幕末の悲劇「天狗党」〜武田耕雲斎からの手紙〜

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7月5日に住所地が大阪府の方で1人、新型コロナウイルス新規感染のあった敦賀市ですが、一昨日8日は3人、昨日は4人と、ここ1週間で8人の新規感染者数となっています。
 
感染のあった市内のバーについては、既に公表もされているところですが、こうして店舗名を明らかにされることで濃厚接触者や推定者の特定がしやすくなり、ひいては感染拡大を最小限に留めることにつながることから、どのような形で感染されたのかは置いたとして、勇気を持って公表されたことを感謝するところであります。
 
今日も複数名の新規感染は免れないところかと推測しますが、数に一喜一憂することなく、対策の基本行動遵守に努めていきましょう。
 
さて、市内の状況がこうなってくると、中々外出するのも慎重になろうかと思いますが、感染リスクの低い場所で余暇を楽しむとの観点から皆さんにご紹介したいのが、市立博物館で開催されている特集展示「天狗党~武田耕雲斎からの手紙~」。
 
「幕末の悲劇」とも称されている水戸「天狗党」ですが、元治元年(1864年)に藤田小四郎らを中心に筑波山で挙兵した後、京にいる一橋慶喜を頼り、朝廷に尊王攘夷を訴えようと約千名が行軍、その年の12月、風雪の中、木ノ芽峠を越えて敦賀の新保村に着陣したものの、そこで幕府軍に捕らえられ首領の武田耕雲斎、藤田ら天狗党は、そこで処刑されるとのエピソード。
 

【展示物の写真撮影はNGにつき、入口でのみ撮影】
 
この特集展示では、天狗党や当時の水戸藩の事情、挙兵から行軍、新保で止まる行軍のあゆみなどの流れに沿い、武田耕雲斎が加賀藩を通じて追討軍総指揮・一橋慶喜の元へ届けられた手紙を始め、博物館に寄託・寄贈された60に及ぶ貴重な関連資料が展示されており、天狗党降伏までの様子を伺うことが出来ます。
 
また、NHK大河ドラマで話題の渋沢栄一の従兄・成一郎(喜作)が、栄一と共にこの時期、一橋慶喜の部下として働いており、天狗党と間違えられ捕らえられるなど、知られざる天狗党関連エピソードも一部パネル展示で紹介されています。
 
私も先日観覧してきましたが、幕末の動乱期にタイムスリップしたかのような気分になりました。
 
武田耕雲斎は那珂湊(茨城)での戦争の際、「大いなる紅葉二三を縫った白の陣羽織」を着用しており、展示コーナでも所用の陣羽織及び軍扇が展示されていましたが、この陣羽織には、水戸藩主斉昭が急進的な幕政改革を幕府に咎められたことにより、致仕・謹慎を命じられ、これに連座して謹慎となった時に耕雲斎が詠んだ歌「木かくれて常には見えぬ紅葉はの散りてこそ知れ赤き心を」の思いが込められていたことを知りました。
 
まさに「散って燃ゆる」のは陣羽織のみならず、耕雲斎の生き様自体を表したものであると、純粋な「誠」の文字を貫いた武士道に心打たれたところであります。
 
この特集展示の会期は、8月3日(火)まで。
 
是非皆さんも幕末の悲劇と敦賀の関わりの歴史を振り返ってみてはいかがでしょうか。
 
※参考まで、2019年度気比史学会主催の市民歴史講座「峠を越えた群像」の第4講「小浜藩から見た天狗党」を聴講した際に、内容を書き留めたブログ(2019年11月3日)を以下にリンクします。
本来の敵は外国人であったはずなのに、何故日本人同士が戦わなくてはならなかったのか、純粋に国を思う志士と幕末の混乱など、天狗党がいかに深く、複雑な環境から生まれたのかをご理解いただけるかと思いますので、博物館に行かれる前に是非、お読み取りいただければ幸いです。
 
 →→→天狗党の志士に思いを馳せる(やまたけブログ)

名勝気比の松原と勝海舟

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誰だ 誰だ 誰だ〜♬
 
から始まる歌と言えば、私たち世代なら誰しも知る「科学忍者隊ガッチャマン」のテーマソング。
 
車中では結構、敦賀FMハーバーステーション(77.9MHz)を聴いていることが多いのですが、昨日午前中はちょうどアニソン(アニメソング)特集の時間があり、そこで流れてきたのが冒頭のガッチャマン。
 
元祖アニソンとも言える歌ながら新鮮で、歌手は「泳げたいやき君」で有名な子門真人さん、作詞はタツノコプロダクション文芸部、作詞は小林亜星さんという豪華メンバーであることも改めて知った次第。
 
この歌の何が良いかと言えば、サビの「地球はひとつ 地球はひとつ」と繰り返される部分。
 
今に置き換えれば、この新型コロナや環境問題を始め、地球規模で取り組まねばならない課題が多くあり、何か時代を示唆するかのような歌詞に思えたところです。
 
ガッチャマンにはなれませんが、科学忍法はなくとも科学的に解決することは出来るとの思いを持って、苦しい時は、この歌を口ずさみながら頑張りたいと思います。
 
そうした昨日は公的予定なしということで、午後は妻と愛犬きゅうとで松原公園内を散歩してきました。
 
時間は14時頃でしたが、駐車場はほぼ満車、県外ナンバーの割合も高かったように思えましたが、屋外でマスク着用のうえ、ご家族やグループ単位で浜辺を楽しんでおられること自体、極めて感染リスクが低く、目くじらを立てるようなことではないとの考え。
 
