見通しの悪い時代における必携の能力は「そもそも思考」

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昨日は、予定がぽっかり空いた日曜日。
 
最近やや遠ざかっていた読書をと以前に読んだ本数冊を手に読み返しをしてみると、やはり多くのヒントが得られるというもの。
 
その本はというと、編集工学研究所・専務取締役である安藤昭子氏著の、その名も「編集工学」。
 
「知の編集工学」を書いた松岡正剛氏の持つ編集工学の世界観や「編集」という見方や方法が、この混迷の時代にあってますます必要とされるとし、編集工学の現在を一冊の書籍にまとめられたもの。
 

 
この編集工学研究所は、敦賀駅西エリアで計画が進められる「知育啓発施設」を担う丸善雄松堂さんとの関わりが深く、10月末に敦賀で行われた「駅西地区社会実験」イベントで企画された安藤氏の講座に参加した際に購入した本でもあり、私の中では、記憶と内容がリンクしているものでもあります。
 
改めて読み返してみると、感じること、気づくことが多々あった訳ですが、最も自覚・意識して思考せねばと思い直したのは、『原型をたどる 〜前提ごと問い直す「そもそも思考〜」』でした。
 
自分自身の記録に留めておく意味も込め、以下に当該部分の原文を抜粋させていただきます。
 
(以下、抜粋)
私たちは大抵、日常に溶け込んでいる様々なものを「そういうものだ」という、通り一遍の理解で済ませいています。
いちいち本質を問う視点を持とうとしたら、周辺に流通する大量の情報を処理しきれないことからすれば、現代のライフスタイルとして、それはそれで理にかなっているのでしょう。
但し、その流れに身を任せていると「ステレオタイプ(典型)」の記号的な理解で世の中を見る方向に、どんどん思考が引っ張られていきます。
背景にある「アーキタイプ(原型)」を問わなくなる社会は、「※パンとサーカス」現象の危機にさらされることとなります。
 
※パトリック・リンガー著(1986年)の「パンとサーカス ー社会衰退としてのマス・カルチュア論ー」
マスメディアがポピュラーアイドルを作っていることは誰でも知っているが、同時にこの社会が価値に関するステレオタイプだけを次々に量産していることは気がつきにくい。
ステレオタイプばかりが作られると、その奥にあるはずのプロトタイプ(類型)が見えなくなり、さらにその奥にあるアーキタイプに全く目が届かなくなる。
ステレオタイプだけが社会を覆っているとプロトタイプを問うものさえいなくなり、その歴史も忘れ去られる。
そこへもってきて大衆心理が世の中の全ての決定権を持つことになると、我々の歴史文化に潜んできたアーキタイプが何かということは、大衆心理が選んだポップシンボルにしか求めないということになる。
これこそが古代ローマ帝国とナチスとFIFAが陥った危険極まりない「パンとサーカス」現象なのだが、それが危険であると誰も思わない。
 
この本は1980年代に書かれたものですが、いずれも行き着く先の現在のを言い当てているようで戦慄を覚える。
 
では、そうした現代を生きるものとしてどう考えれば良いのか。
 
普段身の回りにある出来事や話題に対し、「これは何のためにしているのか」、「そもそも、それって・・・」といつでも自在に捉え直しができる状態にしておくことで、世の中をどう見るのかという「軸」を自分の内側を携えることができるようになり、無自覚にステレオタイプに流されることなく、アーキタイプを自覚して、必要に応じて本質を捉える。
 
見通しの悪い時代において、この種の「そもそも思考」は必携の能力となるはずです。
(抜粋終わり)
 
とあります。
 
本当にマスコミに踊らされている今の世の中を表している通りであり、本質を見失わず、自分の考えに「軸」を持つという観点において、改めて「そもそも思考」を実践することを肝に銘じたところです。
 
さて、話しは変わり、新型コロナの収束の道筋すら見えない混迷を極める状況の中、本日第204回通常国会が招集されます。
 
コロナ特措法を始め、デジタル改革関連法、全世代型社会保障改革関連法案(75歳以上医療費負担)、国家公務員法改正案(定年引上げ)や憲法改正論議につながる国民投票法改正案などの重要法案審議が予定される中、今秋までに行われる衆議院選挙を睨んでの国会運営になるとありますが、先ほどの通り「混迷を極める」中ですので、支持率アップや人気取りを伺う大衆迎合的論議でなく、ここでこそ「本質」を突いた論議をお願いするところであります。
 
そうした中、16日(土)の福井新聞に福井県選出国会議員の皆さんの通常国会に臨むにあたっての重要課題と併せて展望やポイントを問う記事がありました。
 
ここ敦賀を含む福井2区には、自民党の高木毅議員と立憲民主党の斉木武志議員の2名の衆議院議員がいらっしゃいますので、私も注意深く記事を読ませていただきましたが、何とも言えぬ違和感が残りました。
 
その私が感じた違和感は、たまたま拝見した同じ敦賀市議会の和泉明議員のブログにズバリ書かれておりましたので、そちらをご覧いただければと思います。(和泉議員、勝手にリンクしますことお許しください)
 →→→和泉明議員ブログより「通常国会に臨む本県選出議員の声」
 
ブログの結びにある「ごまかし、まやかしは効きません」の言葉は、今後有権者もしっかりと見極めて判断していくべきことと私も大いに納得した次第であります。
 
話しを「編集工学」に戻しますと、憲法改正など、この国の根幹に関わる論議をこれから行なっていくことなどを踏まえれば尚のこと、“見通しの悪い時代において、この種の「そもそも思考」は必携の能力となるはずです”とのヒントは、政治家のみならず、政治家を選ぶ有権者おひとりお一人においても必要であり、求められることかと考えます。
 
上から目線ですみませんが、今後は普段のマスコミ報道然り、国会然り、市議会も然り、そうした視点でご覧いただき、「そういうものだ」ではなく、「そもそもそれって・・・」と本質な何かを捉えてご一考、ご意見賜りますよう宜しくお願いいたします。
 
私も勿論、そうした姿勢で活動にあたりますので。。。
 
ではでは。