2021年8月29日
古墳時代の新知見から分かる「重要都市敦賀」
どうしても気になるのは、犠牲者が100人超えにまで膨らんだアフガニスタンの自爆テロ。
現地に残る邦人らの国外退避のため派遣された自衛隊機は、これまでに邦人1人、米軍の要請に基づくアフガン人14人を首都カブールの空港から隣国パキスタンに輸送、退避させたとの報道となっており、引き続き、個別の事情で即時退避を希望しなかった少数の邦人や、退避希望を示す輸送対象のアフガン人約500人などに対しては、隣国パキスタンから支援活動を継続するとしています。
一方こうした状況を受け、立憲民主党の福山哲郎幹事長はtwitterで、派遣された隊員に敬意を表するとしつつ、「なぜわずか1人なのですか。退避を希望する日本人やアフガン人のスタッフなど500人程度の想定だったではないですか。ロシアも韓国もEUも数百人程度で退避しています。」と投稿。
自衛隊法84条の4「在外邦人等の輸送」に基づく自衛隊機派遣では、「輸送を安全に実施できる」ことが前提になっており、その狭間での命懸けの任務を遂行する自衛隊に対し、「わずか1人」とは何事かと、この野党第一党幹部の認識に呆れ返った訳でありますが、どうやら私の認識は真っ当であったようで、その後同twitter上は批判のコメントで溢れていました。
いずれにしても、米軍撤退期限の31日までは時間がなく、残された退避対象の方々の輸送、自衛隊の皆さんが任務を無事に遂行されることを願うばかりです。
さて、昨日は、週明けから始まる9月定例会に向け、今一度議案の読み込みや一般質問の通告書作成などを行いつつ、午後は気比史学会主催の「市民歴史講座」に参加してきました。
受付などのお手伝いもさせていただいた訳ですが、検温、手指消毒の徹底や常時換気、定員も通常の半分まで縮小するなど、十分なコロナ対策を講じた中での開催となりました。
今年度第2講となる昨日は、おおい町暦会館の山田虹太郎氏を講師にお招きし、「陰陽道の歴史と禍事防除 〜生活の中にある陰陽道〜」との興味深い講座であった訳ですが、こうして書いておりましたら、前回7月31日に開催された第1講のことをご紹介していないことを思い出しましたので、本日まず先に、そちらの方をご紹介したいと思います。
日曜日の朝ということもあり、ごゆるりとご一読のうえ、ロマンあふれる古の敦賀の情景を思い浮かべていただければ幸いです。
テーマ:「敦賀の古墳時代に関する新知見 〜沓見遺跡・手筒山古墳群などにおける最近の調査から〜」
1.日 時 : 令和3年7月31日(土)14時 〜 15時30分
2.講 師 : 福井県教育庁埋蔵文化財調査センター 安達 俊一氏
3.内 容 :
(1)はじめに
・敦賀の古墳や集落は東部に多いと言われていたが、調査により西部でも多くの集落が展開していたことが明らかになった。
(2)敦賀西部地区(沓見エリア)のほ場整備に伴う調査成果
・沓見遺跡は、8,200m2を対象に調査を実施(大町田遺跡は22,000m2)。
・弥生時代から古墳時代の周溝を伴う建物、古代の堀立柱建物、自然河川を確認。
・柱の穴の中から平安時代あたりの土器が見つかっている。
・一辺が6mくらいの建物跡もあり。
・大型の高坏(たかつき)は向出山1号墳でも見つかっていて、火にかけたことを証明する煤けた跡がある。
・沓見遺跡の須恵器(5世紀の中頃)は、日本に須恵器が広まって間もない頃のものが沢山あり貴重。
・畿内が朝鮮半島から導入した技術を伝えたのではないかと推定。
・敦賀という地域が、畿内の何者かの勢力に大変大事にされていた可能性がある。
【河川から見つかった土器(収集した破片から復元)】
(3)手筒山古墳群について
・手筒山西1号墳(前方後円墳、墳長53m)は、敦賀市内で2番目の規模。
・前方の等高線が立て込んでいることから、海からの眺望を意識していると言える。
・手筒山1号墳(円墳、径50m以上)。2段築成の円墳。海からの眺望良好で恐らく中期前半の古墳。頂上に登る階段の脇にある。
・手筒山2号墳(方墳、一辺約33m)。2段築成の方墳で墓石を持つとされるが、平野側からの眺望は悪い(1号墳の陰に隠れる)。
・敦賀市内2例目の埴輪(円筒埴輪)を持つ。
・敦賀には、中期の古墳はないと思われていたため、中期の古墳が多くある若狭の勢力に押されていたのかのイメージが多かったが、今回見つかった古墳は、その間を埋めるものであり、逆に中期の古墳が充実してきたという結果になってきている。
・ランクが少し上の古墳が、中期の敦賀には多くあるというのが特徴。
・敦賀の古墳を作った勢力が、敦賀の海・船に関わる勢力であったと推定される(経済の構造)。
【手筒山2号墳で見つかった埴輪(写真は反射して見づらいのですが)】
(4)大町田遺跡の整理作業から
・古墳時代前期の製塩土器が出土したことが明らかとなっている。
・櫛川遺跡からは製塩土器も発見されている。
【櫛川遺跡で発見された製塩土器】
(5)まとめ
・敦賀の勢力が当時貴重品であった須恵器を大量に保管していた点や畿内政権と関係が深い大阪湾沿岸の製塩土器が導入されている点から、古墳時代前・中期の段階で畿内政権にとって、敦賀が重要な地域として認識していたことが伺われる。
・また、海からの眺望を強く意識した古墳群の存在や、古墳時代前期に遡る製塩土器の出土は、その背景にある敦賀と「海」との関係性を端的に示している。
発掘調査で見つかった遺跡、古墳からはこうして様々なことが分かっています。
ここ敦賀は「交通の要衝」、「鉄道と港のまち」と言われますが、その歴史や重要さは国内でも有数のもの。
こうした情景を思い浮かべつつ、今を生きる私たちは郷土に誇りを持ち、今そして次代にこの大切な歴史をつないでいかねばなりません。