文化と歴史をつなぐ大切さ 〜今年度の市民歴史講座を終えて〜

ブログ 敦賀の歴史

「愛発の関、松原客館、金ヶ崎城など、日本史を動かした敦賀の史跡は歴史的魅力である」との講師のお言葉から始まった、昨日の市民歴史講座。
 
昨日は、今年度最後の市民歴史講座が市立図書館研修ホールにて開催され、受講してまいりました。
 
この日は、講師に元福井県埋蔵文化財調査センター所長の山口充先生をお招きし、「元亀争乱から450年 〜元亀争乱と越前朝倉攻め〜」をテーマに、南北朝、戦国時代の戦いの舞台「金ヶ崎城」を巡る史実、最後は朝倉義景軍vs織田信長軍の戦い「元亀争乱」により陥落したことなど興味深く聴講。
 
新型コロナ対策により、通常100人定員を半分の50人に減員しての開催となりましたが、早々に定員を満たした会場の皆さんも熱心に聞かれていました。
 

 
この市民歴史講座については、これまでも概略メモ形式にて書き留めてきていることから、今回も以下に少々書き置かせていただきます。
 
【山口先生のお話しから】
◉敦賀の歴史的魅力は、愛発関、松原客館、金ヶ崎城など日本史を動かした敦賀の史跡。
◉愛発の関は、都を守るために北陸道、東海道、東山道から都に入る位置に置かれた古代の三関で、不破の関、鈴鹿の関とともに敦賀の愛発に置かれた(愛発の関は発見されていない)。
◉松原客館は、渤海国から入国した渤海使を滞在させる迎賓館で、敦賀が古代から国際貿易港であった証(松原客館も発見されていない)。
◉金ヶ崎城は、元亀争乱の始まりで全国制覇の舞台となった城。
◉「城」の始まりは「戦」。弥生時代中頃、共同体の大規模集落を見守ることを目的とした。
◉外国からの侵攻にも備えた城。朝鮮式山城、中国式山城、水城など。天智天皇664年「大堤を築きて水を貯へしむ」などの記述が残っている。
◉兵法家は江戸時代に入ると仕事がなくなり、軍学者と呼ばれる職業にて講義などで稼いだ。この時代に分類される城は、平城、平山城(敦賀城はこれにあたる)、山城。
◉金ヶ崎城は、源平の合戦で源義仲に敗れた平通盛が敦賀城に依ったことや南北朝の合戦では、南朝方の恒良親王、尊良親王、新田勢、気比社勢が籠った。また、戦国時代は敦賀郡司の城であり、最後は元亀争乱で陥落。
◉南北朝時代も戦国時代も、金ヶ崎を攻める戦略は手筒山からであった(つまり、手筒を落とせば、金ヶ崎は手に入る)。
◉元亀争乱の際、朝倉景恒が1日で降参、開城してしまったのは、歴史の経験から実は戦っても無理だと知っていたからではないか。
◉金ヶ崎城落城後に築城された敦賀城(現在の西小学校辺り)は、後に破却されたとあるが、実際はされていない。
 
私の理解において、講義のポイントはこのような内容であったかと思います。
 
こうして今年度は「元亀争乱」をテーマに4講シリーズで開催された歴史講座をすべて聴講してきた訳ですが、第1講の朝倉家側から見た元亀争乱に始まり、2講は若狭国、3講は近江国それぞれの視点から、そして最終4講は、元亀争乱の始まりで全国制覇の舞台となった「金ヶ崎城」と、何かフルストーリーが完結した気持ちとなりました。
 
また、冒頭にありました山口先生からの「日本史を動かした敦賀の史跡は歴史的魅力である」とのお言葉を聞き、改めて我がまちを誇らしく思った次第です。
 
閉講のご挨拶をされた気比史学会の糀谷好晃会長の言葉によれば、講師の山口先生とは40年以上のお付き合いとのこと。
 
当時、高度成長期にあって、この敦賀の地も北陸自動車道や国道8号バイパスなどの建設のため「開発と破壊」、即ち開発から埋蔵文化財を保護するための戦いでもあったことも振り返られ、今こうして山口先生始め、文化財保護に関わる専門家や気比史学会など民間団体が力を合わせ、敦賀の財産を守ってきてくれたことに改めて敬意を表するところであります。
 
また、こうした時代も含め、先人たちが守り、つないできた文化財や歴史を守り、これからも世代をつなぎ、文化として発信していくことは、私たち世代の責務、まさにまちの根幹に関わる重要なことであり、そうした意味において、毎年テーマを変え、36年もの間「市民歴史講座」を継続されている気比史学会の皆さんには心より感謝いたします。
 
私も今定例会の一般質問で、まさに「文化財行政」を取り上げ、体系立てて「文化と歴史をつなぐ」ことを提言したところでありますが、今後少しでも役割を果たせるよう、自ら行動し尽力していきたいと思います。

先人が守り抜いた国指定史跡「向出山1号墳」

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宇宙からの話題は、やはり興味が尽きないもの。
 
大気圏を「火球」となって通過し、オーストラリア南部ウーメラ近くの砂漠に着陸した小惑星探査機「はやぶさ2」の試料カプセルはその後無事発見され、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の津田雄一プロジェクトマネージャは記者会見で、「カプセルは完全な状態で帰ってきた」、「玉手箱を(地上に)降ろすことが出来ました」と成功した喜びを述べられました。
 
この世界初の偉業は、国内はもとより、NASAは「歴史的」、ニューヨークタイムスは「宇宙探査における日本の地位は、米、欧州、ロシアと並び中心的なプレーヤーになるだろう」と賞賛の言葉が挙げられています。
 
初代「はやぶさ」で経験したことを次号機に生かし、「採点するなら100点満点で1万点だ」と笑顔で語れる成果を挙げたJAXAのプロジェクトチームの皆さんに改めて大きな拍手を送りたいと思います。
 
持ち帰った試料は「0.1グラム」
 
太陽系の誕生を探る今後の分析調査にも大きな期待を寄せ、新たな発見に興味を持って待ちたいと思います。
 
さて、今日も「発見」つながりとなりますが、話しの舞台を敦賀に。
 
皆さんは、泉ヶ丘病院に向かう途中にある「向出山1号墳」をご存知でしょうか。
 
昭和29年以来、数回の発掘が行われ、発見された2基の石室からは、総金張りの金銅装頸甲など全国的に見ても希少な出土品が確認された古墳。
 
現在は国指定史跡となっています。
 


 
古墳時代中期(約1500年前)において、その装束(金銅装)を身につけられることは、敦賀を治めていた角鹿の王が朝廷の中でも極めて高い地位にあった可能性があるとされています。
 
また、こうした装束以外にも高価で美装化された出土品が多く発見されていることから、大陸側とも密接な関係にあったことも推測されており、まさにその当時から交通の要衝として重要な地域であったことが分かるとされています。
 
