やっぱりスゴい!敦賀と鉄道の歴史!

ブログ 敦賀の歴史

昨日は、あいにくの雨模様と強い風。
 
敦賀駅前で開催の駅西地区社会実験イベントのほうも、朝の準備の際に雨に降られ大変だったそうですが、それでも日中は時折日が射す時間帯もあり、土砂降りでないだけ良かったと思うべきでしょうか。
 
まずは、そのような悪天候の中、終日運営対応にあたられたスタッフの皆さんに感謝です。
 
イベントの方は、私の参加した夕刻も、あらゆる年代の方が会場を訪れ賑わいを見せていましたが、やはりお昼時は結構な人数が足を運んでいただけたと聞き嬉しい限り。
 
昨日のブログでもご紹介しましたように、この社会実験は、令和4年の北陸新幹線開業に向けてゾーンニングした駅西エリアをどう有効活用していくかの視点のものであり、例えば、公園の芝生は天然か人工どちらが相応しいか?このエリアに必要なのは何か?など、来場いただいての感想をアンケートにてお答えいただくことが重要でもあります。
 
「こういう場所なら普段も行こうかな」「こういうふうに活用すれば賑わうのでは」などの声をお聞かせいただきたいと思いますので、天気が回復する今日はぜひ会場に足を運んでいただけますようお願いいたします。
 
さて、社会実験はこれからの新幹線開業に向けてでありますが、昨日午後は、同じ鉄道ネタでも「敦賀と鉄道の歴史」を学ぶ場に参加してきました。
 
「観光ボランティアガイドつるが」さんが主催する「鉄道カフェ」の今年度第1回目が松原公民館で開催され、定員40名に枠があるということで事前申込みしたうえで参加させていただいた訳ですが、改めて、敦賀は鉄道のまちと言われる所以を知ることが出来ました。
 

 
「日本遺産認定へのアプローチとその魅力について」と題し、前半は敦賀市の観光交流課の職員さんから、日本遺産認定までのプロセスや苦労話しを、後半はボランティアガイドさんの方から、明治15年に開通した長浜〜敦賀、さらには今庄までの旧北陸線トンネル群を映像ベースにて解説をいただきました。
 
本年6月に日本遺産に認定された長浜、敦賀、南越前とつながる鉄道トンネル群に関しては、第1回目に文化庁に申請した際には「ただのトンネルじゃないか」と酷評され、敢えなく落選。
 
しかしながら、その際に文化庁側からあった、「コアな内容のストーリーを万人受けするように」、「実際に訪れてみたいと思えるように工夫を」とのコメントをもとに、各市町が協力し課題改善のうえ再度チャレンジしたところ、めでたく認定を勝ち得たとの裏話しを聞くことが出来、その苦労の大きさが伺えました。
 
また、改めてこの敦賀の鉄道の歴史を聞くに、日本の鉄道の歴史はここにありと言っていいほどの「貴重な財産」であることが良く分かりました。
 
その始まりは、何と1869年(明治2年)、明治新政府が「鉄道敷設計画」を決定した際、東京〜横浜、京都〜大阪〜神戸と並び「琵琶湖畔〜敦賀」が整備すべき支線として、日本初の鉄道路線の1区間に挙げられていたこと。
 
これは、いかに明治政府が、敦賀を日本海側の物流拠点として見ていたかを表しています。
 
その後、難工事を経て、1883年(明治17年)に敦賀線「長浜〜敦賀」が全線開通する訳ですが、何せ「日本一」のものが満載。
 
◉柳ヶ瀬越えの1,352mのトンネルは、当時国内最長。
◉D51型(デゴイチ)蒸気機関車の国内初配備。
◉明治14年開通の小刀根トンネルは、日本人技術者による工事では国内2番目、現存する日本最古のトンネル。
◉その後の今庄側への山中越えを含め、日本一の難所と呼ばれた。
◉連続する魔のトンネル、急勾配の難所の運転は一級品の腕を要した。
◉国際港へ舵を切った敦賀港からつながる欧亜国際連絡列車。
 
などなど、ここでは書き切れないほど盛り沢山の記録やエピソードがありました。
 

【旧北陸線トンネル群のひとつ「樫曲トンネル」。通行するとレトロな灯りが点灯します。】
 
とりわけ、敦賀から今庄に抜ける山中越えの30kmは、12ものトンネルを掘る必要があり、硬い岩盤の部分では1日に15cmしか掘り進めることが出来なかったそう。
 
このような貴重なお話しをお聞きした後、会場にいらっしゃった86歳の元鉄道マン(運転手?)の方がこのような感想を述べられました。
 
「20歳から勤めていた職場が、こうして脚光を浴びるというのは本当にありがたいこと。これで安心して死ねる。」
 
100年も前に、石も手積みで作られたトンネル群がこうして今も使用されていること自体が驚きな訳ですが、感想を述べられた方のように、先人たちの挑戦と想像を絶する苦労があって成し得たこの鉄道遺産に思いを馳せ、これからも大切にせねばと胸に誓った次第。
 
