心からご冥福をお祈りいたします

ブログ 人生観

「まさか」は続き、今度は訃報。
 
敦賀市病院事業管理者の太田 肇様が逝去されました。
 
享年60歳。
 
ここに謹んでお悔やみ申し上げますとともに心からご冥福をお祈りいたします。
 
訃報に記されていた略歴によれば、太田様は昭和62年4月に金沢大学医学部第一内科入局。
 
その後は、金沢赤十字病院をはじめ、石川や富山の病院で勤務された後、平成6年10月には市立敦賀病院へ。
 
平成17年4月からの金沢医療センター勤務を経て、平成31年4月からは市立敦賀病院院長、そして令和4年4月には敦賀市病院事業管理者に就任され、敦賀市の医療福祉の発展にご尽力いただきました。
 
院長となられてからは、未曾有の新型コロナウイルス感染に対し、米島前病院事業管理者とともに全力を挙げて対応いただきました。
 

【新型コロナ初期の市立敦賀病院(2020年5月28日撮影)】
 
また、病院事業管理者に就任されてからは、ここ2回の定例会を病気療養のため欠席されており、年明けにはと、早期の回復を願っていただけに、早過ぎるこの結果を大変残念に思う次第です。
 
改めまして、太田様の生前のご功績に心から敬意と感謝を申し上げるとともに、安らかにご永眠されますようお祈りいたします。
 
訃報に関しては、同じく昨日、「演歌の女王」と呼ばれた八代亜紀さんが昨年12月30日、急速進行性間質性肺炎のため死去したと所属事務所が発表。
 
熊本県八代市出身で16歳のときに「歌手になりたい」と父親の反対を押し切り家を出た後、ナイトクラブの専属歌手を経て、昭和46年、「愛は死んでも」でデビュー。
 
同48年に「なみだ恋」が大ヒットし、54年の「舟唄」で人気を不動のものとした後、55年には「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞し、艶っぽくハスキーな声から「演歌の女王」と呼ばれたことは、私世代以上では誰もが知るところ。
 
私が生まれたのが昭和47年ですので、ちょうどその頃にデビューされ、特に「雨々ふれふれ もっとふれ 私のいい人 つれて来い」の「雨の慕情」の歌詞は、小学校の時に意味も分からず友達と唄っていた記憶が蘇ってきます。
 
享年73歳。
 
こちらも逝くには早い歳であり、大変残念ではありますが、これまで約半世紀に亘り、歌で日本人の心を慰め、元気づけてこられたご功績に心より感謝申し上げる次第です。
 
先ほどの「雨の慕情」2番の歌い出しにはこうあります。
 
一人で覚えた手料理を
なぜか味見がさせたくて
すきまだらけのテーブルを
皿でうずめてる私
 
男女の関係ということを超えて、この歌詞からは、自分を想ってくれている人の大切さや、またその大切な人を失うはかなさに気づかされます。
 
奇しくも年初の地震とも重なり思うことは、今を精一杯生きること、そして身近にいる大切な人を大切にすること。
 
改めて、お二方のご冥福をお祈りいたします。