釣り糸を垂れる人、波打ち際で遊ぶ人、ボーっと海を眺めている人など、楽しみ方は様々なれど、こうして敦賀の自慢の場所に来て、思い出のひとつになることは嬉しいことであり、コロナが明けた際にも是非、リピーターとしてお越しいただきたいものです。
 
愛犬との散歩のほうは、グルっと松林の中の遊歩道を歩き、最後は「駐輦(ちゅうれん)の碑」まで。
 
日本三大松原で有名な「気比の松原」ですが、実は明治11年(1878年)には明治天皇が、明治24年(1891年)には勝海舟がこの地を訪れていて、勝海舟においては、かつて明治天皇が松原の景色をご覧になったことに思いを馳せ、次のような意味の漢詩を残しており、その証がこの「駐輦の碑」に刻まれています。
 
(以下、碑文に刻まれた漢詩の意味)
ここは、かつて明治天皇が、お乗物を留めて景色をご覧になられたところである。
国民は明治の善政を喜んでいる。
松風の音はあたかも音楽を奏でているようであり、波の音もこれに調子を合わせて、まさに洋々たる日本の前途を祝しているようである。
 

【浜グラウンドの横に建立されている「駐輦の碑」】
 
意外と敦賀市民も知らない、このような歴史やエピソードをもっとPRして、観光動線にも乗せられないかと思うと同時に、こうした歴史を知れば知るほど、より郷土に愛着が増すとの思いで紹介させていただいた次第。
 
先の勝海舟の言葉「洋々たる日本の前途を祝している」とは、日本の玄関口、国際貿易港として栄ええつつあった敦賀のことを頭に浮かべてのことと存じますが、そう言われれば尚のこと、このまちに誇りと帰属意識を強く感じる訳であります。
 
今の予定では、5月29日に東京オリンピック聖火リレーが、この松原を駆けることとなっています。
 

【松原海岸の様子(花城側を見る)】
 
多くの人が集まらないようにしないといけないのが大変残念ではありますが、風光明媚というに留まらず、気比の松原に詰まる歴史やエピソードが浮かび上がるように、全国に発信されることを切に望むところです。
 
敦賀市にお住まいの皆さんにおかれましては、是非また気比の松原へ、そして「駐輦の碑」にお立ち寄りいただき、明治の一傑の思いを感じていただければ、これ幸いに思います。
 

【おまけ:浜風に立髪なびかす愛犬「きゅう」。敦賀湾を望み何を思う(何も思わないか…)。】

トンネルは日本人だけの手で

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3月14日。
 
今日は、日本原電の敦賀発電所1号機(以下、敦1)が営業運転を開始した日。
 
この日を誕生日とすると、敦1は「51歳」。
 
私が2歳の時には、我が国初の商業用軽水炉として運転を始め、高度成長期の電力供給を支えてきたことになります。
 
2015年4月27日には約45年間の運転を終え、現在は廃止措置を進めているところですが、原子力黎明期にあって、国益に資する新たなエネルギー源を確立するため、初めて尽くしの発電所建設から運転までを乗り越えた先人に敬意を表するとともに、社員はもとより協力会社、メーカーの皆さんまで多くの人に愛され、支え続けられた「敦1」の存在を誇りに思うところです。
 
廃止措置は、全体期間を24年間計画として進められていますが、感謝の思いを忘るることなく、全ての工事を終えるまで見守っていきたいと思います。
 
さて、話しは変わり、昨日は観光ボランティアガイドつるが主催の「鉄道カフェ」に参加してきました。
 
この「鉄道カフェ」は、「港と鉄道の街つるが」を広く市民の皆さんに知っていただくことを目的とし、平成26年から開催しており、今回で21回目になるとのこと。
 
令和2年度としては2回目となる昨日のテーマは、「日本遺産認定“現存する日本最古の鉄道トンネル”〜日本人だけで作ったトンネル群〜」。
 
福井工業高等専門学校の武井幸久名誉教授による約1時間半の講義を拝聴し、鉄道遺産についてのみならず、敦賀の歴史の捉え方や日本人の手だけでトンネルを作った敦賀人の気骨までをも知ることができ、大変元気の湧く時間となりました。
 

【会場の松原公民館ホールは、定員30名ほぼピッタリの盛況ぶり】
 
以下に印象に残った言葉、ポイントのみご紹介します。
 
1.歴史、人と場の見方・考え方
 
◉未来は常に過去を変えている(マチネの終わりに:毎日新聞社出版2016より)。
◉姿勢の三軸は、「社会性ー圏域性」、「能動性ー受動性」、「積極性ー消極性」。
◉変わらないものとして、景観十年、風景百年、風土千年。
◉敦賀は、古くより地政学的に交通の要衝であったことから、江戸、明治と国の主導が強く、「やる気」を無くしていたのではないか。
◉「消極的な能動性⇄消極的な受動性」、「積極的な能動性⇄積極的な受動性」とあるが、敦賀は前者(消極的)の傾向が強かった。
 
2.敦賀になぜ、かくも早く鉄道が
 
◉越前国海陸図の存在。
◉日本海の海運、疋田舟川(琵琶湖と日本海を運河で結ぶ計画)など、敦賀は物資輸送における重要な結節点としての役割。
◉1814年にG.スチーブンソンにより蒸気機関車発明⇨1854年にペリーが蒸気機関車の模型を将軍に献上。
◉1869年(明治2年)政府の鉄道敷設計画(助言者は「鉄道の父」井上勝)に「幹線ハ東西両京ヲ連結シ、枝線ハ東京ヨリ横浜ニ至リ、又、琵琶湖辺ヨリ「敦賀」ニ達シ、別ニ一線ハ京都ヨリ神戸ニ至ルベシ」。
 
