2019年9月24日
鉄道と港、そして野球のまち敦賀
昨日、一般質問の再放送についてご案内しましたところ、視聴いただいた方から励ましのメッセージなどを頂戴しておりますことに対し、この場を借りて御礼申し上げます。
さて、昨日は秋の高校野球観戦に。
というよりも母校であり、長男が所属する敦賀高校の応援にと言ったほうが正しいか…。
試合のほうは武生高校に勝利し、ベスト8進出。
敦賀勢は、この日惜しくも敦賀工業が敗れたものの、敦賀気比高とともに8強に2校進出。
選抜につながる北信越地区大会への切符は3枚。
是非ともその切符を掴めるよう敦賀勢の勝利に期待したいと思います。
野球に関して言えば、一般質問でも取り上げた敦賀市営野球場の問題。
球場外飛球によるトラブルに端を発した利用停止。
その後、調整が図られ、2年前からはルールを定め利用再開とはなっているものの、試合はおろか打撃すら厳重管理(完全なる外部飛球防止措置要)のもと可能としており、実質「球音の聞こえない球場」と野球場の体を成していないのが現況。
私は、条例にも定める市の保有施設であるが故、本来の機能に戻すのがあるべき姿との考えのもと、市側が利用拡充を目指すと答弁したその後の対応をどうしているのかと質問した次第です。
質問の場では時間の関係から、思いを伝えきれませんでしたが、タイトルの通り、敦賀は「野球のまち」です。
一度「球都」と調べていただくと分かるのですが、野球の盛んなまちを意味するこのワードを名乗るまちは日本に4つしかありません。
群馬県桐生市、千葉県木更津市、愛媛県松山市、そして福井県敦賀市であります。
こう呼ばれる所以は、大正から昭和にかけて「北陸に敵なし」と恐れられ、7年連続甲子園出場(あの早稲田実業と同じ)の敦賀商業学校の歴史にあります。
全身の敦賀町立商業補修学校として設立されたのは明治34年のこと。その後、明治39年には町立敦賀商業学校へ、大正7年には県立に格上げされ、敦商(とんしょう)と市民から親しみを込めて呼ばれていたそうです。
当時の敦商野球部に纏わるエピソードは新聞記事や私立図書館特別室に保管されている「福井県立敦賀商業学校野球部外史」にリアルに記載されているので、その一端を紹介します。
◉当時、野球部員は、気比の松原の砂浜で練習し「砂野球」とも呼ばれていた。
◉その後、金山旧練兵場(現在の桜ヶ丘)での練習となったが、往復8キロ、バックネットを背負っての移動であった。
◉それに見兼ねた敦商の生徒や保護者、市民までもが声を挙げ、校舎横に自らの手でグランド創設。
◉グランド創設の大正13年は、何と甲子園球場と同じ。
◉効率的な練習が可能となった敦商野球部はめきめき力をつけ、翌大正14年には甲子園初出場。
◉以降、7年連続出場、北陸大会は10年で8度優勝し、「北陸に敦商あり」と呼ばれた。
◉この活躍により、福井県は知らずとも「敦賀」の名前は全国に響き渡った。
◉7年連続甲子園を率いた外海(とのかい)監督は、一度退くものの、甲子園出場を逃した悔しさから、野球部員は外海氏の自宅に押し寄せ直訴。
◉心打たれた、外海氏は再度監督を引き受け、営んでいた貿易商を余所に熱血指導に打ち込み、部員は猛練習に耐え、再度甲子園出場を果たす。
◉晩年、病床の床につきながら外海監督は、金山旧練兵場跡に立つ国立病院の窓の外を眺めながら、思い出に振り返り外史を著す。
話しを元に戻しますが、このような人間ドラマあふれるエピソードが、大正から昭和初期にかけて、あの松原のあの市営野球場を舞台にしてありました。
その息吹や思いは、その後、敦賀高校に受け継がれるとともに、野球は市民のスポーツとして、市営野球場は、球都つるがのシンボル、聖地として存在し続けています。
敦賀気比高が選抜優勝を果たしたのも、敦賀にこのルーツがあったからなのかもしれません。
ですので、単に古い野球場としてではなく、敦賀の野球の代名詞として、100年の歴史が詰まり、市民に愛され親しまれ、敦賀っ子の憧れの場所であるこの球場を大切にすることこそが、歴史と先人に報いる、それこそシビックプライドにつながるものとして、関係者の皆が思いを共有し取り組まねばならないことだと思います。
引き続き、このことは主張していきたいと考えます。
本日は大変長くなりましたが、思いの丈が詰まったということでご理解、ご容赦いただけますよう宜しくお願いいたします。