それから約140年の時を経て、D51蒸気機関車から新幹線へ。
 
古き良きものを大切にし、新たな時代に挑戦していく。
 
これは、歴史的に「交通の要衝」として栄えてきた敦賀のまちに与えられた使命であり役割であると、思いを再確認した1日となりました。
 

【駅西地区社会実験の会場で見た、子ども達が描く新幹線からは「新たな時代」を感じました】

通説から新説へ、やっぱり歴史は面白い

ブログ 敦賀の歴史

天気予報を見ると、今日からの3日間は快晴の模様。
 
まさに秋晴れといったとことでしょうか。
 
スポーツ、芸術、食欲とジャンルも様々、どれも絶好の季節となってきますので、バランス良く楽しみたいものです。
 
さて、ジャンルでいけば芸術に入るのでしょうか、昨日は毎回楽しみにしている気比史学会主催の「敦賀市民歴史講座」に参加してきました。
 
通常であれば、会場の市立図書館3階研修室の収容人員から定員を100名とするところ、コロナ禍ということもあって定員を半分の50名に減、受付では検温、手指消毒、名簿記入、会場内は窓開放という対策を図りながらの開催となりました。
 
私はといえば、これまで拝聴させてもらうばかりでしたが、この日は何かお手伝いをと受付にて検温係をさせていただきました。
 
定刻15分前には定員に達し、2〜3名の方は資料だけお渡ししお帰りいただくこととなり、申し訳ない気持ちとなりましたが、皆さん快く応じていただき感謝。
 
また次の機会を楽しみに来場いただきたく存じます。
 
前置きが長くなりましたが、今期は「元亀争乱から450年」と題し、元亀年間(1570〜1573)に越前、近江の国を中心として繰り広げられた朝倉義景・浅井長政vs織田信長・徳川家康の戦いの軌跡を総称した「元亀争乱」を中心に各地に残る城跡や戦国時代の周辺地域の様相などを手掛かりに、何度も覇権争いの戦禍を乗り越えてきた敦賀の歴史を探るという全4講のうち、昨日は2講目。
 
ちなみに、参考までに8月29日に開催された第1講の内容を書いたブログをリンクしておきますので、興味のある方はご覧くださいませ。
 →→→第1講の内容はこちらから
 
その第2講目は「若狭国から見た元亀争乱 〜織田信長公国吉入城450年〜」と題し、若狭国吉城歴史資料館の大野康弘館長より講義いただきました。
 

 
1.信長と足利義昭、そして明智光秀
2.信長、若狭国侵攻の背景
3.信長と光秀、永禄13年4月20〜22日の動向
4.信長、国吉城入場
5.信長、国吉城に“御逗留”
6.信長、越前敦賀表へ出陣
7.“金ヶ崎の退き口”の実態
8.美浜町に残る“金ヶ崎の退き口”伝承
9.“幕府軍”若狭侵攻の顛末と元亀争乱
 
9つの小タイトルの流れで信長の侵攻ルートや文献、伝承などから、当時の状況が浮かぶようなリアリティーあふれる話しに1時間半聞き入ってしまいました。
 
全てをここでご紹介出来ないのが誠に残念なのですが、館長曰く「通説と異なる」ことをお伝えしますと、ひとつは「信長と足利義昭の関係」。
 
これまでの「通説」では、
◉将軍に就いた足利義昭は勝手な振る舞いで政(治)を混乱に招く。
◉信長は義昭に対して「殿中御掟」などを突きつけ、何事も自分の指示で動くよう命じた。
◉自分を蔑ろにする信長に反感を覚えた義昭は、各地の大名諸侯に内書を送りつけ、信長包囲網の形成を画策した。
 
ところが「最新の研究」や「新説」では、
◉信長と義昭の関係は良好。義昭は幕府政権を、信長は軍事権を握って天下統一を担う(天下布武)という役割分担が出来ていた。
◉「殿中御掟」などを発したのは、義昭に政治に集中出来る環境づくりをするためであり、義昭もこれを否定せず度々受け入れた。
◉信長自身も「全国統一」という思考はなく、京周辺の安定=朝廷、幕府を守る=天下静謐を目指した(これは疑問符付き)。
 