実際、敦賀平野と敦賀湾を見下ろすこの場所(標高約70m)に立つと、古代敦賀地方にあって首長の勢力が絶大であったことなどが思い返されるようで、必然的にここに埋葬されたことを理解した次第です。
 

 
こうして発見された敦賀が誇る貴重な史跡ですが、昭和30〜40年代には近隣の観光施設開発や高速道路開発のため、失う危機さえあったとのことであり、そうした存亡のピンチを先人たちが必死で守ってくれたとの経緯も以前に知ったところ。
 
単に古代ロマンを感じる貴重な場所だけではなく、敦賀がどんな土地であったのかを示すため脈々と継承されてきたのがこの古墳群であると考えれば、この先も絶対に無くしてはならないもの。
 
明日の一般質問に「文化財行政」を取り上げた根幹に関わる部分でもありますが、一線級の古墳を守るためにご尽力された方々の苦労も踏まえ、今後も大切にすることは勿論、より多くの市民の皆さんにこの史実を知っていただけるよう「活用」することも大事なこと。
 
「発見」と「継承」
 
いずれも、情熱とチャレンジ精神無くして成功無しとの思いのもと、こうしたテーマにしっかり取り組んでいきたいと思います。

「文化振興課分室」に歴史とロマンあり

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ここに来て「桜を見る会」を巡る検察の動きが活発化しており、東京地検特捜部が安倍晋三前首相本人の任意聴取を要請したことが3日、関係者への取材で分かったとの報道。
 
前夜の夕食会の収支を政治資金収支報告書に記載しなかったとして、特捜部が政治資金規正法違反(不記載)の疑いで、後援会代表を務める安倍氏の公設第1秘書を立件する方針を固めたことも判明しています。
 
本件に係る第一報では、公職選挙法と政治資金規正法と2つの違反で捜査が行われていたとありましたが、ここ数日は政治資金規正法に絞られているようであり、連座性や当選無効までの可能性は消えたのかなと思うところですが、いずれにしても前総理大臣の徴取は異例のこと。
 
また、同じ「金」に関わる問題では、鶏卵生産大手「アキタフーズ」(広島県福山市)のグループ元代表が元農林水産相の吉川貴盛衆院議員(自民、北海道2区)に現金500万円を提供していた疑惑報道。
 
当時の吉川氏の大臣室でも授受が行われていたことも分かったとしており、東京地検特捜部が経緯の解明を進めています。
 
大臣室での現金授受が本当にされていたとすれば、「ドラマの悪代官のようだ」と笑える問題では決してありません。
 
野党は、5日が会期末となる臨時国会の会期を延長することで調査したとのことですが、いつまで国民の皆さんから呆れられるような「政治と金」の問題を繰り返すのか。
 
私自身も含め、政治に関わる全ての方が襟を正して行動せねばと思う次第です。
 
さて、話しは変わりまして、来週の一般質問でも取り上げる「文化財」について。
 
以前より関心を持っていたテーマであることは昨日も述べたところであり、質問で取り上げるにあたっても、福井県や先進的に取り組みを進めている小浜市や若狭町、さらには市内の有識者の方にもヒヤリングを行い、自身の考える方向との整合性を確認してきたところです。
 
文化や歴史と同じく、聞けば聞くほど奥が深く、知らないことが沢山ある訳ですが、そのひとつが先日お伺いした市立病院前にある「文化振興課分室」の存在。
 
ここでは、市内の発掘作業で出土した資料の洗浄や復元作業、調査成果を公にするための作業を行っているのですが、お伺いした際には、公文名のアパート建設の試掘にて発見された出土品の復元作業が行われていました。
 

【ひとつ一つのパーツを分類。何とこの文字は筆で書いているとのこと!】

【作業場の全景。出土品が所狭しと並べられていました】
 
バラバラになった奈良時代(確かそう仰っていた)の土器を丁寧に洗浄、分類整理し、パーツを組み合わせ復元していく作業はまさに「気の遠くなる」作業。
 

【組み立ての様子。全てのパーツが揃わない場合は、欠損部分をパテで成形】
 
歴史を検証していくことの大変さや重要性を肌感覚で感じた次第です。
 
先人の皆さんを始め、こうして文化財保護にご尽力いただける方の存在があって、わがまちの歴史や文化が明らかとなり、新たな価値も見出されるという点において深く感謝と敬意を表したいと思います。
 
そうした思いも込め、質問原稿の作成にあたっておりますが、「文化財の保護と真の活用」そして携わっておられる方にスポットがあたるような質問になればと考えるところです。
 
ご紹介した「文化振興課分室」のホームページ(HPはこちらから)には、
1.出土品の整理作業をいつでも見学できます。
2.市内の遺跡から出土した資料の展示を見学できます。
とあります。
 
歴史とロマンを感じられる場所へ、興味のある方は是非足を運んでいただければと思います。

市民歴史講座第3講「近江の元亀争乱」

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昨日は日中の気温も10度前後、しかも雨混じりの北風と寒さを感じた1日。
 
暖かい日が続き、これまで季節感なく過ごしてきましたが、明後日からは12月。
 
雪マークこそまだありませんが、あたふたすることのなきようスタッドレスタイヤへの履き替えなどを済ませ、冬将軍に備えたいと思います。
 
さて、やっぱり歴史は面白いとこれまで再三にわたりお伝えしてきたところでありますが、昨日の市民歴史講座も大変興味深く、私にとって新たな発見がありました。
 
気比史学会さんが主催するこの市民歴史講座。
 
「元亀争乱から450年」と題し、元亀年間(1570〜1573)に越前、近江の国を中心として繰り広げられた朝倉義景・浅井長政vs織田信長・徳川家康の戦いの軌跡を総称した「元亀争乱」を中心に各地に残る城跡や戦国時代の周辺地域の様相などを手掛かりに、何度も覇権争いの戦禍を乗り越えてきた敦賀の歴史を探るというのが今期のテーマ(全4講)。
 
昨日は、その第3講ということで、きらめきみなと館小ホールを会場に約80名が参加のもと開催されました。
 

 
前回第2講は「若狭国」から見た元亀争乱でしたが、この日の視点は「近江」から。
 
「近江の元亀争乱 〜志賀の陣と宇佐山城〜」と題し、その道の第一人者である中井均先生(滋賀県立大学)よりご講義いただきました。
 
城の構造からの細かな分析などもあり、私には少々レベルの高い内容でしたので、いつものメモも理解度が不足しているのですが、ひとまず拝聴した概要をざっと以下に記します。
 