3.近代と鉄道
 
◉鉄道計画については、1878年(明治11年)「海運網と連絡する鉄道敷設重視」に政策転換したことにより、敦賀ー米原間(北陸線)の鉄道敷設工事費の計上。
◉1881年(明治14年)には小刀根トンネル(現存する日本最古のトンネル)、1884年(明治17年)には柳ヶ瀬トンネル(当時、国内最長のトンネル)が完成し、敦賀(金ヶ崎)ー長浜間開業。
◉鉄道延伸により、敦賀ー長浜間から北陸線へ、敦賀では日本最初の私設銀行「大和田銀行」創設。
 
4.トンネルは日本人だけの手で
 
◉「鉄道の父」井上勝の言葉「汽車、レール、橋梁の資材は全て外国製品です。外国に支払うばかりで、国内の技術も向上しない。西洋の技術を越えるものを、日本人の手で作らねばならない」。
◉敦賀人の気質として、攘夷の意識を強化される経験から、何事も「日本人だけの手で」との考えが強く、その実践は既に始められていた。
◉現に、明治期における近代遺産第1号「黒崎(阿曽)トンネル」は、日本人の手だけで1876年(明治9年)に手掛けられている。
◉日本人だけで設計・施工した国内初の「小刀根トンネル」、その後の「柳ヶ瀬トンネル」に至っては今なお、道路トンネルとして使用されている。
 
一部、「近代とは何か」など先生のレベルについていけない部分もありましたが、講義はざっとこのような内容でした。
 
あと余談として、現在の北陸自動車道は旧北陸本線に沿った形で整備されていますが、当初計画時には「国道365号線沿いルート」もあったそうで、その際、当時県会議員をされていた高木孝一氏(後の敦賀市長で現衆議院議員の高木毅代議士の父)が県会議長(元衆議院議員の若泉征三氏の父)に食ってかかり、北陸本線ルートに引き戻したとのエピソードも紹介いただき、改めて高木孝一元市長の政治力の強さと肝っ玉を知ることが出来ました。
 
結びに先生は、大和田荘七氏がこの敦賀を大きく発展させるべく取り組んだことも例に挙げられ、北陸新幹線開業後10年は東京行きの始発となるこの敦賀を「消極的な能動性⇄消極的な受動性」から「積極的な能動性⇄積極的な受動性」に転換し、日本国内はもとより、世界に訴えていけるようなまちにしていかなくてはならないと述べられました。
 
これには全く同感。
 
敦賀人の気骨や歴史を胸に置き、冒頭の敦1とも掛け合わせ、チャレンジ精神があれば「宿命は反転可能」の思いをもって、こうして得たことを自身の取り組みに生かしていきます。
 

【以前、敦賀駅構内に掲示されていたポスター。鉄道も原子力も先人はこうして挑戦し、時代を乗り越えてきたのだ。】

「公文名松ノ木海道遺跡」にて奈良時代にタイムスリップ!

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昨朝は、雪面を照り返す日差しとはいえ、強く吹く風は冷たく、まだまだ春遠しと感じていたところ、その風は「春一番」だったそう。
 
冷たいと感じた風は、実は南寄りの風で、午前5時までに敦賀市で最大風速8.2mを記録したとのこと。
※ちなみに、この日の最大瞬間風速は南南東の風15.2m(11時33分)
 
福井地方気象台によれば、この春一番は昨年より4日早いとのことで、そう聞けば、厳しい冬から雪解けに向かう切り替わりを感じるところです。
 
また、心配していた敦賀市内の新型コロナウイルス感染拡大も昨日は「ゼロ」。
 
医療機関の迅速なPCR検査対応や市民の皆さまのご協力のもと、大きな波となることなく一旦「ゼロ」に出来たことは大変価値あるもの。
 
これはやはり、高い「市民力」の表れと感じる訳であり、全国で始まったワクチン接種への期待とともに、一日も早く穏やかに過ごせる日が来ることを願うばかりです。
 
さて、そうした中でありましたが、昨日午後は、敦賀市教育委員会文化振興課主催の「公文名松ノ木海道遺跡」現地説明会に参加してきました。
 
この「公文名松ノ木海道遺跡」は、その名の通り、粟野地区の公文名(くもんみょう)区でのアパート建設に伴う事前発掘調査にて、まとまって奈良時代(750年前後)の土器や竪穴式住居などが発見されたもの。
 
実は以前に市立敦賀病院前にある文化振興課分室にて土器の洗浄や観察などをしている様子をブログに記載したことがありますが、そこで洗浄されていた土器が、まさにこの遺跡から出土されたものでした。
 
私は、13時からの現地説明会に参加しましたが、事前に市のホームページに加え、昨日の福井新聞朝刊にも掲載されたこともあり、10時からの1回目は定員25名、11時からの2回目は15名、そして13時からの3回目もほぼ定員を満たすという盛況ぶりで、地域の皆さんの関心の高さが伺えました。
 
聞くところによると、渕上市長も朝一番の説明会にプライベート参加でお越しになられたそうで、市長自らこうして関心を持ってご覧になられることは大変良いことと嬉しく感じた次第(市長、上から目線ですみません)。
 
粟野南小学校近く、住宅地の一角にある現地説明会会場に到着すると文化振興課の皆さんがスタッフとして勢揃いされており、受付での検温、手指消毒に加え、名簿記入のうえ、離隔距離を取るよう注意を促すなどコロナ対策の徹底が図られていました。
 