この二人の関係性に対する事実認識の違いは大きなものと、冒頭から思わず「へ〜」と唸ってしまいました。
 
敦賀に深く関係する、信長の人生最大のピンチとも言われる「金ヶ崎の退き口」に関しても、知らない方が良かったかもしれない「新説が。
 
通説では、
◉浅井長政の離反と、そのことをお市の方が両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り知らせたとの逸話は有名。
◉織田軍が全軍撤退の際、木下藤吉郎(秀吉)が殿軍を担い、激しい後退戦を繰り広げた末、無事に京に生還した。
◉秀吉最大のピンチにして最大の見せ場となり、その後のサクセスストーリーが生まれた。
 
これに対し新説では、
◉浅井長政の離反は、長政自身は離反する考えがなかったが、父や有力家臣団に押し切られた。
◉長政の離反を信長はすぐには信じなかったが、同様の報がいくつも届いたため撤退を決断した。
◉殿軍には、秀吉より身分の高い池田勝正や明智光秀も加わっていたことから、秀吉軍は大将格でなく一部隊に過ぎない。
◉つまり、秀吉ひとりが活躍するような大撤退戦ではなかった。
 
また、京に戻るまで朝倉軍の猛烈な追撃にあったとのイメージが強い訳ですが、朝倉軍の兵力不足に対し、3万人の幕府軍勢が逃げ切る余裕はあった(近隣地理に明るい若狭衆が同行、まずは本陣でもある「難攻不落」の国吉城に撤退した)ことや、実際の戦いも「若越国境近く」まで、つまり「金ヶ崎の退き口」とは、敦賀から国吉城(現美浜町)までの約十数キロに亘る退去戦に過ぎなかったとのこと。
 
この他にも「目で見る美浜の文化財」には、美浜町松原地区に隣接する久々子地区に、昭和50年台まで「徳川家康陣跡」の木柱碑が存在(現在不明)していたことなどから、歴史上のルートが浮かび上がることや攻め続ける敦賀軍(朝倉軍)に徹底した籠城戦で耐え抜いた「国吉城」のことなど、まさに歴史ロマンを感じまくったひと時となりました。
 
まだまだお伝えしたいことは沢山あるのですが、ここまでとさせていただきます。
 
講義の最後に大野館長が仰った「歴史の真実に行き着く手段は色々あるので、見方によって定説が変わることもある」との言葉にある通り、事実を検証し変化することも歴史の醍醐味ということなんでしょうね。
 
大河ドラマ「麒麟がくる」も越前から京に舞台を移す段階に入りますが、これも館長の言葉にありました「最後の本能寺まで辿り着くか、金ヶ崎の退き口がどう描かれるか楽しみにしている」との思いに共感し、ドラマもこの後も続く市民歴史講座第3・4講も大いに楽しみに参加していこうと思います。
 
その第3講は、11月28日(土)14:00から。
 
会場を「きらめきみなと館」小ホールとし、定員100名にて開催となりますので、関心のある方は是非ともの参加をお待ちしています。
 

過去に学び、未来に期待し、今を生きる

ブログ 敦賀の歴史

強い台風9号の影響か、昨日は湿気ムンムンの暑さ。
 
顔を合わせば、「いつまで続くんでしょうね」が合言葉のようになっているこの残暑ですが、気付けば8月も明日で終わり。
 
風物詩の行事は無くとも、次に訪れる季節は「食欲・文化・スポーツ」の「秋」。
 
予定外のことばかりの今日この頃ですが、せめて季節の移り変わりは予定通りに、秋の訪れを待ちたいものです。
 
さて、私の方はと言えば、9月1日から始まる定例会に向け、資料の読み込みや考えの整理などを進めているところですが、昨日の午後は、以前から楽しみにしていた気比史学会さん主催の「市民歴史講座」に参加。
 
敦賀の歴史と市民を結びつける役割を果たし続けてこられている気比史学会さんは、結成から今年で43年目を迎えており、冒頭の糀谷好晃会長のご挨拶では「コロナ禍で悩んだが、こんな時こそ文化力を発揮したいとの思いで開催することとした」との言葉がありました。
 
この市民歴史講座は、毎年テーマ設定がされ4〜6講の構成で開催されてきている訳ですが、今年は「元亀争乱から450年」と題し、元亀の争乱を中心に各地に残る城跡や戦国時代の周辺地域の様相などを手掛かりに、何度も覇権争いの戦禍を乗り越えてきた敦賀の歴史を探るというもの。
 
ここまででも興味津々な訳ですが、第1講の昨日は、「元亀 義景戦記 〜うつけ信長を侮った朝倉義景〜」と題し、一乗谷朝倉氏遺跡資料館館長の水野和雄氏による講義を拝聴。
 

 
水野先生は、朝倉氏の研究における第一人者であり、平成4年に放送された大河ドラマ「信長」で越前の朝倉義景が手を震わせながら切腹するという恥辱的なシーンを見て以降、「朝倉の復権」を人生のテーマに取り組んでいるとの紹介もあり、その切っ掛けと思いの強さに驚いた次第。
 
