「公文名松ノ木海道遺跡」にて奈良時代にタイムスリップ!

ブログ 敦賀の歴史

昨朝は、雪面を照り返す日差しとはいえ、強く吹く風は冷たく、まだまだ春遠しと感じていたところ、その風は「春一番」だったそう。
 
冷たいと感じた風は、実は南寄りの風で、午前5時までに敦賀市で最大風速8.2mを記録したとのこと。
※ちなみに、この日の最大瞬間風速は南南東の風15.2m(11時33分)
 
福井地方気象台によれば、この春一番は昨年より4日早いとのことで、そう聞けば、厳しい冬から雪解けに向かう切り替わりを感じるところです。
 
また、心配していた敦賀市内の新型コロナウイルス感染拡大も昨日は「ゼロ」。
 
医療機関の迅速なPCR検査対応や市民の皆さまのご協力のもと、大きな波となることなく一旦「ゼロ」に出来たことは大変価値あるもの。
 
これはやはり、高い「市民力」の表れと感じる訳であり、全国で始まったワクチン接種への期待とともに、一日も早く穏やかに過ごせる日が来ることを願うばかりです。
 
さて、そうした中でありましたが、昨日午後は、敦賀市教育委員会文化振興課主催の「公文名松ノ木海道遺跡」現地説明会に参加してきました。
 
この「公文名松ノ木海道遺跡」は、その名の通り、粟野地区の公文名(くもんみょう)区でのアパート建設に伴う事前発掘調査にて、まとまって奈良時代(750年前後)の土器や竪穴式住居などが発見されたもの。
 
実は以前に市立敦賀病院前にある文化振興課分室にて土器の洗浄や観察などをしている様子をブログに記載したことがありますが、そこで洗浄されていた土器が、まさにこの遺跡から出土されたものでした。
 
私は、13時からの現地説明会に参加しましたが、事前に市のホームページに加え、昨日の福井新聞朝刊にも掲載されたこともあり、10時からの1回目は定員25名、11時からの2回目は15名、そして13時からの3回目もほぼ定員を満たすという盛況ぶりで、地域の皆さんの関心の高さが伺えました。
 
聞くところによると、渕上市長も朝一番の説明会にプライベート参加でお越しになられたそうで、市長自らこうして関心を持ってご覧になられることは大変良いことと嬉しく感じた次第(市長、上から目線ですみません)。
 
粟野南小学校近く、住宅地の一角にある現地説明会会場に到着すると文化振興課の皆さんがスタッフとして勢揃いされており、受付での検温、手指消毒に加え、名簿記入のうえ、離隔距離を取るよう注意を促すなどコロナ対策の徹底が図られていました。
 
そして、普段より何かとご教授いただいている文化振興課の中野学芸員の説明のもと、現地説明会がスタート。
 
出土品の紹介では、まず初めに何といっても「赤彩土師器(せきさいはじき)」が見つかったことが一番の成果と説明あり。
 

【蓋付きで発見された「赤彩土師器」】
 
何でも、地方では当時の都である平城京で使用されていた土器と同じものを作るのが困難であったことから、特徴的な色などを後から土器に塗って作成されたものであり、主に官衙(国や群の役所など)での特別な儀式や祭祀に使用されていたと考えられているとのこと。
 
続いては、「圏足円面硯(けんそくえんめんけん)」と「製塩土器」。
 

 
円筒の陶製硯「圏足円面硯」は、その名の通り文字を書くのに使用するもの。
 
「製塩土器」は、海で作った塩をここまで持ってきて、土器を割って取り出していたのか、ここで塩を焼いて不純物を取り除いていたのかまでは定かではないものの、当時の高級品である塩がここにあったことは間違いないと言えます(割れた土器が多数出土)。
 
さらに「鉄鋤(てつすき)」と「刀子(とうす)」。
 

 
「鉄鋤」は今でいうスコップの刃、「刀子」は鉄のナイフで、特に「刀子」は間違った文字を消すために削る道具であったとのこと(今でいうぺーパーナイフ)。
 
他にも、鍛治の際に出来た塊である「鍛治滓(かじさい)」や須恵器の蓋を硯に再利用した「転用硯(てんようけん)」などが紹介されました。
 

 

【出土品説明の様子。ハンドマイクを持たれている方が中野学芸員。】
 
説明によると、今回見つかった出土品は、文字を書く道具や鉄に製塩など、一般の集落で出土するものと異なるものであり、「公文名」という地名自体がお役所的な意味合いを示すことに加え、現実にこうした出土品や竪穴式住居などが発見されることにより、この地が奈良時代の都と関わりが深い、公的な施設が存在していたことを示しているとのことであり、気持ちはまさに約1300年前にタイムスリップ。
 
その後は、実際に試掘されたエリアにて、調査の様子や竪穴式住居(6棟)、平地式住居(1棟)、堀穴柱建物(2棟)があったことが判明したことなど、まさにこの場所にあった歴史事実を感じることが出来ました。
 

 
説明が一通り終了した後も、複数の方から中野学芸員への質問が相次いだことを見て改めて関心と探究心の高さを感じた訳でありますが、この後は博物館のガラス越しになってしまう貴重な出土品を実際に手に取り、触らせてくれる機会など滅多にないものであり、こうした場を設定いただいた文化振興課さんには感謝を申し上げる次第であります。
 
この公文名が敦賀のお役所的存在であったことはまず間違いなく、そうすると「芋粥」で有名な藤原利仁と都からお招きした五位の関係を察するに、この敦賀は都からも一目置かれる都市であったのではないかと、さらに興味が湧きます。
 
2月末で発掘調査を終えると、その後は埋め戻されアパートが建設されます。
 
そう思えば尚のこと、約1300年前の敦賀・粟野の歴史を紐解く遺跡とこうして直接出会えたことは、このうえない経験。
 
文化財から浮かぶ私たちが住むまちの歴史や風土、そしてそこに感じるロマンを楽しみながら、今後も大切な存在として語り生かしていきたいと思います。