そして、普段より何かとご教授いただいている文化振興課の中野学芸員の説明のもと、現地説明会がスタート。
 
出土品の紹介では、まず初めに何といっても「赤彩土師器(せきさいはじき)」が見つかったことが一番の成果と説明あり。
 

【蓋付きで発見された「赤彩土師器」】
 
何でも、地方では当時の都である平城京で使用されていた土器と同じものを作るのが困難であったことから、特徴的な色などを後から土器に塗って作成されたものであり、主に官衙(国や群の役所など)での特別な儀式や祭祀に使用されていたと考えられているとのこと。
 
続いては、「圏足円面硯(けんそくえんめんけん)」と「製塩土器」。
 

 
円筒の陶製硯「圏足円面硯」は、その名の通り文字を書くのに使用するもの。
 
「製塩土器」は、海で作った塩をここまで持ってきて、土器を割って取り出していたのか、ここで塩を焼いて不純物を取り除いていたのかまでは定かではないものの、当時の高級品である塩がここにあったことは間違いないと言えます(割れた土器が多数出土)。
 
さらに「鉄鋤(てつすき)」と「刀子(とうす)」。
 

 
「鉄鋤」は今でいうスコップの刃、「刀子」は鉄のナイフで、特に「刀子」は間違った文字を消すために削る道具であったとのこと(今でいうぺーパーナイフ)。
 
他にも、鍛治の際に出来た塊である「鍛治滓(かじさい)」や須恵器の蓋を硯に再利用した「転用硯(てんようけん)」などが紹介されました。
 

 

【出土品説明の様子。ハンドマイクを持たれている方が中野学芸員。】
 
説明によると、今回見つかった出土品は、文字を書く道具や鉄に製塩など、一般の集落で出土するものと異なるものであり、「公文名」という地名自体がお役所的な意味合いを示すことに加え、現実にこうした出土品や竪穴式住居などが発見されることにより、この地が奈良時代の都と関わりが深い、公的な施設が存在していたことを示しているとのことであり、気持ちはまさに約1300年前にタイムスリップ。
 
その後は、実際に試掘されたエリアにて、調査の様子や竪穴式住居(6棟)、平地式住居(1棟)、堀穴柱建物(2棟)があったことが判明したことなど、まさにこの場所にあった歴史事実を感じることが出来ました。
 

 
説明が一通り終了した後も、複数の方から中野学芸員への質問が相次いだことを見て改めて関心と探究心の高さを感じた訳でありますが、この後は博物館のガラス越しになってしまう貴重な出土品を実際に手に取り、触らせてくれる機会など滅多にないものであり、こうした場を設定いただいた文化振興課さんには感謝を申し上げる次第であります。
 
この公文名が敦賀のお役所的存在であったことはまず間違いなく、そうすると「芋粥」で有名な藤原利仁と都からお招きした五位の関係を察するに、この敦賀は都からも一目置かれる都市であったのではないかと、さらに興味が湧きます。
 
2月末で発掘調査を終えると、その後は埋め戻されアパートが建設されます。
 
そう思えば尚のこと、約1300年前の敦賀・粟野の歴史を紐解く遺跡とこうして直接出会えたことは、このうえない経験。
 
文化財から浮かぶ私たちが住むまちの歴史や風土、そしてそこに感じるロマンを楽しみながら、今後も大切な存在として語り生かしていきたいと思います。

「文化財保護法改正案」が閣議決定 〜無形のものを守り、生かすことの大切さ〜

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法改正と言えば、最近ではもっぱらコロナ特措法(正しくは新型インフルエンザ等対策特別措置法)のことが取り上げられていた訳ですが、昨日新聞を読んでいると私にとって嬉しい法改正の動きが掲載されていました。
 
それは「文化財保護法改正案」であります。
 
この改正案は、演劇や音楽などの無形文化財と、食文化やお祭りなどの無形民俗文化財を保存・活用すべく、新たに「登録文化財」の対象に加えることで幅広く保護の網を掛けるのが狙いであり、政府は5日に閣議決定、今通常国会での成立を目指すとのこと。
 
さて、この文化財保護法に関しては、昭和25年に制定されて以降、その名の通り我が国の貴重な文化資源を大切に保存することを目的とし、名勝や景観なども組み入れ枠を広げてきた訳ですが、直近では平成30年に改正されています。
 
改正に至る審議会においては、「文化財の確実な継承に向けたこれからの時代にふさわしい保存と活用の在り方について」、「これまで価値付けが明確でなかった未指定を含めた文化財をまちづくりに活かしつつ、地域社会総がかりで、その継承に取り組んでいくことが重要」との答申がされました。
 
これを踏まえ、改正法案の趣旨を「過疎化・少子高齢化などを背景に、文化財の滅失や散逸等の防止が緊急の課題であり、未指定を含めた文化財をまちづくりに活かしつつ、地域社会総がかりで、その継承に取組んでいくことが必要。このため、地域における文化財の計画的な保存・活用の促進や、地方文 化財保護行政の推進力の強化を図る。」とし国会に提出。
 
いくつかの新たな条項の中で最も大きかったのが、「市町村は、都道府県の大綱を勘案し、文化財の保存・活用に関する総合的な計画(文化財保存活用地域計画)を作成し、国の認定を申請できる。計画作成等に当たっては、住民の意見の反映に努めるとともに、協議会を組織できる(協議会は市町村、都道府県、文化財の所有者、 文化財保存活用支援団体のほか、学識経験者、商工会、観光関係団体などの必要な者で構成)」との内容が盛り込まれたことでした。
 
私はこの点を取り上げ、まさに全国平均の約3倍の指定・登録文化財を有する敦賀市として、「地域計画」を策定のうえ総合的且つ体系的な施策として取り組むべきと意見提起したところ。
 