講義のほうは、「はじめに」として、そもそもの朝倉氏と一乗谷についての紹介がされ、
◉朝倉孝景(初代)から始まり、5代の義景で朝倉家は途絶えた。
◉一乗城下町は、昭和45年に特別史跡指定。1471年〜1573年(信長により焼滅)まで推定人口約1万人の城下町であった。
◉日本で最初に戦国大名の館が明らかになった。
◉日本考古学史上初めてトイレ遺構が確定された。
◉大国越前の一乗谷は、全国に名だたる城下町であった。
など、越前朝倉は当時日本に誇る名であったことが分かりました。
 
本題の「元亀争乱」に関しては、先生によれば「やんちゃ坊信長が仕掛けた元亀争乱」と呼ぶ、元亀年間(1570〜1573)に越前、近江の国を中心として繰り広げられた朝倉義景・浅井長政vs織田信長・徳川家康の戦いの軌跡を総称したもの。
 
天筒・金ヶ崎の合戦、姉川の合戦、志賀の陣での和睦、利根坂での敗走、朝倉氏の滅亡と続く戦国ストーリーはただでさえ大変興味深いことに加え、先生の豊富な知識から語られる朝倉と織田のそもそもの戦いの論理の違いなど、その背景に至るまで聞けば、なお面白く話しに引き込まれました。
 
◉朝倉11代に亘る戦国大名への道のり。
◉元亀の争乱は織田信長が仕掛けた。
◉朝倉、浅井同盟説の再検討。両者の同盟説は成立しない。
◉朝倉と織田の戦いの論理の違い。帝王学を学んだ朝倉(例えば大将は戦に出ない)に対し、当時の常識に囚われない織田(積極的に戦に出る)。
◉比叡山焼討ち、余呉・木之本の放火など、信長は約20万人を殺したとされており、最も日本人が日本人を殺した人物と言われている(NHKも大河ドラマに登場させて良いのか最後まで悩んだとのこと)。
◉最後は「一乗の谷焼滅」。義景は、越前大野六坊賢松寺で自刃(41歳)。
◉追って「小谷城落城」。信長、本丸の浅井長政を攻め、自刃させる(29歳)。
 
主な流れとしてはこういったところでありますが、敦賀に関して言えば、何と言っても争乱初期(元亀元年4月25日)の「手筒・金ヶ崎城合戦」。
浅井の離反による劣勢を感知した信長が命からがら逃げ、秀吉が殿(しんがり)を務めた「金ヶ崎の退き口」は有名であり、この殿役で功績を認められた秀吉が後に天下を取っていく歴史の転換にもなった場所が、この敦賀にあることはやはり自慢のひとつですね。
 
ちなみに殿は明智光秀が務めたとの説もあり、まさに戦国期の手柄争いも壮絶であった様子が伺えます。
 
講義はその他にも、戦国時代の女性たち、NHK大河ドラマの影響(肖像画のうそホント)など、眼から鱗の先生のお話しを聞区ことが出来ました。
 
これもちなみにですが、見る人のイメージを固定化させる肖像画に関して言えば、我々世代では当たり前の「聖徳太子」は1万円や教科書で誰でも知っているものと思いきや、真実か否かに疑念が生じたことから、現在では教科書や紙幣から取り除かれ、子ども等には太子のイメージはなくなってきているのだそう。
 
今、先生が注目しているのは明智光秀の肖像画だそうで、大河ドラマに登場するのか否か、私も興味を持って見ていきたいと思います。
 
そんなことも含め、やはり歴史は面白く、その人間模様や背景、ひとつの判断を起点とした失敗や成功など学ぶべきことが詰まっています。
 
気比史学会が掲げる言葉、「過去に学び、未来に期待し、今を生きる」は私も大切にしている言葉。
 
そして、史学会の糀谷会長は機関紙の中で述べられた「歴史に学び、歴史を作る志」の心意気も大変共感するもの。
 
私自身、こうした歴史を学ぶ機会に出会えたことに感謝するとともにし、この二つの言葉を胸に置き、今後も学びを続けながら、転換期にあっても進むべき方向や判断を見誤らない軸となる考えを身につけ、実践していきたいと思います。

敦賀の自慢!歴史と自然を感じる天筒山♫

ブログ 敦賀の歴史 敦賀の自然

新型コロナウイルス感染に関して、福井県においては、これで4月29日から25日連続で「感染者ゼロ」。
 
入院患者数は6名(うち重篤患者1名)、病床使用率は2.44%まで低下。
一方、コールセンターへの相談件数はまだ100件を超えていたり、検査者数も30名程度存在しています。
 
