深坂古道で歴史の鼓動を感じる

ブログ 敦賀の歴史

昨日ご紹介した「古代からの交通の要衝 疋田・追分」。
改めて、関所があったと言われる場所もさることながら、天然の良港を持つ港町敦賀から塩津山を越え塩津(滋賀県)に出て、水路で大津に向かった「深坂越え」は大変興味深いものでした。

そんな昨日、古道だけに「その鼓動を感じたい」との思いのもと「深坂古道」に行ってきました。

国道161号線を進み、新疋田駅を過ぎるとすぐ左手に深坂古道の入口、追分区。
歴史の宝庫愛発は、どの区にも解説付きの看板が設置されていて、大変整備されています。

国道161号線を西へ。新疋田駅を過ぎるとすぐに追分区となります。

さらに追分区を進むと深坂区に入り、いよいよ古道入り口となります。

深坂区を越えると、さらに入口標識が。

先へ進むと、古道の案内看板が設置されていて、とても大切にされている印象を受けました。
また、追分区の入口標識も同様、この歴史の開削と保存に関しては、敦賀みなとライオンズクラブさんが大変ご尽力されたことが良く分かりました。

結成15周年を機に敦賀みなとライオンズクラブさんが設置された案内看板

この日は時間があまり取れず、夕刻近くの行動となってしまったため、古道を少し進んだところで折り返したものの、この深坂越えの古道を万葉人を初め、京の都からは国司や律令官人たちがこの道を往来し、かの紫式部も越前守となった父とともに通ったと思えば、何かタイムスリップしたかのような感覚となり、古に思いを馳せる歴史ロマンを感じざるを得ませんでした。

市民歴史講座で学んだばかりで感化され過ぎかも知れませんが、机上と現地を重ね合わせてこそ真の学び。
次は滋賀県に抜けた沓掛まで歩き、さらに歴史の鼓動を感じてきたいと思います。

紫式部も眺めた風景かと思うとタイムスリップした感覚に。

古道にロマンあり!古代交通の要衝・疋田を探る

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早いもので今年も残り1ヶ月。
野坂山山頂はわずかに白くなり、敦賀も冬の到来を感じるところ。
まずはタイヤ交換ということで、1台目の作業を済ませました。皆さんも冬将軍への備えはお早目に。。。

さて、昨日は、気比史学会主催の敦賀市民歴史講座(第5講)に参加しました。
以前にも投稿しました通り、この歴史講座は本当に奥深くて面白く、今回も楽しみにしていたもの。

「峠を越えた群像」と題し、シリーズで開催しており、この日のテーマは「古代交通の要衝・疋田を探る」。

この日も多くの参加者がいらっしゃいました。

「日本三大古代三関」とgoogle検索するとヒットする通り、この敦賀には、伊勢国の「鈴鹿関(三重県鈴鹿市)」、美濃国の「不破関(岐阜県関ヶ原市)」と並ぶ、越前国の「愛発関(福井県敦賀市)」が言われています。

平安時代中期までの、いわゆる日本の交通の要衝(関所)がこの敦賀にあった所以やルーツ、未だ特定されていない場所について探るというのが、この日の内容でした。

元敦賀市立博物館館長でもあり考古学者の川村俊彦さんの講義は、ご自身の調査・研究経験に加え、当時歌われた和歌(万葉集や紫式部集なども)の縁語やエピソードを掛け合わせて話され、思わず聞き入ってしまうあっという間の2時間でした。

今の滋賀県から敦賀との境を結ぶ古道には「塩津山越」「愛発山越」とある訳ですが、とりわけ「塩津山越」は「深坂古道」と呼ばれ、気比史学会が開削した北陸最古の古道とも言われています。
関の場所については、決定的証拠は発掘されていないものの、愛発・鈴鹿・不破の三関の立地概念を考えると、現在の「疋田・追分」の可能性が高いとのこと。