これに対し市からは、「他市町の取り組みも調査のうえ、来年度より取り組む」との前向きな答弁を頂戴し、方向性や思いは同じとありがたく思った次第です。
 
経過が長くなりましたが、こうした取り組みをさらに推し進めるべく、今回の改正案では、とりわけ「無形」のもの、先ほどのお祭りなどを始め、茶道や華道、書道のほか郷土料理、日本酒醸造なども対象に想定され、さらには現代アートやファッションなどについても、今後文化的価値を見極めていくこととなっています。
 
冒頭、「私にとって嬉しい」と表現したのは、まさにこうして地域に潜在的にある資源(文化)に法律がスポットをあて守り、生かそうとしている点にあります。
 
寺院や仏閣などに代表される「有形」のものと違い、生活文化は消滅しやすいと言えます。
 
つまりは、建造物だけを守っても、その中で営まれる生活文化が消えてしまっては、生活に密着した魂のない抜け殻(建物)だけが残ることになることを考えれば、やはり文化は人や生活とともにあるものと考えます。
 
平成30年、そして令和3年と続く「文化財保護法」改正は、時代の変化を見極め、いち早く保護の仕組みを整備し我が国の豊富な文化を守ろういう、国の覚悟や意気込みを感じるところであり、現代に生きる私たち自身こそその趣旨を正しく理解し、地域総ぐるみで役割を果たすことこそが、次代につなぐ、つまりは歴史をつなぐことであると思って止みません。
 

【写真は、敦賀市阿曽地区の伝統行事「相撲甚句」。300年以上前から続くとされ、少子高齢化の危機にあっても知恵を絞り継承されています。】

文化と歴史をつなぐ大切さ 〜今年度の市民歴史講座を終えて〜

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「愛発の関、松原客館、金ヶ崎城など、日本史を動かした敦賀の史跡は歴史的魅力である」との講師のお言葉から始まった、昨日の市民歴史講座。
 
昨日は、今年度最後の市民歴史講座が市立図書館研修ホールにて開催され、受講してまいりました。
 
この日は、講師に元福井県埋蔵文化財調査センター所長の山口充先生をお招きし、「元亀争乱から450年 〜元亀争乱と越前朝倉攻め〜」をテーマに、南北朝、戦国時代の戦いの舞台「金ヶ崎城」を巡る史実、最後は朝倉義景軍vs織田信長軍の戦い「元亀争乱」により陥落したことなど興味深く聴講。
 
新型コロナ対策により、通常100人定員を半分の50人に減員しての開催となりましたが、早々に定員を満たした会場の皆さんも熱心に聞かれていました。
 

 
この市民歴史講座については、これまでも概略メモ形式にて書き留めてきていることから、今回も以下に少々書き置かせていただきます。
 
【山口先生のお話しから】
◉敦賀の歴史的魅力は、愛発関、松原客館、金ヶ崎城など日本史を動かした敦賀の史跡。
◉愛発の関は、都を守るために北陸道、東海道、東山道から都に入る位置に置かれた古代の三関で、不破の関、鈴鹿の関とともに敦賀の愛発に置かれた(愛発の関は発見されていない)。
◉松原客館は、渤海国から入国した渤海使を滞在させる迎賓館で、敦賀が古代から国際貿易港であった証(松原客館も発見されていない)。
◉金ヶ崎城は、元亀争乱の始まりで全国制覇の舞台となった城。
◉「城」の始まりは「戦」。弥生時代中頃、共同体の大規模集落を見守ることを目的とした。
◉外国からの侵攻にも備えた城。朝鮮式山城、中国式山城、水城など。天智天皇664年「大堤を築きて水を貯へしむ」などの記述が残っている。
◉兵法家は江戸時代に入ると仕事がなくなり、軍学者と呼ばれる職業にて講義などで稼いだ。この時代に分類される城は、平城、平山城(敦賀城はこれにあたる)、山城。
◉金ヶ崎城は、源平の合戦で源義仲に敗れた平通盛が敦賀城に依ったことや南北朝の合戦では、南朝方の恒良親王、尊良親王、新田勢、気比社勢が籠った。また、戦国時代は敦賀郡司の城であり、最後は元亀争乱で陥落。
◉南北朝時代も戦国時代も、金ヶ崎を攻める戦略は手筒山からであった(つまり、手筒を落とせば、金ヶ崎は手に入る)。
◉元亀争乱の際、朝倉景恒が1日で降参、開城してしまったのは、歴史の経験から実は戦っても無理だと知っていたからではないか。
◉金ヶ崎城落城後に築城された敦賀城(現在の西小学校辺り)は、後に破却されたとあるが、実際はされていない。
 
私の理解において、講義のポイントはこのような内容であったかと思います。
 
こうして今年度は「元亀争乱」をテーマに4講シリーズで開催された歴史講座をすべて聴講してきた訳ですが、第1講の朝倉家側から見た元亀争乱に始まり、2講は若狭国、3講は近江国それぞれの視点から、そして最終4講は、元亀争乱の始まりで全国制覇の舞台となった「金ヶ崎城」と、何かフルストーリーが完結した気持ちとなりました。
 
また、冒頭にありました山口先生からの「日本史を動かした敦賀の史跡は歴史的魅力である」とのお言葉を聞き、改めて我がまちを誇らしく思った次第です。
 
閉講のご挨拶をされた気比史学会の糀谷好晃会長の言葉によれば、講師の山口先生とは40年以上のお付き合いとのこと。
 
当時、高度成長期にあって、この敦賀の地も北陸自動車道や国道8号バイパスなどの建設のため「開発と破壊」、即ち開発から埋蔵文化財を保護するための戦いでもあったことも振り返られ、今こうして山口先生始め、文化財保護に関わる専門家や気比史学会など民間団体が力を合わせ、敦賀の財産を守ってきてくれたことに改めて敬意を表するところであります。
 
