「マッカーサーノート」と「日本国憲法」

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今日は「憲法記念日」。
 
昭和21年11月3日に公布され、半年後の昭和22年5月3日に施行された「日本国憲法」。
 
憲法記念日は、昭和23年の「国民の祝日に関する法律」の制定当初に定められた計9日の「国民の祝日」の一つであり、「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」日とされています。
 
現在、衆議院憲法審査会において、憲法改正を踏まえた議論がされるところですが、国家の根幹にある憲法に関し、私も毎年この日にブログで考えを書き綴っているところです。
 
これまでも述べているよう、私の考えの拠りどころとなっているのは、(財)富士社会教育センター発刊の「新しい日本の憲法像」であり、同著の冒頭にあるよう、現行憲法が、戦勝国によって「押し付けられた憲法」であるとの認識に立つものです。
 
即ち、敗戦による軍事占領下において、「日本国ガ再ビ米国ノ脅威トナリ又ハ世界ノ平和及安全ノ脅威トナラザルコトヲ確実ニスルコト」(降伏後ニ於ケル米国ノ対日方針)を「究極ノ目的」としてマッカーサーによってつくられた憲法であり、いわゆる「日本弱体化」戦略により、それ故、この憲法をいつまでも保持するということは、ますます日本を弱体化することを意味します。
 
現行憲法の前文の随所にみられるように、明らかに、日本侵略史観と戦争犯罪国家を前提にしたものではなく、これまでの護憲か改憲かの論議を超えて、健全な歴史観と国家間と価値観をしっかりと踏まえた論議の下地のもと、何が日本にふさわしい憲法なのかを議論していく必要があると考える次第です。
 

【自身の考えの拠りどころ「「新しい日本の憲法像」】
 
さて、その「日本国憲法」。
 
「日本国憲法の誕生」(国立国会図書館蔵著)を読むと、制定までの経過には「日本国憲法の制定には、国の外からと内からの双方の力が働いている。」とあります。
 
引用すると、外からの力とは、日本の敗戦により、「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置をとる連合国最高司令官のもとで、大日本帝国憲法(明治憲法)の変革が求められるようになったことである。内からの力とは、戦時中、軍部の行った政治支配によって、敗戦当時、もはや戦前の議会制度をたんに修復させるだけでは、国民の期待する「民主主義」を実現することができないまでに、明治憲法体制は深く傷ついていたことである。
 
憲法制定の経過は、1946(昭和21)年2月13日を「ターニング・ポイント」として、その前後で大きく二つの段階に区分される。前者は、1945(昭和20)年10月、最高司令官が「憲法の自由主義化」を示唆、これを受けて日本政府による明治憲法の調査研究が開始され、翌1946年2月、改正案(憲法改正要綱)が総司令部に提出されるまでの段階である。後者は、2月13日、総司令部が日本側の改正案を拒否し、逆に、自ら作成した原案(GHQ草案)を提示することで、局面が転回し、新たな憲法の制定・公布にまで至る過程である
 
この二つの段階ないし局面を通じて、国内外の様々な政治的、社会的、その他もろもろの力が複雑に絡み合うなかから、日本国憲法が作り出されるのである。(引用終わり)
 
この「後段」の経過をもって、先に述べた「押し付けられた憲法」と認識する訳ですが、併せて、「『日本国憲法の制定経過』に関する資料」(平成28年11月 衆議院憲法審査会事務局)によれば、「日本側は、突如として全く新しい草案を手渡され、それに沿った憲法改正を強く進言されて大いに驚いた。そして、その内容について検討した結果、松本案(当初の日本案)が日本の実情に適するとして総司令部に再考を求めたが、一蹴されたので、総司令部案に基づいて日本案を作成することに決定した。」
 
いわゆる「押しつけ憲法論」について、上述のとおり、マッカーサー草案が提示され、この草案を指針として日本国憲法が作成されたことについて、現行憲法は「押しつけられた」非自主的な憲法であるとの見解がある
 
と記載されています。
 
 →「日本国憲法の制定経過」に関する資料(平成28年11月 衆議院憲法審査会事務局)はこちら
 
一方、全てが強制されたものではなく、制定の段階において、いわゆる日本国民の意思も部分的に織り込まれ、帝国議会の議論を経て制定されたことをもってして、「押し付けられた」ものではないとする考えがあることも承知しています。
 
ここで「マッカーサーノート」1946(昭和21)年2月3日 を改めて紹介します。
 
これは、マッカーサーが総司令部民政局に対して総司令部案の作成を命じた際、案の中に入れるよう示した三点であり、「マッカーサー三原則」とも呼ばれますが、内容は以下。
 
1 天皇は、国家の元首の地位にある。
 皇位の継承は、世襲である。天皇の義務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところにより、人民の基本的意思に対し責任を負う。
 
2 国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてそれをも放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。
いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。
 
3 日本の封建制度は、廃止される。 皇族を除き華族の権利は、現在生存する者一代以上に及ばない。 華族の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治権力を含むものではない。
予算の型は、英国制度にならうこと。
 

【マッカーサーノート(国立国会図書館資料より)】
 
日本側がこの要求を受託した相当大きな原因が、「天皇制の維持」のためであったことも争えない事実であり、「自己の安全を保持するための手段としてそれをも放棄」させられてまで、守ろうとしたことの意味合いは決して忘れてはならないと考える次第です。
 
なお、明治憲法における「万世一系の天皇が君臨し統治権を総攬すること」が、日本国憲法では国及び国民統合の「象徴」であるとされ、その地位が大きく変化したことは「※国体の変更」ではないかとの、当時の帝国議会の議論において、金森徳次郎憲法担当国務相は「我々の心の奥深く根を張っているところの、その心が、天皇との密接的なつながりを持っており、いわば天皇を以て憧れの中心として国民の統合をなし、その基盤において日本国家が存在している」との意味合いから、「国体は変更しない」と答弁しています。
 
※国体・・・国柄のこと。我が国の「建国の大体」を表現する概念として用いられていたことを契機とする。
 
「憲法記念日」の今日を前に、改めて「新しい日本の憲法像」を読み返した次第ですが、戦勝国に「押し付けられ」ながらも、当時の日本が「絶対に譲れなかったこと」とは何かを胸に刻むとともに、冒頭述べたよう、健全な歴史観と国家間と価値観をしっかりと踏まえた論議の下地のもと、何が日本にふさわしい憲法なのかを議論していく必要がある。
 
まさに今がその時だと考える次第です。