「歴史の転換点」金ケ崎-長浜間全線開業から140年

ブログ 敦賀の歴史・文化

3月16日の北陸新幹線敦賀開業から今日で1ヶ月。
 
この開業は、敦賀にとって「歴史の転換点」であることは何度もお話ししているところですが、本日は、鉄道の歴史から言えば「最初の転換点」、明治17(1884)年4月16日の「金ケ崎-長浜間全線開業」からちょうど140年となります。
 
時代を遡り、敦賀と鉄道の歴史を振り返れば、明治新政府が早急に国内統一と近代国家建設の実を挙げるため、交通通信網の整備と産業振興を重要施策とする政治を進め、英国駐日公使のパークスは、鉄道建設に並々ならぬ意欲を燃やしていた大隈重信や伊藤博文に、日本人による鉄道建設を提言。
 
政府内では鉄道を建設するにあたって、国策上どの区間に敷設するのが最も適切であるかを巡り、大きな論争となりました。
 
そこで何度も議論を重ねたうえ集約し、明治2(1869)年10月10日、東西両京を結ぶ鉄道を幹線と定め、同時に①東京〜横浜間、②敦賀〜琵琶湖畔、そして③神戸〜京都間の各線を支線として建設することが決定。
 
つまりは、敦賀港と神戸港とを琵琶湖の水運を挟んで鉄道を結ぶことが決定した訳ですが、このように当時の敦賀港が日本にとっていかに重要であったかが良く分かるとともに、誇りに思うところです。
 
その後、財源やルートの問題などで政府内でも反対があったりと紆余曲折を経て、ようやく明治11(1878)年9月に建設のゴーサインが出され、明治13(1880)年に敦賀側と長浜側とが同時に着工。
 
工事は急ピッチで進み、明治15年3月10日、敦賀線は柳ヶ瀬隧道(トンネル)の区間を残して、金ケ崎〜長浜間が部分開業。
 
明治16年には柳ヶ瀬トンネルが完成(全長1352メートルは当時国内最長)し、翌17(1884)年4月16日に待望の金ケ崎〜長浜間が全線開業となりました。
 
※開業までの過程について、さらに詳細は以下よりご覧ください。
 
 →初の試み「ミニ歴史講座」(2024年4月1日ブログ)
 


【日本人だけで作られた、建設時からの姿をそのまま残す現存最古の鉄道トンネル「小刀根トンネル」。機関車の煙で煤けたトンネル内を歩くと、明治にタイムスリップした感覚に襲われます。】
 
前述のとおり、本日はこの開業からちょうど140年を迎えることを感慨深く感じるところであり、敦賀線の全通によって、敦賀港は開運と陸運を結んで輸送する手段が開け、敦賀へ出入りする客貨が急増したことから、金ケ崎駅を中心に旅館や運送店がひしめき合ったことが記録に残っています。
 
また、「敦賀市史」によれば、長浜との鉄道全通前の明治14年から16年の敦賀港の荷物取扱量は、金額にして坂井港の約半分ほどでしたが、長浜まで全通した17年には倍増して坂井港を超え、明治19、20年にはさらに増加し、坂井港の2.5倍にも達したこと。
 
さらに東海道線開通の明治21年には、敦賀港の取扱高は一挙に前年の4、5倍に激増し、坂井港の7.5倍の荷物を取り扱ったとあり、鉄道開通が敦賀に与えた影響の大きさが伺えるとありました。
 
その後、北陸線が延伸され、明治29年の敦賀-福井間を皮切りに、32年3月には敦賀-富山間197キロメートルが開通。
 
この北陸線開通は敦賀の商業に大打撃を与え、福井・石川等の米穀を始め、北陸各港より敦賀港に回漕されていた諸荷物が汽車に奪われたほか、直江津以北の貨物も富山県の伏木港に集まるようになり、敦賀港は衰退し、明治33年の移出入4,013万円を最高に、翌年は1,800万円、翌々年には1,600万円に激減したこと。
 
敦賀を素通りする人や荷物も多くなり、貨物運送業・倉庫業、さらに旅館業などには衰退するものもおり、敦賀の重要課題は、敦賀港を国際港にしてこれを挽回することにあり、敦賀-富山間が全通した明治32年、敦賀港は開港の指定を受けるとともに、45年6月には金ケ崎に寝台列車の運転が開始され、こうして敦賀は新たに国際都市として活躍することになった。
 
以上は、同市史(通史編 下巻)の「鉄道と汽船」に記録されているものであり、まさに「鉄道と港のまち敦賀」の盛衰の歴史を示すもの。
 
「独占的地位」にあるか否かが盛衰のポイントであることは言うに及びませんが、この間に何をすべきか、また明治には「次は国際港」と挽回したよう、次代を見据えて何を為すべきかが、政治の役割であると深く認識する次第です。
 
全通から140年を祝う日に、少し湿った話しとなってしまいましたが、周年日は「歴史を振り返る日」でもあることからご容赦いただきたく存じます。
 
結びに、当初の鉄道敷設時は氣比神宮前(今の神楽交差点辺り)にあった敦賀駅は、明治43(1910)年に現在の位置に新築移転開業されました。
 
新築落成した駅舎は当時の人口3万人足らずの敦賀のまちにとって不相応な立派なもので、昭和20年7月12日の空襲で消失するまで、北陸線最大の規模と威容を誇っていたとあり、現在国内の整備新幹線駅最大級で「敦賀要塞」と呼ばれる北陸新幹線敦賀駅の姿と重なる次第です。
 

【非常にレアな当初の敦賀駅付近の写真。右下に蒸気機関車、バックに手筒山が見えます。なお、こちらは明治42年9月の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)行啓時のもので、「グラフィック 東宮殿下北陸行啓書報」に掲載されていました。(国立国会図書館デジタルコレクションより)】

【明治43年に現在の位置に移転した敦賀駅。当時、北陸線最大の規模を誇る。】
 
「歴史の転換点」であった140年前の今日。
 
このことをぜひ皆様と共有し、先人の挑戦と努力に敬意を表するとともに、迎えた新幹線時代をともに考える日にできれば幸いです。
 

【写真は、先週末の旧敦賀港線と桜。散り行く桜と廃線跡が何とも言えぬ情景を醸し出していました。】