2025年2月10日
3月11日に家族が体験した津波
8日(土)の避難行動要支援者に関する講演会「能登半島地震を通して考える避難支援」(敦賀市主催)は、大雪予報を勘案し延期となったものの、この週末は、防災について考えるふたつのセミナーに参加することとしていたところ。
寒波のピークを過ぎた昨日は、予定通り自主防災会・女性防火クラブリーダー研修会「敦賀市地域防災啓発セミナー」が、きらめきみなと館小ホールで開催されました。
足下の悪いなか、多くの方が参加されていましたが、区長さんや防災士の方など知ったお顔がチラホラ。
皆さん、関心高く足を運ばれていることを心強く感じた次第です。
セミナーのテーマは、『3月11日に家族が体験した津波』。
東日本大震災で実際に津波にのまれたことや、地元区長として対応されたご経験を全国各地で伝えている旭市防災資料館(千葉県)の宮本英一氏をお招きし、貴重な、というより壮絶な実体験を拝聴いたしました。
当時の生々しい映像も織り込みながら、約1時間15分に亘りお話しいただいた内容については、お越しになられなかった皆様にもぜひ伝えたいと、会場でメモを取りました。
文脈のつながりが悪いところはご容赦いただき、以下、文字化した内容をご覧いただきたく存じます。
【会場は撮影禁止でしたので資料のみ掲載。】
<宮本英一氏が経験した東日本大震災の津波と対応>
◉津波と避難の経験
・平成25年からは、ご自身の経験を基に、津波の恐ろしさを全国で伝える活動を続けている。
・今度の3月で東日本大震災から14年目を迎えようとしている。
・大震災の時は、震源地から400キロ離れた旭市も大きな被害を受けた。
・津波は3回来て、2回堤防を超えた。3回目の最大津波高さは7.6メートル。
・津波で亡くなった方14人(災害関連死1人含)、行方不明2人。多くは、1、2回目の津波で「もう来ない」と思い、家に帰ったところ大津波に襲われた。
・津波は、海が盛り上がってそのまま移動してくるので音がしない。堤防を超えた時に初めて音がする。
・防災無線の屋外スピーカーからは、津波が来るので避難するよう指示が流れていた。
・チリ津波が発生してから何度も津波注意報、警報が発令されていたが、大きな津波は来ないと思っていた(地元では、大きな津波は東北地方のリアス式海岸で起こると言われていた)。
・1回目の津波が終わると皆、避難所から皆帰ってきて、「津波は終わりだ」と自宅周りの片づけをする人がほとんどだった。
・屋外スピーカーからはまだ津波警報が流れていたが、堤防に上がって海の様子を見ていた。
・海を見ると離岸堤坊まで潮が引いていて、「大きな津波が来るぞ!」と走ってくる人の声で皆逃げた。
・大津波警報、緊急避難、団長命令(危険だから消防団員も逃げよの意)が流れた。
・ただ事ではないと避難しようとしたが、海岸寄りの家を壊し津波が接近、妻とともに津波に流された。
・家の裏側に押し出され、海の水を飲みながら浮き上がり、流されながら家の屋根に辿り着いた。
・妻にも声を掛け、何とか同じ家の屋根に避難することができた。
・この際、妻は「水の中はあったかいよ」と言っていた。女性は強いと思った。
・当時86歳の母親の無事も確認できた。
・全身ずぶ濡れの中、そのお宅の2階に入り、押し入れから布団を出してくるまっていた(親しいお付き合いのお宅につきご容赦いただいた)。
・前の道から避難を呼び掛ける声がしたため、歩けるようになったと思い、自宅に帰ろうとした(幸い、街路灯は点灯していた)。
・ポケットの中は砂だらけだった。
・自宅の2階は被害が無かったため休んでいたが、船橋市に住む息子が駆け付け、その車で避難所の学校へ向かった。
・避難所では、消防団の皆さんが仕切り、活躍していた。
・その後、母親の実家に避難。
・津波の翌日、避難先の母親の実家からトラックを借りて自宅へ向かった。この時も消防団が道路の警備にあたっており、頼もしく感じた。
・津波の被害がなかった家では、テレビなど盗難にあった家もあった。
・自宅の中は足の踏み場もないほど散乱していたが、まずは床下の泥出しから始めた。
・自宅の復旧の合間を縫って、区長としての活動を始めた。
・同じ地区でも、津波を受けていない家庭は普通の生活を続けているので、「(家庭の)ごみを出していいか?」、「家の前の泥のことを市に連絡してもらえないか」と問い合わせがあり、被災された住民とのギャップに戸惑った。
・数日経つと、自宅の被害状況をカメラで撮影する人も居た(逆の立場で、自分もそうするかと思うとあまり腹は立たなかった)。
・自宅の解体費は、当時実費だった。
・ボランティアの依頼は被災者本人が、約2キロ離れた社会福祉協議会(いわゆるボランティアセンター)へ行き、個別手続きが必要だったが、区長からまとめて申請することを可能にしてもらった。
・ボランティアは徒歩移動なので、現地への到着が遅く、活動時間が短かったが、その後バス移動に変わり、活動時間が延びた。
・ボランティアの安否確認をするため、作業後は帰るのが原則。隣家のついで仕事は頼めなかったが、その後効率化された。
・行政職員は要望に可能な限り応えようと動いてくれた。なので、不満に思うままではなく、意見や要望は伝えた方が良い。
・サーファーの方が、「いつもお世話になっているから」とボランティアセンターを通さず地域に入ってくれたのは嬉しかった。
・避難所が長くなると、食事への不満、問題があった。例えば、「刺身が食べたい」と言うと「贅沢だ」と思われるが、海辺に住む住民にとっては日常食べているものであることを理解(山手の人にも)してもらい改善した。
・旭市にある32箇所の避難所中、10箇所が開設。3日後には4箇所に統合。
・一番被害の大きかった飯岡小学校では、学校の先生が市の職員が来るまで対応した。
◉助かったこと
・親戚やボランティアが手伝いに来てくれたこと。
・携帯電話が防水であったこと(水没し、たまたま2週間ほど前に買い替えていた)。
・街路灯が点いていたこと。
◉反省と教訓
・大津波警報が出ても、自分だけは大丈夫、大きな津波は来ない(正常化バイアス)と思っていた。
・津波は音がしない。
・自分の命は自分で守る。
ここまでが、実体験のお話し。
また、質疑の場では、
・子どもに伝えるのが大事だと思っている。子どもに伝えれば、お父さん、お母さんにも伝わる。
・いつ来るか分からない災害のことを真剣に考えてもらうためには、実体験を伝えること。テレビなどでも繰り返し伝えていくしかない。
とのお言葉がありました。
私の頭の中では常に映像化されていましたが、それほどリアルに、思いを込めてお話しいただいた宮本様に心より感謝申し上げるとともに、今後も語り部として、全国の方々にお伝えいただくことをお願いする次第です。
翻って、令和6年能登半島地震の際、31年ぶりの津波警報が発表された敦賀市。
「自分の命は自分で守る」の原則のもと、大切な人を失わないための教訓は、「自分は大丈夫」、「今度も大丈夫」と絶対に思わず備えること。