・元亀元年(1570年)6月28日、姉川合戦勃発。
・この戦いで浅井・朝倉軍は信長軍に完膚なまでに負けたと言われているが、その2ヶ月後の9月16日には浅井・朝倉軍が3万の軍勢で坂本まで進出していることを思うとその説も信長寄りのものと思われる。
・志賀の陣にて、浅井・朝倉軍が巻き返すが、この戦いは信長vs浅井・朝倉に留まらず、三好三人衆、本願寺、毛利氏、武田氏らによる信長包囲網であった。
・標高336mの宇佐山の山頂に立つ宇佐山城は、実は元亀争乱とは別に、近江の街道封鎖と新道建設に伴う監視の城として、信長が永禄13年(1570)に築城したもの。
・信長がここに陣取り戦ったことを思うと、この宇佐山城が無ければ浅井・朝倉軍はもっと早く、優位に戦えたかもしれない。
・志賀の陣以降、宇佐山城には明智光秀が城番として入り、城としては機能していた。
・地政学的に新たにどこに拠点を置くべきか考えた結果、坂本城となったのでは無いか。
・その後、滋賀郡支配を命ぜられた明智光秀が、下坂本に坂本城を築城。
・琵琶湖岸には、水陸両用の城として安土城・坂本城・長浜城・大溝城があり、これは信長の「湖の城郭網」である。
・城の構造について、宇佐山城は、信長の段階で初めは土の城であったが、明智光秀の入城後、中心部分だけを石垣にしたのではないか。
・明智が滋賀の陣の後すぐに入城した際に石垣化したとの見方が強い。
・坂本の城に石垣が無いのは、大津の城に再利用されたから。
・30年の間に巨大な石垣造りの城に再利用されたのは、琵琶湖岸という地形から水陸両用の機能を求めたから。
・城は身分の秩序が分かるということで興味が尽きない。
・朝倉義景の禁制や浅井長政の奉書形式の書簡などから、「浅井・朝倉」の同名ではなく、長政は義景の下級軍奉行に過ぎなかったとする説もある。
・また、比叡山の焼き討ち自体も、公家の日記だけで信じられてきているが、滋賀県の教育委員会が発掘調査をしても焼き土が出てきていない(実は、真実か定かでない)。
 
前回「若狭国」編では、信長最大のピンチ「金ヶ崎の退き口」から京に逃げ帰れたのは「国吉城」(現美浜町)があったからとありましたが、この「近江」においては「宇佐山城」があったから窮地に陥らずに済んだのかなと。
 
そう思えばやはり、戦国時代の勝ち負けは、先見の目はもちろんなのでしょうが、このような運と言うのも大いにあったということかと感じた次第。
 
また、比叡山の焼き討ちが未だ真実なのか定かで無いことや城の石垣が他の城に流用されていた話し、滋賀特有の「琵琶湖」という地政学を踏まえて入念な戦略を講じられたことも知ることが出来、今回も大変有意義な時間となりました。
 
やはり、今現在においても様々な史実や見方があるという点が、歴史の面白さなのでしょう。
 
それにしても、この中井先生の理論・分析もさることながら人気もスゴいようでして、閉会後に後片付けをしていると、何とサインを求め先生の著書を片手に数人の女性が「出待ち」をするというシーンに遭遇。
 
少しお話しをすると、大垣市や石川県から来られたそうで、大垣の女性は畳甲冑を着て、関ヶ原を始め各地の戦国イベントに参加しているのだそう。
 
「鉄道」も色んなジャンルがあるように「歴女」も様々ですね。
 
今年も残りひと月となりましたが、敦賀の歴史講座はまだまだ熱い。
 
◉12月12日(土)13:30〜 →「大谷吉継の関ヶ原合戦」(講師:奈良大学教授 殿岡慎一郎氏)@きらめきみなと館小ホール
◉12月19日(土)14:00〜 → 市民歴史講座第4講「元亀争乱と朝倉攻め」(講師:元福井県埋蔵物文化財調査センター所長 山口充氏)@敦賀市立図書館3階研修室
 
いずれも興味津々のテーマにつき、12月定例会中ではありますが参加していきたいと思います。
 
皆様方におかれましても、興味のある方は是非参加くださいね。
 
では、本日はこれまでに。
 

歴史ある「東浦みかん」は敦賀の宝

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日本医師会が呼び掛けた「我慢の三連休」。
 
札幌や大阪などは人出が減少傾向にあった一方、ニュースで流れる京都嵐山の様子は、「そんなの関係ねえ」と言わんばかりの人だかり。
 
紅葉シーズン真っ最中で「今しか見れない」という心理がそうさせるのでしょう。
 
GoToの取り扱いを巡り、政府と各都道府県の歯車が上手く回ってない感はありますが、マスクを外した飲食やおしゃべりさえしなければ感染リスクは極めて低い訳であり、個々では引き続き基本行動の励行を徹底したいものです。
 
さて、そんな三連休最終日の昨日、やや冷たい北風の中、父の実家(敦賀市大比田)の「みかんもぎ」をお手伝いしてきました。
 

 
敢えて「みかん狩り」と言わないのは、このみかん畑で獲れるみかんは売り物用でなく、自前で消費しているものだからという意味と理解していますが、食べる分だけを獲る観光と違い、来年の生育のために何本もある木を丸々収穫しないといけないとなると中々の重労働。
 
大比田の国道8号線沿いの傾斜地に畑がある訳ですが、収穫したみかんのコンテナはかなりの重量で、これを一輪車を使い道路脇まで下ろす作業は腕力のいる大変な作業。
 

 
80歳になったという伯父さん夫婦、70歳を超えた親父夫婦と私での作業でしたが、とりわけ何度も先程の運搬を繰り返す叔父さんの体力には驚きました。
 

 
何十本もある木は、実家の方やこうして親戚の皆さんが協力して全て「もぐ」ということで、私も時間を見つけてまたお手伝いせねばと感じた次第。
 
それにしても、敦賀湾を僅かに覗き見れる絶好のロケーションと秋の実りを収穫するのは何とも楽しいもの。
 
変わらぬ景色と東浦みかんの甘酸っぱさを味わい、そしてこうして家族でみかんもぎに来た幼少期を思い出す一日となりました。
 
昭和40年代から始まったとされ、毎年賑わいを見せる「東浦みかん観光園」は、コロナのため今年は中止となりましたが、予約販売などは既に受付完売の盛況だそう。
 
歴史を辿れば、江戸時代の末に敦賀市阿曽で生まれた「金井源兵衛」さん(1785年生まれ)が、東浦で「特産品」を作って農家の生活を豊かにしたいと思い、始めたのが「みかん」。
 
改良を重ね、やがて東浦にはたくさんのみかんがなり、明治時代に敦賀港からロシアのウラジオストックへ輸出するまでに成長、何と当時の敦賀港輸出第一位は「みかん」であり、「敦賀港はみかんの港」でもあったそう。
 
こうした歴史を思えばやはり、東浦のミカンは、正真正銘の敦賀の「特産品」の代表格。
 
現在は、生産者の高齢化や後継者不足などの課題に対し、行政側とも連携し種々取り組みが進められているところでありますが、こうした歴史的経過なども踏まえれば、絶対に絶やしてはいけないものであり、その点肝に銘じ、自身も取り組んでいきたいと考えます。
 

