活動はやっぱり「Face to Face」が一番

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「東京では桜が散ったが、桜の花を見ると、姉が寂しげな表情で新潟の中学校の桜の木の下で写る写真を思い出す」
 
これは、北朝鮮による拉致被害者家族会と支援組織「救う会」が3日に開催した東京都内での合同会議の後、横田めぐみさんの弟、拓也さんが会見で述べた心境です。
 
拓也さんは、「40年以上もたってまだ解決できていないという、時の重さを、ひしひしと感じる」と続けたとあり、この間のご家族の皆さんの心中並びに拉致被害者奪還への取り組みを思えば、私たち日本国民ひとり一人もともに行動せねばと思わざるを得ないところです。
 
「救う会」は新たな運動方針を「政府は、早期に日朝首脳会談を行い『全拉致被害者の即時一括帰国』を実現せよ!」に決め、昨年、横田めぐみさんの父、滋さんが87歳で亡くなるなど家族の死が相次いだことを念頭に、拉致被害者の帰国には「期限がある」と言及、日朝首脳会談の早期実現を要望したうえで、政府に対し「(被害者の)生存情報、所在情報をより多く蓄積し、会談に備えてほしい」と早急な取り組みを求めました。
 
また、一昨年に続き2回目となる金正恩朝鮮労働党総書記へのメッセージでは、いずれも「期限」に触れ、残された時間の少なさを重ねて訴えており、私自身もこの問題を絶対に風化させてはならないとの思いのもと、議員になってから欠かさず着けている「ブリーリボンバッジ」のみならず、何か取り組みに協力していきたいと考えます。
 
さて、ちょうど1週間前の土曜日は、町内にお住まいの皆さんに3月定例会後の近況報告をすべく、約480軒のポスティングを行いましたが、昨日は粟野小学校校下と近隣地区の区長の皆さんに同じく「やまたけNEWS」をお届けに上がりました。
 
実は、敦賀市議会議員24名中、約半数の11名が粟野地区在住(人口は1/3が粟野)な訳ですが、地区内にある小学校区3校(粟野小、粟野南小、黒河小)のうち、粟野小校区内の議員は私のみ。
 
ですので、やはりここは自身も通った校区内は「地元」としてご報告、ご意見を伺う責務があるものと活動しているところです。
 
区長さん用に作り替えたNEWSを手に10地区をお伺いさせていただき、ご在宅の区長さんとは直接会話もでき嬉しい限り。
 
「今年の総会も書面開催とせざるを得ない」、「行事で顔を合わすことも出来ず、まとまりが心配」など町内の状況に加え、議会に対してはやはり「議員定数」の点に関する話題に触れられました。
 
私の方からは、議会全体の割合で見れば削減派がほとんどを占めている状況や「現状維持」で決定した訳ではなく、引き続き議会運営委員会の場で検討していくことをお伝えさせていただきました。
 
こうして顔を突き合わし、肌感覚でお話しさせていただくことで、共通の課題に対する事実をきっちりお伝えできることは、お互いにとって大変有意義なことと改めて感じた次第であり、今後も労働組合役員時代からのモットーである、「Face to Face」(顔と顔を突き合わせる)を大切に実践していきます。
 
区長さん回りの途中、ふと先日知人がSNS投稿で紹介していた「粟野橋」の存在を思い出し、最寄りのコンビニに停車、間近で確認してきました。
 
旧国道27号線の「あわの歯科医院」の前(ローカルですみません)に架けられた、妙に欄干の低いこの橋の竣工は何と「昭和15年」の古橋。
 
橋マニアによると、低い欄干、人口石の風合い、ガーダー橋(桁橋)は只者ならぬ風格があるそう。
 


 
古くから旧丹後街道として使用されていたことに加え、ここを美浜側に越えた桜ヶ丘(旧金山)には、1898年に陸軍歩兵第19連隊、1940年には歩兵第119連隊も置かれ、合わせて「敦賀連隊」と総称された一大練兵場でもあったことから、この「粟野橋」もそうした需要幹線としての整備の中で生まれ、現存しているのだと思うとやや感慨深い気持ちになりました。
 
先般発刊された「うららん所在」ではありませんが、こうした歴史やエピソードが満載の地域に生かされているとの思いをもって、恩返しは粟野のみならず、敦賀のために貢献するとの思いをもって、引き続き活動にあたっていきます。
 
本日も話しがあっちこっちに飛んでしまい失礼しましたが、これにてブログを閉じさせていただきます。