吉継が五体満足な状態にあったら、あるいは西軍が勝利をおさめることも可能ではなかったか。」との「if」にあるよう、日本の歴史を変えたかもしれない人物が、ここ敦賀の武将であることを、こちらも心より誇りに思います。
 
ちょうど明日は、天下分け目の関ヶ原合戦の日。
 
参戦した武将の中で唯一、関ヶ原の地で自刃した吉継を偲び、静かに手を合わせる日にいたします。