忘れてはならない終戦後も続いたソ連軍の北方侵攻

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非常に強い台風7号は、16日4時には八丈島の東南東にあり、台風を取り巻く雨雲が既に、伊豆諸島や関東の広い範囲に掛かっている状況。
 
関東甲信の広い範囲で風が強まるのは「昼過ぎ以降」とのことですが、予想される最大風速(最大瞬間風速)は何と40メートル(60メートル)と大変強く、16日6時から17日6時までに予想される24時間降水量は多い所で、関東甲信地方300ミリ、東北地方200ミリとのこと。
 
降水量は、線状降水帯が発生すればさらに増えるとあり、被害が最小限に留まることを念ずる次第です。
 
さて、終戦の日の昨日は、各所にて犠牲になった方々に哀悼の意を捧げたところですが、79年前の今日以降も続けられたのが、ソ連軍による我が国の領土である北方四島(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)への侵攻。
 
先の大戦の末期、日本がポツダム宣言を受諾し、降伏の意図を表明した後にソ連軍が北方四島に侵攻し、日本人島民を強制的に追い出し、現在にいたるまで法的根拠なく占拠し続けている、いわゆる「北方領土問題」となった史実がここにあり、そこに至る経緯を「独立行政法人 北方領土問題対策協会」の掲載記事で、自身も正しく歴史認識する上で振り返っておきたいと思います。
 
<ソ連軍侵攻から北方四島ソ連編入までの経過>
 
◉昭和20(1945)年4月5日、日ソ両国で批准した「日ソ中立条約」の不延長を通告してきたソ連のモロトフ外相は、同年8月8日クレムリンに佐藤駐ソ大使を呼び、8月9日から日本と戦争状態になることを通告し、宣戦布告。
◉佐藤駐ソ大使は、宣戦布告を直ちに東京に打電しましたが、この公電は日本に到着していませんでした。そのため、日本政府はソ連の宣戦布告をすぐに知ることができず。
◉宣戦布告がまだ日本政府に達していない8月9日未明、ワシレフスキー将軍の率いる160万のソ連極東軍は、ソ連と満州の国境、モンゴル、ウラジオストク、ハバロフスクの3方面から総攻撃を開始。これは、「日ソ中立条約」の有効期限内(1946年4月25日失効)のことでした
◉また、樺太では、バーツロフ大将の指揮する約35,000人が、8月11日に北緯50度の国境を越えて侵入したため、約20,000人の日本軍と戦闘。
◉8月14日、日本は「ポツダム宣言」を受諾して無条件降伏。
◉8月16日にグネチコ将軍の指揮するソ連軍がカムチャツカ方面から行動を開始し、8月18日には占守(しゅむしゅ)島に上陸、約25,000人の日本守備隊と交戦。しかし、日本軍は北部方面軍司令部の命令により交戦を中止し、8月23日に日ソ両軍現地停戦協定を締結し、武器をソ連軍に引き渡し
◉その後も、ソ連軍は千島列島各地に駐屯する日本兵を武装解除しながら南下を続け、8月31日までに得撫(うるっぷ)島の占領を完了。
◉また、ソ連軍は、8月28日に択捉島に上陸、9月1日には国後島、色丹島に達し、9月3日には歯舞群島にまで及び、9月5日までにことごとく占領。なお、9月2日には、東京湾上の戦艦「ミズーリ」甲板で、ソ連代表も参加して降伏文書の調印式が行われました。
◉翌昭和21(1946)2月2日、ソ連は「南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令」を発し、北方四島を自国領に編入。
 
これが、一連の歴史的経過となります。
 
なお、以下の解説図に示すとおり、北方四島は、安政元年(1855)2月7日、日本とロシアは日魯通好条約を結び、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認しており、それ以降も北方領土が外国の領土となったことは一度もないことを再確認しておきます。
 

【北方領土問題対策協会HPに掲載のパンフレットより抜粋】
 
日本政府においては、北方四島交流等事業について、令和4年9月にロシア政府が四島交流及び自由訪問に係る合意の効力を停止する旨の政府令を発表したことは極めて不当であり、断じて受け入れられないこと、日露関係の今の状況は全てロシア側に責任があり、北方領土問題について、ウクライナ情勢によって日露関係は厳しい状況にありるものの「領土問題を解決して平和条約を締結する」との基本方針を堅持していく考えとしています。
 
日本の敗戦を見越し、まさに「火事場泥棒」のように奪われた我が国の領土。
 
この史実をしかと認識し、国際世論も巻き込んで、何としてでも取り返さねばなりません。
 
なお、安政元年に日魯通好条約を結んだ2月7日は、「北方領土の日」であり、私の誕生日でもあることを申し添えておきます。