古道にロマンあり!古代交通の要衝・疋田を探る

ブログ 敦賀の歴史

早いもので今年も残り1ヶ月。
野坂山山頂はわずかに白くなり、敦賀も冬の到来を感じるところ。
まずはタイヤ交換ということで、1台目の作業を済ませました。皆さんも冬将軍への備えはお早目に。。。

さて、昨日は、気比史学会主催の敦賀市民歴史講座(第5講)に参加しました。
以前にも投稿しました通り、この歴史講座は本当に奥深くて面白く、今回も楽しみにしていたもの。

「峠を越えた群像」と題し、シリーズで開催しており、この日のテーマは「古代交通の要衝・疋田を探る」。

この日も多くの参加者がいらっしゃいました。

「日本三大古代三関」とgoogle検索するとヒットする通り、この敦賀には、伊勢国の「鈴鹿関(三重県鈴鹿市)」、美濃国の「不破関(岐阜県関ヶ原市)」と並ぶ、越前国の「愛発関(福井県敦賀市)」が言われています。

平安時代中期までの、いわゆる日本の交通の要衝(関所)がこの敦賀にあった所以やルーツ、未だ特定されていない場所について探るというのが、この日の内容でした。

元敦賀市立博物館館長でもあり考古学者の川村俊彦さんの講義は、ご自身の調査・研究経験に加え、当時歌われた和歌(万葉集や紫式部集なども)の縁語やエピソードを掛け合わせて話され、思わず聞き入ってしまうあっという間の2時間でした。

今の滋賀県から敦賀との境を結ぶ古道には「塩津山越」「愛発山越」とある訳ですが、とりわけ「塩津山越」は「深坂古道」と呼ばれ、気比史学会が開削した北陸最古の古道とも言われています。
関の場所については、決定的証拠は発掘されていないものの、愛発・鈴鹿・不破の三関の立地概念を考えると、現在の「疋田・追分」の可能性が高いとのこと。

日本三大古代三関の立地概念など。

この愛発関は、平安時代中期の気候変動(平安海進と呼ばれ積雪期間が短くなった)に伴い、敦賀の南北で相次いで標高の高い新道が開削(山中峠→木の芽峠、愛発山越→黒河峠)されたことによって、「交通の邪魔になっている」(続日本紀:789年)とされ、廃止。
以降、近江国の「逢坂関(滋賀県大津市)」と入れ代わり日本三大古代三関と呼ばれたとのこと。

いずれにしても、京の都に向かう「近江と敦賀を結ぶ古道」は歴史的な重要ルートであったことに違いありません。

古事記に出てくる「百伝う(ももづたう)」は、敦賀の枕詞であり、「色んな人がやってくる」との意味があるそう。
古から交通の要衝であった敦賀は、その後、中世・近代、そして現在もその役割を果たしてきたことに思いを馳せ、「百伝う」まちとして今後も繁栄することを思えば、これまたロマンあり!

「歴史を生かしたまちづくり」をコンセプトに、1980年に開始し、35年間脈々と続けてこられた敦賀市民歴史講座は、この日で何と233回目。

なおも尽きない豊富な歴史は、やはり敦賀の財産であり誇り。
今後も気比史学会の皆さんから学び、自身の生き方やまちづくりの活動に生かしていきたいと思います。

会場を出るとすっかり真っ暗。古より歴史を眺めてきた野坂の御岳は何を思う。