日本三大古代三関の立地概念など。

この愛発関は、平安時代中期の気候変動(平安海進と呼ばれ積雪期間が短くなった)に伴い、敦賀の南北で相次いで標高の高い新道が開削(山中峠→木の芽峠、愛発山越→黒河峠)されたことによって、「交通の邪魔になっている」(続日本紀:789年)とされ、廃止。
以降、近江国の「逢坂関(滋賀県大津市)」と入れ代わり日本三大古代三関と呼ばれたとのこと。

いずれにしても、京の都に向かう「近江と敦賀を結ぶ古道」は歴史的な重要ルートであったことに違いありません。

古事記に出てくる「百伝う(ももづたう)」は、敦賀の枕詞であり、「色んな人がやってくる」との意味があるそう。
古から交通の要衝であった敦賀は、その後、中世・近代、そして現在もその役割を果たしてきたことに思いを馳せ、「百伝う」まちとして今後も繁栄することを思えば、これまたロマンあり!

「歴史を生かしたまちづくり」をコンセプトに、1980年に開始し、35年間脈々と続けてこられた敦賀市民歴史講座は、この日で何と233回目。

なおも尽きない豊富な歴史は、やはり敦賀の財産であり誇り。
今後も気比史学会の皆さんから学び、自身の生き方やまちづくりの活動に生かしていきたいと思います。

会場を出るとすっかり真っ暗。古より歴史を眺めてきた野坂の御岳は何を思う。

天狗党の志士に思いを馳せる

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昨日は絵に描いたような秋晴れ。
午前中は、地元粟野地区の文化祭にスタッフとして参加。
地元の素材を使った試食ブースや輪投げにストラックアウト、輪ゴム射的などを連ねて点数を競う子どもチャレンジなどに多くの方が訪れ大賑わい。
老若男女ミックスしての、まさに地域コミュニティで嬉しい気持ちになりました。

午後は、これまた楽しみにしていた気比史学会主催の市民歴史講座に参加。
今年度シリーズで開催している「峠を越えた群像」の第4講として、テーマに挙げられたのは「小浜藩から見た天狗党」。
幕末の悲運「天狗党」は敦賀で捕らえられ、祀られた関係性もあってか、会場の図書館研修室には多くの参加者で熱気がありました。

多くの参加者が集った市民歴史講座会場

講師である敦賀市立博物館の坂東学芸員からの、「天狗党の話しは複雑」との冒頭の言葉どおり、「最後まで幕府と戦っている気はなかった」と語ったと言われる天狗党、幕末の志士の純粋な思いは、悲運に向かったことが良く分かりました。

講義は、小浜市指定文化財となっている「水戸脱士擾亂記(全4冊)」(酒井家文庫)の記述をもとに進められました。

天狗党の発生原因のひとつは、「何もかも徳川斉昭のせい」とされたこと。
水戸藩内において、中下士層から人材抜擢する「改革派」の斉昭と改革に慎重な「門閥派」の中心人物・結城寅寿らが対立。
斉昭は、致仕・謹慎を命ぜられるなど、藩内で一度政治的生命を絶たれ(幕府に睨まれる)る一方、結城寅寿(保守派)は「門閥派」として水戸藩の要職を占めたこと反発する志士が固まった。
赤穂浪士の話しのようと思いました。

天狗党の発生原因のふたつ目は、「水戸学」。
一所懸命から日本人はひとつにならなくてはならないと広い視点で考えたのが「水戸学」。
我が藩のことだけ学ぶのではないと水戸藩2代藩主光圀(水戸黄門)が始めた「大日本史編纂事業」や斉昭が建てた藩校弘道館は、内憂外患に敏感な若者たちを生み出した。
この影響を受けた会沢正志の「新論」は、刊行禁止となるほど(幕府にとって危険)で、欧米列強が強いのは、武器とキリスト教を学んでいるから(現地の人を取り込んで侵略する、人身を統率させるもの)との新たな思想を、若者は写し書き広め、幕末の志士のバイブル(会沢の真意は、幕府内部で改革すべきとの内容であるが)となった。

