敦賀大空襲から79年

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昭和20(1945)年7月12日。
 
先の大戦において日本海側で初めての空襲を敦賀が受けた日。
 
この空襲によって、敦賀は市街地の大半が焦土と化したほか、7月30日、8月8日※にも続けて戦火に見舞われ、これら3回の空襲によって、225柱もの尊い命が失われました。
 
※同年8月8日午前9時頃、B-29が敦賀に投下したのは長崎に投下した原子爆弾と同型の模擬爆弾(通称パンプキン)
 
この空襲に関し、「敦賀市史」通史編(下巻)第四節 三.敦賀大空襲では、当時の状況を以下のように記録しています。
 
<以下、「敦賀市史」を引用>
 
昭和二十年(一九四五)七月十二日の夜、数賀市は大空襲に見舞われた。日本海治岸都市としては最初の空裏であった。十二日夜九時四〇分ごろ熊野港から侵入したB20約一〇〇機は三波に分かれ、その一部は、奈良・三重県境を北上して琵琶湖の南部を経て福井県に入った。
 
この編隊は、駄口上空を通過し、道口より山麓に沿って東に転じ、東郷村井川において第一弾を投下した。この爆撃で、咸新小学校・新善光寺・高福寺、民家七軒が延焼した。ついで深山寺(民家四戸全焼)、高野(民家一戸全焼)、田尻(松岸寺全焼)など一帯に投弾し、東浦村に至り、田尻(民家五戸全焼)、赤崎(赤崎小学校、民家二戸全焼、一戸半焼)、五幡(二戸全焼、一戸半焼)上空で旋回し、福浦湾に面する磐城セメント工場に投弾して、天筒山上空より、市街地に侵入した(図15参照)。
 

【「敦賀市史」通史編(下巻)第四節 三.敦賀大空襲にある図15「B29の侵入経路」】
 
天筒山山麓より攻撃が開始され、火は入船・常盤・天満と逐次拡大し、川東地区はほとんど火の海と化した。さらに火は川中地区に拡がり、桜・御手洗・橘・富貴・大島・神楽・北津内と延焼し、晴明・大和田銀行より元の朝市場を経て、大黒・高徳寺にいたる線においてようやくとどまった(図16参照)。
 

【同 図16「敦賀市戦災地域図」】
 
その被災面積は、約二一万五〇〇〇坪にわたり、本市街の八割を占め、失家屋は四一一九戸(復興事務所調では四二七三戸)、被災世帯は五〇五七世帯(市厚生課調では四〇九九世帯)、被災人員は一万九三〇〇人(市厚生課調では一万六一五人人)の多きに達し、死者も一〇九人に上った。
 
焼失した主な建物は、気比神宮・敦賀駅・敦賀高等女学校・敦賀中学校など表1に挙げたように多数に上るが、空襲から逃れた建物には、市役所・敦賀商業学校・大和田銀行(現在の敦賀市歴史民俗資料館)・敦賀病院・敦賀郵便局・敦賀区裁判所などがあった。
 
<引用終わり>
 
以上が、敦賀市史に記録されている史実であり、B29爆撃機が夜の市街地・敦賀港上空を舐めるように飛行し、ピンポイント攻撃を仕掛けていった様子が分かるとともに、突如として襲われた火の海の中で、尊い命を失われた先人の無念を思う次第です。
 
昨日は、戦没者戦災死没者のご冥福をお祈りするとともに、79年前にあったこの事実を忘るることなく次代に継承していくことを誓う日であり、市内の元町にある本勝寺では、敦賀市遺族次世代の会と本勝寺による共同法要が営まれました。
 
次世代の会の奥野治樹会長のFacebookを拝見するに、本勝寺におかれては、空襲の中心近くで、毎日欠かさず空襲犠牲者の追悼の読経をいただいているとのことであり、「こんな小さな街でも空襲があった、そんな戦争の史実を次の世代に伝えることが、世界平和に繋がると信じている。」
 
「多くの敦賀市民の皆様のご協力を賜り、今年も法要ができましたことに感謝申し上げます。戦没者・戦災死亡者の追悼と史実継承の責務を強く感じ、今後も継続する決意を固めました。」
 
との言葉がありました。
 
私自身もまさに、奥野会長の仰ること、さらには会の理念に思いをともにするところです。
 
そんな79年前にあった史実から一夜明け、本日は10時30分よりプラザ萬象大ホールにて、敦賀市主催の「戦没者戦災死没者追悼式」が挙行されます。
 
犠牲になられた先人に対し思いを寄せるとともに、この史実を決して風化させないためにも、市民の皆様におかれてはご参列いただければ幸いです。
 

【散歩で出会った今朝の風景。この風景があるのも尊い平和があってこそ。】