敦賀城主 大谷吉継公遺徳を偲ぶ会

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契りあれば 六つのちまたに 待てしばし
遅れ先だつ ことはありとも
 
これは、関ヶ原の合戦において、家臣 平塚為広が「お先に敵陣に突入します」と、大将大谷吉継に書き添えて送った死別の歌に対し、吉継公が使者に手渡した返歌。
 
いわば、吉継公の辞世の句ですが、句の大意は「為広殿は武勇も和歌も感じるに余りある御仁である。わしも早々にあの世で逢おうぞ」とあり、同じく吉継公も既に、死を覚悟していたことが分かります。
 
9月15日は関ヶ原合戦の日ですが、昨晩は戦いで自害した敦賀城主 大谷吉継公の菩提寺である永賞寺(敦賀市栄新町)にて「遺徳を偲ぶ会」が営まれ、私も参列してまいりました。
 
会では、読経、供養奉納吟に続き、絵語り「大谷吉継 関ヶ原に死す」が催され、改めて「義の武将 吉継公」の生き様は、敦賀の誇りと胸に留めた次第です。
 

【偲ぶ会が営まれた永賞寺】

【丸山誠氏の「絵語り」には聞き入ってしまいました】
 
ここで吉継公をあまりご存知ない方のために、簡単に紹介しますと、大谷吉継は1565年(永禄8)の生まれ。
 
母親は豊臣秀吉の妻(お祢、高台院)の侍女で、東殿(ひがしどの)と呼ばれた女性(父親は判明していない)。
 
幼少期から、秀吉のもとで石田三成、加藤清正らと競い合いながら成長したと言われ、本能寺の変ののち、秀吉が天下人となると、吉継は優秀な実務官僚として豊臣政権を支えました。
 
1585年(天正13)、秀吉は関白になり、吉継も刑部少輔(ぎょうぶのしょうゆう)に任じられます。
 
吉継公が「大谷刑部」と呼ばれるのは、これに由来します。
 
敦賀城主として、1589年(天正17)に敦賀の領主となり、敦賀を「城のある港湾都市」に作り変えたことにより、敦賀は京都・大坂に物資を供給し、朝鮮出兵など戦争の折には兵粮、船、操船者を整える拠点としても機能することになります。
 
江戸時代の敦賀湊の繁栄の基礎は吉継の時代に作られたといえます。
 
この後は、ご存知のとおり、秀吉が没すると、次第に徳川家康が政治の中心となり、これに抵抗した石田三成に、劣勢と知りつつも「義を貫き」、味方して戦った関ヶ原合戦(1600年/慶長5)で敗れ、吉継は自刃します。
 
敦賀城も、1615年(元和元)の一国一城令で廃城となりました。
 
これが、吉継公の生涯ということになりますが、吉継自らの菩提寺である永賞寺の境内には没後9年後、1609年に造立された慰霊の九重塔(石造・敦賀市指定文化財)が残っているほか、毎年9月にはこうして、地元有志らによる「遺徳を偲ぶ会」(供養祭)も行われ、県外からも吉継ファンが足を運んでいます。
 
昨夜も県外からお二人が参列されていましたが、死を覚悟で三成への義を通した吉継公は、特に女性からの人気が高く、あの芦田愛菜さんも一番好きな武将は吉継公だとか。
 
改めて、今日の敦賀の礎を築かれ、発展に尽くすとともに、まさに武士道を貫いた吉継公の生き方に感銘を受けるとともに、また来年もこの会に参列し、供養の念をお送りすると誓った次第です。
 
最後に、会の詩吟で詠われた和歌に、「関ヶ原軍記を読む」と題した、かの西郷隆盛公の句がありましたのでご紹介いたします。
 
東西一決関ヶ原に戦う 嗔髪冠を衝く烈士の憤り
成敗存亡君説くことなかれ 水藩先哲公論あり
 
<大意>
東西に分かれ雌雄を決する天下分け目の戦いが関ヶ原で行われた。従軍の列士の憤は髪の毛が冠を衝き破るほどだった。成功、失敗を議論する必要はない。家康に大義名分がないということを水戸藩の先哲(水戸光圀)が大日本史で公正に論じている。
 
壮絶な天下分け目の戦いとは何だったのか考えさせられるとともに、合戦の地関ヶ原に、近いうちに足を運ぼうと思った次第です。
 

【大谷吉継公に「合掌」】