ー敦賀から琵琶湖を結ぶー 加賀藩の大運河計画

ブログ 敦賀の歴史・文化

夕方まで強い雨が降り続いた昨日。
 
私の方は、元々予定をしていました敦賀市立博物館主催の記念講演会「ー敦賀から琵琶湖を結ぶー 加賀藩の大運河計画」を拝聴してまいりました。
 
この講演会は、現在、市立博物館で開催している特別展「日本横断!運河計画」の関連イベントのひとつ。
 
自身が所属する気比史学会も協力開催ということで、会場設営や受付などのお手伝いも兼ねて参加した次第です。
 

【特別展「日本横断!運河計画」のチラシ(裏面)】
 
足元の悪い中にも関わらず、会場の市立図書館3階 研修室には熱心な参加者にお集まりいただき、一般財団法人高樹会 代表理事の島崎毅氏よりご講義いただきました。
 

【会場の様子】
 
まず、敦賀ー琵琶湖運河計画を語る上で欠かせないのが「高樹文庫」。
 
江戸時代後期、射水郡高木村(現在の富山県射水市)に生まれた和算家・測量家の石黒信由(1760~1836)以下4代の和算・西洋数学・測量術・絵図作製・航海術等の学問・技術等に関する史料群12,000点余は、大正9年地元有志により設立された高樹会(こうじゅかい)に移され、平成10年新湊市博物館(現射水市新湊博物館)の建設に伴い同館に寄託されたもの。
 
この史料群は、江戸時代後期の学問・技術の水準の高さを示す資料として学術的価値が高く、昭和59年6月6日には2,051点の資料が国の重要文化財に指定された後、追加指定により、現在は6,390点が国指定重要文化財となっており、先の運河計画を紐解く資料もここにあります。
 
その上で、敦賀と琵琶湖をつなぐ運河計画の歴史は古く、平安時代には平重盛(平清盛の息子)、戦国時代には蜂屋頼隆や大谷吉継、江戸に入ると京都商人や田沼意次(幕府)などが事業者となって計画するも「幻」に終わっている訳ですが、講座のテーマである「加賀藩」が敦賀ー琵琶湖間のみならず、日本海ー京都までの「大運河計画」を策定しようとした時代背景には、以下のようなポイントがあったとのこと。
 
<幕末の加賀藩と国際情勢>
① 下関砲撃事件(1864年)により、機能停止となった西廻り航路
② 押し寄せる「黒船」と急がれる海防
③ 経済的に困窮していた幕府と加賀藩
 
こうした背景から、加賀藩の運河開削計画の第一期工事(敦賀~琵琶湖)として、慶応2年(1866)に幕府へ申請、同年12月に認可。
 
運河開削に向けての現地測量と絵図作製は、入手し得る過去の記録、古地図など様々なデータの収集、慶応3年2月2日からは測量を開始(6つのルート)し、実質1ヶ月足らずで測量(高木村への帰村は4月14日)を終えたとありました。
 
さらに驚くのは測量の精度。
 
上記「越前近江糧道測量絵図」の6つのルートと現在の国土地理院地形図とがほぼ一致しているほか、各集落(旧・村落)高札場における標高データの精度や敦賀〜塩津の直線距離(直径)データは、9,996間(約18.2km)における誤差は極めて小さく、石黒家をはじめとする当時の測量技術の高さを伺い知った次第です。
 
また、平面図のみならず、明治以前には前例のない、高低をわかりやすく表現した断面図「直高図」などをもとに、琵琶湖湖面と同じ高さで塩津から敦賀に向かい、沓掛の北側まで露天掘り、唯一の難所、深坂峠にトンネル(JR深坂トンネルと平行の位置)を掘削し、疋田からは 0.67%の勾配(文化年間の舟川の勾配は0.9%)の運河で、敦賀市街地の笙の川に合流させるなど、具体的な計画までがされました。
 

【敦賀・琵琶湖間運河計画図(射水市新湊博物館『石黒信由関係資料 絵図』より引用)】
 
 →拡大してご覧になりたい方は、こちらのリンクへ
 
一方、琵琶湖から京都をつなぐ、加賀藩の運河開削計画の第二期工事に関しても同様、「京都新規通船見取絵図」をもとに説明があり、ここで示されたルートと明治23年に「琵琶湖第一疏水」として実現した運河のルートがほぼ合致しているともありました。
 
こうして、敦賀ー琵琶湖、琵琶湖ー京都をつなぐ「壮大な計画」の歴史を伺い、結びに先生からは、加賀藩の大運河計画が語るものとして、
 
◉明治以前の加賀藩(石黒一門)の科学技術のレベルとその広がり
 ① 十分な実現の可能性を示唆する精度の高い測量技術
 ② 石黒一門の若き門人たちの実力
◉高樹文庫資料の現代社会における存在意義
 ① 明治以前の科学技術と学問の広がり
 
とありました。
 
加賀藩の測量技術と精度はまさに驚異的であり、幕末の加賀藩の高い水準の学問、科学技術の広がりに敬意を表すること、「幻」に終わったものの、琵琶湖から京都までの距離は、敦賀から琵琶湖までの半分であり、経済効果や物流を考えても京都までつなげなければ意味がないこと。
 
そして最後に、明治維新は西洋化であり、これらに頼らずとも日本の技術は高いものがあったと語る先生からは、日本人としてのプライドなるものを感じた次第です。
 
平安時代から「敦賀と琵琶湖をつなぐ」ことにチャレンジし続けてきたことは、いかに敦賀港が国家にとって重要であることを意味するもの。
 
学問としての歴史のみならず、こうしたマインドの部分も含めご教授いただいた島崎先生に感謝申し上げます。
 

 
なお、市立博物館で開催されている特別展「日本横断!運河計画」では、高樹文庫資料の一部が展示されている(必見です)ほか、次の関連イベントは、当気比史学会主催の市民歴史講座。
 
11月16日(土)14時より、「日本横断!運河計画 一敦賀~琵琶湖運河計画と琵琶湖の新田開発一」と題し、今度は滋賀県側から見た運河計画についてお話しいただきますので、こちらもぜひ足を運んでいただければ幸いです。