2024年9月5日
氣比神宮「例大祭」と「敦賀まつり」のフィナーレ
北陸道総鎮守 越前國一之宮の「氣比神宮」。
地元敦賀では皆さん、親しみをこめて「けいさん」と呼んでいますが、由緒沿革によれば、
伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は、笥飯大神(けひのおおかみ)、御食津大神(みけつおおかみ)とも称し、2千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれ、(〜中略〜)文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。<氣比神宮HPより>
とあります。
【北陸道総鎮守「氣比神宮」(写真は本宮)。敦賀のシンボルであり、心の拠り所。】
勅して六柱の神々を合祀したのが大宝2(702)年8月4日(旧暦)で、新暦に引き直すと9月4日。
昨日は、この日に合わせて連綿と行われてきた、年に一度の重儀(最も重要)である大祭(例祭)が執り行われました。
702年から続く例大祭はなんと、今年で1322年。
この例大祭に、議会からは中野史生議長とともに参列させていただき、1300年を超える歴史と伝統の重さを感じながら、神前にて深く拝礼した次第です。
【光栄なことに玉串奉奠まで。心を託して神に捧げました。(写真提供者の方ありがとうございました)】
また、例大祭に合わせて開催の「敦賀まつり」最終日は「山車(やま)巡行」。
正午ごろ、戦国絵巻を再現した絢爛豪華な山車6基がずらりと氣比神宮の大鳥居前に並び、勇壮な姿を見せた後、大勢の観客に見守られながら、中心部の大通りを進みました。
全盛期の幕末には、大小50基近くあったとされる山車。
戦災で大半が焼失し、当時のまま現存するのは3基で、住民有志によって復元された3基と合わせ6基となっていますが、こうして大切に保管され、晴天の中でお披露目されたことを嬉しく思う次第です。
なお、この山車に使用されている「水引幕」は、敦賀駅2階コンコースの柱に展示されていますので、機会があればじっくりご覧になっていただければと。
そして、敦賀まつりのフィナーレを飾るのは「民謡踊りの夕べ」。
市内各地から本町通りに集結した人数は、何と約2,000人。
ひばりケ丘町からも約30名が参加し、敦賀とてもすきすき、すてな踊り、大敦賀行進曲と敦賀の代表的な曲に合わせて、私も踊りを楽しみました。
昨年も参加をし、この時はコロナ禍から明けた市民の皆さんの喜びやパワーを感じたところですが、今年も本町通りを埋め尽くす踊りの隊列は圧巻。
対向する列で踊る多くの知人と手を振り合ったり、声を掛け合ったり、また沿道には若い方からお年寄りの方まで多くの観客もおられ、まさに踊りを通じて生まれる一体感を感じたところです。
【本町通りを進む踊りの列。列は、白銀交差点から氣比神宮前交差点まで続きます。】
【私もチームひばりケ丘の一員として、華麗?に踊ってきました。】
台風10号襲来の心配から始まりましたが、その後はお天気回りも良く、4日間を通し、お子さんからお年寄りまで、老若男女を問わず、市民総ぐるみで盛り上がった「敦賀まつり」。
先日も述べたよう、お祭りこそ、地域コミュニティであることはもとより、「敦賀っ子」の原点であり、この「市民力」こそ「敦賀発展」の源とも感じた次第です。
結びに、お祭りがこうして盛況裡に開催できたことは、企画から準備、運営に携わられた全ての関係者の皆様のご尽力あってのことであり、この場を借りて、心より感謝申し上げます。