2025年10月6日
フィールドワーク『関ヶ原古戦場をめぐる』
9月14日、15日と、敦賀が誇る義の武将「大谷吉継」公のことをブログに記したところですが、それも今年は「吉継生誕460年」の年にあたることもあり。
自身が所属する市民歴史団体「気比史学会」においては、今期の市民歴史講座シリーズテーマのひとつを「大谷吉継生誕460年」(もうひとつは「戦後80年」)におき、講座を開催しているところ、昨日はその第3講として「フィールドワーク 関ヶ原古戦場をめぐる」と題し、合戦場の現地を歩いてまいりました。
市内外からの参加と役員を合わせ、計27名にお集まりいただき、小雨降る中ではありましたが、「いざ関ヶ原へ!」とバスにて出発。
関ヶ原到着後は、「岐阜関ヶ原古戦場記念館」、「不破関史料館」と屋内施設を観覧した後、そこからは徒歩にて旧中山道を進み、松尾山眺望地、大谷吉継陣跡、吉継墓、平塚為広墓(吉継とともに戦った武将)をめぐるという行程。
なお、関ヶ原の地は、古くは、日本武尊のゆかりの地であることや壬申の乱の戦場となるなど、日本史の重要な舞台であった訳ですが、なかでも「関ヶ原の戦い」は、全国の武将が東西両軍に分かれ、それぞれの忠誠、友情、策略、葛藤を抱えて激突した「天下分け目」の戦いであり、のちに260年以上続く天下太平への幕開けとなる大きな転換点となったことは誰もが知るところ。
慶長5(1600)年9月15日の「関ケ原の戦い」は、中山道、北国街道、伊勢街道が交差する交通の要衝として賑わい、東西の結節点であった関ヶ原には※日本三大関のひとつ「不破関(ふわのせき)」が置かれ、そういった地理的理由から「決戦の地」となった次第。
※日本三大関とは、有数の交通の要衝である①不破関(岐阜)、②鈴鹿関(三重)、③愛発関(福井県敦賀市)を指す。
私は事務局として、とりわけ吉継墓までの道のりは山道となることから、9月初旬に他の役員と一緒に「下見」を済ませて臨んだところ。
昨日もあらためて、古戦場記念館、不破関史料館に保存された資料、その見せ方は素晴らしいものと思いつつ、霧雨降る状況ではありましたが、現地のボランティアガイドさんにも確認した上で、フィールドワークを「決行」。
不破関資料館を出発し、約25分ほど旧中山道を進み、まずは大谷陣から小早川秀明陣を望む松尾山眺望地へ。
この日は霧がかっていたものの、ちょうど関ヶ原合戦当日も雨上がりの天候であり、さながら425年前の情景と重なるものと、雨天を憂うのではなく「ポジティブ」な会話を参加者同士で交わしつつ、次はそこから2分ほどの大谷吉継陣跡へ。

【吉継陣跡に向かう道中。霧がかった雰囲気は、合戦の日さながらか。】
その後、山道を10分ほど歩き、昨日の目的である「吉継公のお墓」に到着。
厳荘な雰囲気のなか並ぶ、吉継と湯浅五助(合戦の地で、吉継の遺言を受け介錯した)のお墓に一礼のうえ、参加者ひとりづつ、線香を手向けることができました。
また、お墓の周りは綺麗に雑草が刈られ、墓前にもお花やお酒が供えられていたのは、この周辺の集落の方がお守りをしてくれているとのことであり、最後の敦賀城主である吉継公をこうして大切にしてくれていることに皆で感謝し、深く御礼をし、墓前を後にした次第。
その後は山道を下り、平塚為広のお墓をお参りし不破関資料館に戻りましたが、いわゆる「吉継コース」をめぐり感じたのは、関ケ原合戦では、多くの武将達が自らの利益のために参戦していたと言われるなか、“義”という目に見えない価値のために死を選んだ吉継の生き様。
また、行ってみて分かったよう、「大谷吉継陣跡」は、山中(やまなか)の「大谷吉継の墓」から少し下った場所にあり、大谷隊は、関ケ原の合戦が始まる十日程前に若宮八幡宮上の急斜面に陣を作り始め、空堀を左右に巡らせたもので、戦術に長け、官僚としても優秀であった吉継は、陣作りにも力を発揮した様子。
当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面のこの地に陣を定めたことは、優れた武将と評価される所以であると、自分の中でさらに、吉継公に対する誇りの念が高まった次第です。
フィールドワークを終えた後は、一路敦賀に戻りましたが、バスの車中でも行程を振り返る中で、「いざ関ヶ原へ!」とフィールドワークに参加された皆さんも同じ気持ちではなかったと。
なお、関ヶ原の戦いは、慶長5(1600)年9月15日ですが、旧暦と新暦の違いにより、本当の合戦の日は「10月21日」。
2週間後ということになりますが、あらためて吉継公の功績と生き様に思いを馳せるとともに、来年以降も定期的に墓前へのお参りを続けていきたいと思います。
結びに、参加いただいた皆様、至らぬ点が多々あったかとは思いますが、誠にありがとうございました。






