通説から新説へ、やっぱり歴史は面白い

ブログ 敦賀の歴史

天気予報を見ると、今日からの3日間は快晴の模様。
 
まさに秋晴れといったとことでしょうか。
 
スポーツ、芸術、食欲とジャンルも様々、どれも絶好の季節となってきますので、バランス良く楽しみたいものです。
 
さて、ジャンルでいけば芸術に入るのでしょうか、昨日は毎回楽しみにしている気比史学会主催の「敦賀市民歴史講座」に参加してきました。
 
通常であれば、会場の市立図書館3階研修室の収容人員から定員を100名とするところ、コロナ禍ということもあって定員を半分の50名に減、受付では検温、手指消毒、名簿記入、会場内は窓開放という対策を図りながらの開催となりました。
 
私はといえば、これまで拝聴させてもらうばかりでしたが、この日は何かお手伝いをと受付にて検温係をさせていただきました。
 
定刻15分前には定員に達し、2〜3名の方は資料だけお渡ししお帰りいただくこととなり、申し訳ない気持ちとなりましたが、皆さん快く応じていただき感謝。
 
また次の機会を楽しみに来場いただきたく存じます。
 
前置きが長くなりましたが、今期は「元亀争乱から450年」と題し、元亀年間(1570〜1573)に越前、近江の国を中心として繰り広げられた朝倉義景・浅井長政vs織田信長・徳川家康の戦いの軌跡を総称した「元亀争乱」を中心に各地に残る城跡や戦国時代の周辺地域の様相などを手掛かりに、何度も覇権争いの戦禍を乗り越えてきた敦賀の歴史を探るという全4講のうち、昨日は2講目。
 
ちなみに、参考までに8月29日に開催された第1講の内容を書いたブログをリンクしておきますので、興味のある方はご覧くださいませ。
 →→→第1講の内容はこちらから
 
その第2講目は「若狭国から見た元亀争乱 〜織田信長公国吉入城450年〜」と題し、若狭国吉城歴史資料館の大野康弘館長より講義いただきました。
 

 
1.信長と足利義昭、そして明智光秀
2.信長、若狭国侵攻の背景
3.信長と光秀、永禄13年4月20〜22日の動向
4.信長、国吉城入場
5.信長、国吉城に“御逗留”
6.信長、越前敦賀表へ出陣
7.“金ヶ崎の退き口”の実態
8.美浜町に残る“金ヶ崎の退き口”伝承
9.“幕府軍”若狭侵攻の顛末と元亀争乱
 
9つの小タイトルの流れで信長の侵攻ルートや文献、伝承などから、当時の状況が浮かぶようなリアリティーあふれる話しに1時間半聞き入ってしまいました。
 
全てをここでご紹介出来ないのが誠に残念なのですが、館長曰く「通説と異なる」ことをお伝えしますと、ひとつは「信長と足利義昭の関係」。
 
これまでの「通説」では、
◉将軍に就いた足利義昭は勝手な振る舞いで政(治)を混乱に招く。
◉信長は義昭に対して「殿中御掟」などを突きつけ、何事も自分の指示で動くよう命じた。
◉自分を蔑ろにする信長に反感を覚えた義昭は、各地の大名諸侯に内書を送りつけ、信長包囲網の形成を画策した。
 
ところが「最新の研究」や「新説」では、
◉信長と義昭の関係は良好。義昭は幕府政権を、信長は軍事権を握って天下統一を担う(天下布武)という役割分担が出来ていた。
◉「殿中御掟」などを発したのは、義昭に政治に集中出来る環境づくりをするためであり、義昭もこれを否定せず度々受け入れた。
◉信長自身も「全国統一」という思考はなく、京周辺の安定=朝廷、幕府を守る=天下静謐を目指した(これは疑問符付き)。
 
この二人の関係性に対する事実認識の違いは大きなものと、冒頭から思わず「へ〜」と唸ってしまいました。
 
敦賀に深く関係する、信長の人生最大のピンチとも言われる「金ヶ崎の退き口」に関しても、知らない方が良かったかもしれない「新説が。
 
通説では、
◉浅井長政の離反と、そのことをお市の方が両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り知らせたとの逸話は有名。
◉織田軍が全軍撤退の際、木下藤吉郎(秀吉)が殿軍を担い、激しい後退戦を繰り広げた末、無事に京に生還した。
◉秀吉最大のピンチにして最大の見せ場となり、その後のサクセスストーリーが生まれた。
 
これに対し新説では、
◉浅井長政の離反は、長政自身は離反する考えがなかったが、父や有力家臣団に押し切られた。
◉長政の離反を信長はすぐには信じなかったが、同様の報がいくつも届いたため撤退を決断した。
◉殿軍には、秀吉より身分の高い池田勝正や明智光秀も加わっていたことから、秀吉軍は大将格でなく一部隊に過ぎない。
◉つまり、秀吉ひとりが活躍するような大撤退戦ではなかった。
 
また、京に戻るまで朝倉軍の猛烈な追撃にあったとのイメージが強い訳ですが、朝倉軍の兵力不足に対し、3万人の幕府軍勢が逃げ切る余裕はあった(近隣地理に明るい若狭衆が同行、まずは本陣でもある「難攻不落」の国吉城に撤退した)ことや、実際の戦いも「若越国境近く」まで、つまり「金ヶ崎の退き口」とは、敦賀から国吉城(現美浜町)までの約十数キロに亘る退去戦に過ぎなかったとのこと。
 
この他にも「目で見る美浜の文化財」には、美浜町松原地区に隣接する久々子地区に、昭和50年台まで「徳川家康陣跡」の木柱碑が存在(現在不明)していたことなどから、歴史上のルートが浮かび上がることや攻め続ける敦賀軍(朝倉軍)に徹底した籠城戦で耐え抜いた「国吉城」のことなど、まさに歴史ロマンを感じまくったひと時となりました。
 
まだまだお伝えしたいことは沢山あるのですが、ここまでとさせていただきます。
 
講義の最後に大野館長が仰った「歴史の真実に行き着く手段は色々あるので、見方によって定説が変わることもある」との言葉にある通り、事実を検証し変化することも歴史の醍醐味ということなんでしょうね。
 
大河ドラマ「麒麟がくる」も越前から京に舞台を移す段階に入りますが、これも館長の言葉にありました「最後の本能寺まで辿り着くか、金ヶ崎の退き口がどう描かれるか楽しみにしている」との思いに共感し、ドラマもこの後も続く市民歴史講座第3・4講も大いに楽しみに参加していこうと思います。
 
その第3講は、11月28日(土)14:00から。
 
会場を「きらめきみなと館」小ホールとし、定員100名にて開催となりますので、関心のある方は是非ともの参加をお待ちしています。