つまり「予備軍」はまだ潜んでいるということであり、まだまだ警戒を解いてはいけない状況と認識しておくべきかと。
 
人間の性とでも言うのでしょうか、人出が戻りつつある明るい内容のものが多くなってきたテレビのニュースなどを見ていると、ついつい平常に戻ったのように思いがちですが、新規感染者「ゼロ」が続く状況を当たり前と思わず、感染防止を常に頭に置いて行動することが大事ですね。
 
さて、昨日は、そんなことも念頭に置きつつ、健康増進タイムも必要かと金ヶ崎宮側から天筒山を散策ウォークしてきました。
 
展望台のある天筒山の頂上まで行くのは何十年ぶりでしたが、金ヶ崎宮の厳かな雰囲気を抜け、古戦場、月見御殿、城跡と辿りながら、中々の階段続きを登り切り到着。
 
標高171mの低山とは言え、展望台のてっぺんまで行くと、西は敦賀港、気比の松原、西方ヶ岳、南は野坂山、東は中池見湿地(ラムサール条約登録)とグルリ見渡すことが出来、気分もスッキリ。
 

【展望台より西側を望む】

【月見御殿からの眺め(北側)美しき敦賀湾を一望】

【展望台より東側を望む。正面下の鮮やかな緑部分が中池見湿地帯】
 
とりわけ東側に見える北陸新幹線の高架が立ち並ぶ工事の様子を見るに、数年後にはこの景色にひとつのアクセントが加わるのだなぁと思うと、やはりワクワク感、期待と「新たな時代」を感じざるにはいられませんでした。
(コロナの影響は大丈夫かと言われそうですが、ここは素直な個人の感情ということでご容赦を…)
 
この日は中池見湿地側まで足を延ばすことは止め、天筒駐車場側に下りましたが、逆に登ってこられる方も大変多く、特に年配の方の姿をお見受けしました(下ってみれば、何と天筒駐車場は満車状態でした)。
勾配はややキツいながら、適度な標高と散策道はすべて舗装されているというのが、年配の皆さんには安心なのかも知れませんね。
 
久しぶりに訪れた場所でしたが、戦国時代に信長・秀吉・家康の3傑に光秀も加わり朝倉氏と戦った、しかも「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる戦国史に残る撤退戦であったことなど、この地で繰り広げられた歴史に思いを馳せつつ、緑深まる木々に囲まれた自然、眼下には敦賀湾と市内を一望出来るロケーションと、様々な楽しみが満載の金ヶ崎から天筒山に続く道は、やはり敦賀の自慢の場所でした。
 
新型コロナの関係もあり、県外の方にまで声を大にして呼び掛けれないのは残念ではありますが、好天の今日、敦賀の皆さんは是非足を運んでみてはいかがでしょうか。
 
本日は、久しぶりの敦賀自慢の紹介とさせていただき、ブログを綴じさせていただきます。

深坂古道で歴史の鼓動を感じる

ブログ 敦賀の歴史

昨日ご紹介した「古代からの交通の要衝 疋田・追分」。
改めて、関所があったと言われる場所もさることながら、天然の良港を持つ港町敦賀から塩津山を越え塩津(滋賀県)に出て、水路で大津に向かった「深坂越え」は大変興味深いものでした。

そんな昨日、古道だけに「その鼓動を感じたい」との思いのもと「深坂古道」に行ってきました。

国道161号線を進み、新疋田駅を過ぎるとすぐ左手に深坂古道の入口、追分区。
歴史の宝庫愛発は、どの区にも解説付きの看板が設置されていて、大変整備されています。

国道161号線を西へ。新疋田駅を過ぎるとすぐに追分区となります。

さらに追分区を進むと深坂区に入り、いよいよ古道入り口となります。

深坂区を越えると、さらに入口標識が。

先へ進むと、古道の案内看板が設置されていて、とても大切にされている印象を受けました。
また、追分区の入口標識も同様、この歴史の開削と保存に関しては、敦賀みなとライオンズクラブさんが大変ご尽力されたことが良く分かりました。

結成15周年を機に敦賀みなとライオンズクラブさんが設置された案内看板

この日は時間があまり取れず、夕刻近くの行動となってしまったため、古道を少し進んだところで折り返したものの、この深坂越えの古道を万葉人を初め、京の都からは国司や律令官人たちがこの道を往来し、かの紫式部も越前守となった父とともに通ったと思えば、何かタイムスリップしたかのような感覚となり、古に思いを馳せる歴史ロマンを感じざるを得ませんでした。

市民歴史講座で学んだばかりで感化され過ぎかも知れませんが、机上と現地を重ね合わせてこそ真の学び。
次は滋賀県に抜けた沓掛まで歩き、さらに歴史の鼓動を感じてきたいと思います。