このような背景や水戸藩ならではの土壌があって、天狗党は生まれたとのことでした。

その後の数奇な運命を書き出すとキリがない訳ですが、「そうだったのか」と感じた挙兵からの動きを紹介すると、
◉1863年の四国艦隊(四国が横浜に入港)に対し、「戦争に備えよ」と攘夷派は、「鎖港を求めるため」に藤田小四郎らが筑波山で挙兵(「筑波勢」と呼ばれ、のちの天狗党)した。
◉横浜討伐軍(幕府)はすぐに出撃しなかったこともあり、筑波勢は軍資金集めや宇都宮勢への挙兵の呼び掛けするも断られる。その際、筑波勢の田中源蔵の一帯が栃木の宿を焼き討ちしたため、幕府が「敵」と認定。
◉その後の戦いで幕府軍に勝ってしまい、結局横浜討伐軍に参加することなく、水戸藩に戻るものの、尊王攘夷を掲げ上京を目指す。
◉天狗党が掲げる「尊王攘夷」は、家康が戦乱の世を治め、皇室から権力を委譲されて任されている幕府を重んじるとの考えのもと、「攘夷」には、「外乱(外国)」から守るとの意味を有していた。
◉歩を進めるうち、各務原市(彦根藩)が関ヶ原で待ち構えており大戦争になると聞き、福井(越前藩)にルート変更。結果、新保(敦賀市)に入る。
◉敦賀で獄門(首切り)の刑に処せられるが、罪状がはっきりしない「疑獄」であったとも言われている。

本来の敵は外国人であったはずなのに、何故日本人同士が戦わなくてはならなかったのか。
純粋に国を思う志士と幕末の混乱。
やはり天狗党の話しは、奥が深すぎる。。。

敦賀「気比史学会」に学ぶ

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即位の礼を滞りなく終えられたことを祝うかのような見事な秋晴れ。
昨日は、気持ちも晴れやかに朝の挨拶立ちからスタート。
もう何度もご紹介している訳ですが、朝日に照らされる敦賀湾は季節により表情を変えて美しく、わが町自慢の景色です。

さて、敦賀の自慢といえば、この風光明媚な自然と歴史、港と鉄道。
そして、敦賀で歴史といえば、地域史研究団体として長年地道な活動を続けられている「気比史学会」。
私自身、歴史を生かしたまちづくりの考えを持っており、この度、同会の糀谷会長より会の生い立ちや取り組み内容、歴史に対する思いなどについてお話しを聞かせていただきました。

1977年に発足した当会は、今年で42年を迎え、敦賀の歴史再発掘に向けた調査や研修の内容を学び合う「市民歴史講座」を30年以上継続するほか、出版活動や疋田舟川などの文化財保護、北陸最古とされる深坂古道の整備復元と幅広い活動を展開されている市民団体。

回顧型の「郷土史」ではなく、越前や近江を結ぶ横断的且つ発展型の「地域史」と名付けた先見思考に対しては、学識者も一目置くほどとのことでした。

また、活動を通じ、誇りあるまちづくり、歴史を生かしたまちづくりにつなげるとの趣旨により、「生きた歴史」にするとの言葉が印象に残りました。
一方で、会員数の減少や高齢化、財政面の後ろ支えなど、会の継承性にも影響する課題が生じてきているともお聞きしました。
会が思いや情熱をもって長年積み上げてきた実績と功績は大変大きく、敦賀の財産とも言えるこの活動が停滞、縮小することのなきよう、次代を担う世代の参画はもとより幅広い市民の理解と参加が重要と課題認識した次第。

会長の揺るぎない思いであり、結成時からの会是でもある言葉。
「過去に学び、未来に期待し、今日に生きる」

言葉の意味合いを噛み締めつつ、私自身も「歴史と市民をつなぐ」史学会の活動に携わっていきたいと思います。





敦賀市民歴史講座に参加 〜奥の細道を読み解く〜

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貴重な三連休ですが、今度は台風17号襲来。
台風から遠くても強風や大雨に注意と日本気象協会が呼び掛けていますが、大きな災害にならぬよう願うばかりです。
 
