営業運転開始から「55年」を迎えた敦賀発電所1号機

ブログ 原子力

終盤に入った令和7年第1回(3月)敦賀市議会定例会。
 
昨日は予算決算常任委員会を開催し、令和7年度当初予算案及び補正予算案の計10件について、各分科会長の審査報告から討論、採決まで。
 
その結果、全議案について「原案のとおり認めるべきもの」と決しました。
 
早いもので、今定例会も18日(火)の本会議を残すのみとなりましたが、会派として発言通告した2件の討論を含め、最後まで丁寧に臨む所存です。
 
さて、話は変わり、今日3月14日は、日本原電の敦賀発電所1号機(以下、敦1)が営業運転を開始した日。
 
この日を誕生日とすると、敦1(つるいち)は「55歳」となります。
 
私(53歳)とほぼ同世代の敦1は、わが国初の商業用軽水炉として運転を始め、1970大阪万博会場に原子力の灯(電気)を送ったことで有名であり、まさに原子力の黎明期、そして高度成長期の電力供給を支えたプラント。
 
万博と言えば、半世紀以上を経て再び大阪で、来月から開催されるところ、こうした歴史を振り返り、わが国の原子力エネルギーにもスポットを当てて欲しいと思う次第です。
 
その敦1は、2015年4月27日に約45年間の運転を終え、現在は廃止措置を進めているところですが、55年の歳月を思えば、何もかも初めて尽くしの発電所建設から運転までを乗り越えた先人に敬意を表するとともに、社員はもとより協力会社、メーカーの皆さんまで多くの人に愛され、支え続けられた「敦1」の存在を今でも誇りに思うところです。
 

【昭和42(1967)年10月。格納容器の据付が完了した敦賀発電所1号機(2020年12月に開催された「敦賀発電所50周年 げんでんふれあいギャラリー」より)】
 
そうした思いのもと、日本原電の社員をはじめ、携わっていただいた皆様、お支えいただいた多くの方々と、こうした思いを共有できればと、毎年このブログに書き綴っている訳ですが、兄貴のような敦賀2号と違い、私が生まれる前から運転していた敦1は、どこか父親のような存在。
 
新入社員の頃から発電所で保修業務に従事していた私にとって、設計者であるゼネラル・エレクトリック(GE)や東芝、日立などプラントメーカー、さらには多くの協力企業の皆さんとともに、担当する機器をまさに「愛車」をいたわるようメンテナンスしたことはもとより、幾度か経験したトラブル対応や毎回の定期検査後に無事起動できた時の達成感と充実感をもって、原子力発電で社会に貢献することの誇りを教えてもらったのが敦1。
 
なお、先の大戦後、エネルギー資源の乏しい日本が活路を見出すのは「原子力発電」だと、故中曽根康弘氏らが中心となって制定した『原子力基本法』には、次のとおり書かれています。
 
「原子力の研究・開発・利用を推進し将来のエネルギー資源を確保する。学術の進歩と産業の振興とを図り、人類社会の福祉と国民生活の水準向上に寄与する。」
 
このような方針のもと、敦1をはじめとする原子力開発に進んだ訳ですが、『原子力基本法』の制定(1955年12月19日)から今年はちょうど70年。
 
基本法に込められた崇高な理念、そしてその礎を築いたのはここ敦賀の地からであったことも誇りに思うところですが、これが成り立ったのは日本原電のパイオニア精神を理解し、お支えいただいた敦賀の皆様の存在があったからこそ。
 
現在、敦賀2号の長期停止が続く中においても、期待の声をいただく地元の皆様に心からの感謝をしつつ、これにお返しするのは一日も早い再稼働、そして敦賀3,4号をはじめとする新たな技術、時代にチャレンジしていくことであると、その気概を改めて胸に刻む次第です。