【内容紹介】日本遺産認定記念シンポジウム 〜ふたつの日本遺産がつながるまち敦賀〜

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本日も大変貴重な講演を拝聴してまいりました。
 
第1部は、敦賀市教育委員会文化振興課(学芸員)の中野拓郎様より、日本遺産に認定された北前船や鉄道の歴史と大和田荘七が「国際港に相応しい、広い視野を持った敦賀市民が増えることを目指した」とし大和田銀行を設立したことなど、時系列的に新たなエピソードを知ることが出来ました。
 
第2部では、トンネル探究家であり、まちづくりにも長く取り組まれている花田欣也様より、改めて旧北陸線トンネル群の貴重さや素晴らしさ、さらに今後の活用に向けたヒントまで頂戴しました。
 
北前船と鉄道遺産。
 
ふたつの日本遺産が敦賀でつながっているのは、この地が日本有数の「交通の要衝」であったことを証明することに他なりません。
 
「今あるものを生かす」
 
花田様が仰られた「地域ブランド化」に向けた言葉をしかと胸に留めたいと思います。
 
最近の恒例となってきておりますが、この内容は是非皆さんとも共有させていただきたいとの思いから、シンポジウムのリアルタイムメモを以下に掲載しますのでご覧ください。
 
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【日本遺産認定記念シンポジウム 〜ふたつの日本遺産がつながるまち敦賀〜】
 
1.日 時:令和2年11月 8日(日) 10:00〜12;00
2.場 所:きらめきみなと館小ホール
3.基調講演①
(1)テーマ:「北前船」から「海を超えた鉄道」へ
(2)講 師:中野 拓郎 氏(敦賀市教育委員会文化振興課 学芸員)
(3)内 容:
・北前船交易により、敦賀港は北海道・東北からの荷物、都や東海地方から送る荷物でごった返していた。倉庫にある荷物の買い手がついたら、琵琶湖を経由し運送されていた。
・敦賀にある長屋風倉庫は北前船の寄港地には良くあった。今では江戸時代からある倉庫は一棟のみ(鰊蔵)。
・江戸時代の港の特徴は岸壁が無い。荷揚げをする船が順番待ち、続々と敦賀湾に船が押し寄せる風景が残されている。
・明治半ばまでが北前船の全盛期であった。
・明治2年(1869年)の日本最初の鉄道敷設計画の3箇所に敦賀〜琵琶湖間があった(あと2箇所は横浜〜東京、神戸〜大阪)。
・鉄道整備の発展とともに、海路よりも陸路での運送が
・大都市から近く、大陸やシベリア鉄道に行くなら敦賀が一番と大和田荘七が働き掛けた結果、敦賀港が海外と貿易出来、さらに明治45年からの「欧亜国際連絡運輸」が開始された。
・その次に必要なものとして、大和田荘七が建てた大和田銀行は、本来閉鎖的である銀行を公会堂や貴賓室、食堂などを備え、「国際港に相応しい、広い視野を持った敦賀市民が増えることを目指した」との位置づけのもと重要文化財に指定されている。
・昭和15年には、敦賀港にユダヤ難民を受け入れ、あたたかく迎えることが出来たのは、当時の国際情勢などを知っていたからかも知れない。
・それから80年後、人道の港敦賀ムゼウムがリニューアルオープン。この史実をこれからもつないでいくことが私たちの役割。
 
4.基調講演②
(1)テーマ:近代日本の歴史に磨かれた旧北陸線トンネル群の魅力について
(2)講 師:花田 欣也 氏(トンネル探究家)
(3)内 容:
・2017年に「旅するトンネル」を発刊、地域に残る造詣美やヒストリーなどに惹かれ、自著を始め、講演、テレビなどにて発信、趣味からライフワークとなった。
・「花田欣也が迫るトンネルの世界」は現在も放映中。
・旧北陸線トンネル群が大好きで「マツコの知らない世界」では過去3回、「おはよう朝日」ではトンネルツアーにて小刀根トンネルをレポート。
・今日伝えたいのは、「今あるものを生かす」ということ。
・自分がトンネルにはまった切っ掛けは、幼少期から「闇」が好きだったこと、誰もいない長くて暗いトンネルの「闇」が落ち着くこと。目を閉じて「闇」を感じ、思いを馳せることに魅力を感じるから。
・全国に道路で約11,000本、鉄道トンネルは約5,000本ある。
・日本最初のトンネルは、1680年の「箱根用水路」、1,342mもの長さのトンネルを掘った。
・日本のトンネル技術は素晴らしいが、明治から昭和にかけての最大トンネル工事では犠牲者も出した。その都度、技術改良により改善、今でも日本はトンネル掘削の先進国である。
・日本の産業発展に大きな役割を果たした。
・人口減少で歴史あるトンネルの維持が難しい時代となり、修繕費の増、財源と技術者の不足が課題となっている。
・一方、旧道はライフラインともなっており、自治体にとっては難しい選択を迫られている。
・最後のレンガトンネルは、隣県の賤ヶ岳トンネル。
・トンネルは「別世界をつなぐ魔法」の装置。
・苦難の末のトンネル開通の喜び、思いを「意匠」にしてきていることから、位置づけの重要さが伺い知れる。
・明治14年開通の小刀根トンネルは、日本で3番目に作られた現存最古のレンガトンネル。
・柳ヶ瀬トンネルは、長さ1,361mで当時の日本最長。このトンネルにより、大陸への道が拓かれた。
・旧北陸線トンネル群の見どころを3つ。「①明治の生きた鉄道遺産」、「②ここは日本のバック・トウ・ザ・フューチャー」、「③極上の“闇”を味わえる」。
・実はここから始まったものが、現・北陸トンネルの「樫曲斜坑」。
・北陸新幹線開通で、もうひとつの「日本で唯一」が誕生。3世代の鉄道トンネルが現存することになるのは、日本で敦賀だけ。
 
