「鉄道誕生物語」にて明治の心意気を感じる

ブログ 敦賀の歴史・文化

気持ちの良い秋晴れとなった昨日。
 
文教厚生常任委員会では、「第61回敦賀地区自衛消防隊操法大会」にて、来月開催する議会報告会のチラシ配りを行うため、朝は会場の市役所駐車場へ。
 
大会には、地域・事業所単位で多くの方が参加され、消火栓や小型動力ポンプなど、各部門に分かれ操法技術を競われるなか、若干、場違いではと感じつつ、委員で協力してチラシを配布。
 
観戦中にも関わらず、快く受け取っていただきありがとうございました。
 
また、参加された方々を始め、大会関係者の皆様、大変お疲れ様でした。
 
操法大会を最後まで見届けた後は、昨日のブログでも告知しました、歴史絵語り「鉄道誕生物語」の準備・運営のため市立図書館へ。
 
図書館職員の皆さんにもお手伝いいただき、気比史学会メンバーとで設営をし、開始の14時には約30名の参加者にお集まりいただきました。
 
私は司会役を務め、図書館長にご挨拶いただいた後、早速、歴史絵語りの会 丸山誠氏による「鉄道誕生物語」を開演。
 
絵語りでは、概略以下の内容をお話しいただきました。
 

【講演いただいた歴史絵語りの会 丸山誠氏】

【会場の様子】
 
◉絵語りは「歴史の見える化」である。
◉わが国の鉄道の歴史は、ペリーが来航時に示した「STEAM LECOMOTIVE(蒸気機関車)」に始まる。
◉英国派遣などで蒸気機関の力をまざまざと見せつけられている伊藤博文、大隈重信らの信念「蒸気機関車なくして日本の発展なし」のもと「鉄道敷設計画」(明治2年)を策定。
◉大陸につながる港と鉄道を早く結ぶことを重要視し、計画にあった3路線のひとつが「敦賀」を目指したものであったこと(敦賀が「鉄道と港のまち」と言われる由縁)。
◉国内では、莫大な費用が掛かる鉄道建設に反対勢力があり、これらを納得させるためには、とにかく早く実際に蒸気機関車が走る姿を見せる必要があった。
◉英パークスは、植民地化での方法ではなく、日本に正式に資金を貸付け(100ポンド)、貿易相手として、日本政府が建設主体となって鉄道建設を進める方法を選択した。
◉そのため、蒸気機関車は当時の英領インドのセイロン島で使われていたものを流用。レールの規格は、これに合わせ1435ミリの「標準軌」ではなく、それより幅が狭い1067ミリの「狭軌」を選択した(一連の判断は大隈重信)。
◉新橋〜横浜間には薩摩藩(反対勢力)の藩所があり、土地を譲ってもらえなかったことから、海上にレールを敷設した。
◉明治5年の新橋〜横浜間開通式では、国民に納得してもらうチャンスと、天皇陛下にも乗車いただくとともに、沿線では日の丸の小旗を振ってもらう(国旗をこうした形で使ったのは、これが初)など、お祭りムードとした結果、反対の声は消えた。
◉経済界に対しては、天候によって起こる飢饉などに対し、物資輸送のスピードを上げ、地域に関係なく食料が運べるようにすれば、飢えはなくなる。人々の暮らしがどれほど良くなるかを訴えた。
◉明治15年(1882)には、敦賀までの鉄道が開通(柳ヶ瀬トンネル部分を除く)したが、その時の市民の驚きや歓喜たるや想像を超えるものであったと推察。
◉当時、国内最長「柳ヶ瀬トンネル」の敦賀側出口に掲げられたの「萬世永頼」(伊藤博文著)の文字は、敦賀までの開通に込めた期待の証。
◉伊藤はその後、憲法創設、日本初の総理大臣に、大隈は機関車で全国行脚し、日本の文明開化を説いて回った。特に「心の文明開化」を訴えた。
◉大隈重信は晩年まで、レールの規格を「狭軌」としたことを「人生最大の判断ミス」と悔いていたそうだが、海あり山ありの日本は、トンネルで抜かねば鉄道敷設は成り立たなかったことを考えれば、逆に「狭軌」で良かったとも言える。「大隈さん、そう悔やみなさんな」と言ってあげたい。
 

【伊藤博文が敦賀への鉄道敷設に期待を込めた「萬世永頼」】
 
こうして、すべて手作りの絵に合わせた、丸山さんの絶妙な語り口に引き込まれ、あっという間の1時間でしたが、鉄道建設に懸けた明治政府の心意気とともに、来春の北陸新幹線開業を前に敦賀と鉄道の歴史を楽しくも、深く学ぶ機会となりました。
 
講師の丸山様、ご参加いただいた皆様に心より感謝申し上げます。
 
なお、会の最後にも申し上げましたが、柳ヶ瀬トンネルが完成し、長浜〜敦賀(金ケ崎)間が全線開通したのは明治17年(1884)。
 
新幹線敦賀開業の2024年は、それからちょうど140年となります。
 
新たな時代に向かえるのは、命を懸けて敦賀までレールをつないだ先人達のご尽力あってのことであり、こうした歴史を引き続き、丸山さんの言葉「歴史の見える化」を胸に、市民の皆さんに知っていただけるよう取り組んでいく所存です。