モットーは「みんなと一緒にいつも楽しく」

ブログ 人生観

まずもって、この度の父の逝去に伴い、市議会議員としての公務を欠席あるいは予定の変更調整をいただく状況にあり、議員各位ならびに関係者、議会事務局の皆様にご迷惑をお掛けしていることをお詫び申し上げます。
 
一昨日の夜、父の遺体は実家に戻り、「忌中」の貼り紙がされた玄関を見て、あらためてその現実を受け入れるところ。
 
一夜明けた昨日は、見事な秋晴れのなか、早朝より終日、50名を超える大変多くの皆様に弔問をいただき心より感謝申し上げます。
 
まるで眠っているかの父の姿、突然の死に涙される方、生前の思い出をお話しいただける方など様々でありましたが、対応をするに、父が各方面、多くの方から慕われていたことを感じた次第です。
 
父は、先の大戦終結の翌年、昭和21(1946)年1月25日に敦賀市大比田で生まれ、東浦小中学校を卒業後、地元の東洋紡績敦賀工場に入社。
 
定年まで東洋紡一筋、平成14年には社長より、優良従業員として表彰を受けるなど献身的に従事したほか、労働組合では、最後副支部長まで務め、故山根徳男県議会議員の後援会(正和会)を事務局長として取り仕切るなど、地元労働界では一目置かれる存在でもありました。
 
ちょうど時を同じくして、日本原電の敦賀分会委員長を務めることになった私としてはある種、一目置かれる父の存在を誇らしく思いつつも、まさに「背中から学ぶ」。
 
組合役員としての心構えや選挙戦術など、多くのことを教えていただいた、良き先輩、先生でもあった次第です。
 
また、定年後は、ひばりケ丘町の区長を9年務めたうえ、粟野地区区長連合会長まで担わせていただく中で、粟野コミュニティ運営協議会の立ち上げや粟野交番の移転など、他の区長さんと意思を合わせ活動、実現できたことは、大きな実績であるとともに、良き仲間に囲まれたからこそできたものと、心より感謝申し上げるところです。
 
その後は、東洋紡のOB会である「東洋紡交友会」の会長や「ろうきん友の会」の副会長なども歴任させていただき、晩年はグラウンド・ゴルフに没頭。
 
ここ数年はほぼ毎日と言って良いくらい、母と二人で敦賀市グラウンド・ゴルフ場「リラ・グリーン」や敦賀市総合運動公園をはじめ近隣の競技場に出かけ、多くのプレー仲間と楽しく過ごしました。
 
敦賀市グラウンド・ゴルフ協会では副会長を務め、大会となれば、コースの設定や景品の準備に至るまで、側から見ていても、いかに皆さんに楽しくプレーいただくかを第一に考えて準備していることがひしひしと伝わってきた次第です。
 
こうして父の79歳9ヶ月の生涯を振り返るに、皆との「議論」を大切に新たなことにチャレンジすること、人と人との「和」を重んじ、モットーは、何事においても「みんなと一緒にいつも楽しく」。
 
そんな思いと行動が、老若男女を問わず、親しみを込めて「五十雄さん」「いそやん」と呼ばれ、慕われることにつながったのだと思います。
 
昨日、弔問いただいた皆さんとお話しするに、いわゆる「いそやんロス」の号泣、表情を浮かべる方もおられたことが、そのことを象徴するのだと感じましたが、父の死をそこまで捉えていただけることは長男冥利に尽きるところであります。
 
そんな父を、いよいよ見送ることとなります。
 
最後の最後まで私達に諦めない強い姿を見せてくれた、これまで家族のため、仲間のため、地域のために精一杯頑張ってくれた父にはゆっくり休んでほしいと願っています。
 
本日は午後6時30分より通夜、明日31日(金)午後0時30分からは葬儀を執り行います。
 
場所はいずれも敦賀市古田刈の「ハートホール橋詰」にて、静かに、そして最後は、父も望んでいるであろう「笑顔」で、見送りたいと思います。
 

【家族会議の結果、遺影に採用された写真(前回の敦賀市議選)。私自身、この表情のお陰で頑張れたことを思い出します。】