また、こうした時代も含め、先人たちが守り、つないできた文化財や歴史を守り、これからも世代をつなぎ、文化として発信していくことは、私たち世代の責務、まさにまちの根幹に関わる重要なことであり、そうした意味において、毎年テーマを変え、36年もの間「市民歴史講座」を継続されている気比史学会の皆さんには心より感謝いたします。
 
私も今定例会の一般質問で、まさに「文化財行政」を取り上げ、体系立てて「文化と歴史をつなぐ」ことを提言したところでありますが、今後少しでも役割を果たせるよう、自ら行動し尽力していきたいと思います。

先人が守り抜いた国指定史跡「向出山1号墳」

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宇宙からの話題は、やはり興味が尽きないもの。
 
大気圏を「火球」となって通過し、オーストラリア南部ウーメラ近くの砂漠に着陸した小惑星探査機「はやぶさ2」の試料カプセルはその後無事発見され、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の津田雄一プロジェクトマネージャは記者会見で、「カプセルは完全な状態で帰ってきた」、「玉手箱を(地上に)降ろすことが出来ました」と成功した喜びを述べられました。
 
この世界初の偉業は、国内はもとより、NASAは「歴史的」、ニューヨークタイムスは「宇宙探査における日本の地位は、米、欧州、ロシアと並び中心的なプレーヤーになるだろう」と賞賛の言葉が挙げられています。
 
初代「はやぶさ」で経験したことを次号機に生かし、「採点するなら100点満点で1万点だ」と笑顔で語れる成果を挙げたJAXAのプロジェクトチームの皆さんに改めて大きな拍手を送りたいと思います。
 
持ち帰った試料は「0.1グラム」
 
太陽系の誕生を探る今後の分析調査にも大きな期待を寄せ、新たな発見に興味を持って待ちたいと思います。
 
さて、今日も「発見」つながりとなりますが、話しの舞台を敦賀に。
 
皆さんは、泉ヶ丘病院に向かう途中にある「向出山1号墳」をご存知でしょうか。
 
昭和29年以来、数回の発掘が行われ、発見された2基の石室からは、総金張りの金銅装頸甲など全国的に見ても希少な出土品が確認された古墳。
 
現在は国指定史跡となっています。
 


 
古墳時代中期(約1500年前)において、その装束(金銅装)を身につけられることは、敦賀を治めていた角鹿の王が朝廷の中でも極めて高い地位にあった可能性があるとされています。
 
また、こうした装束以外にも高価で美装化された出土品が多く発見されていることから、大陸側とも密接な関係にあったことも推測されており、まさにその当時から交通の要衝として重要な地域であったことが分かるとされています。
 
実際、敦賀平野と敦賀湾を見下ろすこの場所(標高約70m)に立つと、古代敦賀地方にあって首長の勢力が絶大であったことなどが思い返されるようで、必然的にここに埋葬されたことを理解した次第です。
 

 
こうして発見された敦賀が誇る貴重な史跡ですが、昭和30〜40年代には近隣の観光施設開発や高速道路開発のため、失う危機さえあったとのことであり、そうした存亡のピンチを先人たちが必死で守ってくれたとの経緯も以前に知ったところ。
 
単に古代ロマンを感じる貴重な場所だけではなく、敦賀がどんな土地であったのかを示すため脈々と継承されてきたのがこの古墳群であると考えれば、この先も絶対に無くしてはならないもの。
 
明日の一般質問に「文化財行政」を取り上げた根幹に関わる部分でもありますが、一線級の古墳を守るためにご尽力された方々の苦労も踏まえ、今後も大切にすることは勿論、より多くの市民の皆さんにこの史実を知っていただけるよう「活用」することも大事なこと。
 
「発見」と「継承」
 
いずれも、情熱とチャレンジ精神無くして成功無しとの思いのもと、こうしたテーマにしっかり取り組んでいきたいと思います。

「文化振興課分室」に歴史とロマンあり

ブログ 敦賀の歴史

ここに来て「桜を見る会」を巡る検察の動きが活発化しており、東京地検特捜部が安倍晋三前首相本人の任意聴取を要請したことが3日、関係者への取材で分かったとの報道。
 
前夜の夕食会の収支を政治資金収支報告書に記載しなかったとして、特捜部が政治資金規正法違反(不記載)の疑いで、後援会代表を務める安倍氏の公設第1秘書を立件する方針を固めたことも判明しています。
 
本件に係る第一報では、公職選挙法と政治資金規正法と2つの違反で捜査が行われていたとありましたが、ここ数日は政治資金規正法に絞られているようであり、連座性や当選無効までの可能性は消えたのかなと思うところですが、いずれにしても前総理大臣の徴取は異例のこと。
 
また、同じ「金」に関わる問題では、鶏卵生産大手「アキタフーズ」(広島県福山市)のグループ元代表が元農林水産相の吉川貴盛衆院議員(自民、北海道2区)に現金500万円を提供していた疑惑報道。
 
