三島由紀夫氏の決起から50年

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高校野球で茨城の取手二高、常総学院の監督として春1度、夏2度の甲子園大会優勝を成し遂げた木内幸男さんが、24日肺がんのため茨城県取手市の病院で死去されました。
 
享年89歳。
 
名将木内監督と言えば、何といっても「木内マジック」と呼ばれる戦術。
 
教え子を信じ、相手との力関係の中でどうやれば勝てるかを考え続け、練習から選手を観察して能力を引き出したうえで、大胆な選手起用や戦法にて勝利に導くメイクドラマは、高校野球ファンで無くとも知るところ。
 
取手二高監督時代の1984年夏には、とうとうあの桑田、清原の「KKコンビ」を擁するPL学園を破って初の全国制覇達成。
 
ブルーのユニフォームの無名高があれよあれやと勝ち進み、スター軍団PLまでをも倒したシーンは、当時小学生だった私の記憶にも鮮明に残っています。
 
2011年夏まで何と80歳まで指揮を採り、春7度、夏15度の甲子園出場で歴代7位の通算40勝を挙げ、数々の記憶に残る名試合と選手を育て上げたその功績を偲ぶとともに心より哀悼の意を表するところです。
 
さて、話しは変わり、今日11月25日は三島由紀夫氏の決起から50年、言い換えれば没後50年となります。
 
昭和45年に東京・市ヶ谷の陸上自衛隊施設に立て籠もり自決した壮絶な生き方は、語るだけ野暮なことかもしれませんが、戦後日本の偽善を憂い、自決の1週間前の対談では、「命の惜しくない人間がこの世にいるとは思えない。だけど、男にはそこを振り切って、敢えて命を捨てる覚悟も必要なんです」と決意を口にしていたそう。
 
さらに、「僕のやろうとしていることは、人には笑われるかもしれないけども、正義の運動であって、現代に正義を開眼するんだという目的を持っているんです」と続けて語ったことが記録にも残されています。
 
まさに侍の精神をもって、覚悟を貫き、自らの命と引き換えにしてでも日本国民に伝え、残したかったこととは何なのか。
 
命日の今日、そうしてこの生き方を思い返し、今の日本と照らし合わせて考えることこそ、三島氏が残した覚悟に応えることであると受け止めるところです。
 
奇しくも昨日は中国の王毅外相との会談が行われましたが、尖閣諸島を巡っては自国の立場を一方的にまくし立てる王外相に対し、茂木外相も中国側の前向きな行動を強く求めるなど、両国の応酬は激しいものとなっています。
 
一方、国会では安倍前総理の「桜」の問題がぶり返してはいるものの、この後の審議日程においては憲法改正に関連する国民投票法改正などの重要案件が控えている状況にあります。
 
冒頭の木内監督ではありませんが、「教え子(国民)を信じ、相手(他国)との力関係の中でどうやれば勝てるか(優位に立つ)を考え続ける」こともこうした問題を考えるうえでのヒントなのかもしれません。
 
いずれにしても、自国の領土、国民の生命と財産を守るという国家の根幹に関わるこれら案件に対し、三島氏が生きていたならばどう対応するか。
 
国会が政局ごとに振り回されることなく、本質論議されることを願うとともに、私自身、地方議員のひとりとして国家観をもって考えていきたいと、命日の今日、故人から学ぶ次第です。
 

【映画「三島由紀夫と東大全共闘50年目の真実」の1シーンより】