紫式部も眺めた風景かと思うとタイムスリップした感覚に。

古道にロマンあり!古代交通の要衝・疋田を探る

ブログ 敦賀の歴史

早いもので今年も残り1ヶ月。
野坂山山頂はわずかに白くなり、敦賀も冬の到来を感じるところ。
まずはタイヤ交換ということで、1台目の作業を済ませました。皆さんも冬将軍への備えはお早目に。。。

さて、昨日は、気比史学会主催の敦賀市民歴史講座(第5講)に参加しました。
以前にも投稿しました通り、この歴史講座は本当に奥深くて面白く、今回も楽しみにしていたもの。

「峠を越えた群像」と題し、シリーズで開催しており、この日のテーマは「古代交通の要衝・疋田を探る」。

この日も多くの参加者がいらっしゃいました。

「日本三大古代三関」とgoogle検索するとヒットする通り、この敦賀には、伊勢国の「鈴鹿関(三重県鈴鹿市)」、美濃国の「不破関(岐阜県関ヶ原市)」と並ぶ、越前国の「愛発関(福井県敦賀市)」が言われています。

平安時代中期までの、いわゆる日本の交通の要衝(関所)がこの敦賀にあった所以やルーツ、未だ特定されていない場所について探るというのが、この日の内容でした。

元敦賀市立博物館館長でもあり考古学者の川村俊彦さんの講義は、ご自身の調査・研究経験に加え、当時歌われた和歌(万葉集や紫式部集なども)の縁語やエピソードを掛け合わせて話され、思わず聞き入ってしまうあっという間の2時間でした。

今の滋賀県から敦賀との境を結ぶ古道には「塩津山越」「愛発山越」とある訳ですが、とりわけ「塩津山越」は「深坂古道」と呼ばれ、気比史学会が開削した北陸最古の古道とも言われています。
関の場所については、決定的証拠は発掘されていないものの、愛発・鈴鹿・不破の三関の立地概念を考えると、現在の「疋田・追分」の可能性が高いとのこと。

日本三大古代三関の立地概念など。

この愛発関は、平安時代中期の気候変動(平安海進と呼ばれ積雪期間が短くなった)に伴い、敦賀の南北で相次いで標高の高い新道が開削(山中峠→木の芽峠、愛発山越→黒河峠)されたことによって、「交通の邪魔になっている」(続日本紀:789年)とされ、廃止。
以降、近江国の「逢坂関(滋賀県大津市)」と入れ代わり日本三大古代三関と呼ばれたとのこと。

いずれにしても、京の都に向かう「近江と敦賀を結ぶ古道」は歴史的な重要ルートであったことに違いありません。

古事記に出てくる「百伝う(ももづたう)」は、敦賀の枕詞であり、「色んな人がやってくる」との意味があるそう。
古から交通の要衝であった敦賀は、その後、中世・近代、そして現在もその役割を果たしてきたことに思いを馳せ、「百伝う」まちとして今後も繁栄することを思えば、これまたロマンあり!

「歴史を生かしたまちづくり」をコンセプトに、1980年に開始し、35年間脈々と続けてこられた敦賀市民歴史講座は、この日で何と233回目。

なおも尽きない豊富な歴史は、やはり敦賀の財産であり誇り。
今後も気比史学会の皆さんから学び、自身の生き方やまちづくりの活動に生かしていきたいと思います。

会場を出るとすっかり真っ暗。古より歴史を眺めてきた野坂の御岳は何を思う。

天狗党の志士に思いを馳せる

ブログ 敦賀の歴史

昨日は絵に描いたような秋晴れ。
午前中は、地元粟野地区の文化祭にスタッフとして参加。
地元の素材を使った試食ブースや輪投げにストラックアウト、輪ゴム射的などを連ねて点数を競う子どもチャレンジなどに多くの方が訪れ大賑わい。
老若男女ミックスしての、まさに地域コミュニティで嬉しい気持ちになりました。

午後は、これまた楽しみにしていた気比史学会主催の市民歴史講座に参加。
今年度シリーズで開催している「峠を越えた群像」の第4講として、テーマに挙げられたのは「小浜藩から見た天狗党」。
幕末の悲運「天狗党」は敦賀で捕らえられ、祀られた関係性もあってか、会場の図書館研修室には多くの参加者で熱気がありました。

多くの参加者が集った市民歴史講座会場

講師である敦賀市立博物館の坂東学芸員からの、「天狗党の話しは複雑」との冒頭の言葉どおり、「最後まで幕府と戦っている気はなかった」と語ったと言われる天狗党、幕末の志士の純粋な思いは、悲運に向かったことが良く分かりました。

