2024年3月11日
東日本大震災から13年
今日は3月11日。
東日本大震災発生から13年目を迎えます。
まずもって、犠牲になられた1万5,900名(令和6年3月1日現在:警察庁調べ)の方々に対し鎮魂の祈りを捧げるとともに、未だ発見されていない行方不明者2,520名(同調べ)ならびにご家族の皆様にお見舞い申し上げます。
なお、死者数は去年の3月から変わりないものの、行方不明者については、見つかった遺体の一部をDNA鑑定した結果、3人が特定されたとのこと。
こうして13年が経過した今も、諦めることなく身元の特定にあたる関係者の献身的なご尽力に感銘を覚えるとともに、ご家族のもとに戻られたことに心から安堵する次第です。
また、復興に関しては、公共インフラ(14事業、23項目)の本格復旧・復興の進捗率を管理する復興庁「公共インフラの本格復旧・復興の進捗状況」(令和3年3月末時点)において、福島県の避難指示解除準備区域等を除く、東日本大震災により被災した地域については、災害公営住宅及び民間住宅等用宅地(高台移転など)の完了率は100%で住まいの再建工事は完了。
道路に関しては、国直轄区間は100%完了、県・市町村管理区間が99%、復興道路・復興支援道路は92%(100%着工)となっているほか、鉄道も100%完了し、交通網はほぼ復旧。
また、農業・漁業に関しては、農地が94%であるものの、こちらもほぼ復旧が完了している状況にあります。
この時からさらに3年が経過しており、公共インフラの復旧がほぼ完了していることに13年の時間の経過を感じる次第です。
東日本大震災、そしてその後に発生した福島第一原子力発電所事故の記憶は決して「忘れてはならない」ものであることから、毎年このブログにも記載しているところですが、当時、単身赴任で東京に勤務していた私にとって、人生で初めて体験する突き上げと、立っていられないほどの大きな揺れの恐怖、発災後、事務所のあった千代田区神田のオフィス街をヘルメット姿の避難者が行列をなして歩く異様な光景は、今でも鮮明に思い出されるところです。
テレビに映し出された大津波と東北地方沿岸部の無残な姿は言うまでもありませんが、連合災害ボランティアとして10日間、福島県南相馬市で活動した際に目の当たりにした現実は、一生忘れることの出来ない衝撃的な記憶となっています。
そうした様々な思いが込み上げてくる「3.11」。
地震発生時刻の午後2時46分には、こうした思いを胸に抱きつつ、静かに黙祷を捧げたいと思います。
なお、地震津波といえば元旦の能登半島地震。
新聞を見ると「東日本大震災の被災地から、届け、能登へ。」のタイトルがあり、次の言葉が続いていました。
「13年前。激しい揺れに襲われ、どす黒い津波が何もかもさらっていった。生業(なりわい)を失い、大切な人を亡くした。寒空の下、不自由な日々を送った。痛み、悲しみ、苦しみ、やり場のない怒り、そして、生きることの大切さ、喜び。経験してきたからこそ、いま、元日の地震に見舞われた彼(か)の地に伝えたい思いがある。」
併せて掲載された写真には、震災発生時、小学5年生だった若い男女が「生きている自分を褒めて」、「一日一笑。明るい未来が待っています。」、「みんながいるよ大丈夫」などと書かれたプラカードを持ち、エールを送る姿がありました。
私には絶対に分からない、壮絶な経験からの言葉には力があります。
この思いが必ずや能登へ届き、復旧、そして復興への力になることを願っています。
【写真は福島県富岡町 夜ノ森の桜並木。この桜を愛し、命を懸けて逝った故吉田所長(事故当時の福島第一原子力発電所所長)の思いも絶対に忘れてはならない。】