さて、昨日の敦賀は少雨が続きましたが、午前中は市立やまびこ園の清掃奉仕活動に参加。
この活動は、連合福井嶺南地域協議会が8年に亘り継続しているもので、5月と9月の年2回、施設外周の草刈りをメインに作業にあたっているものです。
昨日は、雨天にも関わらず各組合から35名が参加され、迅速な作業で外周も気持ちもスッキリしました。
 
午後は、きらめきみなと館で開催された気比史学会主催の敦賀市民歴史講座に参加しました。
先日、敦賀市立博物館で開催されている特別展「おくのほそ道330年の旅」をご紹介しましたが、その一環として「おくのほそ道を読み解く」と題し、和洋女子大学より佐藤勝明教授をお招きしての講座でした。
 
教授の「おくのほそ道の舞台である敦賀で講演出来ることに感激しています」との言葉から始まった講座ですが、浅はかな知識で参加した私にとっては、「ここまで深く読み取るのか」と驚くばかりの内容。
メモも取りましたが、ここでは紹介し切れませんので、特に印象に残った教授の言葉を2、3紹介します。
①気比さん参宮の場面は、おくのほそ道の1・2を争う大事な場面である。
②北陸路に省筆が多い(句が少ない)が、省筆せずに記された「敦賀」の記述は、ここにひとつの大事なテーマ(無常の世の中でも伝わり続けられる「心」)があることが理解できる。
③おくのほそ道は、がっかりの中にも興じる姿勢。例えば、雲で富士山が見えなくとも、見えてしまえば景色はひとつ、見えないことにより想像の中にいくつもの景色が浮かび上がる。
 
私としては、上記の②に注目。
芭蕉が敦賀に「杖」を置いて行ったこと、省筆せずに句を詠んだ理由が敦賀で感じた「心」にあるとすれば、これは後の「人道の港」のエピソードにもつながるのでは無いかと感じた次第。
 
この後も、「おくのほそ道330年の旅」に関わるイベントは続きますので、出来る限り参加して、敦賀と芭蕉の関係を学びたいと思います。
 

 

 

「おくのほそ道」330年の旅へ

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三連休の最後は曇り空。
 
追加議案提出の連絡が来ていたため、お昼前に市役所に取りに行くと、別会派の控室ではありましたが、同期議員の方が一般質問の準備をされており、暫しお邪魔。
お手を止めることになり恐縮でしたが、男女平等参画や子育て環境などについて意見交換が出来、私にとってはホッとする良いひと時でした。
 
その後、敦賀市立博物館にて開催されている特別展「おくのほそ道 330年の旅」を鑑賞しました。
知る人ぞ知る松尾芭蕉の「おくのほそ道」ですが、今から330年前の1689年3月27日に江戸深川を旅立ち、関東、東北、北陸各地を約5ヶ月掛けて旅した物語は、日本の古典の最高傑作の一つとして、広く読み継がれてきています(特別展資料解説より)
 
芭蕉は、旅の終わり同年9月27日に敦賀入りし、気比神宮を参拝、色ヶ浜にて遊び、中秋の名月や秋の寂しさを感じ入るような句を詠んでいます。
 
また驚いたのは、敦賀を後にする際、宿泊していた富士屋という宿に杖と笠を残していったと伝えられており、杖は今も敦賀に現存しているとのことで、博物館にも展示されていました。
330年前、しかも芭蕉のイメージにもある杖を眼前に見ることが出来、これだけでも本当見に来た甲斐がありました。
 
おくのほそ道は、また旅立つ場面で終わっていることから、330年経った今もまだ「予(芭蕉)」の旅は終わっていないかもしれず、多くの読者の心の中で芭蕉は永遠の旅人であるとの解説にダブルで歴史ロマンを感じた次第。
浅学でこれ以上述べることは止めておきますが、興味のある方は是非市立博物館に足を運んでいただけたらと思います。
 
さて、敦賀市議会は、本日から一般質問。
私の登壇予定は明後日となりますが、芭蕉が句に込めた敦賀への思いも感じましたので、郷土発展に向けた情熱をもって建設的な議論を交わしたいと考えます。