敦賀空襲から78年

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令和5年第3回(6月)敦賀市議会定例会が閉会。
 
最終日の昨日は、新たに提出された人事案件3件を含む全議案を可決し、22日間の日程を終えました。
 
私のほうは、文教厚生常任委員長として、所管した議案、請願について審査経過・結果を報告したことに加え、会派を代表して請願1件の討論を行ったため、結果、3度登壇の機会をいただきました。
 
委員長報告の際には、議員お二方との質疑の場面もありましたが、委員会での審査内容について、客観的に答弁できたかと思います。
 
また、採決にあたっての討論では、今回これまでにも増して活発な討論があり、これぞ「言論の府」と感じた次第。
 
我が会派も3人が全員討論に立ちましたが、今後もしっかり議論を戦わせ、より良い敦賀に進むよう尽力してまいります。
 
なお、閉会にあたって挨拶に立たれた米澤市長からあったのは、「議会での議論を踏まえ、スピード感を持って各事業を進めていきます。」との言葉。
 
次の9月定例会は、9月8日から10月11日まで34日間の会期で開催される予定ですが、自身も一層、建設的な意見提起をしていかねばと、気持ちを引き締めた次第です。
 

【閉会した本会議場。次に来るのは、敦賀まつりが終わった9月8日。】
 
さて、本日は7月12日。
 
「敦賀市史通史編(下)」には、このように記録されています。
 
敦賀の人びとのあいだには、「こんな小さな港町だから、やられぬだろう」「やられるにしても、北陸地方には金沢や高岡や福井がある。そのつぎだろう」というような気持ちがあった。
 
昭和20年7月12日
 
朝から絹糸のような雨が絶え間なくしとしとと降っていた。西北西の風が時折吹いていた。(中略)午後9時19分、福井県警戒警報が発令されたが、いつも敵機は若狭湾または敦賀湾に機雷を投下して、いずれかに去っていくのが常であった。当日もまた「また来たか」といった気持ちで市民は警備についた。やがて子供や老人が床についてまもない11時12分ごろ、東郷村方面に異様な音響が起こるとともに、パッと明るくなった。
 
これは、先の大戦において、日本海側で初めての空襲を敦賀が受けた日のことを記述したもの。
 
この空襲によって、敦賀は市街地の大半が焦土と化したほか、7月30日、8月8日にも続けて戦火に見舞われ、これら3回の空襲によって、225柱の尊い命が失われました。
 
なお、敦賀空襲を始め、戦争の記憶を風化させないよう、これからの世代に伝えるべく取り組んでおられるのが「敦賀市遺族次世代の会」。
 
平成29年に設立した「次世代の会」は、毎年7月12日に追悼法要を行うほか、先人たちの犠牲に立って今の私たちがあることを語り継ぐべく取り組まれており、その志と活動に心より敬意を表するところ。
 
なお、「次世代の会」の働き掛けもあって、敦賀市においては、本日午前10時に敦賀空襲追悼法要の意味を込め、市内にある屋外スピーカーを使用してサイレンを鳴らすこととしています。
 
戦没者戦災死没者の冥福を祈るとともに、世界の恒久平和を願い、ご家庭や事業所等において、黙とうを捧げていただけますよう、市ホームページでも呼び掛けていますので、市民の皆様におかれましては、暫しお仕事の手を止め、78年前に敦賀であった史実に思いを馳せていただけますようお願いいたします。
 

【令和5年6月16日に米澤市長に表敬訪問された「敦賀市遺族次世代の会」の皆さん。その活動に敬意を表します。(Facebook「敦賀市長の活動日誌」より引用)】