当時の吉川氏の大臣室でも授受が行われていたことも分かったとしており、東京地検特捜部が経緯の解明を進めています。
 
大臣室での現金授受が本当にされていたとすれば、「ドラマの悪代官のようだ」と笑える問題では決してありません。
 
野党は、5日が会期末となる臨時国会の会期を延長することで調査したとのことですが、いつまで国民の皆さんから呆れられるような「政治と金」の問題を繰り返すのか。
 
私自身も含め、政治に関わる全ての方が襟を正して行動せねばと思う次第です。
 
さて、話しは変わりまして、来週の一般質問でも取り上げる「文化財」について。
 
以前より関心を持っていたテーマであることは昨日も述べたところであり、質問で取り上げるにあたっても、福井県や先進的に取り組みを進めている小浜市や若狭町、さらには市内の有識者の方にもヒヤリングを行い、自身の考える方向との整合性を確認してきたところです。
 
文化や歴史と同じく、聞けば聞くほど奥が深く、知らないことが沢山ある訳ですが、そのひとつが先日お伺いした市立病院前にある「文化振興課分室」の存在。
 
ここでは、市内の発掘作業で出土した資料の洗浄や復元作業、調査成果を公にするための作業を行っているのですが、お伺いした際には、公文名のアパート建設の試掘にて発見された出土品の復元作業が行われていました。
 

【ひとつ一つのパーツを分類。何とこの文字は筆で書いているとのこと!】

【作業場の全景。出土品が所狭しと並べられていました】
 
バラバラになった奈良時代(確かそう仰っていた)の土器を丁寧に洗浄、分類整理し、パーツを組み合わせ復元していく作業はまさに「気の遠くなる」作業。
 

【組み立ての様子。全てのパーツが揃わない場合は、欠損部分をパテで成形】
 
歴史を検証していくことの大変さや重要性を肌感覚で感じた次第です。
 
先人の皆さんを始め、こうして文化財保護にご尽力いただける方の存在があって、わがまちの歴史や文化が明らかとなり、新たな価値も見出されるという点において深く感謝と敬意を表したいと思います。
 
そうした思いも込め、質問原稿の作成にあたっておりますが、「文化財の保護と真の活用」そして携わっておられる方にスポットがあたるような質問になればと考えるところです。
 
ご紹介した「文化振興課分室」のホームページ(HPはこちらから)には、
1.出土品の整理作業をいつでも見学できます。
2.市内の遺跡から出土した資料の展示を見学できます。
とあります。
 
歴史とロマンを感じられる場所へ、興味のある方は是非足を運んでいただければと思います。

市民歴史講座第3講「近江の元亀争乱」

ブログ 敦賀の歴史

昨日は日中の気温も10度前後、しかも雨混じりの北風と寒さを感じた1日。
 
暖かい日が続き、これまで季節感なく過ごしてきましたが、明後日からは12月。
 
雪マークこそまだありませんが、あたふたすることのなきようスタッドレスタイヤへの履き替えなどを済ませ、冬将軍に備えたいと思います。
 
さて、やっぱり歴史は面白いとこれまで再三にわたりお伝えしてきたところでありますが、昨日の市民歴史講座も大変興味深く、私にとって新たな発見がありました。
 
気比史学会さんが主催するこの市民歴史講座。
 
「元亀争乱から450年」と題し、元亀年間(1570〜1573)に越前、近江の国を中心として繰り広げられた朝倉義景・浅井長政vs織田信長・徳川家康の戦いの軌跡を総称した「元亀争乱」を中心に各地に残る城跡や戦国時代の周辺地域の様相などを手掛かりに、何度も覇権争いの戦禍を乗り越えてきた敦賀の歴史を探るというのが今期のテーマ(全4講)。
 
昨日は、その第3講ということで、きらめきみなと館小ホールを会場に約80名が参加のもと開催されました。
 

 
前回第2講は「若狭国」から見た元亀争乱でしたが、この日の視点は「近江」から。
 
「近江の元亀争乱 〜志賀の陣と宇佐山城〜」と題し、その道の第一人者である中井均先生(滋賀県立大学)よりご講義いただきました。
 
城の構造からの細かな分析などもあり、私には少々レベルの高い内容でしたので、いつものメモも理解度が不足しているのですが、ひとまず拝聴した概要をざっと以下に記します。
 
・元亀元年(1570年)6月28日、姉川合戦勃発。
・この戦いで浅井・朝倉軍は信長軍に完膚なまでに負けたと言われているが、その2ヶ月後の9月16日には浅井・朝倉軍が3万の軍勢で坂本まで進出していることを思うとその説も信長寄りのものと思われる。
・志賀の陣にて、浅井・朝倉軍が巻き返すが、この戦いは信長vs浅井・朝倉に留まらず、三好三人衆、本願寺、毛利氏、武田氏らによる信長包囲網であった。
・標高336mの宇佐山の山頂に立つ宇佐山城は、実は元亀争乱とは別に、近江の街道封鎖と新道建設に伴う監視の城として、信長が永禄13年(1570)に築城したもの。
・信長がここに陣取り戦ったことを思うと、この宇佐山城が無ければ浅井・朝倉軍はもっと早く、優位に戦えたかもしれない。
・志賀の陣以降、宇佐山城には明智光秀が城番として入り、城としては機能していた。
・地政学的に新たにどこに拠点を置くべきか考えた結果、坂本城となったのでは無いか。
・その後、滋賀郡支配を命ぜられた明智光秀が、下坂本に坂本城を築城。
・琵琶湖岸には、水陸両用の城として安土城・坂本城・長浜城・大溝城があり、これは信長の「湖の城郭網」である。
・城の構造について、宇佐山城は、信長の段階で初めは土の城であったが、明智光秀の入城後、中心部分だけを石垣にしたのではないか。
・明智が滋賀の陣の後すぐに入城した際に石垣化したとの見方が強い。
・坂本の城に石垣が無いのは、大津の城に再利用されたから。
・30年の間に巨大な石垣造りの城に再利用されたのは、琵琶湖岸という地形から水陸両用の機能を求めたから。
・城は身分の秩序が分かるということで興味が尽きない。
・朝倉義景の禁制や浅井長政の奉書形式の書簡などから、「浅井・朝倉」の同名ではなく、長政は義景の下級軍奉行に過ぎなかったとする説もある。
・また、比叡山の焼き討ち自体も、公家の日記だけで信じられてきているが、滋賀県の教育委員会が発掘調査をしても焼き土が出てきていない(実は、真実か定かでない)。
 
