2025年7月13日
未曾有の惨禍「敦賀空襲」を忘れない日
これだけ暑い日が続くと、「まだだったの?」と言われそうなのが「海開き」。
敦賀のシンボリックなもののひとつであり、自慢でもある「気比の松原海水浴場」の「海開き式」が昨日10時から行われ、私は産経建設常任委員会の一員として出席。
米澤光治敦賀市長、川端耕一敦賀市議会副議長らとともに、海開きを祝うとともに水難事故等なく、安全に海水浴をお楽しみいただけるよう祈願した次第です。
同時に、こうして国指定の名勝でありながら、海水浴場として開設されるのは珍しいことと認識していますが、これぞ敦賀ユニークなものであり、多くの皆さんにお越しいただくことを期待するものであります。
一方、この日「7月12日」は、敦賀の歴史上、大変大きな出来事があった日。
これまで幾度もお伝えしているよう、昭和20(1945)年7月12日は、先の大戦において、日本海側で初めての空襲を敦賀が受けた日。
この空襲によって、敦賀は市街地の大半が焦土と化したほか、7月30日、8月8日※にも続けて戦火に見舞われ、これら3回の空襲によって、225柱もの尊い命が失われました。
※同年8月8日午前9時頃、B-29が敦賀に投下したのは長崎に投下した原子爆弾と同型の模擬爆弾(通称パンプキン)
なお、12日にあった敦賀空襲の詳しくは、以下の過去ブログよりご覧ください。
→2025年7月6日 ブログ『敦賀空襲を伝え つなぐ』はこちら

【昭和20(1945)年7月12日の空襲により、中心市街地が焦土と化した敦賀】
敦賀市では、12日(土)10時に、市内にある屋外スピーカー(防災情報伝達システム)を使用してサイレンを鳴らし、戦没者戦災死没者のご冥福を祈るとともに、世界の恒久平和を願い、ご家庭や事業所等において、黙とうを捧げていただくことをホームページ上でお願いしており、こうした取り組みが、この空襲を、そして戦争の恐ろしさや悲惨さを忘れないことにつながるものと認識するところ。
また、前述のブログの中でもご紹介しております、桃井泰人氏が住職をお務めの、元町にある本勝寺様では、この空襲による犠牲者を追悼する法要が行われ、ご遺族などが祈りを捧げたところです。
さらに、この日の福井新聞「論説」で取り上げられたタイトルは『敦賀の遺族会統合 市民へ戦争伝える契機に』。
太平洋戦争の戦没者の妻子らでつくる敦賀市遺族連合会と、戦没者の孫やひ孫世代らでつくる市遺族次世代の会が統合し、「戦没者追悼敦賀市民の会」が発足した。従来の会員に加え、市民誰もが入会資格を持つ組織となった。市民が戦争の悲惨さや平和の尊さを改めて考えるきっかけにしたい。
との書き出しから、敦賀空襲の概要や「戦没者追悼敦賀市民の会」が発足するまでの経過、ちょうど1週間前に敦賀の市民歴史団体「気比史学会」が開催した歴史講座などを紹介。
「敦賀市民の会」奥野治樹副会長の言葉にあった、“その頃に悲惨な敦賀空襲の話を父から聞き、自らも語り部として「敦賀の人たちに身近なところで戦争があったことを伝えたい」と思うようになったという。”とのフレーズに共感した次第です。
そして論説の結びには、「時を経る中で、戦争体験者は減り続ける。地域史を読んだり、両親や祖父母から戦争の話を聞いたりした人はどれくらいいるのだろうか。市民の会によって若い世代が戦争を知り、平和への思いが広まることを期待したい。」
→2025年7月12日 福井新聞 論説『敦賀の遺族会統合 市民へ戦争伝える契機に』(全文)はこちらをご覧ください
思えば、戦争末期の80年前は、のんびり海水浴をしている時代ではなかったでしょう。
今年もこうして、海水浴客を迎え入れる「海開き式」ができたことを平和の証と思うとともに、あらためて未曾有の惨禍となった「敦賀空襲」の実相を記憶、継承することが、現世を生きる私たちの役割と使命であることを強く心に誓う一日となりました。