(今後の活用に向けたヒント)
・ツーリズムの観点で言えば、50代以降では以前強い「歴史・文化」。最近ではS I T(special interest tour)と呼ばれる 「街道巡り」や「アニメの聖地巡り」なども人気を集めている。
・インフラツーリズム(ダム、工場夜景、灯台施設など)も人気となった。
・今では何がヒットするか分からない時代になっている。
・“よそ者”の自分から見た敦賀の良さとは、トンネルや鉄道(キハ58系)。ニッチな部分も認知され、あらゆる趣味・趣向が見つめ直されている。
・豊かな歴史や自然、ストーリー、トンネル(産業遺産)、ならではの食など豊富にある。
・官民の役割分担がポイント。プロモーションは自治体、DMOの役割で、関係機関との連携をいかに強め、旧北陸線トンネル群をフックにしたPRの絶好機である。
・民間に求められる観光振興の役割は、地域の良さを自身の言葉で説明出来る「地元のガイドさん」。
・地元の方だからこそ伝えられること、説明で深まる旅の楽しさを感じてもらえれば、口コミで伝わっていく。
・地域の誇れる「宝」を地域の人たちと情報共有する。
・誘客の肝は、「一日で千人」よりも「一日で若干名」のお客さんを大切に、積み重ねていくこと(密にも配慮)。
・そして、地域消費につながる仕掛けを。皆で連携して儲けていくとの視点が大事。
・トンネルでの地域活性化の例。日本一トンネルが多いと言われるまち横須賀、旧神岡鉄道(岐阜県)はレールマウンテンバイク「ガッタンGo」、JR福知山線など。
・共通点は、長年変わらない連携であり、敦賀は負けないポテンシャルがある。
・プロモーション「おいでよ福井」は、全国から注目されている。
・地域のブランド化に必要なことは、「今だけ、ここだけにしか無い、そしてあなただけに紹介するもの」はないか、継続すること、連携すること、二次交通、組み合わせ、安全安心。
・よそ者、バカ者、好き者の声を生かす。
・地域の皆さんがその価値に気づき、有効活用されていくことが重要。
・トンネルには必ず出口はある、コロナにも必ず!
 
以 上

お伝えしたいこと② 〜「人道の港敦賀ムゼウム」リニューアルオープン記念シンポジウムより〜

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昨日は、自分の胸に留めておくだけでは勿体ないと思うことが多くあった一日でして、今日は初の二本立てで書かせていただきます。
 
シェアをして、皆さんにお伝えしたいことの二つ目は、午後に開催された「人道の港敦賀ムゼウム」リニューアルオープン記念シンポジウムの内容です。
 
「いのちと人間とは 〜ポストコロナの未来につなぐ、いのちのバトン〜」のテーマを持って行われたシンポジウムからも、胸に残る言葉や人として生きるに必要な勇気を教わった気がします。
 


【講演会(第一部)、パネルディスカッション(第二部)の様子】
 
内容については、私が要約するより、講演者やパネリストの皆さんのお言葉をリアルにお伝えいたしたく、これまたメモの内容を全てご紹介させていただきます。
 
ご興味のある方は是非、このまま読み進めていただければ幸いに存じます。
 
以下、やまたけメモより。
 
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【「人道の港敦賀ムゼウム」リニューアルオープン記念シンポジウム】
いのちと人間とは 〜ポストコロナの未来につなぐ、いのちのバトン〜
 
1.日時:令和2年11月3日(日)13:30〜15;25
2.基調講演
(1)テーマ: 敦賀がつないだ、人といのち
        〜シベリア孤児受け入れとポーランド・日本間の友好関係について
(2)講 師: マリア・ジュラフスカ氏(ポーランド広報文化センター所長)
(3)内 容:
・4、5回敦賀に来ているが、皆さんの前で講演をするのは初めてで緊張している。
・ポーランドは親日国。100年以上の長い歴史の中で友情にあふれた関係にある。
・日本文化、言語は良く知られていて人気がある。ワルシャワでは日本祭りも開催されている。
・日本文化というとポップカルチャーが有名だが、日本の言葉も人気があり、日本語講座も行われている。
・ポーランドは国として存在しなかった歴史もあったが、1918年に独立回復、1919年には日ポ国交樹立、1920年にシベリア孤児が敦賀に到着したという歴史がある。2019年には国交樹立100周年を迎えている。
・シベリアのポーランド人孤児の引き揚げに関しては、1920年2月に第一弾が敦賀に到着、1921年8月までに累計375名の児童と32名の付添者が救われた。
・社会福祉法人福電会では2019年10月23日に、100周年の目録贈呈、レリーフはクラフクの博物館に寄贈された。
・敦賀とユダヤ人。ユダヤ人が何故ポーランドと関係があるか。多くのユダヤ人がポーランド国籍であったからである。
・杉原ともう一人の外交官として、初代駐日ポーランド大使タデウシュ・ロメルの存在がある。
・敦賀とポーランドの友好関係。敦賀がなければシベリア孤児の話しは知られていなかったかもしれない。受け入れてくれる港はここしかなかった。
・2018年からは国際交流フェスティバルを開催(ポーランド文化の紹介も)、2020年は東京オリ・パラのホストタウンとして交流イベントを行う予定であった。
 
3.パネルディスカッション
(1)テーマ:手渡された「命のバトン」
       〜ポストコロナの未来へ、「人道のまち」敦賀からのメッセージ
(2)ファシリテーター:岡田 慶子 氏
(3)パネリスト   :石岡 史子 氏(NPO法人ホロコースト教育資料センター)
            福田 英子 氏(一般社団法人コモン・ニジェール代表)
            井澤 友郭 氏(こども国連環境会議推進協会事務局長)
(4) 内 容:
①講演を聞いての感想
石岡)改めてこの敦賀が、ポーランドやもっと広い交流を生み出す拠点になっていることが分かった。会場に高校生もいらっしゃるが、ポーランドという国のことをもっと勉強していただきたいと思う。
 
福田)敦賀は初めて。凛とした氣比神宮の雰囲気を感じ、素晴らしいまちと感じた。ポーランド孤児の話しを聞き、この地に来て当時の情景が浮かんだ。このエピソードをもっと大事にしていきたい。世界で一番貧しい国と言われるニジェールに7年間住んだが、ニジェールのウランで日本も発電してきた事実がある。この団体のスローガン「知らないけどつながっている」、時も場所も関係なく、思いもかけないところで身近につながっていることと、「これで終わらせない」との思いで取り組んでいる。
 
井澤)SDGsの関係で企業に話しもしているが、未来と今がどうつながっていくかとの観点でお話し出来ればと思っている。100年前と国力が上がっているにも関わらず、日本の難民の受け入れは1920年当時より少ない。マリアさんの講演からは、何を変えるべきで何を残すべきかのヒントをもらえたと受け止めている。
 
②何を変えて何を残してしていくべきか
石岡)助け合い、命は大事だというスローガンは出てくるが、何故かという本質を考えることが大切。例えばドイツで難民を受け入れた時も大歓迎されたが、それはどうしてか。可哀想だからというのではなく、難民たちが持ってるべき権利を剥奪されているから、権利を持っている自分たちが助けるんだという考えで行動していることを認識すると「人権」についても理解されるのかと。
 
井澤)権利は日常的に奪われていると分からない。外との比較などで気付くことが多いことからすれば、どの視点から見るかが大切と思う。学校も学力のみでなく、「人を尊ぶ」こと「立ち止まって疑問に思う」ことを考える授業も行われてきているので、光は見えてきたと感じている。
 