前回「若狭国」編では、信長最大のピンチ「金ヶ崎の退き口」から京に逃げ帰れたのは「国吉城」(現美浜町)があったからとありましたが、この「近江」においては「宇佐山城」があったから窮地に陥らずに済んだのかなと。
 
そう思えばやはり、戦国時代の勝ち負けは、先見の目はもちろんなのでしょうが、このような運と言うのも大いにあったということかと感じた次第。
 
また、比叡山の焼き討ちが未だ真実なのか定かで無いことや城の石垣が他の城に流用されていた話し、滋賀特有の「琵琶湖」という地政学を踏まえて入念な戦略を講じられたことも知ることが出来、今回も大変有意義な時間となりました。
 
やはり、今現在においても様々な史実や見方があるという点が、歴史の面白さなのでしょう。
 
それにしても、この中井先生の理論・分析もさることながら人気もスゴいようでして、閉会後に後片付けをしていると、何とサインを求め先生の著書を片手に数人の女性が「出待ち」をするというシーンに遭遇。
 
少しお話しをすると、大垣市や石川県から来られたそうで、大垣の女性は畳甲冑を着て、関ヶ原を始め各地の戦国イベントに参加しているのだそう。
 
「鉄道」も色んなジャンルがあるように「歴女」も様々ですね。
 
今年も残りひと月となりましたが、敦賀の歴史講座はまだまだ熱い。
 
◉12月12日(土)13:30〜 →「大谷吉継の関ヶ原合戦」(講師:奈良大学教授 殿岡慎一郎氏)@きらめきみなと館小ホール
◉12月19日(土)14:00〜 → 市民歴史講座第4講「元亀争乱と朝倉攻め」(講師:元福井県埋蔵物文化財調査センター所長 山口充氏)@敦賀市立図書館3階研修室
 
いずれも興味津々のテーマにつき、12月定例会中ではありますが参加していきたいと思います。
 
皆様方におかれましても、興味のある方は是非参加くださいね。
 
では、本日はこれまでに。
 

歴史ある「東浦みかん」は敦賀の宝

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日本医師会が呼び掛けた「我慢の三連休」。
 
札幌や大阪などは人出が減少傾向にあった一方、ニュースで流れる京都嵐山の様子は、「そんなの関係ねえ」と言わんばかりの人だかり。
 
紅葉シーズン真っ最中で「今しか見れない」という心理がそうさせるのでしょう。
 
GoToの取り扱いを巡り、政府と各都道府県の歯車が上手く回ってない感はありますが、マスクを外した飲食やおしゃべりさえしなければ感染リスクは極めて低い訳であり、個々では引き続き基本行動の励行を徹底したいものです。
 
さて、そんな三連休最終日の昨日、やや冷たい北風の中、父の実家(敦賀市大比田)の「みかんもぎ」をお手伝いしてきました。
 

 
敢えて「みかん狩り」と言わないのは、このみかん畑で獲れるみかんは売り物用でなく、自前で消費しているものだからという意味と理解していますが、食べる分だけを獲る観光と違い、来年の生育のために何本もある木を丸々収穫しないといけないとなると中々の重労働。
 
大比田の国道8号線沿いの傾斜地に畑がある訳ですが、収穫したみかんのコンテナはかなりの重量で、これを一輪車を使い道路脇まで下ろす作業は腕力のいる大変な作業。
 

 
80歳になったという伯父さん夫婦、70歳を超えた親父夫婦と私での作業でしたが、とりわけ何度も先程の運搬を繰り返す叔父さんの体力には驚きました。
 

 
何十本もある木は、実家の方やこうして親戚の皆さんが協力して全て「もぐ」ということで、私も時間を見つけてまたお手伝いせねばと感じた次第。
 
それにしても、敦賀湾を僅かに覗き見れる絶好のロケーションと秋の実りを収穫するのは何とも楽しいもの。
 
変わらぬ景色と東浦みかんの甘酸っぱさを味わい、そしてこうして家族でみかんもぎに来た幼少期を思い出す一日となりました。
 
昭和40年代から始まったとされ、毎年賑わいを見せる「東浦みかん観光園」は、コロナのため今年は中止となりましたが、予約販売などは既に受付完売の盛況だそう。
 
歴史を辿れば、江戸時代の末に敦賀市阿曽で生まれた「金井源兵衛」さん(1785年生まれ)が、東浦で「特産品」を作って農家の生活を豊かにしたいと思い、始めたのが「みかん」。
 
改良を重ね、やがて東浦にはたくさんのみかんがなり、明治時代に敦賀港からロシアのウラジオストックへ輸出するまでに成長、何と当時の敦賀港輸出第一位は「みかん」であり、「敦賀港はみかんの港」でもあったそう。
 
こうした歴史を思えばやはり、東浦のミカンは、正真正銘の敦賀の「特産品」の代表格。
 
現在は、生産者の高齢化や後継者不足などの課題に対し、行政側とも連携し種々取り組みが進められているところでありますが、こうした歴史的経過なども踏まえれば、絶対に絶やしてはいけないものであり、その点肝に銘じ、自身も取り組んでいきたいと考えます。
 

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