風は見えないけれど 風のすがたは なびく 草の上に 見える

ブログ 人生観

12月に入ったかと思えば、既に今月も中旬。
 
「師走」の文字どおり、月日が経つのが本当に早く感じられます。
 
早いといえば、10月末に父が急逝したことも、私にとっては随分昔のように感じるところ。
 
浄土真宗大谷派のわが家においては、父の没後49日までは、7日ごとにお経をあげていただく「中陰法要」を勤めてまいりましたが、この法要は「故人を偲びながらも、お念仏の教えをお伝えいただく諸仏としていただき、亡き方である諸仏を通して、ご本尊に手を合わせ、仏さまの教えを聞いていく、新たな歩みの始まり」とされています。
 
なお、仏事は誰のためと考えた時、故人の供養のために行う儀式と感じられる方がほとんどかと思います。
 
しかし、初七日以降、二七日・・・六七日(むなのか)まで勤める中で、お経の意味や住職の説法を拝聴するに、私たちにとって大切な人の「死」からは、感謝や後悔、不安といった様々な感情が湧き起こり、自然と手が合わさっているのではないか。
 
そして同時に、自分自身のことも尋ね、自分もいつかは死ぬ。
 
しかし、それがいつかはわからない。
 
そのような命(いのち)を生きているという事実を、他人の「死」を通して自分の「死」と向き合い、「生」を生きるきっかけの場が「仏事」であり、「仏事」を務めるということは、故人のためであり、同時に今を生きる私自身のためでもあるのだと言うことを知った次第です。
 
※他宗派では「故人の魂が迷いの世界をさまよい、四十九日目に成仏する」と考えられていますが、浄土真宗の教義では、故人は亡くなった直後に阿弥陀如来の力によってすぐに浄土へ往生し、仏(成仏)になるとされている(往生即身仏)ため、こうした考えになろうかと存じます。
 
そうした思いのもと、七七日にあたる昨日は、満中陰(四十九日)法要を執り行いました。
 
あいにくの雨模様の中、ご親戚にもお集まりいただき、実家での法要、そしてお寺さんへの納骨までを無事に終え、施主である私からはあらためて、これまでの感謝と、皆様の心の中で、時折故人を思い出していただければとお願いしました。
 
こうして滞りなく、四十九日の法要を執り行うことができ安堵するところですが、実家でお経をあげていただいた直後、降っていた雨が止み、太陽の光が差し込みパッと明るくなったのは、父から皆様への「ありがとう」のメッセージではなかったかと、天国の父の笑顔を思い浮かべた次第。
 
結びに、住職さんが法要の最後に残していただいた、胸に染み入る言葉は以下。
 
風は見えないけれど
風のすがたは なびく
草の上に 見える
 
意味は、
大切なあなたは もうこの世に居ないけれど、
あなたの姿は あなたのこころざしを受けた
家族や友人たちの生き様の上に 見える
 
父のこころざし(志)は、わが名にも胸にもあり。
 
今日からはこの言葉も胸に、気持ち新たにスタートです。
 

【私が小学校3年生の時に一度病気で入院している父。実家の座敷に飾るこの絵は、その入院中に父が作成した刺繍(ししゅう)絵。左肩に「心」の文字、武将顔のダルマは、当時の「転んでも起きる」「負けるものか」の思いが入魂されたものと理解。】