福田)ニジェールでは、中世の奴隷時代の名残で、家族によっては自分の子どもの見分けがつくように、生まれた時に顔に傷をつける風習が残っている。虐待ではない。そうした最貧国にも逃げてくる難民がいる(ボコハラムなど)。想像もつかない生活をしている国の中で、「自分の名前を字で書ける」ようにと各国NPO団体が、難民の子どもも含めて「寺子屋」のような学校を設置している。ニジェールのあるサハラ砂漠は厳しい環境だが、とにかく星が綺麗。悲惨な大変な中にも感動や美しいと思うことがある。難民にお菓子をあげたりした事実は、まさにそういうことであり是非ムゼウムにて残していただきたい。
 
石岡)身重の状態でユダヤ難民として敦賀に辿り着き、日本で出産したドラ・グリンバーグさんの物語を聞くに、隣にいる人に優しい言葉を掛けてあげられるかを大事にしていければと思う。
 
井澤)SDGsによって、「我々の世界を変革する」、「誰ひとり取り残されない世界の実現」のための戦いに変わってきた。海の向こう側の世界の話しではなくて、「取り残されている」ことは日本にも身近なところにある。その人を助けるために何ができるかを考える時代にある。
 
福田)コロナでリモートが進み、これまでの人間臭いことをどうしていくのか。宗教や親子の関係でさえもどうなっていくのか分からない大変な時代になってきているので、自分で考えていかなければならない。哲学的な話しになるが、人間はひとりで生まれ、一人で死んでいくという原則が、もしかすると連帯感なのかもしれない。痛みの分かる人間になって欲しい。
 
③まとめ、会場へのメッセージ
石岡)コロナで人との連携が難しくなってきているが、自分から隣の人に声を掛けてみることを是非勇気を出してやって行って欲しい。アウシュビッツも突如として日常から始まるものであったことから、日頃の心掛けを大切にしていただければと思う。
 
福田)。グローバルとローカルを合わせた19年前に出来た「グローカル」という日本の言葉。グローバルだけでも、ローカルだけでも生きていけない。足はしっかり地につけ、目は遠くを見ることが大事。
 
井澤)SDGsは、ゴールベースの考え方。ルールベースでなく、新幹線開業に向けてもゴールベースの考えにシフト。学びとは掛け算である。気付き×知識×行動=?
 
岡田)人道とは「人間が互いにその人生を改善すること。より多くの満足を与えること」。
 
以 上

お伝えしたいこと① 〜各国駐日大使の皆さんからのご挨拶より〜

ブログ 敦賀の歴史

一日を振り返って「いい一日だったなあ」と思えることは幸せなことですが、私にとってここ数日はそう思える日が続いています。
 
そう思える大きな理由のひとつは、新型コロナで停滞感が漂い続けていたまちに、賑わいや活気が戻ってきたことだと感じる訳でありますが、昨日は新たな門出を祝うかのような秋晴れの中、「人道の港敦賀ムゼウム」のリニューアルオープンセレモニーに感激しました。
 

 
11時から始まったセレモニーは、杉原千畝氏が領事官として「命のビザ」を発給したリトアニアを始め、孤児を受け入れたポーランド、さらにはオランダやアメリカなど各国駐日大使をご来賓としてお迎えしての開催。
 
各大使の皆さんからの心温まるご挨拶では、改めて「人道」の尊さと、100年前、80年前に敦賀であったエピソードを語り継いでいくことの大切さを教わった気がします。
 
さらに、孤児や難民を受け入れてくれたたことに対する日本への思い、外国から見た敦賀、敦賀ムゼウムに期待する役割などの言葉は、私の心に深く響いた次第です。
 

【セレモニーの最後には、出席者皆で平和のバルーンを飛ばしました】
 
このように、私にとって胸に残るセレモニーとなった訳ですが、この感激を私の胸だけに留めておくのは勿体無いと思い、各国大使のご挨拶を書き留めてまいりました。
 
本日は、そのご挨拶の要旨をご紹介させていただきますので、特に敦賀にお住まいの皆さんにおかれましては、先人が残してくれたエピソードと当時の情景を思い浮かべつつ、お読み取りいただければ幸いです。
 
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「人道の港敦賀ムゼウム」オープニングセレモニー
 
1.日 時:令和2年11月3日(日) 11:00〜12:15
 
2.各国大使ご挨拶(要旨)
(1)駐イスラエル特命全権大使 ヤッフィ・ベンアリ閣下
・渕上市長に対し、ここまでプロジェクトを進めてくれたことに感謝。
・情報提供いただいた北出様、ホロコースト教育に尽力された西岡様にも感謝。
・ユダヤ、イスラエルノ代表としてここに来ているが、今日は亡くなった母親の代わりとしても来ている。
・600万人の人々がナチスの迫害により殺害されたが、ヤドヴァシム記念館には亡くなった方の魂が残っている。
・36人の外交官の中には杉原千畝の名前も残されており、「命のビザ」によって2,300人ものユダヤ人の命が救われた。杉原のお陰と深く感謝している。
・ヤドヴァシム記念館にあるように、一人の命を救うということは、全世界の命を救うということ。
・敦賀ムゼウムは、人道だけでなく、命も象徴している。
・過去のことを覚えていくということだけでなく、これからの人に教育していくことが大事。
・コロナで大変な時であるが、人種や国籍に関わらず、互いに敬意を払っていくことを教育していくべき。
・昨年、ウィーンでユダヤに対するテロがあったが、二度とこういうこと繰り返さないよう行動していきたい。
 
(2)駐日リトアニア共和国特命全権大使 ゲディミナス・バルブオリス閣下
・敦賀には2年前にカウナスの市長と来た。また敦賀に来ることが出来て光栄。
・杉原千畝の命のビザから80年。沢山の人がここに来て、杉原の功績を学ぶことは素晴らしい。
・そうした特別な場所に来ることを嬉しく思うとともに、難民が初めて上陸した土地であり、そのことを切掛けに交流出来るようになったことを嬉しく思う。
・千畝の残したものが残されているということ、敦賀だけでなく他の土地にも残されていくことを希望する。
・千畝の使命は亡くなった今もなお生きている。多くの国との結びつきが千畝の尽力によってなされている。
・私たちの国の出来事がムゼウムに展示されることを嬉しく思う。
・杉原の使命をこれからも私たちでつないでいきましょう。
 
(3)駐日ポーランド共和国特命全権大使 パヴェウ・ミレフスキ閣下
・敦賀はポーランドの人にとって特別な場所。
・長年に亘りムゼウムは重要な役割を果たしてきたが、これからはさらに伝えていく場所になると思う。
・ユダヤの少年を助けた「諸国民の中の正義の人賞」を受賞したアントニーナ・メロさん(正確に聞き取れず)の賞を本日は敦賀市に寄贈する。
・これからの発展をお祈りする。
 