講義は、小浜市指定文化財となっている「水戸脱士擾亂記(全4冊)」(酒井家文庫)の記述をもとに進められました。

天狗党の発生原因のひとつは、「何もかも徳川斉昭のせい」とされたこと。
水戸藩内において、中下士層から人材抜擢する「改革派」の斉昭と改革に慎重な「門閥派」の中心人物・結城寅寿らが対立。
斉昭は、致仕・謹慎を命ぜられるなど、藩内で一度政治的生命を絶たれ(幕府に睨まれる)る一方、結城寅寿(保守派)は「門閥派」として水戸藩の要職を占めたこと反発する志士が固まった。
赤穂浪士の話しのようと思いました。

天狗党の発生原因のふたつ目は、「水戸学」。
一所懸命から日本人はひとつにならなくてはならないと広い視点で考えたのが「水戸学」。
我が藩のことだけ学ぶのではないと水戸藩2代藩主光圀(水戸黄門)が始めた「大日本史編纂事業」や斉昭が建てた藩校弘道館は、内憂外患に敏感な若者たちを生み出した。
この影響を受けた会沢正志の「新論」は、刊行禁止となるほど(幕府にとって危険)で、欧米列強が強いのは、武器とキリスト教を学んでいるから(現地の人を取り込んで侵略する、人身を統率させるもの)との新たな思想を、若者は写し書き広め、幕末の志士のバイブル(会沢の真意は、幕府内部で改革すべきとの内容であるが)となった。

このような背景や水戸藩ならではの土壌があって、天狗党は生まれたとのことでした。

その後の数奇な運命を書き出すとキリがない訳ですが、「そうだったのか」と感じた挙兵からの動きを紹介すると、
◉1863年の四国艦隊(四国が横浜に入港)に対し、「戦争に備えよ」と攘夷派は、「鎖港を求めるため」に藤田小四郎らが筑波山で挙兵(「筑波勢」と呼ばれ、のちの天狗党)した。
◉横浜討伐軍(幕府)はすぐに出撃しなかったこともあり、筑波勢は軍資金集めや宇都宮勢への挙兵の呼び掛けするも断られる。その際、筑波勢の田中源蔵の一帯が栃木の宿を焼き討ちしたため、幕府が「敵」と認定。
◉その後の戦いで幕府軍に勝ってしまい、結局横浜討伐軍に参加することなく、水戸藩に戻るものの、尊王攘夷を掲げ上京を目指す。
◉天狗党が掲げる「尊王攘夷」は、家康が戦乱の世を治め、皇室から権力を委譲されて任されている幕府を重んじるとの考えのもと、「攘夷」には、「外乱(外国)」から守るとの意味を有していた。
◉歩を進めるうち、各務原市(彦根藩)が関ヶ原で待ち構えており大戦争になると聞き、福井(越前藩)にルート変更。結果、新保(敦賀市)に入る。
◉敦賀で獄門(首切り)の刑に処せられるが、罪状がはっきりしない「疑獄」であったとも言われている。

本来の敵は外国人であったはずなのに、何故日本人同士が戦わなくてはならなかったのか。
純粋に国を思う志士と幕末の混乱。
やはり天狗党の話しは、奥が深すぎる。。。

敦賀「気比史学会」に学ぶ

ブログ 敦賀の歴史

即位の礼を滞りなく終えられたことを祝うかのような見事な秋晴れ。
昨日は、気持ちも晴れやかに朝の挨拶立ちからスタート。
もう何度もご紹介している訳ですが、朝日に照らされる敦賀湾は季節により表情を変えて美しく、わが町自慢の景色です。

さて、敦賀の自慢といえば、この風光明媚な自然と歴史、港と鉄道。
そして、敦賀で歴史といえば、地域史研究団体として長年地道な活動を続けられている「気比史学会」。
私自身、歴史を生かしたまちづくりの考えを持っており、この度、同会の糀谷会長より会の生い立ちや取り組み内容、歴史に対する思いなどについてお話しを聞かせていただきました。

1977年に発足した当会は、今年で42年を迎え、敦賀の歴史再発掘に向けた調査や研修の内容を学び合う「市民歴史講座」を30年以上継続するほか、出版活動や疋田舟川などの文化財保護、北陸最古とされる深坂古道の整備復元と幅広い活動を展開されている市民団体。

回顧型の「郷土史」ではなく、越前や近江を結ぶ横断的且つ発展型の「地域史」と名付けた先見思考に対しては、学識者も一目置くほどとのことでした。

また、活動を通じ、誇りあるまちづくり、歴史を生かしたまちづくりにつなげるとの趣旨により、「生きた歴史」にするとの言葉が印象に残りました。
一方で、会員数の減少や高齢化、財政面の後ろ支えなど、会の継承性にも影響する課題が生じてきているともお聞きしました。
会が思いや情熱をもって長年積み上げてきた実績と功績は大変大きく、敦賀の財産とも言えるこの活動が停滞、縮小することのなきよう、次代を担う世代の参画はもとより幅広い市民の理解と参加が重要と課題認識した次第。