(4)駐大使・神戸米国総領事 リチャード・メイ・ジュニア氏
・千畝の功績にあたって、アメリカでも同様にビザを発給した人物がいたが、政府の正式な政策に反していたことから、2,000人ものユダヤ人は救われたものの、彼らは罰せられ、功績を認められることはなかった。
・事柄の大小に関わらず大切なこと。
・ヒューメニティーの言葉は一番思っていることを表している。同じことが自分に出来るかとの思いもあるが、こうした事実があったことを是非今後も伝えていきたい。
 
(5)駐日オランダ王国全権公使 テオ・ペータス氏
・博物館が好きだが、このムゼウムは単に保存するだけでなく、鏡として教育し、語り継ぎ、例えどんな時でも正しいことをするという物語を継承している。
・このエピソードは協力の物語でもある。知らなかった人と協力したという物語である。
・このエピソードは、一年前に日本に来るまで知らなかった。
・杉原のことは、「偉大な日本人30人」から日本を学ぶことで知った。言葉から学ぶことは大事なことである。
・千畝の章には感動。良心ある行動をした日本人に敬意を表する。
・それと同時に、ヤン・ズヴァルテンディクのことも知った。
・杉原と同じく、2,132人の難民を救った彼は、「他の人でもしたことだ」と息子に語り、特別なことをしたのではないとした21日間のことについては生涯沈黙を守ってきたため、知られることはあまり無かった。
・彼の葬式の日に、彼の行動により生き残ることが出来たとの手紙が届いたが、彼は知ることが出来なかった。
・このムゼウムにはズヴァルテンディクのことも展示されており感謝している。
・過去の声が生かされて感謝。これからも大事にしていきたい。
 
以 上

やっぱりスゴい!敦賀と鉄道の歴史!

ブログ 敦賀の歴史

昨日は、あいにくの雨模様と強い風。
 
敦賀駅前で開催の駅西地区社会実験イベントのほうも、朝の準備の際に雨に降られ大変だったそうですが、それでも日中は時折日が射す時間帯もあり、土砂降りでないだけ良かったと思うべきでしょうか。
 
まずは、そのような悪天候の中、終日運営対応にあたられたスタッフの皆さんに感謝です。
 
イベントの方は、私の参加した夕刻も、あらゆる年代の方が会場を訪れ賑わいを見せていましたが、やはりお昼時は結構な人数が足を運んでいただけたと聞き嬉しい限り。
 
昨日のブログでもご紹介しましたように、この社会実験は、令和4年の北陸新幹線開業に向けてゾーンニングした駅西エリアをどう有効活用していくかの視点のものであり、例えば、公園の芝生は天然か人工どちらが相応しいか?このエリアに必要なのは何か?など、来場いただいての感想をアンケートにてお答えいただくことが重要でもあります。
 
「こういう場所なら普段も行こうかな」「こういうふうに活用すれば賑わうのでは」などの声をお聞かせいただきたいと思いますので、天気が回復する今日はぜひ会場に足を運んでいただけますようお願いいたします。
 
さて、社会実験はこれからの新幹線開業に向けてでありますが、昨日午後は、同じ鉄道ネタでも「敦賀と鉄道の歴史」を学ぶ場に参加してきました。
 
「観光ボランティアガイドつるが」さんが主催する「鉄道カフェ」の今年度第1回目が松原公民館で開催され、定員40名に枠があるということで事前申込みしたうえで参加させていただいた訳ですが、改めて、敦賀は鉄道のまちと言われる所以を知ることが出来ました。
 

 
「日本遺産認定へのアプローチとその魅力について」と題し、前半は敦賀市の観光交流課の職員さんから、日本遺産認定までのプロセスや苦労話しを、後半はボランティアガイドさんの方から、明治15年に開通した長浜〜敦賀、さらには今庄までの旧北陸線トンネル群を映像ベースにて解説をいただきました。
 
本年6月に日本遺産に認定された長浜、敦賀、南越前とつながる鉄道トンネル群に関しては、第1回目に文化庁に申請した際には「ただのトンネルじゃないか」と酷評され、敢えなく落選。
 
しかしながら、その際に文化庁側からあった、「コアな内容のストーリーを万人受けするように」、「実際に訪れてみたいと思えるように工夫を」とのコメントをもとに、各市町が協力し課題改善のうえ再度チャレンジしたところ、めでたく認定を勝ち得たとの裏話しを聞くことが出来、その苦労の大きさが伺えました。
 
また、改めてこの敦賀の鉄道の歴史を聞くに、日本の鉄道の歴史はここにありと言っていいほどの「貴重な財産」であることが良く分かりました。
 
その始まりは、何と1869年(明治2年)、明治新政府が「鉄道敷設計画」を決定した際、東京〜横浜、京都〜大阪〜神戸と並び「琵琶湖畔〜敦賀」が整備すべき支線として、日本初の鉄道路線の1区間に挙げられていたこと。
 
これは、いかに明治政府が、敦賀を日本海側の物流拠点として見ていたかを表しています。
 
その後、難工事を経て、1883年(明治17年)に敦賀線「長浜〜敦賀」が全線開通する訳ですが、何せ「日本一」のものが満載。
 
◉柳ヶ瀬越えの1,352mのトンネルは、当時国内最長。
◉D51型(デゴイチ)蒸気機関車の国内初配備。
◉明治14年開通の小刀根トンネルは、日本人技術者による工事では国内2番目、現存する日本最古のトンネル。
◉その後の今庄側への山中越えを含め、日本一の難所と呼ばれた。
◉連続する魔のトンネル、急勾配の難所の運転は一級品の腕を要した。
◉国際港へ舵を切った敦賀港からつながる欧亜国際連絡列車。
 
などなど、ここでは書き切れないほど盛り沢山の記録やエピソードがありました。
 

【旧北陸線トンネル群のひとつ「樫曲トンネル」。通行するとレトロな灯りが点灯します。】
 
とりわけ、敦賀から今庄に抜ける山中越えの30kmは、12ものトンネルを掘る必要があり、硬い岩盤の部分では1日に15cmしか掘り進めることが出来なかったそう。
 
このような貴重なお話しをお聞きした後、会場にいらっしゃった86歳の元鉄道マン(運転手?)の方がこのような感想を述べられました。
 
「20歳から勤めていた職場が、こうして脚光を浴びるというのは本当にありがたいこと。これで安心して死ねる。」
 
100年も前に、石も手積みで作られたトンネル群がこうして今も使用されていること自体が驚きな訳ですが、感想を述べられた方のように、先人たちの挑戦と想像を絶する苦労があって成し得たこの鉄道遺産に思いを馳せ、これからも大切にせねばと胸に誓った次第。
 
それから約140年の時を経て、D51蒸気機関車から新幹線へ。
 
古き良きものを大切にし、新たな時代に挑戦していく。
 
これは、歴史的に「交通の要衝」として栄えてきた敦賀のまちに与えられた使命であり役割であると、思いを再確認した1日となりました。
 

【駅西地区社会実験の会場で見た、子ども達が描く新幹線からは「新たな時代」を感じました】

通説から新説へ、やっぱり歴史は面白い

ブログ 敦賀の歴史

天気予報を見ると、今日からの3日間は快晴の模様。
 
まさに秋晴れといったとことでしょうか。
 
スポーツ、芸術、食欲とジャンルも様々、どれも絶好の季節となってきますので、バランス良く楽しみたいものです。
 
さて、ジャンルでいけば芸術に入るのでしょうか、昨日は毎回楽しみにしている気比史学会主催の「敦賀市民歴史講座」に参加してきました。
 
通常であれば、会場の市立図書館3階研修室の収容人員から定員を100名とするところ、コロナ禍ということもあって定員を半分の50名に減、受付では検温、手指消毒、名簿記入、会場内は窓開放という対策を図りながらの開催となりました。
 
私はといえば、これまで拝聴させてもらうばかりでしたが、この日は何かお手伝いをと受付にて検温係をさせていただきました。
 
定刻15分前には定員に達し、2〜3名の方は資料だけお渡ししお帰りいただくこととなり、申し訳ない気持ちとなりましたが、皆さん快く応じていただき感謝。
 
また次の機会を楽しみに来場いただきたく存じます。
 
前置きが長くなりましたが、今期は「元亀争乱から450年」と題し、元亀年間(1570〜1573)に越前、近江の国を中心として繰り広げられた朝倉義景・浅井長政vs織田信長・徳川家康の戦いの軌跡を総称した「元亀争乱」を中心に各地に残る城跡や戦国時代の周辺地域の様相などを手掛かりに、何度も覇権争いの戦禍を乗り越えてきた敦賀の歴史を探るという全4講のうち、昨日は2講目。
 
ちなみに、参考までに8月29日に開催された第1講の内容を書いたブログをリンクしておきますので、興味のある方はご覧くださいませ。
 →→→第1講の内容はこちらから
 
その第2講目は「若狭国から見た元亀争乱 〜織田信長公国吉入城450年〜」と題し、若狭国吉城歴史資料館の大野康弘館長より講義いただきました。
 

 
1.信長と足利義昭、そして明智光秀
2.信長、若狭国侵攻の背景
3.信長と光秀、永禄13年4月20〜22日の動向
4.信長、国吉城入場
5.信長、国吉城に“御逗留”
6.信長、越前敦賀表へ出陣
7.“金ヶ崎の退き口”の実態
8.美浜町に残る“金ヶ崎の退き口”伝承
9.“幕府軍”若狭侵攻の顛末と元亀争乱
 
9つの小タイトルの流れで信長の侵攻ルートや文献、伝承などから、当時の状況が浮かぶようなリアリティーあふれる話しに1時間半聞き入ってしまいました。
 
全てをここでご紹介出来ないのが誠に残念なのですが、館長曰く「通説と異なる」ことをお伝えしますと、ひとつは「信長と足利義昭の関係」。
 
これまでの「通説」では、
◉将軍に就いた足利義昭は勝手な振る舞いで政(治)を混乱に招く。
◉信長は義昭に対して「殿中御掟」などを突きつけ、何事も自分の指示で動くよう命じた。
◉自分を蔑ろにする信長に反感を覚えた義昭は、各地の大名諸侯に内書を送りつけ、信長包囲網の形成を画策した。
 
ところが「最新の研究」や「新説」では、
◉信長と義昭の関係は良好。義昭は幕府政権を、信長は軍事権を握って天下統一を担う(天下布武)という役割分担が出来ていた。
◉「殿中御掟」などを発したのは、義昭に政治に集中出来る環境づくりをするためであり、義昭もこれを否定せず度々受け入れた。
◉信長自身も「全国統一」という思考はなく、京周辺の安定=朝廷、幕府を守る=天下静謐を目指した(これは疑問符付き)。
 
この二人の関係性に対する事実認識の違いは大きなものと、冒頭から思わず「へ〜」と唸ってしまいました。
 
敦賀に深く関係する、信長の人生最大のピンチとも言われる「金ヶ崎の退き口」に関しても、知らない方が良かったかもしれない「新説が。
 
通説では、
◉浅井長政の離反と、そのことをお市の方が両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り知らせたとの逸話は有名。
◉織田軍が全軍撤退の際、木下藤吉郎(秀吉)が殿軍を担い、激しい後退戦を繰り広げた末、無事に京に生還した。
◉秀吉最大のピンチにして最大の見せ場となり、その後のサクセスストーリーが生まれた。
 
これに対し新説では、
◉浅井長政の離反は、長政自身は離反する考えがなかったが、父や有力家臣団に押し切られた。
◉長政の離反を信長はすぐには信じなかったが、同様の報がいくつも届いたため撤退を決断した。
◉殿軍には、秀吉より身分の高い池田勝正や明智光秀も加わっていたことから、秀吉軍は大将格でなく一部隊に過ぎない。
◉つまり、秀吉ひとりが活躍するような大撤退戦ではなかった。
 
また、京に戻るまで朝倉軍の猛烈な追撃にあったとのイメージが強い訳ですが、朝倉軍の兵力不足に対し、3万人の幕府軍勢が逃げ切る余裕はあった(近隣地理に明るい若狭衆が同行、まずは本陣でもある「難攻不落」の国吉城に撤退した)ことや、実際の戦いも「若越国境近く」まで、つまり「金ヶ崎の退き口」とは、敦賀から国吉城(現美浜町)までの約十数キロに亘る退去戦に過ぎなかったとのこと。
 
この他にも「目で見る美浜の文化財」には、美浜町松原地区に隣接する久々子地区に、昭和50年台まで「徳川家康陣跡」の木柱碑が存在(現在不明)していたことなどから、歴史上のルートが浮かび上がることや攻め続ける敦賀軍(朝倉軍)に徹底した籠城戦で耐え抜いた「国吉城」のことなど、まさに歴史ロマンを感じまくったひと時となりました。
 
まだまだお伝えしたいことは沢山あるのですが、ここまでとさせていただきます。
 
講義の最後に大野館長が仰った「歴史の真実に行き着く手段は色々あるので、見方によって定説が変わることもある」との言葉にある通り、事実を検証し変化することも歴史の醍醐味ということなんでしょうね。
 
大河ドラマ「麒麟がくる」も越前から京に舞台を移す段階に入りますが、これも館長の言葉にありました「最後の本能寺まで辿り着くか、金ヶ崎の退き口がどう描かれるか楽しみにしている」との思いに共感し、ドラマもこの後も続く市民歴史講座第3・4講も大いに楽しみに参加していこうと思います。
 
その第3講は、11月28日(土)14:00から。
 
会場を「きらめきみなと館」小ホールとし、定員100名にて開催となりますので、関心のある方は是非ともの参加をお待ちしています。
 

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