会長の揺るぎない思いであり、結成時からの会是でもある言葉。
「過去に学び、未来に期待し、今日に生きる」

言葉の意味合いを噛み締めつつ、私自身も「歴史と市民をつなぐ」史学会の活動に携わっていきたいと思います。





敦賀市民歴史講座に参加 〜奥の細道を読み解く〜

ブログ 敦賀の歴史

貴重な三連休ですが、今度は台風17号襲来。
台風から遠くても強風や大雨に注意と日本気象協会が呼び掛けていますが、大きな災害にならぬよう願うばかりです。
 
さて、昨日の敦賀は少雨が続きましたが、午前中は市立やまびこ園の清掃奉仕活動に参加。
この活動は、連合福井嶺南地域協議会が8年に亘り継続しているもので、5月と9月の年2回、施設外周の草刈りをメインに作業にあたっているものです。
昨日は、雨天にも関わらず各組合から35名が参加され、迅速な作業で外周も気持ちもスッキリしました。
 
午後は、きらめきみなと館で開催された気比史学会主催の敦賀市民歴史講座に参加しました。
先日、敦賀市立博物館で開催されている特別展「おくのほそ道330年の旅」をご紹介しましたが、その一環として「おくのほそ道を読み解く」と題し、和洋女子大学より佐藤勝明教授をお招きしての講座でした。
 
教授の「おくのほそ道の舞台である敦賀で講演出来ることに感激しています」との言葉から始まった講座ですが、浅はかな知識で参加した私にとっては、「ここまで深く読み取るのか」と驚くばかりの内容。
メモも取りましたが、ここでは紹介し切れませんので、特に印象に残った教授の言葉を2、3紹介します。
①気比さん参宮の場面は、おくのほそ道の1・2を争う大事な場面である。
②北陸路に省筆が多い(句が少ない)が、省筆せずに記された「敦賀」の記述は、ここにひとつの大事なテーマ(無常の世の中でも伝わり続けられる「心」)があることが理解できる。
③おくのほそ道は、がっかりの中にも興じる姿勢。例えば、雲で富士山が見えなくとも、見えてしまえば景色はひとつ、見えないことにより想像の中にいくつもの景色が浮かび上がる。
 
私としては、上記の②に注目。
芭蕉が敦賀に「杖」を置いて行ったこと、省筆せずに句を詠んだ理由が敦賀で感じた「心」にあるとすれば、これは後の「人道の港」のエピソードにもつながるのでは無いかと感じた次第。
 
この後も、「おくのほそ道330年の旅」に関わるイベントは続きますので、出来る限り参加して、敦賀と芭蕉の関係を学びたいと思います。
 

 

 

「おくのほそ道」330年の旅へ

ブログ 敦賀の歴史

三連休の最後は曇り空。
 
追加議案提出の連絡が来ていたため、お昼前に市役所に取りに行くと、別会派の控室ではありましたが、同期議員の方が一般質問の準備をされており、暫しお邪魔。
お手を止めることになり恐縮でしたが、男女平等参画や子育て環境などについて意見交換が出来、私にとってはホッとする良いひと時でした。
 
その後、敦賀市立博物館にて開催されている特別展「おくのほそ道 330年の旅」を鑑賞しました。
知る人ぞ知る松尾芭蕉の「おくのほそ道」ですが、今から330年前の1689年3月27日に江戸深川を旅立ち、関東、東北、北陸各地を約5ヶ月掛けて旅した物語は、日本の古典の最高傑作の一つとして、広く読み継がれてきています(特別展資料解説より)
 
芭蕉は、旅の終わり同年9月27日に敦賀入りし、気比神宮を参拝、色ヶ浜にて遊び、中秋の名月や秋の寂しさを感じ入るような句を詠んでいます。
 
また驚いたのは、敦賀を後にする際、宿泊していた富士屋という宿に杖と笠を残していったと伝えられており、杖は今も敦賀に現存しているとのことで、博物館にも展示されていました。
330年前、しかも芭蕉のイメージにもある杖を眼前に見ることが出来、これだけでも本当見に来た甲斐がありました。
 
おくのほそ道は、また旅立つ場面で終わっていることから、330年経った今もまだ「予(芭蕉)」の旅は終わっていないかもしれず、多くの読者の心の中で芭蕉は永遠の旅人であるとの解説にダブルで歴史ロマンを感じた次第。
浅学でこれ以上述べることは止めておきますが、興味のある方は是非市立博物館に足を運んでいただけたらと思います。
 
さて、敦賀市議会は、本日から一般質問。
私の登壇予定は明後日となりますが、芭蕉が句に込めた敦賀への思いも感じましたので、郷土発展に向けた情熱をもって建設的な議論を交わしたいと考えます。
 

 

 

« 古い記事